Archive for category テーマ

Date: 7月 21st, 2015
Cate: 4350, JBL, 組合せ

4350の組合せ(その8)

もう少し水にこだわって書けば、
マークレビンソンのML6とマッキントッシュのC29の違いには、のどごしの違いもあるように思う。
のどごしにも好みがあろう。

1995年ごろだったか、
日本にもフランスのミネラルウォーターの中で最も硬水といわれるコントレックスが輸入されるようになった。
いまではどのスーパーマーケットにも置いてあるし、
ディスカウントストアにいけば1.5ℓのペットボトルが150円を切っている。

いまから20年ほど前は扱っているところも少なかった。
そのころ祐天寺に住んでいたけれど、まわりの店にはどこにもなく、
隣の駅の学芸大学の酒屋で偶然見つけたことがある。
価格は1.5ℓで400円ほどしていた。

水の味といってもたいていは微妙な違いであるが、
コントレックスは誰が飲んでも、味がついているとわかるくらいだった。
しかもたまたま遊びに来ていた友人に出したところ、硬くてのみ込みにくい、といわれた。

コントレックスののどごしが私は好きだったけれど、友人は苦手としていた。
音にも、水ののどごしに似た違いがある。

耳あたりのいい音とは、違う。
耳(外耳)を口だとすれば、鼓膜が舌にあたるのか。
耳は、音によって振動する鼓膜の動きを耳小骨を用いて蝸牛の中へと伝えるわけだから、
咽喉にあたるのは蝸牛か。
となると喉越しではなく蝸牛越しとでもいうべきなのか。

とにかく音ののどごしは、人によって気持ちよく感じられるものに差はあるだろう。
ある人にすんなりと受け容れられる音ののどごしを、別の人はものたりないと感じることだってあろう。
コントレックスのように、気持いいのどごしと感じる人もいれば、重すぎるのどごしと感じる人もいる。

こうやって書いていると、アンプの音とは水のようなものぬたと思えてくる。
オーディオではアンプの音だけを聴くことはできない。
スピーカーが必要だし、プログラムソースも必要となって音を聴けるわけだから、
水そのものの味を聴いているわけではないが、
水の味はコーヒー、紅茶を淹れるときにも関係してくるし、
ご飯を炊くのであっても水の味は間接的に味わっている。
料理もそうだ。

水そのものを直接口にしなくとも、
口にいれるコーヒー、や紅茶、料理を通して、われわれは水の味の違いを感じとれる。
アンプの音とは、そういうものだと思う。

そして、1981年夏、レコード芸術で始まった瀬川先生の連載、
「MyAngle 良い音とは何か?」を思い出す。

この連載は一回限りだった。
一回目の副題は「蒸留水と岩清水の味わいから……」だったのを思い出していた。

Date: 7月 21st, 2015
Cate: 基本

ふたつの「型」(その3)

世の中には器用な人がいる。
はじめてやることでも、なんなくやってみせる人のことを、「あの人は器用だ」だという。

「あの人は器用だ」といってしまうと、
その人の器用さは、その人の才能のように受けとめられるかもしれない。
「あの人は器用だ」と口にしてしまった人も、
器用な人の器用さを、ある種の才能だと思ってそう言ったのかもしれない。

器用であることは、才能のような気もするし、そうでないような気もする。

器用な人であれば、けっこうな腕前でピアノを弾いてしまうだろう。
そういうのを目の当りにすれば、器用であることは才能のようにも思えてくる。

けれど器用な人のピアノと、
グレン・グールド(グールドなくとも他のピアニストでもかまわない)のピアノと、
何が違うのだろうか、と考えたときに、器用と技は違うことに気づく。

Date: 7月 20th, 2015
Cate: モニタースピーカー

モニタースピーカー論(APM8とAPM6・その9)

ステレオサウンド 59号のベストバイで、エスプリのAPM6に星をつけている人は、
APM8の六人(井上、上杉、岡、菅野、瀬川、柳沢)に対し三人(岡、菅野、山中)だった。

ここでひっかかったのは山中先生が、APM8には入れずAPM6に二星をつけられている。
これが意外だった。

山中先生といえば新製品紹介のページでも海外製品を担当されていた。
それまで書かれたものを読んできても、国産スピーカーをあまり高く評価されることはなかった。
その山中先生が、なぜだか理由はわからないけれど、APM6に二星。
しかも多くの人が評価しているスピーカーとはいえないAPM6に対して、である。

59号の約半年後に出た「コンポーネントステレオの世界 ’82」でも、
山中先生はAPM6の組合せをつくられている。
この別冊では他に二つの組合せをつくられている。
ひとつはQUADのESL63、もうひとつはエレクトロボイスのRegency IIIである。

