Archive for category テーマ

Date: 8月 22nd, 2014
Cate: 所有と存在

所有と存在(その1)

オーディオ愛を語る文章がある。
オーディオ愛でなくとも、レコード愛でもいい。

書いている本人はオーディオ愛、レコード愛を書いているわけだが、
読み手がそこに書き手のオーディオ愛、レコード愛を感じとれるかとなると、それは文章の巧拙とは関係がない。

たとえばオーディオに、レコードに、さらには音楽に、どれでもいいが、
対象物に恋する、と書くし、対象物を愛する、と書く。

間違っても対象物を恋する、対象物に愛する、とは書かない。

恋と愛。
これは言い換えれば、所有と存在なのではないのか。

オーディオ愛を感じられないオーディオ愛について書いてある文章は、
つまるところ、愛ではなく恋(所有)なのだろう。

Date: 8月 22nd, 2014
Cate: Technics, 日本のオーディオ

日本のオーディオ、これから(テクニクス・ブランドの復活・その3)

そのSP10だが、ステレオサウンド別冊「世界のオーディオ」のテクニクス号を読むと、
すこし意外なことが書かれている。
菅野先生の文章だ。
     *
 テクニクスというと、私はいまだに思い出す1つの光景がある。それは、ダイレクトドライブ・ターンテーブルSP10との最初の対面のときだ。今から8年ほど前になるこの出会いは、ターンテーブル・メカニズムの発想を根本から変えたという意味で、大変にショッキングなものだった。
 と同時に、そのSP10を松下電器の方々が、はじめて私の家に持ってこられたときの光景を思い出すわけだ。そのとき私は「松下という会社は、昔から決してオーディオに冷たいメーカーではない。大メーカーのなかでは、われわれにとって、アマチュア時代からなじみのあるメーカーだ。しかし、松下電器とか、ナショナルとかいうブランドはオーディオに対して訴える力がどうしても弱く感じられる。それはオーディオのイメージが弱いというよりも、そのほかのイメージが強すぎるからだろう。たとえば、このSP10にもNATIONALというマークがついている。するとどうしても電気がまや掃除機のイメージの方が強くなるから、このマークは取り去った方が良いのではないですか」という話をした。
 そのとき「いや、これは会社の憲法であり、これを変えたら大変なことになる」という言葉が返ってきたが、私は「オーディオというのは非常に趣味性の高いものだし、オーディオファンが親しみと信頼をもってくれるブランド名を製品に与えるのが本当だと思う。そのためにも考え直された方が良いのではないだろうか」といった覚えがある。
     *
意外だった。
テクニクスの顏といえる存在のSP10に、最初のころとはいえ、ナショナルのマークがついていたことは。

テクニクス号には、いくつかのSP10の写真が載っている。
その中にはナショナルのマークはないものが多いが、
小さな写真でぼんやりしているが、
ひとつだけ、Technicsのロゴの左側にナショナルのマークらしきものが見えるのがある。

Date: 8月 22nd, 2014
Cate: Technics, 日本のオーディオ

日本のオーディオ、これから(テクニクス・ブランドの復活・その2)

松下電器産業からテクニクス(Technics)ブランドの最初の製品、
Technics1が登場したのは昭和40(1965)年6月である。

来年(2015年)は、テクニクス・ブランド誕生から50年にあたる。
それもあってのテクニクス・ブランドの復活なのかも、とも思っている。

1965年は松下電器産業が、音響研究室を発足させた年でもある。
この音響研究室がのちの音響研究所だ。

1963年生れの私にとって、テクニクスときいて、真っ先に浮ぶイメージは、
リニアフェイズのスピーカーシステム、それからSP10から始まったダイレクトドライヴ型ターンテーブルである。

世界初のダイレクトドライヴ型でもあるSP10は、テクニクスの顏でもあった。
私がオーディオに興味を持ち始めた1976年には、SP10は改良されSP10MK2となっていた。
たしか1975年にSP10MK2になっている。

さらに1981年に、ターンテーブルプラッターを従来のアルミダイキャスト製3kgから、
銅合金+アルミダイキャスト製で、重量は10kgのものへと変更されたSP10MK3が出た。

ダイレクトドライヴ型は性能はいいけれど、音は芳しくない、といわれた時期に、
テクニクスがオリジネーターの意地を見せつけてくれた製品でもあった。
SP10MK2は15万円だったが、MK3では25万円になっていた。

