Archive for category テーマ

Date: 10月 10th, 2016
Cate: 世代

世代とオーディオ(あるスピーカーの評価をめぐって・その11)

オンキョーのGS1のデザインをされた方が誰なのかは知らないし、
その人を批判したいわけでもない。

実験機としてのGS1を製品としてまとめあげる。
それもバラック状態のGS1の音と同じか、
できればよりよい音で製品としてまとめあげることのできる人は、そうそういない。
ほとんどいない、といってもいいだろう。

バラックの外側を囲ってしまう。
それだけで音は変化するものだし、ましてGS1はスピーカーである。

結局は体裁を整える、というレベルで留まっているGS1は、
果して製品といえるモノだろうか。

勘違いしないでいただきたいのは、
GS1の音そのものを否定しているのではない。
実験機としてのGS1はユニークなスピーカーだった。
けれど製品としてのGS1の評価は、違ってくる、ということだ。

そういうGS1を、オンキョーの営業の人たちは売っていかなければならない。
たいへんなことだった、と思う。
実験機と製品の違いがまずある。
そのうえで、製品と商品の違いがある。

私は、この違いをGS1の開発者の由井啓之氏はわかっておられたのか。
由井啓之氏がfacebookでGS1について書かれているのを見ると、
そう思う時がある。

そこにはオンキョーへの不満もあったからだ。
日本での評価への不満もあった。

だか日本での評価は高いものだった。
けれど売行きは決してよいものではなかった。
でもそれは致し方ない。製品といえるモノではなかったのだから。

由井啓之氏はGS1の開発者と名乗られている。
けれど、真の意味で開発者だったのだろうか。
実験者だったのかもしれない。

GS1は30年以上前に登場したスピーカーだ。
オーディオ雑誌で取り上げられることは、ほとんどない。
その一方でSNSでは由井啓之氏自身が語られている。

このこと自体は悪いこととは思わない。
けれどあまりにも由井啓之氏の一方的な見方が過ぎるように感じる。

Date: 10月 9th, 2016
Cate: 世代

世代とオーディオ(あるスピーカーの評価をめぐって・その10)

オンキョーのGS1の開発において、デザインはなされたのか、といえば、
なされていない、と言い切れる。

バラックの状態で開発が進んでいったGS1を製品化するには、
家庭におさまるモノだからバラックのままというわけにはいかない。
オンキョーの研究室内ではバラックでもかまわない。

そこは実験室だからである。
実験室で、バラックの状態でいい音が得られたとしても、それは製品にはほど遠い。
それはオンキョーもわかっていた。

製品にするためにデザインが施されている、と見えるのだが、
パッケージが施されただけ、といえる。
とってつけた外装パネルともいえよう。

だから外装(化粧)パネルの一枚である天板代りのガラス板を外すだけで、
音が良くなるし、このことからいえるのは、外装をすべてはぎ取った状態、
つまりバラック状態に戻した音こそが、GS1本来の音のはずだ。

本来ならばバラックだったGS1よりも、
いい音で鳴るためになされるのがオーディオにおけるデザインだと考える。

だが残念ながら、音を悪くしているのだから、
GS1になされたのはデザインではなく、デコレーションといえる。

Date: 10月 9th, 2016
Cate: オーディオ入門

オーディオ入門・考(Casa BRUTUS・その2)

(その2)を書くつもりはなかった。
Casa BRUTUSの紹介だけをしたかった。
できれば多くの人にCasa BRUTUS 200号を手にとってもらいたかっただけである。

なのに、こうやって(その2)を書き始めているのは、
facebookにもらったコメントを読んだからである。

読みながら思い出していたのは、瀬川先生のリスニングルームのことだった。
いま別項で「ステレオサウンドについて」を書いている。
53号について書き始めたところだ。
このころのステレオサウンドには「ひろがり溶け合う響きを求めて」の連載が載っている。
瀬川先生の新しいリスニングルームについての詳細である。

