Archive for category テーマ

Date: 10月 23rd, 2016
Cate: 朦朧体

ボンジョルノのこと、ジャーマン・フィジックスのこと(その68)

「オーディオあとらんだむ」では、
トーレンスのすごさと、スピーカーのパトリシアン800のすごさについて書かれているけれど、
The Goldのすごさについては書かれていない。

コリン・デイヴィスの「春の祭典」でのすごさについて書かれている。
瀬川先生が熊本のオーディオ店でかけられたのは、
コリン・デイヴィスのストラヴィンスキーではあったが、
記憶違いでなければ「春の祭典」ではなく、こちらは「火の鳥」だった。

当時、コリン・デイヴィスのストラヴィンスキーのバレエ三部作の録音で、
「春の祭典」と「火の鳥」は非常に優秀な録音という評価が与えられていた。

ほんとうにそうだと思っている。
あの時聴いた「火の鳥」のすごさは、
瀬川先生がM氏のリスニングルームでの「春の祭典」には及ばないところがあるだろうが、
それでもそれまで聴いた音の中で、圧倒的にすごかった。

瀬川先生は《まさに「体験」としか言いようのないすごさ》と表現されている。
私も、その時、そう感じていた。
4343から鳴ってくる音を聴いている、というよりも、
体験している、としか表現しようのないすごさの音だった。

当時、高校生だった私は、放心していた。
ここまでオーディオはすごいのだ、と実感できたこともあった。
いまの耳で聴けば、こまかな欠点も気づくはずだろうが、
そんなことを関係ない、といえるだけの圧倒的なすごさがあったし、
それに打ちのめされた。

ただこの時は、トーレンスのリファレンスのすごさゆえだ、と思っていた。
だから、家までの帰り途(バスで約一時間ほどかかる)、
パワーアンプがマークレビンソンのML2だったら、もっとすごい音だったかも……、
そんなことも考えないわけではなかった。

まだ若かった、というか、青二才だった。

Date: 10月 23rd, 2016
Cate: 朦朧体

ボンジョルノのこと、ジャーマン・フィジックスのこと(その67)

いまでこそ、であるのだが、10代のころの私にとっては、
ボンジョルノよりもマーク・レヴィンソンがつくるアンプの方に憧れていた。

それには瀬川先生の影響が強い。
何度も書いているように、そのころのマークレビンソンの音とGASの音は、
女性的と男性的というふうに、アメリカの最先端のアンプでありながらも性格は対照的であった。