SP10は、やはりテクニクスの顏であった。

Date: 8月 22nd, 2014
Cate: アナログディスク再生

私にとってアナログディスク再生とは(インサイドフォースキャンセラーのおもり・その4)

SMEのトーンアームでは、Bias Guideという、
金属の先に滑車がついたパーツが、アームベースの内側にとりつけるようになっている。

このバイアスガイドの滑車にバイアスウェイトからでている糸を通す。
この糸の、トーンアームに対する方向によってインサイドフォースキャンセル量、
つまりはトーンアームにかかるアウトサイドフォースがわずかとはいえ変化する。

そのためSMEの取り扱い説明書には、バイアスガイドの位置調整の項目がある。
インサイドフォースキャンセル量を変えるたびに、このバイアスガイドの位置(向き)も変えていく必要がある。

こんなことでもインサイドフォースキャンセル量は変化を受けるわけで、
厳密にはバイアスガイドの高さ調整も、場合によっては必要となってくる。

トーンアームの調整には、アーム自体の高さ調整がある。
使用するカートリッジによって、アームパイプが水平になるのを原則とし、
その後は音を聴きながらほんのわずか上げ下げをすることがある。

SMEの取り扱い説明書にあるバイアスガイドの調整は、
トーンアームを真上からみたときの位置(向き)の合わせ方である。
これは、水平における調整であり、トーンアームの高さ調整機構が備わっているのであれば、
本来はバイアスガイドの高さ調整も必要であり、連動しているのが望ましい。

トーンアームの高さをあげたとき、真正面からみてバイアスウェイトを吊り下げている糸は、
水平と垂直をなしていなければならない。
トーンアームから滑車までは水平、滑車からは垂直というようにである。

だがSMEのトーンアームの場合、バイアスガイドはスライドベースに取り付けられている。
つまりバイアスガイドの高さ(滑車の高さ)は、そのままでは変えられない。
そうなるとトーンアームの高さ次第では、水平になっていなければならない部分が、
水平でなくなっている場合も出てくる。

そうなると垂直方向の分力を生じ、針圧に変化を与えてしまう。

Date: 8月 22nd, 2014
Cate: アナログディスク再生

私にとってアナログディスク再生とは(インサイドフォースキャンセラーのおもり・その3)

インサイドフォースの問題がややこしいのは、
レコードの溝の波形、針圧、針先の形状、
針先からみたカートリッジの振動系の機械インピーダンスなどが絡んできていて、
一枚のレコードでも同じキャンセル量で解消されるというわけではない。

つまりインサイドフォースを完全にキャンセルすることは、非常に困難なことである。
つまりインサイドフォースキャンセラーの調整は、妥協点をさぐる行為ともいえる。

妥協点だからといって、安易に調整していいわけでもない。
SMEのトーンアームに代表されるおもりを糸吊りしている機構では、
おもり(Bias Weight)が、なにかの拍子で揺れていると、はっきりと音に影響を与える。

インサイドフォースキャンセルを、カートリッジへの水平バイアスと考えれば、
おもり、つまりバイアスウェイトの揺れは、バイアスの揺れと同じであり、
これでは安定した音は得られなくなる。

そんなことはないだろう、と訝しがる人で、
SMEの糸吊り式のインサイドフォースキャンセラーをもつトーンアームをもっているならば、
ためしにバイアスウェイトを意図的に揺らしてみればいい。

それでも音は変らない、という場合は、SMEのトーンアームの調整がうまくいっていないか、
システム全体の調整も、またそうだ、ということである。

Date: 8月 21st, 2014
Cate: アナログディスク再生

私にとってアナログディスク再生とは(インサイドフォースキャンセラーのおもり・その2)

以前、「型番について(その17)」で書いているように私は、
針圧は垂直方向のバイアス量であり、
インサイドフォースキャンセラー量は水平方向のバイアス量、と考えている。

インサイドフォースキャンセラーについてはかなり以前から議論されている。
インサイドフォースキャンセラー不要論を唱える人も少なくない。
針圧を多めにかけることでインサイドフォースの問題は無視できる、いう記事も読んだことがある。

おそらくインサイドフォースキャンセラーが必要なのか不要なのかは、
これから先も決着がつかないままのような気がする。

私はインサイドフォースキャンセラー量は水平方向のバイアス量と考えているから、必要とする。
昨夜のブログを書いた後、facebookにコメントがあった。

SMEのインサイドフォースキャンセラーのおもりの重量はロットによって変更されている、とのことだった。
軽いのは3gくらいで、重いのになると6gくらいのものもある、とのこと。