QUADとエレクトロボイスは、すんなりわかる。
けれど、山中先生がAPM6? と思った。

それまでのステレオサウンドを読んできた者にとって、これは意外なことだ。
APM6の組合せならば、それまでのステレオサウンドならば、
岡先生、上杉先生、柳沢氏の誰かだったはずだから。

「コンポーネントステレオの世界 ’82」の半年後の63号でのベストバイ。
ここでも山中先生はAPM6を評価されている。

ここでつくられた組合せの次の通りだ。

●スピーカーシステム:エスプリ APM6 Monitor(¥500.000×2)
●コントロールアンプ:エスプリ TA-E900(¥600.000)
●パワーアンプ:ヤマハ BX1(¥33.000×2)
●カートリッジ:フィデリティ・リサーチ FR7f(¥77.000) デンオン DL305(¥65,000)
●プレーヤーシステム:パイオニア Exclusive P3(¥600.000)
組合せ合計 ¥3.002.000(価格は1981年当時)

Date: 7月 20th, 2015
Cate: アナログディスク再生

私にとってアナログディスク再生とは(デザインのこと・その34)

ステレオサウンド 51号の五味先生のオーディオ巡礼にも、
フィデリティ・リサーチのFR7は登場している。

51号の訪問先はH氏。
数年後にステレオサウンドの原田勲氏だと知ることになるが、
このときはまだH氏がどういう人なのかは知らなかった。
五味先生の知りあい、それもかなり親しい知りあいだということしかわからなかった。

このH氏が、EMTの927DstにFR7を取りつけられている。
スピーカーシステムはヴァイタヴォックスのCN191、アンプはマランツのModel 7と9のペア。

ここで鳴っていた音がどうでもない音であればFR7のことが気になることはなかった。
五味先生はH氏の音について、こう書かれている。
     *
〝諸君、脱帽だ〟
 ショパンを聴いてシューマンが叫んだという言葉を私は思い出した。このあと、モニク・アースなるピアニストの演奏で同じパバーヌを聴いたためかも知れない。さらにバックハウスでベートーヴェンの作品一〇九、ブタペスト・カルテットで作品一三一、魔笛をクレンペラーで、グリュミオーのヴァイオリンでヴィオッティの協奏曲、更にはヴィヴァルディのヴィオラ・ダ・モーレなど、こちらの好みを知っていて彼は私の気に入りそうなレコードばかり掛けてくれたが、たいがい口のわるい私を承知でこれだけ、こちらの聴き込んだ曲を鳴らせるのは、余程、自信があったからだろうが、それがけっして過信ではないことを私は認めた。この「オーディオ巡礼」では、奈良市南口邸の装置で、サン=サーンスの交響曲第三番の重低音を聴いて以来の興奮をおぼえたことを告白する。
     *
FR7が並のカートリッジではないことがわかる。
だから51号を読んでからというもの、瀬川先生のFR7の評価が気になっていた。
だがFR7に対して、瀬川先生は評価されていない──、というよりも無視にちかい。

なぜなのか。
いまとなっては確かめようはないが、FR7のカタチにあると私は思っている。

47号の新製品紹介のページで初めてFR7の写真を見た時もそう感じていた、
でもこの時は、まだぼんやりとした感じであった。
それからしばらくしてFR7の音を聴くことができた、ステレオサウンドの試聴室である。

音については書かない。
FR7を聴いたということは、FR7がトーンアームに取りつけられたところを見たということである。
ここで47号で感じていたものをはっきりと認識できた。
そして、やっぱりそうだったのかもしれない、ともおもっていた。

Date: 7月 20th, 2015
Cate: ロマン

ダブルウーファーはロマンといえるのか(その4)

そういえばUREIのModel 813もダブルウーファーである。
メインとなるユニットはアルテックの604-8G。

あらためて説明するまでもないが15インチ口径ウーファーとホーン型トゥイーターとの同軸型。
これに同口径のサブウーファーをつけ加えている。

このサブウーファーの特性が604-8Gのウーファー部よりも、
より低域の再生限界の拡充した設計であるのかどうか。

UREIの資料からだけは、はっきりしたことは読みとれないが、
ステレオサウンド 47号の「物理特性面から世界のモニタースピーカーの実力をさぐる」をみれば、
はっきりとしたことが実測データから読みとれる。

47号の前号の特集で取り上げられたモニタースピーカーを中心に、
三菱電機郡山製作所の協力で測定を行なっている。

アルテックの620AもあればModel 813も含まれている。
そして測定データには近接周波数特性が載っている。
これはウーファー部分の周波数特性のグラフであり、
バスレフ型ではポートの特性、パッシヴラジエーターを採用しているものはそのデータも測定している。