そんな私が、ある日突然、SUMOのThe Goldを買うに至ったのも、
瀬川先生の影響があってなのだ。

そのころ瀬川先生はFMfanに「オーディオあとらんだむ」という連載を書かれていた。
私はこの連載が楽しみで、当時あったFM誌の中からFMfanを選んでいた。

その「オーディオあとらんだむ」で書かれていることが、
読んだ時からずっと頭の中に残っていた。
     *
 トーレンスは、スイスおよび西ドイツにまたがる著名なターンテーブルのメーカー。プロ用のEMTと同じ工場で製品を作っている。社歴もあと2年で100年を迎えるという老舗。
 このメーカーは、一貫してベルトドライブ式のターンテーブルを作り続けてきた。いわゆる業務用でない一般向けのターンテーブルとしては、世界で最も優秀な製品のひとつ、と高く評価されていた。しかしここ数年前は、日本の生んだDD(ダイレクトドライブ)式に押されて、世界的に伸び悩んでいたようだ。
 そのトーレンスが、昨年のこと、突然、「リファレンス」と名づけて、ものすごいターンテーブルを発表した。最初は市販することを考えずに、社内での研究用として作られたために、もし売るとしたらどんなに高価になるか見当もつかない、ということだったが、ことしの9月にようやく日本にほんの数台が入荷して、その価格はなんと358万円! たいていの人はびっくりする。
 トーレンス社の研究用としてはおもに2つの目的を持っていて、ひとつは、ベルトドライブシステムの性能の限界を究めるため。もうひとつは、世界各国のアームとカートリッジを交換しながら、プレイヤーシステム全体を研究するため。
 しかしこの2点が、私たちオーディオ愛好家にとっても、きわめて興味深いテーマであったために、発売を希望する声が世界中からトーレンス社に寄せられて、ついに市販化に踏み切ったのだという。
 現在、ここまで性能の向上したDDターンテーブルがあるのに、350万円も投じて、いったい、ターンテーブルを交換してどういう効果があるのか──。たいていの人がそう思うのは当然だ。
 だが、市販されている相当に高級なプレイヤーシステムと、この「リファレンス」とで、同じレコードを載せかえ、同一のカートリッジをつけかえて聴き比べてみると、ターンテーブルシステムの違いが、音質をこんなにまで変えてしまうのか、と、びっくりさせられる。第一に音の安定感が違う。ビニールのレコードのあの細い音溝を、1~2グラムという軽い針先がトレースしているという、どこか頼りない印象は、ローコストのプレイヤーでしばしば体験する。ところが「リファレンス」ときたら、どんなフォルティシモでも、音が少しも崩れたりせず、1本の針が音溝に接しているといった不安定な感覚を聴き手に全く抱かせない。それどころか、消え入るようなピアニシモでも、音の余韻がほんとうに美しく、かすれたりせずにしっとりとどこまでも消えてゆく。大型スピーカーの直前に置いて、耳がしびれるほどの、聴き手が冷汗をかくほどの音量で鳴らしても、ハウリングを生じない。またそれだからいっそう音が安定して、いわゆる腰の座りのいい音がするのだろう。
 詳しいことは既に、ステレオサウンド誌56号に紹介した通り、一愛好家としては恵まれすぎているほどの時間と機会を与えられて試聴したが、なにしろこの音は、すごい、としかいいようがない。いや、すごいといっても、決して聴き手を驚かせるようなドキュメンタルな音が鳴るばかりでなく、むしろ上述のような、ピアニシモの美しさのほうをこそ特筆すべきではないかとさえ思う。
 そういう次第で、この音を十分よく聴き知っているつもりの私が、つい先日、大変な体験をした。
 スピーカーがエレクトロボイスの、「パトリシアン800」。アンプはJBLのSG520(旧製品のプリアンプ)とSUMO社の「ザ・ゴールド」。こういう組み合せで聴いておられる一愛好家のお宅で、プレイヤーをこの「リファレンス」に替えて試聴したときのことだ。たいていの音には驚かなくなっている私が、この夜の音だけは、永いオーディオ体験の中の1ページに書き加える価値のあるほどの、まさに冷汗をかく思いのすごい音、を体験した。聴いた、のではない。まさに「体験」としか言いようのないすごさ。
 例えば、1976年録音のコリン・デイヴィスの「春の祭典」(フィリップス)。第2部終章の、ティンパニーとグラン・カッサの変拍子の強打音の連続の部分──。何度もテストに使って、結構「聴き知っていた」つもりのレコードに、あんな音が入っていようとは……。
 グラン・カッサ(大太鼓)が強く叩かれる。その直後にダンプして音を止める部分が、これまではよくわからなかった。当然、ダンプしないで超低音の振動がブルルルン……と長く尾を引いているところへ、ティンパニーが叩き込んだ音が重なってくる。そうした、低音域での恐ろしく強大な音が重なり、離れ、互い違いにかけあう音たちが、まるでそのスピーカーのところで実際のティンパニーやグラン・カッサが叩かれているかのような、部屋全体がガタガタ鳴り出すような音量で、聴き手を圧倒してくる。
 居合わせた数人の愛好家たちは、終わってしばらくのあいだ、口もきけないほどのショックを受けたらしい。次の日、私はすぐに、日本フォノグラム(フィリップス)の新部長に電話をかけた。私たちは、まだフィリップスの音をほんの一部しか聴いていないらしいですよ……と。
 スピーカーもすごかったし、そのスピーカーをここまで鳴らし込むことに成功されたM氏の感覚もたいへんなものだ。
 そしてしかも、そういうシステムであったからこそ、トーレンス「リファレンス」が、もうひとつ深いところで、いままで聴くことのできなかった新しい衝撃を与えてくれたのだろう。
 いくら音がいいといっても、本当に350万円の価値があるのだろうか、と、誰もが疑問を抱く。
 しかし、あの音をもし聴いてみれば、たしかに、「リファレンス」以外のプレイヤーでは、あの音が聴けないことも、また、誰の耳でもはっきり聴きとれる。
 この夜の試聴は、「リファレンス」の非売品のサンプルであったため、プレイヤーは翌朝、M氏のお宅から引き上げられた。
 M氏はもう気抜けしてしまって、本当に「リファレンス」を購入するまでは、もうレコードを聴く気が起きないといわれる。
 良い音を一旦聴いてしまうと、後に戻れなくなるものだ。
     *
ここに登場するM氏は、熊本在住の医師である。
瀬川先生の手術を担当された方でもある。