それまでの部屋とは大きく違う。
広さが違う。天井の高さも違う。
床の材質とつくり、壁は本漆喰と、
それまでのリスニングルームと、いわば箱の状態で比較すれば、
それは圧倒的に新しいリスニングルームが優っている。

ふたつの部屋のどちらを選ぶかと言われれば、誰だって新しいリスニングルームを選ぶ。
それでも新しいリスニングルームは、最後まで仕事場としての雰囲気が残っていた。
残っていた、というよりも、仕事場の雰囲気が支配していた。

ここがそれまでのリスニングルームと大きく違う。
それまでのリスニングルームも、仕事場を兼ねていたはずなのに、
そこは瀬川先生の、もっといえば大村一郎氏のプライベートな空間であり、
その雰囲気が色濃かった。

それが新しいリスニングルームからは、
そこに住まわれたのが三年ほどと短いことも関係してだとはわかっていても、
何か欠けている雰囲気が、払拭されずだった。

Date: 10月 9th, 2016
Cate: 素朴

素朴な音、素朴な組合せ(その25)

アルカイック(archaïque)、
古拙な。古風な。アーケイック。[美術発展の初期の段階、特に紀元前七世紀から紀元前五世紀頃の妓社美術についていう。生硬・峻厳・素朴・生命力のたくましさなどをその様式的特色とする]
と大辞林にある。

子項目としてアルカイックスマイルがある。
古典の微笑。ギリシャの初期の彫刻に特有の表情。唇の両端がやや上向きになり、微笑みを浮かべたようにみえる。
と説明されている。

シングルボイスコイルのフルレンジスピーカーを聴いても、
私の耳は日本製のユニットよりも、海外製のユニット、
特にフィリップスのユニットの音に惹かれてしまう理由についてあれこれ考えていて、
長々と言葉を費やして説明するよりも、
何かぴったりくる言葉がないだろうかと考えていた。

私が20代までに聴いたフルレンジは、素朴といえる音をもっていた。
その中でも、フィリップスのユニットは、アルカイックな音といえる要素がある。

マルチウェイのスピーカーシステムではなく、フルレンジユニットである。
しかも同軸型ではなくシングルボイスコイルのフルレンジユニットである。

フレームも磁気回路も物量を投入したつくりではない。
コーン紙も特殊な素材を使っているわけではない。
真似をしようと思えばすぐにも真似できそうなつくりであっても、
出てくる音は誰にも真似ることのできないアルカイックな表情が、
フィリップスの当時のユニットにはあった。

Date: 10月 9th, 2016
Cate: オーディオ入門

オーディオ入門・考(Casa BRUTUS・その1)

いま書店にCasa BRUTUSが並んでいる。書店だけでなくコンビニエンスストアにもある。

Casa BRUTUSもステレオサウンドも、いま売られているのは創刊200号である。
Casa BRUTUS 200号の特集は「ライフスタイルの天才たちに学ぶ! 住まいの教科書」。

この特集の後半(117ページから)に、
「A ROOM WITH SOUND 音のいい部屋」という記事がある。

「心地いい音が部屋のアクセント。
オーディオが作り出すとっておきのクリエイターの空間を集めました。」
とも書いてある。

実は先ほど友人が、
「オーディオオーディオしていない、でも調和のきいた、オーナーの世界観が反映された見本のよう」
と教えてくれたばかり。

友人がいいたいことがわかる。
意外にも言っては登場されている方に失礼になるが、
そうはいっても大きくてもブックシェルフ型スピーカー、
多くは小型スピーカーなんたろうな、と高を括っていた。

Casa BRUTUS 200号を手にすれば、おっ、と思う人の方が多いはず。
JBLのパラゴンも登場している。
アルテックのA5とA7もあった。
もちろんブックシェルフ型、小型のモノも登場しているが、見ていて楽しい。