620AとModel 813の近接周波数特性を比較してみると、
まずウーファーのカットオフ周波数が異っていることがわかる。

620Aのクロスオーバー周波数は1.5kHzと発表されている。
近接周波数特性をみても1kHzあたりから減衰している。
下は100Hzあたりから減衰がはじまり、バスレフポートの共振周波数は40Hzあたりにある。

Model 813はクロスオーバー周波数は発表されていない。
少なくとも私が知っている範囲ではなかった。

近接周波数特性をみてわかるのは、900Hzより少し低い周波数から減衰が始まり、
その減衰カーヴも急峻であることが読みとれる。

サブウーファーの特性はどうだろうか。
これが見事なくらい604-8Gのウーファー特性と似ている。
よくこれだけ似た特性のウーファーがあったものだ(見つけてきたものだ)と感心してしまうくらいだ。

サブウーファーは200Hz以上で減衰している。
Model 813のバスレフポートは単なる開口部ではなく、
UREIが疑似密閉型と称する音響抵抗をかけたタイプである。

そのためポート出力はゆるやかな山を描いている。
共振周波数は620Aとほぼ同じ40Hzあたりにある。

620AとModel 813の低域の周波数特性を比較すると、
後者のほうがより低いところまでフラットではある。
けれどこれはダブルウーファー仕様だからというよりも、
疑似密閉型のバスレフポートの設計のうまさとみるべきだ。

Date: 7月 20th, 2015
Cate: アナログディスク再生

私にとってアナログディスク再生とは(デザインのこと・その33)

カートリッジにはヘッドシェルと一体になったモノがある。
EMTのTSD(XSD)15がそうだし、テクニクスのEPC100Cもそうである。

オルトフォンのSPUも、Gシェル、Aシェルどちらも本体をカートリッジ本体取り外して、
アダプターを介すれば他のヘッドシェルに取りつけられるといっても、
ヘッドシェル一体型のカートリッジということになる。

カートリッジ本体だけであれば、ヘッドシェルを選択できる。
音のよいヘッドシェルを選ぶ、ということになるのだろうが、
ヘッドシェルの選択においては指かけのつくりはひじょうに重要なポイントになってくるし、
なによりもカートリッジを取りつけて、さらにトーンアームに取りつける。
そしてカートリッジをレコード盤面上におろしてトレースしていく姿もまた重要となる。

一体型カートリッジでは、だから単体のカートリッジ、単体のヘッドシェル以上に、
デザインが優れたモノであってほしい。
なにしろ変更できないのだから。

フィデリティ・リサーチからFR7というカートリッジが登場した。
ステレオサウンド 47号での新製品紹介のページでの取り上げ方も力がはいっていた。
それまでのフィデリティ・リサーチのカートリッジFR1とは、
大きく違う発電構造、それにFR7はヘッドシェル一体型で、
音もデザインも大きく変貌を遂げた、といえた。

FR7の発電構造図を見ていると、確かにユニークなカートリッジではあるし、
ぜひ聴いてみたいという気持になるけれど、
FR7の写真を見ていると、うーん、どうなのだろう……、という気持になっていた。

内部構造が FR1とは大きく異っているためああいう形状になるのは理解できても、
あのデザインが好きにはなれなかった。

47号の特集はベストバイだった。
FR7は、井上卓也、上杉佳郎、菅野沖彦、長島達夫、山中敬三の五人が三星をつけている。
FR7に星をつけていないのは岡俊雄、瀬川冬樹のふたりだけだった。

岡先生は59号のベストバイで、FR7、FR7fの両方に三星をつけられているから、
47号のベストバイにおいては、試聴が間に合わなかったのが理由だったのだろう。

けれど瀬川先生は、やはり星をつけられていない。

Date: 7月 19th, 2015
Cate: 4350, JBL, 組合せ

4350の組合せ(その7)