瀬川先生がM氏のリスニングルームで、冷汗をかく思いのすごい音、を体験される前に、
これに近いシステムで、熊本のオーディオ店で、私はトーレンスのリファレンスの音を聴いた。

鳴らされたのは瀬川先生。
スピーカーはJBLの4343、パワーアンプはThe Gold、
コントロールアンプはLNP2で、プレーヤーがリファレンスだった。

この時が、瀬川先生に会えた最後の日となった。

Date: 10月 22nd, 2016
Cate: 日本のオーディオ

日本のオーディオ、これまで(パイオニア SH100・その4)

パイオニアの創立者である松本望氏は、1988年7月15日に逝去されている。
ステレオサウンド 88号に、菅野先生が「松本 望氏を悼む」を書かれている。

ここにステレオフォンSH100のことが出てくる。
     *
 ステレオフォンという、たしか、昭和三十四年頃だったと思うが、ステレオレコードをサウンドボックスで再生する機械には、まだ強い執着をもっておられたようだ。アンプなしのアクースティック・ステレオレコード再生装置であったが、確かにダイレクトでピュアーな音がしたものだった。
     *
モノーラルのころからオーディオマニアだった人ほど、
モノーラルからステレオへの移行は遅かった──、という話を見たり聞いたりしている。

凝りに凝った再生装置をもうひとつ一組用意するのが大変だったのが、その理由である。
当時はメーカー製を買ってシステムを組むのではなく、
自作して、というのが主流であったからこその理由といえよう。

SH100はそういう人たちに、
ステレオレコードの良さを手軽に体験してもらおう、という売り方を行ったらしい。
それからオーディオマニアでない人たちにも、ステレオレコードという新しい体験をしてもらおう、
という意図もあったそうだ。

そのためもあってだろうか、それにアンプを必要としない、
というのが子供だましのように受け取られたのかもしれない。

SH100は決してそういうモノではないと感じていた。
松本望氏が、まだ強い執着をもっておられたということは、その証しといえるし、
菅野先生の《ダイレクトでピュアーな音がした》は、そのことを裏付けている、と受けとめている。

Date: 10月 22nd, 2016
Cate: 戻っていく感覚, 書く

毎日書くということ(戻っていく感覚・その5)

黒田先生がフルトヴェングラーについて書かれている。
     *
 今ではもう誰も、「英雄」交響曲の冒頭の変ホ長調の主和音を、あなたのように堂々と威厳をもってひびかせるようなことはしなくなりました。クラシック音楽は、あなたがご存命の頃と較べると、よくもわるくも、スマートになりました。だからといって、あなたの演奏が、押し入れの奥からでてきた祖父の背広のような古さを感じさせるか、というと、そうではありません。あなたの残された演奏をきくひとはすべて、単に過ぎた時代をふりかえるだけではなく、時代の忘れ物に気づき、同時に、この頃ではあまり目にすることも耳にすることもなくなった、尊厳とか、あるいは志とかいったことを考えます。
(「音楽への礼状」より)
     *
クラシックの演奏家は、フルトヴェングラーの時代からすればスマートになっている。
テクニックも向上している。
私はクラシックを主に聴いているからクラシックのことで書いているが、
同じことはジャズの世界でもいえるだろうし、他の音楽の世界も同じだと思う。