確かにオーディオオーディオしていない。
とてつもなく高価なオーディオ機器はないが、
だからこそというべきか、ステレオサウンドに登場するリスニングルームとは趣が異る。

オーディオマニアとして、どちらが参考になるかといえば、
見ていて楽しいかといえば、Casa BRUTUSである。

好きな音楽をいい音で聴きたいと思っている、
まだオーディオの世界に足を踏み入れていない人にとっては、どうだろうか。

そういう人が、ステレオサウンドに登場する(紹介されている)リスニングルームに、
どう反応するだろうか。
Casa BRUTUSの「音のいい部屋」には、どう反応するだろうか。

どちらがオーディオの世界に足を踏み入れるきっかけとなるだろうか。

Date: 10月 9th, 2016
Cate: 日本のオーディオ

日本のオーディオ、これまで(パイオニア SH100・その3)

点音源から発せられた音は球面波で拡がっていくため、
音源と距離が増すごとに音圧は低下していく。

伝声管が、数百m離れていても音を明瞭に伝えられるのは、
伝声管の中では、球面波ではなく平面波の状態に近いためだ。

そのため伝声管の径は音の波長よりも十分に小さい径でなければならない。
径が十分に小さければ拡がっていくことができないからであり、
平面波の伝搬と言え、遠くまで、文字通り声(音)を伝えることができる。

音速を340m/secとして、340Hzで波長は1m、3.4kHzで10cm、6.8kHzで5cm……となっていく。
十分に小さい径がどの程度なのか勉強不足なのではっきりといえないが、
伝声管の径は小さいほど高域まで伝えられる。

そうなるとどこまで細くしていくのがいいのか。
耳の穴と同じ径あたりが最適値なのではないだろうか。
この状態が、音響インピーダンスがマッチングがとれている、といってもいいはずだ。

耳の穴よりも径が細すぎては、隙間が生じそこから音が逃げていく。
音響インピーダンスがマッチングしていない、ということになるし、
径が太くても、管の中を伝わってきた音すべてが耳の穴に入るわけでもなく、
これも音響インピーダンスがマッチングしていない、となる。

伝声管は、スピーカーと対極のところにある、といえる。
スピーカーから放出された音は、そのすべてが聞き手の耳の穴に入るわけではない。
その意味では音響インピーダンスのマッチングは著しく悪い、とも考えられる。

Date: 10月 9th, 2016
Cate: イコライザー

私的イコライザー考(妄想篇・その13)

BOSEの901は、前面に1、後面に8つのフルレンジユニットを持つ。
つまり直接音1、間接音8という比率に基づいたユニット配置である。

専用イコライザーを使うにしても、
グラフィックイコライザー、デジタル処理のイコライザーを持ってくるにしても、
前面のユニットと後面のユニットの補正は同じである。

パワーアンプ一台で九本のユニットを鳴らしているわけだからなのだが、
これを前面と後面とでパワーアンプを独立させたら……、と考える。

そうすれは前面のユニットと後面のユニットに、それぞれのイコライジングが可能になる。
さらにいえば後面の八本のユニットも、
内側にある四本と外側にある四本が同じイコライジングでいいのか、とも考える。

理想はユニット一本に一台のパワーアンプで、それぞれにイコライジングなのかもしれない。
そこまでいかなくともパワーアンプ三台用意して、
前面、後面内側、後面外側に独立したイコライジングを行う。

ただ現実にはユニットのインピーダンスが一本あたり0.9Ωなので、
後面のユニットに関しては0.9Ω×4=3.6Ωでいいとしても、前面はそうはいかない。

0.9Ωはほとんどショートに近い。
BOSEが前面のユニットのみ4Ω、もしくは8Ω仕様で提供してくれなければ、
実験を行うことは無理であるから、その音は想像するしかない。