井上先生が4350Aの組合せをつくられている「コンポーネントステレオの世界 ’80」、
その前年の’79年版で、瀬川先生はこう語られている。
     *
ぼく自身がレコード再生に望んでいることは、もう少しシビアなものです。それをうまく説明できるか自信はあまりないんだけれども、つまり、レコード音楽を再生するには、まず音が美しくなければならない。これがぼくきゼタ以上件なんですね。
 音が美しいというと、ちょっと誤解をまねくかしれませんが、もちろん音楽のなかには、不協和音をもつもの、あるいはもっと極端にノイズ的な音を出すもの、また一部のロックやクロスオーバーのように音源側ですでに音が歪んでいるもの、そういうものがあるわけだけれど、それを再生した場合に、音楽のイメージをそこなわない範囲で、しかし美しく再生したい、ということです。このことは、よくしゃべったり書いたりしているんだけど、ぼくは再生というものは虚構のなかの美学だという意識をもっています。だから、出てくる音をより美しく磨き上げて出すということが、ぼくにとっては絶対の条件なんですね。
 それを第一とすると、第二の条件としては、虚構であるからこそ、本物よりもっと本物らしくあってほしい、本物らしさを意識したい、という気持がぼくにはある。つまり作りものだから、いっそう本物らしくあってほしい、ということですね。このことについて、かつて菅野沖彦さんがうまいたとえを使われたから、それを借用すると、プラモデルの正確な縮尺モデルというものは、ビスの頭ひとつとっても正確な縮尺で作られているべきなのかもしれないが、現実にそう作ったらビスなどは見えなくなる。だから、実物らしくみせるには、ときには正確さをゆがめることも必要なんだ、ということですね。
 オーディオ再生というのは、それと同じで、縮尺の作業だと思う。つまり6畳とか8畳の空間に百人をこすオーケストラが、入りこめるはずはないんです。そのオーケストラを縮小して、ぼくらは聴いているわけでしょう。そしてそういう狭い空間でも、コンサートホールで聴いているような雰囲気を再現することができるのは、縮尺しているからです。しかし、たとえば25分の1とか50分の1といった形で、物理的に正確な縮尺をとったら、さっきのビスの頭と同じで、聴こえなくなる音がいっぱい出てきます。そこでそれを、部分的に強調してやる。強調するという言葉に抵抗があるんだったら、レトリックといってもいいてしょう。レトリックの作業を行うわけです。いいかえると、オーディオ再生には、より生々しく感じさせるための最少限のレトリックが必要なんだ、と思う。そしてそれを十全に表現してくれるスピーカーが、ぼくにとって望ましいんです。
 したがって、いわゆる〈生〉と、物理的にイコールかどうかと測定の数値ばかりを追いかけたり、物理的に比較したりすることだけが、製作の最良の方法だと考えて作られたスピーカーは、ぼくには不満がのこります。音の美学といいたいところのものを、十分に理解したうえで作られたスピーカーでないと、ぼくは共感がもてないんです。
 そのことをさらに押しすすめていうと、これもぼくが口ぐせみたいにいっていることですが、音が鳴り出すと同時に、演奏している場と自分の部屋とか直結したような感じ、それがあるかどうかということです。それを臨場感とか音場感といった言葉でいっているわけだけれど、要するに、そこに楽器の音があるだけではなく、音の周辺にひろがっている空間までもが、自分の部屋で感じられるかどうか、それからより濃密に感じられるかどうか、ということですね。
     *
井上先生と瀬川先生がレコード音楽再生において望まれているものは、基本的には同じでありながらも、
細部において違いがある。

それはプラモデルの正確な縮尺モデルで、どの部分の正確さを歪めるかの違いではないだろうか。
最少限のレトリックが必要ではある。
その最少限のレトリックを、どの部分にもってくるのか──、
これによってコントロールアンプの選択がマークレビンソンのML6かマッキントッシュのC29か、
わかれてしまうのではないだろうか。

井上先生の組合せには400万円という予算の制約があり、
瀬川先生の組合せには予算の制約がないということも忘れてはならないことにしてもだ。

Date: 7月 18th, 2015
Cate: 世代

世代とオーディオ(あるキャンペーンを知って・その5)

その1)で書いたように、あるキャンペーンとは、
ユキムが始めた学割キャンペーンのことである。

この学割を他社はどう見ているのか。

ドイツのウルトラゾーンの輸入元であるタイムロードも、学割キャンペーンを始めた。

ユキムはエラックとオーラオーディオが対象ブランドだった。
タイムロードはウルトラゾーンが対象ブランドである。

facebookにあるウルトラゾーンのページには、
《君たちの年頃に聴いた音楽は後々までずうっとこころに残るもの。だから、始めました。》
とある。

これには、少なからぬ人が頷かれるだろう。
10代のころに聴いた音楽が後々までずうっとこころに残るのであれば、
同じころにきいた「音」も後々までずうっとこころに残る──、
であれば、ユキム、タイムロードの学割キャンペーンは、ずうっと先を見てのキャンペーンなのかもしれない。

Date: 7月 18th, 2015
Cate: 世代

世代とオーディオ(ジーンズとオーディオ)