インサイドフォースキャンセラーのおもり──、
と書いているが、やや長い。
SMEは、インサイドフォースキャンセラーのおもりのことをどう呼んでいるのか。

SMEのサイトをみると、Bias Weightとある。
ということは、SMEのアイクマンも、
インサイドフォースキャンセラーはカートリッジの針先への水平方向のバイアスと考えていた、
とみていいだろう。

Date: 8月 20th, 2014
Cate: アナログディスク再生

私にとってアナログディスク再生とは(インサイドフォースキャンセラーのおもり・その1)

SMEのトーンアーム、3009にしてもロングアームの3012にしても、メインウェイトは二分割である。
カートリッジの重量によっては、メインウェイトを分割せずに使うことも、分割して使うこともできる。
分割すればメインウェイトは軽くなるから、ウェイトの位置は後方に行く。
分割しなければ、前方(トーンアームの軸受け)に位置する。

この二つの状態の音は、まったく同じではない。
私は、できるだけ分割せずにゼロバランスをとるようにしていた。

それでいまごろになって気がついたことがある。
SMEのトーンアームにも採用されているインサイドフォースキャンセラーのおもりの重さのことだ。

もう手元にSMEのトーンアームはないから実測することができないので、正確な数値とはいえないが、
3012−R Specialのインサイドフォースキャンセラーのおもりは2gか3gだった。
EMTのトーンアームはもう少し重かった、と記憶している。5gぐらいだろうか。

インサイドフォースキャンセラーのおもりは、ナイロン製の糸で軸受け上部から後方に伸びている棒にひっかける。
この棒にはいくつものスリットが刻まれていて、キャンセラル量に応じて位置を変えて調整する。

つまりインサイドフォースキャンセラーのおもりの重量を変えても、
ひっかける位置を変えることで、同じキャンセル量は得られる。
おもりを軽くもできるし重くもできる。

となると同じキャンセル量であってもおもりを軽くしたほうがいいのか、反対に重くしたほうがいいのか。
使用カートリッジによって結果は変ってくるのだろうか。

ナイロン糸を別の素材にしてみても音は変っていくはずだ。

Date: 8月 20th, 2014
Cate: audio wednesday

第44回audio sharing例会のお知らせ

9月のaudio sharing例会は、3日(水曜日)です。

テーマについて、後日書く予定です。
時間はこれまでと同じ、夜7時です。

場所もいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 8月 19th, 2014
Cate: フルレンジユニット

シングルボイスコイル型フルレンジユニットのいまにおける魅力(その6)

カセットテープの音には、どこかしら、ふわふわした感じを受ける。
この感じは、どんなに高級なデッキを用意したところで、多少は減りはするものの、なくなることはない。

このふわふわした、カセットテープにつきまっている不安定さは、
個人的にオーディオで、もっとも避けたい(取り除きたい)要素のひとつである。

私はカセットテープをそう感じしまう。
けれどこの点も、人さまざまで、カセットテープの音にふわふわした感じ、不安定さを感じない人もいる。
これは再生音に求めている優先順位が、それこそ人によって大きく違っているからであろう。

音の安定を求める私にはカセットテープのふわふわした感じは、
たまに聴く分には、カセットテープの音だな、というふうに受けとめられるが、
日常的に、メインのプログラムソースとなってくると、どうにも我慢できない要素となる。

だが再生音に、安定よりも他の要素をより強く求める人には、
カセットテープのふわふわした感じは、特にそうとは感じないようでもあり、
感じたとしても、そのことが音の不安定さということにはならないようだ。

カセットテープの音に、私と同意見の人もいれば、
そうかな、と首を傾げる人もいよう。

とにかく音は安定していほしい。
だからアナログプレーヤーにEMTの930st、927Dstを求めてきた、ともいえる。

Date: 8月 18th, 2014
Cate: Technics, 日本のオーディオ

日本のオーディオ、これから(テクニクス・ブランドの復活・その1)

テクニクス・ブランドが年内に復活する、というニュースが昨日あった。
詳細についてはほとんどわからない。
どういうラインナップで復活するのか、具体的な情報はない。

なので、テクニクス・ブランドの復活に対しての個人的な感情は、いまのところない。
嬉しい、とも感じていないし、いまさら、とも思っていない。
ほんとうに年内に復活するのであれば、あと四ヶ月以内の話である。