私は901のイメージがずいぶん変ってくると思っている。
同時にBOSE博士が実現したかったのは、そこにあるのではないだろうか、とも思う。

製品化のためには九本のユニットを直列接続して、
専用イコライザーという形にまとめることが必要だったはずだが、
BOSE博士が頭で描いていた901の本来の姿は、もしかする……、と思わずにいられない。

Date: 10月 9th, 2016
Cate: イコライザー

私的イコライザー考(妄想篇・その12)

BOSEの901には専用イコライザーが付属する。
セパレートアンプではコントロールアンプとパワーアンプ間に挿入すればいい。
プリメインアンプだったら、TAPE OUT/IN端子を使う。

いまのプリメインアンプで、TAPE OUT/IN端子をそなえたモノはどれだけあるだろうか。
901をグレードの高いプリメインアンプで鳴らすことは十分にある。
けれど、TAPE OUT/IN端子がなければ専用イコライザーの接続が難しい。

CDしか聴かないという人ならば、
CDプレーヤーとプリメインアンプ間に挿入すれば済むが、
他のプログラムソースも聴くとなると、そうもいかない。

それに最近ではデジタル処理のイコライザーも、興味深いモデルがいくつも登場している。
これらを使うには、セパレートアンプでなければならないのたろうか。

プリメインアンプにデジタルのTAPE OUT/IN端子がついていてれば、
すんなり接続可能になる。

けどいわゆるTAPE OUT/IN端子はなくなりつつある。
なにかいびつなものを感じるのだが……。

少し話が逸れてしまったが、901は専用イコライザーがなければ、
まともな音にならない。
いまはどうなのだろうか、専用イコライザーのクォリティも高くなってきたのだろう。

以前、専用イコライザーをグラフィックイコライザーに置き換えて、
井上先生が調整していった音を聴いている。
901に搭載されているフルレンジユニットは、
こんなに素直な音だったのか、と認識を改めるほど音は変った。

いまならば専用イコライザー、グラフィックイコライザーを使わずに、
デジタル処理のイコライザーをもってくることが考えられる。

デジタル処理によって、
アナログのグラフィックイコライザーでは無理だったパラメータも調整できる。
その音を聴いてみたい、と思うとともに、
さらにもう一歩すすめたイコライジングを施した901の音はどう変化するのか──、
そう思うことがひとつある。

Date: 10月 9th, 2016
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンドについて(その70)

同じ《STATE OF THE ART》賞でも、一回目の49号と53号とでは選ばれる機種数が大きく違う。
53号では17機種。

瀬川先生はアルテックのModel 6041の他は、
マークレビンソンのML6のことを書かれている。
個人的には、あと一機種担当されていれば……、と思っていた。

もう一本の特集、アンプテストで瀬川先生は53号ではまったく書かれていないからだ。
52号では特集の巻頭に「最新セパレートアンプの魅力をたずねて」を書かれていた。
でも、これは仕方ないことだとわかっていても、もの足りなさを感じる。

けれど53号を読み進めていくと、瀬川先生はかなりの量を書かれていることがわかる。
53号には「ひろがり溶け合う響きを求めて」の三回目が載っている。
そして「JBL#4343研究」の三回目も載っている。

この「JBL#4343研究」は、4343のバイアンプ駆動である。
それもマークレビンソンのパワーアンプML2を六台用意しての、
4343を極限まで鳴らしてみようという試みである。

この他に「サンスイ・オーディオセンターの〝チャレンジオーディオ〟五周年」、
「ついにJBLがフェライトマグネットになる 新SFGユニットを聴いてみたら」、
この二本も、である。

これらをあわせると、かなりの量である。
読み応えもあった。

瀬川先生に関してだけではない、
52号から連載が始まったザ・スーパーマニアは、カンノ製作所の菅野省三氏が登場されている。

カンノアンプの名は、どこかで見て知っていたけれど、
詳細について知りたいと思っても、それ以上は知りようがなかった。
そのカンノアンプについて、単なる技術的な詳細だけでなく、
そのバックボーンについても知ることができた。