別項のためにステレオサウンド 52号の瀬川先生の文章を読み返して、
あのころは特にひっかかる箇所ではなかったところに、いまはひっかかる。

この箇所である。
     *
 70年代に入ってもしばらくは、実り少ない時代が続いたが、そのうちいつともなしに、アメリカで、ヴェトナム戦争後の新しい若い世代たちが、新しい感覚でオーディオ機器開発の意欲を燃やしはじめたことが、いろいろの形で日本にも伝わってきた。ただその新しい世代は、ロックロールからヒッピー文化をくぐり抜けた、いわゆるジーンズ族のカジュアルな世代であるだけに、彼らの作り出す新しい文化は、それがオーディオ製品であっても、かつてのたとえばマランツ7のパネル構成やその仕上げの、どこか抜き差しならない厳格な美しさといったものがほとんど感じられず、そういう製品で育ったわたくしのような世代の人間の目には、どこか粗野にさえ映って、そのまま受け入れる気持にはなりにくい。
     *
ステレオサウンド 45号にマーク・レヴィンソンのインタヴュー記事が載っている。
レヴィンソンはジーンズ姿だった。
スレッショルド、パスラボを設立したネルソン・パスもジーンズをはいているものばかり見ている。
彼らふたりだけではない、ジェームズ・ボンジョルノも当時はジーンズだった。

彼らは、確かに瀬川先生が指摘されているジーンズ族の世代にあたるし、
彼らより上の世代、マランツのソウル・B・マランツ、シドニー・スミス、
マッキントッシュのフランク・マッキントッシュ、ゴードン・ガウ、
この人たちの写真はいずれもスーツ姿だった。

彼らもジーンズは着用していたかもしれないが、
少なくとも取材で写真を撮られるときにはスーツである。

KEFのレイモンド・クックの印象は、つねにスーツである。
彼のジーンズ姿は浮んでこない。

いまの若い世代はジーンズをあまりはかない、とも聞く。
これが日本だけのことなのか、アメリカ、ヨーロッパの若い世代もそうなのか、
確かなことなのかどうかははっりきとしないけれど、
なんとなくそういう傾向があるのかな、という印象はある。

オーディオとジーンズ。これ以上のことは、いまのところ何も書けないけれど、
これからこのことに注意して見ていけば、もう少しなにか興味深いことが見つかるような気もする。

Date: 7月 18th, 2015
Cate: きく

舌読という言葉を知り、「きく」についておもう(その12)

舌読は、舌で書物を読むこと、つまり舌による読書である。

読書とは本(書物)を読むことなのだが、
読書は読(み)書(き)であるとも読めないことはない。

舌読という言葉を知って思ったのはそのことだ。
読書とは、書物を読み、なにかを己の裡(心)に書くことである、と。

書くとは掻くであり、傷つけてしるす意だということも知った。

読書とオーディオを介してレコード(録音物)を聴く行為はまったく同じとはいえないまでも、
非常に似ているともいえる。

ならばオーディオを介してレコード(録音物)を聴く行為は、
書物を読むのが読書であるから、録音物を聴くは、聴録となるのだろうか。

あまりいい造語ではないのはわかっている。
それでも、聴録という言葉を使うのは、
オーディオを介してレコード(録音物)を聴く行為は、聴(き)録(る)であるからだ。

Date: 7月 17th, 2015
Cate: モニタースピーカー

モニタースピーカー論(APM8とAPM6・その8)

エスプリ(ソニー)のAPM6が登場したころの私には、
このスピーカーシステムを、聴感上のS/N比に注目して捉えることはまだできなかった。
だから、気がつかなかったことがいくつもある。

聴感上のS/N比という視点でAPM6をじっくりみていくと、
日本のスピーカーシステムで、
いくつかの共通点を見出せるスピーカーシステムが存在していたことにも気づくことになる。

ダイヤトーンの2S305である。
NHKの放送技術研究所と三菱電機とが共同開発した、このスピーカーシステムは、
はっきりとモニタースピーカーである。

なぜAPM8にはMonitorの文字がつかず、APM6にはついているのか。
そのことを考えても、ダイヤトーンの2S305の存在が浮んでくる。

APM6の設計者の前田敬二郎氏は、
APM6の開発において2S305の存在を意識されていたのだろうか。
勝手な推測にすぎないけれど、まったく意識していなかった、ということはなかったように思える。

2S305の開発において、聴感上のS/N比が開発テーマになっていたとは思えない。
NHKがモニタースピーカーに求める性能を実現した結果として、
2S305は、あの当時として、かなり優秀な聴感上のS/N比の高さを実現したのではなかろうか。

おそらく、いまでも現代の優秀なパワーアンプで鳴らせば、
2S305は多少ナロウレンジでありながらも、
聴感上のS/N比のよい音とは、こういう音だという見本という手本のような音を聴かせてくれるはずだ。