もう少しまてば、いろいろなことがはっきりしてくる。
その時点で、どう思える製品を出してくるのか。

日本のオーディオメーカーは専業メーカーももちろんあるが、
松下電器産業(パナソニック)、東芝、日立といった総合電気メーカーがオーディオも手がけていた。

当時はそれがあたりまえのことであったけれど、
オーディオ業界が衰退していくと、日本のメーカーの特色がよりはっきりしてきた。

海外の、どのオーディオメーカーでもいい、
アンプにしろスピーカーシステムにしろ、
そこに使われているすべてパーツを自製できるメーカーがいくつあるだろうか。

アンプならばトランジスター、LSIといった半導体を開発製造し、
受動部品のコンデンサー、抵抗も製造する。トランスも必要となる。
スピーカーでは、振動板の材質、マグネットなどがある。

すべてのパーツを自社で製造したから優れたオーディオ機器がつくれる──、
というものではないことはわかっているが、
そういうことができるメーカーが、以前はオーディオ機器をつくっていた。

このことは時代が経つにつれ、すごいことだった、と実感できる。

Date: 8月 17th, 2014
Cate: 「かたち」

続「かたち」

このブログをはじめたばかりのころに書いたこと。
心はかたちを求め、かたちは心をすすめる

これまで「かたちが心にすすめる」の「すすめる」、薦める、奨める、勧める、だと思っていた。
それが間違っていたわけではないが、すすめるは進めるでもあることに、いまごろ気づいている。

たしかに心を進めてくれることがある。

Date: 8月 16th, 2014
Cate: オーディオマニア

オーディオマニアとして(その7)

音のカンヅメは、
クヮェトロ氏が胸のポケットのようなものからとり出したピカピカ光る箱のようなものと同じである。
われわれ人間にはまったく理解できない理論で、音を封じ込め(記録)、解放(再生)する。

ケーブルもいらない、電源もいらない。
つまり、そんな細かなことに悩まされることなく、
そして聴き手が何も苦労することなく、最上の記録と再生を手に入れられる。

おとぎ話のような、魔法のような、そんな箱(カンヅメ)で音楽を聴くようになったら、
私はどう思うのか。

そうなってしまったら、私でも「録音は未来で、演奏会の舞台は過去だった」とは思わなくなる、はずだ。
少なくとも「録音は未来」ということはいわなくなるような気がする。

私がなぜ「録音は未来」と考えるのかは、現在のオーディオのメカニズムと大いに関係している。
こんな複雑なシステムで聴いていて、つねにいい音で、と思いつづけているからこそ、「録音は未来」となる。
つまりオーディオマニアとして再生するからこそ、「録音は未来」であって、
魔法のような音のカンヅメから、何もしないで、いい音が鳴ってきたら、もう録音は未来ではなくなってしまう。

それはそれで素晴らしいとは思っても、そこにはオーディオマニアの私はもう存在しなくなる。

Date: 8月 16th, 2014
Cate: オーディオマニア

オーディオマニアとして(その6)

いままでとはまったく異る次元の理論が発見されて、
文字通りの音楽を封じ込める、いわゆる音のカンヅメが可能になったとしよう。

そのカンヅメのフタを開ければ、たちどころに音楽が部屋いっぱいに鳴り響く。
しかも、音量、スケール感を除けば、演奏会で聴いた音(聴ける音)がそのまま鳴っている。

同じような架空の話は瀬川先生書かれている。
「虚構世界の狩人」所収の「聴感だけを頼りに……」の冒頭がそうだ。

そこには「X星からUFOに乗っていま私の目の前に飛んできた、ミスター・クヮェトロ氏」が登場する。
クヮェトロ氏に、ステレオのメカニズムを電気的、物理的に説明する。

アナログディスクでもいい、コンパクトディスクでもいい、
どうやって音を記憶し音が鳴るのか、
プレーヤーの仕組み、アンプの仕組み、スピーカーの仕組みなどすべてを事細かに説明する。
これは大変なことだし、ていねいに説明しようとすればするほど、
われわれはいかに複雑な機構で録音し、それを再生しているのかをあらためて実感できる。