Date: 10月 9th, 2016
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンドについて(その69)

ステレオサウンド 53号の表紙はSUMOのThe Goldである。
1979年12月に53号は出ている。

この時点で、私が欲しかった(憧れていた)パワーアンプは、
マークレビンソンのML2が筆頭で、製造中止になっていたけれどSAEのMark 2500が次にいた。

このころの私は、男性的といわれる音を特徴とするボンジョルノ設計のアンプには、
優秀なアンプであり、ユニークな存在であっても、どこか無関係な世界のこととして捉えていた。

だから53号の表紙から六年後、このアンプを手にしていようとはまったく想像していなかった。

53号の特集は49号に続く、第2回《STATE OF THE ART》賞と、
52号から続きで、アンプテストの二本立て。

《STATE OF THE ART》賞で私の目を引いたのは、アルテックのmodel 6041だった。
理由は瀬川先生が書かれていたからだった。

いくつかの注文をつけられながらも、Model 6041を高く評価されていた。
     *
エンクロージュアのデザインにJBLの♯4343WXを意識したのではないかと思えるふしもあるが、その音質は♯4343とはずいぶん傾向が違う。というより、いくら音域を広げてもマルチ化しても、やはり、アルテックの昔からの特徴である音の暖かさ、味の濃さ、音の芯の強さ、などは少しも失われていない。
 ただ、604-8Hの低音と高音を補強した、という先入観を持って聴くと、620Bとかなり傾向の違う音にびっくりさせられるかもしれない。620Bよりもかなりクールな、とり澄ました肌ざわりをもっている。ところが♯4343と聴きくらべると、♯6041は、JBLよりもずっと味が濃く、暖かく、華麗な色合いを持っていて、ああ、やっぱりこれはアルテックの音なのだ、と納得させられる。
     *
これだけで、すぐにでも聴いてみたいと思った。
瀬川先生は、Model 6041のスーパートゥイーターを、
JBLの2405よりも聴き劣りする、と書かれている。

ならばこのスーパートゥイーターが改良されて、
モデルナンバーも6041IIとかではなく、6043にでもなれば、
相当に完成度の優れた、そして4343の独走態勢にストップをかける存在に成り得るようにも感じた。

4341が4343になり独走態勢に入ったように、
Model 6041もModel 6043になれば……、そんなことを思っていた。

Date: 10月 8th, 2016
Cate: 日本のオーディオ

日本のオーディオ、これまで(パイオニア SH100・その2)

飛行機に初めて乗ったのは18のときだったから、いまから35年前。
びっくりしたというか、意外に感じたのは、音楽を聴くために用意されていたモノだった。

これも聴診器といえるモノだった。
いわゆるチューブで、ひじ掛けにある穴に挿し込むだけである。
イヤフォンやヘッドフォンではない。
振動板がチューブ内にあるわけではない。

最初はなんて原始的なモノ。
こんなのでまともに音が聴けるのか、と、
すでにいっぱしのオーディオマニアのつもりでいたこともあって、バカにしていた。

それでも機内では退屈なので使ってみると、
意外というか、原理を理解してみれば当然といえるのだが、
まともな音がしていた。

飛行機といえば、古い時代を描いている映画で爆撃機が登場すると、
操縦席と尾部とのやりとりは、電気をいっさい使わない伝声管による。
飛行機だけでなく、軍艦でも伝声管は登場する。

伝声管とは金属の管である。
マイクロフォンもスピーカーも、アンプも必要としない。
それでも数百mの距離、かなりの明瞭度で声を伝えられる、とのこと。
いまでも軍艦では、電源が喪失した場合のバックアップとして伝声管を備えているともきく。

人の声をできるだけ遠くまで届ける技術として、
伝声管はローテクノロジーといえるわけだが、決してロストテクノロジーではない。

Date: 10月 7th, 2016
Cate: 日本のオーディオ
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日本のオーディオ、これまで(パイオニア SH100・その1)