2S305は、日本を代表するスピーカー(音)といわれていた。
それは海外製のスピーカーシステムとくらべると、パッシヴな性格のスピーカーシステムであり音である。

そのため聴き手(使い手、鳴らし手)がより積極的に能動的でなければ、
海外製のアクティヴな性格のスピーカーシステム(音)を聴いた後では、
ものたりなさを感じてしまうような音でもある。

APM6の音を、私は聴くことがなかった。
どんな音なのかは、だから正確にはわからない。
それでも2S305に通じる、パッシヴな性格をもったスピーカーシステムであるはずだ。

APM6を、いまじっくりとみつめていると、
1976年当時のオーレックスの広告にあったコピーが思い出される。

「趣味も洗練されてくると大がかりを嫌います。」
「趣味も洗練されてくると万人向けを嫌います。」

APM6の広告にもそのまま使えるのではないだろうか。

Date: 7月 17th, 2015
Cate: オーディオ入門

オーディオ入門・考(その10)

ステレオサウンド 56号の特集で、瀬川先生が書かれていたことを思い出す。
     *
 いまもしも、ふつうに音楽が好きで、レコードが好きで、好きなレコードが、程々の良い音で鳴ってくれればいい。というのであれば、ちょっと注意深くパーツを選び、組合わせれば、せいぜい二~三十万円で、十二分に美しい音が聴ける。最新の録音のレコードから、旧い名盤レコードまでを、歪の少ない澄んだ音質で満喫できる。たとえば、プレーヤーにパイオニアPL30L、カートリッジは(一例として)デンオンDL103D、アンプはサンスイAU-D607(Fのほうではない)、スピーカーはKEF303。これで、定価で計算しても288600円。この組合せで、きちんとセッティング・調整してごらんなさい。最近のオーディオ製品が、手頃な価格でいかに本格的な音を鳴らすかがわかる。
 なまじ中途半端に投資するよりも、こういうシンプルな組合せのほうが、よっぽど、音楽の本質をとらえた本筋の音がする。こういう装置で、レコードを聴き、心から満足感を味わうことのできる人は、何と幸福な人だろう。私自身が、ときたま、こういう簡素な装置で音楽を聴いて、何となくホッとすることがある。ただ、こういう音にいつまでも安住することができないというのが、私の悲しいところだ。この音で毎日心安らかにレコードを聴き続けるのは、ほんの少しものたりない。もう少し、音のひろがりや、オーケストラのスケール感が欲しい。あとほんの少し、キメ細かい音が聴こえて欲しい。それに、ピアノや打楽器の音に、もうちょっと鋭い切れ味があったらなおいいのに……。
     *
KEFのModel 303に、サンスイのAU-D607、
パイオニアのアナログプレーヤーにデンオンのカートリッジ。

56号は1980年の秋に出ている。
これを読んで、いい組合せだな、と思い、
これらの製品がもう少し早く市場に登場していれば、このままの通りのシステムにしただろうな……、と思っていた。

《音楽の本質をとらえた本筋の音》、
いいなぁ、と心底思ったことを、いまも憶えている。

このシステムならば、故障しない限りずいぶんと長く使い続けられただろう。
これにチューナーを買い足し、カセットデッキも揃える。
この組合せの二年後にはCDプレーヤーが登場した。

すぐさま、このシステムにぴったりくるようなCDプレーヤーはなかったけれど、
さらに二年ほど待てば、手頃なCDプレーヤーもあらわれてきた。

なまじグレードアップをはかるよりも、この組合せのまま聴き続けたほうがいいようにも思うし、
それが幸せな、家庭での音楽鑑賞だろう、とも思う。

この組合せは、音楽を聴くのは好きだけれども、
オーディオには凝りたくないという人に、まさにぴったりである。

ならば、この組合せは、オーディオの入門用として最適の組合せともいえるだろうか。

Date: 7月 16th, 2015
Cate: High Fidelity

ハイ・フィデリティ再考(差延 différance)

以前から読もうと思っていた本、ジャック・デリダの「声と現象」を手に取っている。
差延という、デリダによる造語が出てくる。

私がいま読みはじめたちくま学芸文庫の訳註には、差延について次のように書かれてある。
訳者は林好雄氏。
     *
差延(ディフェランス)「差異 différence」に対して「差延」は différance と綴られるが、フランス語の発音上は区別できない。フランス語の動詞 différer には、「異なる、同一ではない」という意味と「延期する、遅らせる」という意味があるが、その名詞である「差異 différence」には後者の意味がないことから、この両者の意味を生かすために考え出されたダリダの造語。
     *
訳註はまだまだ続くし、訳註だけを読んでも……、というわけですべては引用しない。
それに私自身、差延の意味を完全に把握していない。