《あなたの残された演奏をきくひとはすべて、単に過ぎた時代をふりかえるだけではなく、時代の忘れ物に気づき》
と黒田先生は書かれている。

フルトヴェングラーと同じ時代の演奏家の残した録音すべてがそうであるわけではない。
単に過ぎた時代をふりかえるだけの演奏もある。

時代の忘れ物に気づかさせてくれる演奏──、
私がしつこいくらいに五味先生、岩崎先生、瀬川先生のことを書いている理由は、ここにもある。
私自身が時代の忘れ物に気づきたいからである。

オーディオの世界は、いったいどれだけの時代の忘れ物をしてきただろうか。
オーディオ雑誌は、時代の忘れ物を、読み手に気づかせるのも役目のはずだ。

私にとっての「戻っていく感覚」とは、そういうことでもある。

Date: 10月 21st, 2016
Cate: ロマン

ダブルウーファーはロマンといえるのか(その9)

38Wといえば、菅野先生がスイングジャーナルでやられた実験的スピーカーもそうだった。
JBLのユニットを用いての4ウェイ、しかも全帯域ダブル使用である。
その時の音については、ステレオサウンド別冊HIGH-TECHNIC SERIES-1にも書かれている。
     *
 先日も、ウーファー部分発展の手がかりにと思い、ある雑誌の企画で♯2220を二本入れたエンクロージュアをECシリーズのバリエイションとしてサンスイに試験的に作ってもらった。この♯2220二発入りの4ウェイシステム(♯2220×2、♯2120×2、375+HL88×2、075×2、クロスオーバーは100Hz、800Hz、7kHz)を聴いたときは、実に、この世のものとも思えない低音の圧倒的音圧感に狂喜した。とにかくバスドラムが鳴った時の音などは本当によだれが出てきそうなくらいで、腹の底から喜びがこみ上げてくる素晴らしい音だった。
     *
ここまでのシステムではないが、4350Aで菅野先生録音の「The Dialogue」を聴いた時、
そのバスドラムの音には驚いたことがある。
4343とはミッドバスもミッドハイも違うけれど、ウーファーがシングルかダブルかの違い、
それに加えてバイアンプ駆動のメリットもあって、
《喜びがこみ上げてくる》という感じは、菅野先生が聴かれた音ほどではないにせよ、
確実にあった。

それでも菅野先生の、この実験的システムはやや大袈裟だ。
ミッドバス以上もダブルにする必要が、どこまであったのだろうか。

2120は25cm口径のユニット。
ここは4350と同じ2202(30cm口径)一発で十分だし、
375も一本でいいと思う。075はダブルでスタックすれば、その面白さはあるようには思うけれど。

菅野先生自身、続けてこう書かれている。
     *
 ところが、家に帰って自分のウーファー一発のシステムを聴いてみると、あれはやはりオーバー・エクスプレッションだったと思うようになったのだ。部屋やアンプなども若干異なるので断定はできないが、二発入りだと、一人のベーシストが演奏しているにもかかわらず、あたかも巨人が演奏しているかのようで、パーソナリティが感じられないのである。そこが不満として感じられるようになってしまった。
     *
そうだろうと思いながらも、ウーファーだけダブルだったら……、とも思ってしまった。
全帯域ダブルの4ウェイシステムは、たしかにオーバー・エクスプレッションだろう。
それに片チャンネル八本のユニットとなると、その配置も格段に難しくなる。

それでも《この世のものとも思えない低音の圧倒的音圧感に狂喜した》、
ここのところに刺戟された(挑発された)人はきっといるはずだ。

Date: 10月 21st, 2016
Cate: 「本」

オーディオの「本」(読まれるからこそ「本」・その3)

私が小学生、中学生のころは、
田舎町にも書店は何軒もあった。
それから貸本屋もけっこうあった。

貸本にはハトロン紙というのだろうか、半透明の白い紙のカバーがつけられていた。
東京にも貸本屋があるのを意外に感じたのは、30年以上の前のこと。
東京も貸本屋は少なくなってきた。