SPならばアクースティック蓄音器によって、電気を通していない音を聴くことができる。
アクースティック蓄音器が成立していたのは、SPがモノーラルレコードであったから、ともいえる。

もしステレオSPが最初から登場していたら、
アクースティック蓄音器はどういう構造になっていただろうか。

ステレオSPは実験的に作られている。
その復刻盤が30年ほど前に発売され、日本でも市販されていたので、
ステレオサウンドで記事にしたことがある。
とはいえステレオSPは特殊なディスクで、SPはモノーラルと決っている。

SPはLPになり、1958年にモノーラルからステレオになった。
パイオニアは1961年に、SH100を発売している。
当時の価格は2,650円。

パイオニアのSH100ときいて、どんな製品なのか、さっぱりという人がいまでは多いはずだ。
私も実物は見たことがない。
でも、これだけはなんとか完動品を探して出して、その音を聴いてみたい。

SH100はカートリッジとトーンアームが一体になっていて、
出力ケーブルのかわりに、聴診器がついている。

つまりステレオLPをアクースティック再生するピックアップシステムである。
ターンテーブルを回転させるのに電気は必要になるが、
信号系には電気を必要としない。しかもステレオ再生である。

こんな製品は、日本だけでなく海外にも存在しない、と思う。

SH100の存在は、ステレオサウンド別冊「世界のオーディオ」パイオニア号で知っていた。
でも当時は、こんなモノをつくっていたんだ……、ぐらいの関心しか持てなかった。

PIM16KTに関することを確認するためにパイオニア号を読んでいて、
SH100の存在に改めて気づいた。
こんな面白いモノに、いままで興味をもたなかったことを少し恥じている。

パイオニア号には、こう書いてある。
     *
 この年、世のカートリッジ屋さんに衝撃を与えるものがパイオニアから出て来た。それはステレオホンSH−100という、全くアコースティカルなメカだけでステレオLPレコードを再生しようとする、いわばサウンドボックスの現代ステレオ版であった。45/45の音溝から拾い上げられた振動は二枚のダイアフラム──それが巧妙なバランサーで位相を合せられ、聴診器のようなビニールパイプで耳穴に導かれるシクミであった。
 左右のバランスや音量は水道のコックのようなネジで調整するという、なんとも原始的というかシンプルというか、あきれたメカニズムなのである。ところがこの電気とか電子のお世話にならない珍兵器が、信じられないくらいよい音であった。いわばダイレクトヒアリングだから当然なのだが、当時技術部におられた西谷某氏のアイディアを松本会長が周年で製品化したと伝えられるが、あるピックアップメーカーの社長は、自分たちは何をしてきたか、自問して2〜3日ぼう然としてしまったと当時述懐していた。
     *
SH100の音は、音響インピーダンスのマッチングがとれている音といえるはずだ。

Date: 10月 7th, 2016
Cate: アナログディスク再生

私にとってアナログディスク再生とは(忘れられつつあること・その7)

電子ボリュウムの操作性の悪さ、と書いているので、
もしかしたら電子ボリュウムすべてが操作性が悪いと受け取られたかもしれない。

そんなことはない。
電子ボリュウムでも操作性に不満を感じないモノは、当り前に存在している。
すべての電子ボリュウム採用のオーディオ機器に触れているわけではないから、
どちらが多いのかを正確には把握していないが、問題のないモノの方が多いのではないだろうか。

電子ボリュウムの操作性は、一般的なポテンショメーターよりも劣るわけではない。
むしろ良くすることが可能な技術であるはずだ。
にも関わらず、操作性の悪さを残したままのモノが存在しているということ。