それでも「差延 différance」は、ハイ・フィデリティを考えていくうえで、
とても重要なことにつながっていく予感がしている。

差異ではなく差延。

「声と現象」を読み終り、しばらく時間をおいたら、この続きを書いていきたい。

Date: 7月 15th, 2015
Cate: 4350, JBL, 組合せ

4350の組合せ(その6)

ステレオサウンド 52号で瀬川先生は、マークレビンソンのML6のことを書かれている。
     *
 新型のプリアンプML6Lは、ことしの3月、レビンソンが発表のため来日した際、わたくしの家に持ってきて三日ほど借りて聴くことができたが、LNP2Lの最新型と比較してもなお、歴然と差の聴きとれるいっそう透明な音質に魅了された。ついさっき、LNP(初期の製品)を聴いてはじめてJBLの音が曇っていると感じたことを書いたが、このあいだまで比較の対象のなかったLNPの音の透明感さえ、ML6のあとで聴くと曇って聴こえるのだから、アンプの音というものはおそろしい。もうこれ以上透明な音などありえないのではないかと思っているのに、それ以上の音を聴いてみると、いままで信じていた音にまだ上のあることがわかる。それ以上の音を聴いてみてはじめて、いままで聴いていた音の性格がもうひとつよく理解できた気持になる。これがアンプの音のおもしろいところだと思う。
 ともかくML6の音は、いままで聴きえたどのプリアンプよりも自然な感じで、それだけに一聴したときの第一印象は、プログラムソースによってはどこか頼りないほど柔らかく聴こえることさえある。ML6からLNPに戻すと、LNPの音にはけっこう硬さのあったことがわかる。よく言えば輪郭鮮明。しかしそれだけに音の中味よりも輪郭のほうが目立ってしまうような傾向もいくらか持っている。
     *
また《ML6がML2Lの内包している音の硬さを適度にやわらげてくれる》とも書かれている。

瀬川先生と井上先生は、同じことをML6に関して言われている。
同時にふたりの違いもまた読み取れる。

4350Aではないが、4343の組合せを「続コンポーネントステレオのすすめ」でいくつかつくられている。
そのなかに4350Aの組合せとほぼ同じ例があり、
そこには「あくまでも生々しい、一種の凄みを感じさせる音をどこまで抽き出せるか」とある。

ここでの組合せはEMTのアナログプレーヤー950に、
アンプはマークレビンソンのML6とML2のペアである。

井上先生はリアリティのある音で聴きたいということでML6からマッキントッシュのC29に、
コントロールアンプを換えられた。
瀬川先生は、あくまでもパワーアンプにML2を使うことが前提ではあるものの、ML6を選択される。

《あくまでも生々しい、一種の凄みを感じさせる音》も、
リアリティのある音であり、それは《もはやナマの楽器の実体感を越えさえする》音でもある。

井上先生は「コンポーネントステレオの世界 ’80」で、C29とML6を水に例えられてもいる。
     *
たとえていうと、マークレビンソンの音が、きわめて純度の高い蒸留水だとすれば、マッキントッシュC29+MC2205の音は、鉱泉水、つまりミネラルウォーターのような、そんな味わいをもっています。自然の豊かさの魅力、とでもいったらいいでしょうか。
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アンプの音を水に例えるのは、瀬川先生も52号の「最新セパレートアンプの魅力をたずねて」の最後でやられている。
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 アンプの音に、明らかに固有のクセのあることには、わたくしも反対だ。広い意味では、アンプというものは、入力にできるだけ正直な増幅を目ざすべきだ。それはとうぜんで、アンプがプログラムに含まれない勝手な音を創作することは、少なくとも再生音の分野では避けるべきことだ。
 しかし、アンプの音が、いやアンプに限らずスピーカーやその他のオーディオ機器一切の音が、蒸留水をめざすことは、わたくしは正しくないと思う。むろん色がついていてはいけない。混ぜものがあっても、ゴミが入っていても論外だ。けれど、蒸留水は少しもうまくない。本当にうまい、最高にうまい水は、たとえば谷間から湧き出たばかりの、おそろしく透明で、不純物が少なくて、純水に近い水であるけれど、そこに、水の味を微妙に引き立てるミネラル類が、ごく微量混じっているからこそ、谷あいの湧き水が最高にうまい。わたくしは、水の純度を上げるのはここまでが限度だ、と思う。蒸留水にしてはいけない。また、アンプの音が、理想の上では別として現実に蒸留水に、つまり少しの不純物もない水のように、なるわけがない。要は不純物をどこまで少なくできるかの闘いなのだが、しかし、谷間の湧き水のたとえのように、うまさを感じさせる最少限必要なミネラルを、そしてその成分と混合の割合を、微妙にコントロールしえたときに、アンプの音が魅力と説得力をもちうる。そういうアンプが欲しいと思う。そして水の味にも、その水の湧く場所の違いによって豊かさが、艶が、甘味が、えもいわれない微妙さで味わい分けられると同じように、アンプの音の差にもそれが永久に聴き分けられるはずだ。アンプがどんなに進歩しても、そういう差がなくならないはずだ。そこにこそ、音楽を、アンプやスピーカーを通じて聴くことの微妙な楽しみがある。
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私はC29もML6、どちらもミネラルウォーターだと思う。
ただ《その水の湧く場所の違い》があり、そのことによる含有されるミネラル類の量、割合に違いがある。
ML6は軟水のミネラルウォーターで、C29はML6よりは硬水という、そんな違いだと感じている。