いま住んでいるところには、徒歩10分ほどのところに一軒ある。
客はあまり見かけないが、ずっと続いているから需要はあるのだろう。
個人経営の書店は近辺で三軒なくなったが、この貸本屋は残っている。

AmazonのKindle Unlimitedは、インターネット上の貸本屋と思う。
そういう時代を生きてきたからなのかもしれないが、
Kindle Unlimitedという横文字の名称であっても、
毎月定額で読み放題の貸本屋がインターネットにあるのと同じである。

貸本には半透明の紙のカバーがついていた。
そのカバーを外して読むことは出来なかった。
だから書店で買ってきた本とは感触が微妙に違う。

この感触の違いはKindle Unlimitedにもある。
紙の本とは違う感触が、そこにある。

Date: 10月 21st, 2016
Cate: 広告

広告の変遷(スタントンの広告)

数日前にも書いてるが、広告は、時として記事よりも、知りたい情報を与えてくれる。
意外な情報も与えてくれる。

アナログディスク全盛時代、スタントンとピカリングはアメリカのカートリッジメーカーとして、
よく知られていたし、私はピカリングのXUV/4500Qは欲しかったし、
スタントンの881Sもいいカートリッジだと思っていた。

他にもエンパイアの4000D/III、
グラド・シグネチュアのSignature II(高すぎたし、あっという間になくなった)も、
欲しいと思ったカートリッジだった。

この中でもスタントンは業務用のカートリッジメーカーだった。
スタントンのカートリッジには681シリーズがあった。
681A、681SE、681EE、681EEEがあった。
実はこれら以外に681BPSというモデルがあった。

これは完全な業務用で一般市販はされていない。
通常のLPを再生することはできないカートリッジだからである。

レコード制作には検聴のためのカートリッジが必要となる。
カッティングしたばかりのラッカー盤の検聴として有名なのは、
ウェストレックスの10Aであり、ノイマンのDSTである。

レコードの制作過程ではもうひとつ、別のカートリッジが必要となる。
それはスタンパーの検聴用である。

スタンパーはプレスに使われるわけだから、そこに溝は刻まれていない。
溝とは逆に、隆起していて、通常のカートリッジではトレースできない。

そのためバイポイントカートリッジというモノがある。
681BPSは、そのバイポイントカートリッジなのだ。

681BPSの存在を知ることができたのも、記事ではなく広告だった。

Date: 10月 21st, 2016
Cate: 「本」

オーディオの「本」(読まれるからこそ「本」・その2)

少し前に、講談社、小学館などの雑誌、人気書籍が、
突然、それも一方的に削除されたニュースがあったAmazonのKindle Unlimited。

月額980円で登録されている本は読み放題というサービス。
最初のラインナップを見て、会員にはならなかった。

今日知ったのだが、ステレオサウンドがKindle Unlimitedにある
いまのところ188号から最新の200号までが会員になれば読める。
HiViもあるし、菅原正二氏の「聴く鏡 II」、和田博巳氏の「ニアフィールドリスニングの快楽」もある。

ステレオサウンドの他に、音元出版もある。
無線と実験、ラジオ技術はいまのところない。

Kindle Unlimitedの会員であれば読み放題であるけれど、
会員をやめれば読めなくなる。
会員のあいだに読んだ本を自分の本にできるわけではない。
所有ではなく読む権利が、月額980円で得られるからだ。

ステレオサウンドだけを読むだけが目的なら、Kindle Unlimitedは高くつく。
ステレオサウンドは三ヵ月に一冊だから、980円の三ヵ月分はステレオサウンドよりも高くなる。

けれどステレオサウンドしか読まないという人はまずいないだろうから、
安い、ということになる。
Kindle Unlimitedへの誘導なのだろう、
ステレオサウンド 199号のKindle版は今なら99円になっている。

