ボンジョルノのこと、ジャーマン・フィジックスのこと(その67)
いまでこそ、であるのだが、10代のころの私にとっては、
ボンジョルノよりもマーク・レヴィンソンがつくるアンプの方に憧れていた。
それには瀬川先生の影響が強い。
何度も書いているように、そのころのマークレビンソンの音とGASの音は、
女性的と男性的というふうに、アメリカの最先端のアンプでありながらも性格は対照的であった。
そんな私が、ある日突然、SUMOのThe Goldを買うに至ったのも、
瀬川先生の影響があってなのだ。
そのころ瀬川先生はFMfanに「オーディオあとらんだむ」という連載を書かれていた。
私はこの連載が楽しみで、当時あったFM誌の中からFMfanを選んでいた。
その「オーディオあとらんだむ」で書かれていることが、
読んだ時からずっと頭の中に残っていた。
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トーレンスは、スイスおよび西ドイツにまたがる著名なターンテーブルのメーカー。プロ用のEMTと同じ工場で製品を作っている。社歴もあと2年で100年を迎えるという老舗。
このメーカーは、一貫してベルトドライブ式のターンテーブルを作り続けてきた。いわゆる業務用でない一般向けのターンテーブルとしては、世界で最も優秀な製品のひとつ、と高く評価されていた。しかしここ数年前は、日本の生んだDD(ダイレクトドライブ)式に押されて、世界的に伸び悩んでいたようだ。
そのトーレンスが、昨年のこと、突然、「リファレンス」と名づけて、ものすごいターンテーブルを発表した。最初は市販することを考えずに、社内での研究用として作られたために、もし売るとしたらどんなに高価になるか見当もつかない、ということだったが、ことしの9月にようやく日本にほんの数台が入荷して、その価格はなんと358万円! たいていの人はびっくりする。
トーレンス社の研究用としてはおもに2つの目的を持っていて、ひとつは、ベルトドライブシステムの性能の限界を究めるため。もうひとつは、世界各国のアームとカートリッジを交換しながら、プレイヤーシステム全体を研究するため。
しかしこの2点が、私たちオーディオ愛好家にとっても、きわめて興味深いテーマであったために、発売を希望する声が世界中からトーレンス社に寄せられて、ついに市販化に踏み切ったのだという。
現在、ここまで性能の向上したDDターンテーブルがあるのに、350万円も投じて、いったい、ターンテーブルを交換してどういう効果があるのか──。たいていの人がそう思うのは当然だ。
だが、市販されている相当に高級なプレイヤーシステムと、この「リファレンス」とで、同じレコードを載せかえ、同一のカートリッジをつけかえて聴き比べてみると、ターンテーブルシステムの違いが、音質をこんなにまで変えてしまうのか、と、びっくりさせられる。第一に音の安定感が違う。ビニールのレコードのあの細い音溝を、1~2グラムという軽い針先がトレースしているという、どこか頼りない印象は、ローコストのプレイヤーでしばしば体験する。ところが「リファレンス」ときたら、どんなフォルティシモでも、音が少しも崩れたりせず、1本の針が音溝に接しているといった不安定な感覚を聴き手に全く抱かせない。それどころか、消え入るようなピアニシモでも、音の余韻がほんとうに美しく、かすれたりせずにしっとりとどこまでも消えてゆく。大型スピーカーの直前に置いて、耳がしびれるほどの、聴き手が冷汗をかくほどの音量で鳴らしても、ハウリングを生じない。またそれだからいっそう音が安定して、いわゆる腰の座りのいい音がするのだろう。
詳しいことは既に、ステレオサウンド誌56号に紹介した通り、一愛好家としては恵まれすぎているほどの時間と機会を与えられて試聴したが、なにしろこの音は、すごい、としかいいようがない。いや、すごいといっても、決して聴き手を驚かせるようなドキュメンタルな音が鳴るばかりでなく、むしろ上述のような、ピアニシモの美しさのほうをこそ特筆すべきではないかとさえ思う。
そういう次第で、この音を十分よく聴き知っているつもりの私が、つい先日、大変な体験をした。
スピーカーがエレクトロボイスの、「パトリシアン800」。アンプはJBLのSG520(旧製品のプリアンプ)とSUMO社の「ザ・ゴールド」。こういう組み合せで聴いておられる一愛好家のお宅で、プレイヤーをこの「リファレンス」に替えて試聴したときのことだ。たいていの音には驚かなくなっている私が、この夜の音だけは、永いオーディオ体験の中の1ページに書き加える価値のあるほどの、まさに冷汗をかく思いのすごい音、を体験した。聴いた、のではない。まさに「体験」としか言いようのないすごさ。
例えば、1976年録音のコリン・デイヴィスの「春の祭典」(フィリップス)。第2部終章の、ティンパニーとグラン・カッサの変拍子の強打音の連続の部分──。何度もテストに使って、結構「聴き知っていた」つもりのレコードに、あんな音が入っていようとは……。
グラン・カッサ(大太鼓)が強く叩かれる。その直後にダンプして音を止める部分が、これまではよくわからなかった。当然、ダンプしないで超低音の振動がブルルルン……と長く尾を引いているところへ、ティンパニーが叩き込んだ音が重なってくる。そうした、低音域での恐ろしく強大な音が重なり、離れ、互い違いにかけあう音たちが、まるでそのスピーカーのところで実際のティンパニーやグラン・カッサが叩かれているかのような、部屋全体がガタガタ鳴り出すような音量で、聴き手を圧倒してくる。
居合わせた数人の愛好家たちは、終わってしばらくのあいだ、口もきけないほどのショックを受けたらしい。次の日、私はすぐに、日本フォノグラム(フィリップス)の新部長に電話をかけた。私たちは、まだフィリップスの音をほんの一部しか聴いていないらしいですよ……と。
スピーカーもすごかったし、そのスピーカーをここまで鳴らし込むことに成功されたM氏の感覚もたいへんなものだ。
そしてしかも、そういうシステムであったからこそ、トーレンス「リファレンス」が、もうひとつ深いところで、いままで聴くことのできなかった新しい衝撃を与えてくれたのだろう。
いくら音がいいといっても、本当に350万円の価値があるのだろうか、と、誰もが疑問を抱く。
しかし、あの音をもし聴いてみれば、たしかに、「リファレンス」以外のプレイヤーでは、あの音が聴けないことも、また、誰の耳でもはっきり聴きとれる。
この夜の試聴は、「リファレンス」の非売品のサンプルであったため、プレイヤーは翌朝、M氏のお宅から引き上げられた。
M氏はもう気抜けしてしまって、本当に「リファレンス」を購入するまでは、もうレコードを聴く気が起きないといわれる。
良い音を一旦聴いてしまうと、後に戻れなくなるものだ。
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ここに登場するM氏は、熊本在住の医師である。
瀬川先生の手術を担当された方でもある。
瀬川先生がM氏のリスニングルームで、冷汗をかく思いのすごい音、を体験される前に、
これに近いシステムで、熊本のオーディオ店で、私はトーレンスのリファレンスの音を聴いた。
鳴らされたのは瀬川先生。
スピーカーはJBLの4343、パワーアンプはThe Gold、
コントロールアンプはLNP2で、プレーヤーがリファレンスだった。
この時が、瀬川先生に会えた最後の日となった。