Date: 7月 14th, 2015
Cate: 純度

オーディオマニアとしての「純度」(その16)

より硬度のあるものを磨くには、さらに硬度のあるもので磨かなければならない。
ダイアモンド以外の物質はダイアモンドよりも硬度が低いから、ダイアモンドで磨くことができる。

けれどダイアモンドを磨くには、地球上にはダイアモンドよりも硬度のある物質は存在しないから、
ダイアモンドで磨くしかない。

こんなことを書いていて思い出していたのは、
五味先生の「喪神」である。
「オーディオと人生」の中に書かれてあることを思い出していた。
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『喪神』のモチーフになったのは、西田幾太郎氏の哲学用語を借りれば、純粋経験ということになるだろうか。ピアニストが楽譜を見た瞬間にキイを叩く、この間の速度というのは非常に早いはずである。習練すればするほどこの速度は増してゆき、ついには楽譜を見るのとキイを叩くのが同時になってしまう。経験が積み重なってゆくと、こういう状態になる。それを純粋経験という。
 ルビンスティンもグールドも純粋経験でピアノを叩いている。それでいて、あんなに演奏がちがうのはなぜか。そこに前々から疑問を抱いていた。純粋経験というのは、意志が働く以前のところで処理されているはずなのに、と。そのときふと思ったのは、これは戦場で考えつづけていたことだが、人を斬ったらどういう感じがするだろうか、ということだった。
 一方、私はキリスト教神学を学んだときのことを思いあわせた。キリスト教が、我々人間に禁じている唯一のものは、自殺である。なぜそれがいけないか。誰にでもできるからにちがいない。私は、かつて貧乏のどん底にいて、俺にいますぐできることはなんだろうか、と考えたことがある。そのとき即座に頭に浮んだのが、自殺だった。名古屋へ行きたいと思っても旅費がない。徒歩で行くとしても、その間の食料を考えなくてはならない。パチンコをはじいてみても、玉はこちらの思うとおりにころがってはくれない。つまり世の中で、貧乏のどん底にいる人の自由になるものは何もない。しかし死のうと思えば、いつでも、誰でも人は自殺することだけはできる。それでキリスト教は自殺を禁じたのだろうと考えていた。そこで、自殺のできない男をいうものを想いえがいた。
 わが身を護るために、人を斬ってきた男が、やがて純粋経験で人を斬るようになる。これはもう、己の意思で斬るのではないから寝ているときに背後から襲われても、顔にとまった蝿を無意識に払いのける調子で、迫った刃を防禦本能でかわし、反射的に相手を仆してしまう。しかも本人は仆したことさえ気がつかない。ここに私は目をつけた。どんな強敵が襲いかかってきても、相手を倒すことのできる男、そこまで習練を積んだ男が、もし、おのれに愛想をつかして、自殺を思い立ったら、どうしたらよいか。自分の腹に短刀を当てようとした瞬間、純粋経験が働いて、夢遊病者のように短刀を抛り出してしまうだろう。そのことを自分で気がつかずにいるだろう。そんな男が死ぬには、どうすればよいか。自分を殺せるだけの人間を、もう一人造りあげて、その男に斬らせるよりほかない。このシュチュエーションを一人の剣豪に托して描いたのが『喪神』であった。チャンバラ小説のように大方には見られたようだが、作者の私としては、あくまで自殺をあつかったので、小説の結末の場面を〝西風の見たもの〟をきいていて、思いついたのである。念のために言っておくと、この時のスピーカーはグッドマンの十二吋、6L6の真空管をつかったアンプに、カートリッジはGEのものだ。カサドジュの演奏だった。
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純粋経験で人を斬るようになった男は、いわばダイアモンドである。
この男が死ぬには、
つまり自殺するには、自分を殺せるだけの人間(もうひとつのダイアモンド)を造りあげなければならない。

ということは「喪神」で五味先生が扱った男は、もっとも純化した男なのか。
それが純化の果てなのか……。

オーディオマニアとして「純化」と「喪神」が重なってきた。