クヮェトロ氏は、長々とした説明をきくはめになる。
そして、瀬川先生はこう続けられている。
     *
「というような次第なんですがね、クヮェトロさん。こういう仕掛のメカニズムで、たとえば私の声を録音・再生したら、いったいどの程度忠実に再現できると思いますか」
 するとクヮェトロ氏、しばらく首をひねっていたが、やおら胸のポケットのあたりから何やらピカピカ光る箱のようなものをとり出した。(中略)
 ところでそのピカピカ光る箱、だが、これもわれわれに身近な例でいえば小型の手帳か電卓ぐらいの大きさで、しかしこれまた見たこともない素材で、アルミニウムよりは深い光沢で、ステンレスよりは冷たく硬い材質のようで、しかし彼が何やらあちこち押したりしているのをみると金属にしてはエラスティックな感じがして何とも奇妙だか、しかし話はさっきの、私が地球上のステレオ録・再装置の話をして、それでたとえば私の声がどの程度の忠実さで再現できると思うか、と質問したところに戻る。
 するとその箱をいじりまわしていたQ氏の手もとから、何と驚いたことに、いま長々と説明していた私の声が、気味悪いぐらいそっくりに再生されてきたではないか! そしてQ氏はニヤリと笑って言ったのである。
「もしかしてこの声よりももう少し忠実かもしれませんが、それにしてはお話の装置は複雑すぎますね」
     *
地球に住む人類とはまったく異る知的生命体にとっては、
現在のオーディオのメカニズムは、あまりにも複雑で、滑稽なものにみえるのかもしれない。

われわれは、そういうシステムで、音楽を聴いている。

Date: 8月 15th, 2014
Cate: オーディオマニア

オーディオマニアとして(その5)

オーディオマニアは、録音されたものを聴く。
たまにライヴ放送を聴くことはあっても、ほぼすべて録音されたものを聴いている、といえる。

録音されたものは、最新録音のものであれ、数ヵ月から一年ほど前に録音されているわけで、
つまりは過去の演奏といえなくもない。
それに最新録音ばかりを聴いているわけではない。
もっと前に録音されたものも聴く。
十年前の録音、二十年前の録音、三十年前の録音……、
さらにもっと古い録音も聴く。そうなってくるとステレオ録音ではなくモノーラル録音になり、
モノーラル録音でもテープ録音もあればディスク録音もあり、
電気を使わなかったアクースティック録音の復刻まで聴いている。

そうなってくると百年ほど前の録音ということになる。
数ヵ月前の録音ですら過去というふうに捉えるのであれば、
五十年、百年近く前の録音となると、過去というより大昔というふうに捉える人がいても不思議ではない。

録音された音楽を、いまでもカンヅメ音楽と軽視する人がいる。
まるでナマのコンサートで演奏される音楽とはべつものであるかのように蔑視する。
そういう人は、こうもいう。
自分らはコンサートで、現在の音楽を聴いている、
オーディオマニア(に限らず録音物で聴く人)が聴いているのは、すべて過去の演奏だ、と。

たしかに録音された日時は、現在からすれば過去である。
数ヵ月前であろうと十年前であろうと過去である。
録音されたものも、過去といえるのだろうか。

グレン・グールドがたしかいっていた。
グールドの感覚として、録音は未来で、演奏会の舞台は過去だった、と。

Date: 8月 15th, 2014
Cate: オーディオマニア

オーディオマニアとして(その4)

音の世界、オーディオの世界では、美しさは移ろいやすさ、美しいは移ろいやすいのであるのなら、
幻想をそこに抱くのは、むしろ自然な行為なのかもしれない──、ともおもう。

幻想そのものをもってしまうこと、幻想に身をおくことも、
オーディオマニアとしての資質として必要なことなのかもしれない。

幻想があるからこそ理想もある、とはいえないだろうか。

私も幻想を、これまでもってきたことがある。
いまもなにがしかの幻想が、心のどこかにひそんでいるかもしれない。
幻想とはまったく無縁のオーディオをやってきているとは、いえない。

30年ほど前、永遠の価値をもつオーディオ機器について話し合い、考えていたことがある。
永遠とまでいかなくとも、永続する価値をもつオーディオ機器で、システムを構築したい、とさえ思っていた。

幻想は、和英辞書によれば、a fantasy (夢); an illusion (誤った希望); a vision (視覚的な)、とある。

使わずに保管しておけば新品のままであり続ける──、というのは、あきらかに an illusion だ。
誤った希望である。

なぜ人は、誤った希望を持ってしまうのか。
どこで、なぜ誤ってしまったのか。
そして、誤った希望に騙されてしまうことがあるのか。

オーディオマニアだから──、
これがその答なのかもしれない。