私はステレオサウンドがKindle Unlimitedで読めるようになるとは思っていなかった。
正直、意外な感じがした。

本は読まれなければ「本」ではない。
ページをめくるのは、紙の本も電子書籍も指である。

Date: 10月 20th, 2016
Cate: 書く

毎日書くということ(そろそろ考えなければならないこと)

友人たちから「よく毎日書いているね」と言われると、
「三日書かなくなったら孤独死したんだ、と思っていいよ」と答えている。

先月も友人たちとそんな話をしていた。
いまのところ健康に不安はないが、
これから先のことはわからない。
病気にならなくても何かの事故にまきこまれることだってある。

この間も、そんな話が出た。
私がぽっくり逝っても、audio sharingが続いていくようにしておいてほしい、といわれた。

いつそうなってもいいように、
audio sharingを引き継いでくれる人を探しておかなければ──、と考えている。

Date: 10月 20th, 2016
Cate: 戻っていく感覚, 書く

毎日書くということ(戻っていく感覚・その4)

オーディオ、音について書かれる文章は、
瀬川先生の時代よりもいまの方が多い、と感じている。

オーディオ雑誌の数は昔の方が多かった。
けれどいまはインターネットがあるからだ。

量は増えているが、
その多くはパッと流し読みして得られる内容(情報)と、
ゆっくりじっくり読んで得られる内容(情報)とに差がなくなっている。

一度読んだだけで得られる内容(情報)と、
くり返し、それも時間を経てのくり返し読んで得られる内容(情報)とにも差がなくなっている──、
そんなふうに感じている。

そういうものをくり返し読むだろうか。
私は読まない。

残念なことに、いまの時代、そういうものだけが溢れ返っている。
だからよけいに「戻っていく感覚」を強く意識するようになっているのかもしれない。

Date: 10月 20th, 2016
Cate: 戻っていく感覚, 書く

毎日書くということ(戻っていく感覚・その3)

私が書いているものには、瀬川先生、岩崎先生、五味先生の名前がかなり登場している。
これから先書いていくことにも登場していく。

そのためであろう、
私が瀬川先生、岩崎先生、五味先生を絶対視していると思われる人もいる。
絶対視はしていないが、そう思われてもそれでいい、と思っている。

私としては、以前書いていることのくり返しになるが、
松尾芭蕉の《古人の跡を求めず、古人の求めたる所を求めよ》と
ゲーテの《古人が既に持っていた不充分な真理を探し出して、
それをより以上に進めることは、学問において、極めて功多いものである》、
このふたつの考えが根底にあってのことである。

そのためには検証していかなければならない、と思っている。
それが他人の目にどう映ろうと、ここでのことには関係のないことである。

これも何度も書いているが、
私のオーディオは「五味オーディオ教室」から始まっている。
もう40年経つ。
それでもいまだに新たに気づくことがある。
五味先生の書かれたものだけではない、
岩崎先生、瀬川先生の書かれたものからも、いまでも気づきがある。
いや、むしろいまだからこその気づきなのかもしれない。

それがあるから書いている。
それは、時として私にとっては発見なのである。

Date: 10月 20th, 2016
Cate: Noise Control/Noise Design

Noise Control/Noise Designという手法(45回転LPのこと・その7)

45回転LPのメリットは大きい。
これまでに何度か書いてきているように、音もいい。
アナログディスクならでは、といいたくなる音が、
33 1/3回転よりも凝縮されて出るというか、拡大されて出るというか、
とにかくデジタルを信号伝達メディア、
LP(アナログディスク)をエネルギー伝達メディアと捉えている私にとって、
45回転LPは、まさしくそのためのメディアといえる。

なので究極的には78回転LPということになる。
菅野先生主宰のオーディオラボから、78回転LPが出ていた。
「The Dialogue」から二曲、一曲ずつ片面にカッティングしたもの。
盤面はビクターがテストレコード用に開発したUHQR(Ultra High Quality Record)だった。

反りをなくすためのUHQRだったともいえる。
78回転ではわずかな盤面の反りでもトレースを妨げる。
でこぼこな道では車のスピードを落して走るのと同じで、
スピードが増せばその分わずかな反りでもカートリッジが跳ね上がることにつながっていく。

