Date: 7月 19th, 2015
Cate: 4350, JBL, 組合せ
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4350の組合せ(その7)

井上先生が4350Aの組合せをつくられている「コンポーネントステレオの世界 ’80」、
その前年の’79年版で、瀬川先生はこう語られている。
     *
ぼく自身がレコード再生に望んでいることは、もう少しシビアなものです。それをうまく説明できるか自信はあまりないんだけれども、つまり、レコード音楽を再生するには、まず音が美しくなければならない。これがぼくきゼタ以上件なんですね。
 音が美しいというと、ちょっと誤解をまねくかしれませんが、もちろん音楽のなかには、不協和音をもつもの、あるいはもっと極端にノイズ的な音を出すもの、また一部のロックやクロスオーバーのように音源側ですでに音が歪んでいるもの、そういうものがあるわけだけれど、それを再生した場合に、音楽のイメージをそこなわない範囲で、しかし美しく再生したい、ということです。このことは、よくしゃべったり書いたりしているんだけど、ぼくは再生というものは虚構のなかの美学だという意識をもっています。だから、出てくる音をより美しく磨き上げて出すということが、ぼくにとっては絶対の条件なんですね。
 それを第一とすると、第二の条件としては、虚構であるからこそ、本物よりもっと本物らしくあってほしい、本物らしさを意識したい、という気持がぼくにはある。つまり作りものだから、いっそう本物らしくあってほしい、ということですね。このことについて、かつて菅野沖彦さんがうまいたとえを使われたから、それを借用すると、プラモデルの正確な縮尺モデルというものは、ビスの頭ひとつとっても正確な縮尺で作られているべきなのかもしれないが、現実にそう作ったらビスなどは見えなくなる。だから、実物らしくみせるには、ときには正確さをゆがめることも必要なんだ、ということですね。
 オーディオ再生というのは、それと同じで、縮尺の作業だと思う。つまり6畳とか8畳の空間に百人をこすオーケストラが、入りこめるはずはないんです。そのオーケストラを縮小して、ぼくらは聴いているわけでしょう。そしてそういう狭い空間でも、コンサートホールで聴いているような雰囲気を再現することができるのは、縮尺しているからです。しかし、たとえば25分の1とか50分の1といった形で、物理的に正確な縮尺をとったら、さっきのビスの頭と同じで、聴こえなくなる音がいっぱい出てきます。そこでそれを、部分的に強調してやる。強調するという言葉に抵抗があるんだったら、レトリックといってもいいてしょう。レトリックの作業を行うわけです。いいかえると、オーディオ再生には、より生々しく感じさせるための最少限のレトリックが必要なんだ、と思う。そしてそれを十全に表現してくれるスピーカーが、ぼくにとって望ましいんです。
 したがって、いわゆる〈生〉と、物理的にイコールかどうかと測定の数値ばかりを追いかけたり、物理的に比較したりすることだけが、製作の最良の方法だと考えて作られたスピーカーは、ぼくには不満がのこります。音の美学といいたいところのものを、十分に理解したうえで作られたスピーカーでないと、ぼくは共感がもてないんです。
 そのことをさらに押しすすめていうと、これもぼくが口ぐせみたいにいっていることですが、音が鳴り出すと同時に、演奏している場と自分の部屋とか直結したような感じ、それがあるかどうかということです。それを臨場感とか音場感といった言葉でいっているわけだけれど、要するに、そこに楽器の音があるだけではなく、音の周辺にひろがっている空間までもが、自分の部屋で感じられるかどうか、それからより濃密に感じられるかどうか、ということですね。
     *
井上先生と瀬川先生がレコード音楽再生において望まれているものは、基本的には同じでありながらも、
細部において違いがある。

それはプラモデルの正確な縮尺モデルで、どの部分の正確さを歪めるかの違いではないだろうか。
最少限のレトリックが必要ではある。
その最少限のレトリックを、どの部分にもってくるのか──、
これによってコントロールアンプの選択がマークレビンソンのML6かマッキントッシュのC29か、
わかれてしまうのではないだろうか。

井上先生の組合せには400万円という予算の制約があり、
瀬川先生の組合せには予算の制約がないということも忘れてはならないことにしてもだ。

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