フォーレ「ノクチュルヌ」
「オーディオ巡礼」ではなぜか「FM放送」になっているが、
ステレオサウンド 26号に掲載時は違っていた。
ラフマニノフ「声」
フォーレ「ノクチュルヌ」
であった。
ラフマニノフの「声」は、オーマンディの指揮のものがCDになったときに手に入れた。
五味先生が聴かれていたのもオーマンディのものである。
ごく短い曲だ。
いまではあまり聴かなくなったが、
手に入れた時は頻繁に聴いていた。
フォーレの「ノクチュルヌ」について、
この曲に続いて五味先生は書かれている。
エンマ・ボワネーというピアニストの演奏で、五味先生はフォーレの夜想曲を聴かれている。
カタカナ表記ではエンマ・ボワネだが、ここは五味先生に倣ってボワネーとしておく。
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フォーレの〝夜想曲〟は、エンマ・ボワネーという女流ピアニストの弾いたもので、残念ながらこれもモノーラルである。ノクチュルヌの中の六曲をボワネーは弾いているが、とりわけ第一番変ホ短調(作品三三の一)はフォーレの全ピアノ曲の中でも白眉の名品で、実に典雅な曲だ。そしてこればかりは女性でないと弾けないだろうと私は思う。
ふつう、女性にはショパンがふさわしく思われているらしいが、女性に、ショパンはぜったい弾けない、というのが私の持論で、パハマンやリパッティを持ち出す迄もなく、およそ女性の弾いたショパンにいいものがあった例を私は知らない。
その点、フォーレの音楽はショパンよりはるかに女性向きである。ヴァルカロールにせよ、即興曲、このノクチュルヌにせよ、ヨハンセンやカサドジュなどの演奏も聴いてみたが、エンマ・ボワネーのフォーレに及ばない。曲が女性の感性で奏べるように出来ていると思うのだ。
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「オーディオ巡礼」を読んで、聴いてみたいと思った。
が、すでに廃盤になっている、とも書かれていた。
そのせいか、あまり積極的に探すことをしなかった。
そうこうしているうちに、忘れかけていた。
五味先生もエンマ・ボワネーのLPは所有されていなかった。
レコードをS氏に借りて録音したテープで、であった。
いまはCDになっている。
10年ほど前に出ている。
エンマ・ボワネーのフォーレも、ふとしたことで思い出した。
まだ手に入るようである。
注文をした。取り寄せになる、とのこと。
五味先生は、はじめてこの曲を聴いたときのことを書かれている。
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フォーレのこのノクチュルヌは、大体が、夫人と呼ばれる年令の婦人を空想させる曲である。すでに愛の痛み、誓いのむなしさ、愛を裏切る(或いは裏切られる)哀しさ、嫉妬、悔恨、傷ついたプライド、そういう愛のくさぐさな在り様を身をもって体験した女性にしか、通わぬ音楽と私には思えるし、はじめてこの曲を聴いたとき、私は私自身の妻を想い浮べた。実像の妻よりはるかに美化された容姿と、妻の人柄を考えていた。
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はじめてこれを読んだとき、まだ結婚はしてなかった。
ハタチにもなってなかった。
エンマ・ボワネーで聴いたとき、何を想い浮べるだろうか、と想った。
その日から30数年。いまも独りである。
おそらく届くであろうエンマ・ボワネーのフォーレ・夜想曲を聴いて、
いま何を想い浮べるのだろうか。