78回転ほどではないにせよ、45回転では33 1/3回転よりも反りの影響は大きくなる。
低域共振に問題を抱えるトーンアームでは45回転LPの良さは発揮し難い。

つまりいいかげんなアナログプレーヤーでは、45回転LPでは問題を生じることもある。
世の中には45回転LPの音は良くない、という人がいるそうだ。
どんなアナログプレーヤーで聴いているのか、と思いたくなる。

いいプレーヤーを使っていたとしても、使いこなしがよほどだめなのかもしれない。
と同時に45回転LPではノイズのピッチが上る。
このことによる別の影響が出てくる。
特に聴感上のS/N比の良くないスピーカーを使っている場合には顕著に出てくるはずだ。

Date: 10月 20th, 2016
Cate: Noise Control/Noise Design

Noise Control/Noise Designという手法(45回転LPのこと・その6)

アナログディスクでは、プチッパチッといったノイズを完全になくすことはできない。
盤面に入ってしまったキズ。
目に見えるひっかきキズもあれば、そうでない細かなキズもある。

そのキズを針がトレースする際に、ノイズが発生する。
このノイズに対しても45回転LPは有利である。

回転数が速い分だけキズを通過する時間も、それがわずかな時間であっても短くなる。
そうなればプチッパチッといったノイズも短くなるわけである。
その分、耳につき難くなる。

目に見えるひっかきキズは不注意によって入ってしまうキズだが、
そうでない目に見えない細かなキズはどうしてついてしまうのか。

ホコリが原因だと思われている。
そのため一所懸命にLPのクリーニングをする。
けれど、ほんとうにホコリが原因であろうか。

微粒子の砂や金属紛のようなホコリであれば、溝にキズをつけるだろうが、
そうでないホコリによって果してキズがつくものだろうか。

それに極端な軽針圧のカートリッジは、
レコード片面をトレースすることが難しいほどホコリに弱い機種も、確かにあった。
けれどある程度の針圧をかけるカートリッジであれば、
特に2.5gから3g程度の針圧をかける場合では、むしろホコリをおしのけていく感じがある。

結局、レコードの溝にキズをつける大きな原因は、カートリッジの高域共振である。
高域共振が起ることで針先が暴れる。
針はいうまでもなくダイアモンドである。

そこで音溝が受けるダメージは容易に想像がつく。
同時に針先の形状によってもダメージの具合が変ってくることも。

Date: 10月 20th, 2016
Cate: きく

感覚の逸脱のブレーキ(その4)

別項「ステレオサウンドについて」で54号のことを書いている。
54号のスピーカー試聴で、瀬川先生はリファレンススピーカーを用意されている。
リファレンスアンプではなく、スピーカーの試聴にリファレンススピーカーを、である。

編集部による「スピーカーシステム最新45機種の試聴テストはこうしておこなわれた」に詳しい。
一部を引用しておく。
     *
 テスト方法で他の二氏と大きく異なるのは、リファレンス・スピーカーを使用したことだ。スピーカーはアンプと違いおそろしく多様な音があるので、たいへん色の濃い音を聴いた直後に、全くキャラクターの異なるスピーカーの音を聴くと、いかにオーディオ機器の音を聴き馴れた耳といえども、音を聴く上でのものさしが狂う恐れがあるので、自分の耳のものさしを整える意味でリファレンス・スピーカーを聴いてから、新しいスピーカーを聴くようにしている。
     *
瀬川先生がリファレンススピーカーとして使われたのは、
自身でも常用されているKEFのModel 105 SeriesIIとJBLの4343の二機種である。

このテスト方法については、菅野先生が巻頭座談会で語られている。
     *
菅野 50機種になんなんとするスピーカーを聴きましたけれど相変らず、一つとして同じ音のするスピーカーがなかった。瀬川さんは、ちょうど利き酒をする時に前に飲んだ酒の味を消すために口の中をすすぐ水の役目にリファレンススピーカーを使ったということですが、お聞きしてたいへんいい方法だと思いました。私はそういう方法をとりませんでしたけれど、たしかに前に聴いたスピーカーが、たとえほんの短い時間であっても、下敷きになってしまい、次のスピーカーを聴くときになにがしかの影響を受けるという傾向がどうしても出てくると思います。そうした問題がありながらもなぜリファレンスを使わなかったかというと、わが家において試聴するなら、私自身の装置をリファレンスとして使えますが、この部屋で自分のリファレンスとなるようなわが家と同じ音を出す自信がなかった。ステレオサウンドに常設されているJBL♯434も、自分にとってはリファレンスになり得ない部分があるので、そういう方法をとらなかったのです。
     *
直前に聴いた音が、その後に聴く音に影響を与えることは、
「五味オーディオ教室」にも書いてあった。

瀬川先生がとられた方法も、試聴風景の写真を見る限りはベストとはいえない。
試聴スピーカーの横というか、部屋の隅にリファレンススピーカーか置いたままになっているからだ。
できればあるスピーカーを聴き終ったら、
そのスピーカーのかわりに試聴室にリファレンススピーカーを運び込み音を聴く。
そしてまたリファレンススピーカーを試聴室から運びだして、次に聴くスピーカーの試聴。
またリファレンススピーカーを運び入れ……。

とはいえこれだけのことを45機種のスピーカーを聴くたびに行っていてはたいへんである。
それに54号で実際に聴いた数は50機種近くあり、結果の悪かったモノは除外されている。

ならばリファレンススピーカーのかわりにリファレンスヘッドフォンはどうだろうか。

Date: 10月 19th, 2016
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンドについて(その77)

ステレオサウンド 54号の巻頭座談会は、いま読み返しても面白いところがいくつかある。
考えさせられるところもある。

こういう座談会が読みたいのであって、
毎年暮のステレオサウンド・グランプリのような座談会を読みたいわけではない。

この座談会の最後だけを引用しておく。
先に引用した黒田先生の発言に続くものでもある。
     *
瀬川 黒田さんの言葉にのっていえば、良いスピーカーは耳を尾骶骨より前にして聴きたくなると同時に、尾骶骨より後ろにして聴いても聴き手を楽しませてくれる。それが良いスピーカーの一つの条件ではないかと思います。現実の製品には非常に少ないですけれど……。
 そのことで思い出すのは、日本のスピーカーエンジニアで、本当に能力のある人が二人も死んでしまっているのです。三菱電機の藤木一さんとブリランテをつくった坂本節登さんで、昭和20年代の終わりには素晴らしいスピーカーをつくっていました。しかし藤木さんは交通事故、坂本さんは原爆症で亡くなってしまった。あの二人が生きていて下さったら、日本のスピーカーはもっと変っていたのではないかとという気がします。
菅野 そういう偉大な人の能力が受け継がれていないということが、非常に残念ですね。
瀬川 日本では、スピーカーをつくっているエンジニアが過去の伝統を受け継いでいないですね。今の若いエンジニアに「ブリランテのスピーカーは」などといっても、キョトンとする人が多い。古い文献を読んでいないのでしょうね。製品を開発する現場の人は、文献で知っているだけでなく、現物を草の根分けても探してきて、実際に音を聴いてほしい。その上で、より以上のものをつくってほしいと思うのです。
 故事を本当に生きた形で自分の血となり肉として、そこから自分が発展していくから伝統が生まれてくるので、今は伝統がとぎれてしまっていると思います。
黒田 たとえば、シルヴィア・シャシュが、コベントガーデンで「トスカ」を歌うとすると、おそらく客席にはカラスの「トスカ」も聴いている人がいるわけで、シャシュもそれを知っていると思うのです。聴く方はカラスと比べるぞという顔をしているだろうし、シャシュもカラスに負けるかと歌うでしょう。その結果、シャシュは大きく成長すると思うのです。
 そういったことさえなく、次から次へ新製品では、伝統も生まれてこないでしょう。
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伝統がどうやって生れてくるのか、
なぜ伝統が途切れてしまうのか。

創刊50年、そのことが伝統ではないということだ。