そのひとつがテクニクスのSU-R1であり、
しかもテクニクスのスタッフが、
レコードかけかえの作法をきちんを行っていたから、露呈したわけである。

私がテクニクスのスタッフが、仮に入力セレクターを使っていたら、何も書かなかった。
入力セレクターの切替えでやることを批判も否定もしない。
その人の考え方次第であるからだ。

瀬川先生は流れるような動作で、ボリュウム操作までを行われる。
対照的に語られるのが岩崎先生のレコードのかけかただ。

カートリッジを盤面数cm上から、文字通り落とされる。
だから、場合によってはカートリッジがバウンドすることもあった、と、
複数の人から聞いている。

けれど岩崎先生は、瀬川先生と同じように器用な指さばきで、
レコードの任意の位置に針をていねいに降ろす技術をもっていたうえでの、
そういうレコードのかけかたをされていたわけである。

作法を身につけずに、豪快といえるレコードのかけかたをされていたわけではない。

今回、この項を書いていると、
ほんとうに忘れられつつあることが見えてきたような気がする。

Date: 10月 7th, 2016
Cate: アナログディスク再生

私にとってアナログディスク再生とは(忘れられつつあること・その6)

レコードのかけかえごとのボリュウム操作は、
こまめにボリュウムを変えない人にとっては、非合理なこととうつるはずだ。

ボリュウム操作にこだわっていることを、
瀬川先生のマネをしていると捉えられるかもしれない。

けれど私くらいの世代(上の世代)にとって、
それはレコードをかける作法といえるのであって、身につけておくべきことと捉えていた。

オーディオは、レコードのかけかえは、
個人のリスニングルームという、いわは密室内でのことだから、
レコードのかけかえごとにボリュウム操作をするしないは、
それによって誰かに迷惑をかけるわけでもないし、誰かを不愉快にさせるわけでもない。

だから合理的だということで入力セレクターの切り替えで、
針の導入音を鳴らさないようにするのも、ボリュウムの上げ下げで鳴らさないようにするのも、
どちらをとっても自由である。

ただ私は、オーディオショウという場で、
ボリュウム操作性の悪いSU-R1を使いながらも、
入力セレクターの切替えではなく、
ボリュウム操作を選択していたテクニクスのスタッフに好感を持ったということである。

それから常にレコードのかけかえごとにボリュウム操作をするわけではない。
たとえばカートリッジ、トーンアームの調整をする際は、
ボリュウムのツマミはまったくいじらない。

トーンアームの高さ、針圧、インサイドフォースキャンセル量の調整では、
一枚のレコードに固定して、ターンテーブルは廻したままで、
針圧を少し変化させては針を降ろす。

入力セレクターも使わないから、導入音がする。
この導入音も調整時には判断要素として重要なことのひとつである。

Date: 10月 6th, 2016
Cate: 進歩・進化

メーカーとしての旬(その2)

それぞれのメーカーに旬といえる時期があることは、
私だけでなく、オーディオを長くやってきた人ならば感じていることのはず。

メーカーとしての旬についてだけ書くつもりは、特になかった。
別のテーマで書いているうちに、旬について触れようとは考えていた。

それなのにこうやって「メーカーとしての旬」というタイトルをつけて書き出したのは、
iPhoneは終った、といったことをここ数年目にしたり耳にしたりすることが増えてきたからだ。

前月、iPhone 7が発表され発売になった。
秋になる数ヶ月前から、新しいiPhoneの予想記事が増える。
断片的に流れてくる情報から、新しいiPhoneの全体像を探っていく。
けっこう当っている。
そのためiPhoneの発表そのもので、驚くような発表はなくなりつつある。

今回のiPhone 7に搭載されたFeliCa機能についても、
少し前から予想記事が出ていた。

ヘッドフォンジャックがなくなるのも、前からわかっていたこと。
ホームボタンに関してもそうである。

断片的な情報に馴らされてしまっている感もある。
同時に、新しいiPhoneにケチをつける人も増えてきたように感じている。

スティーヴ・ジョブスがいないからAppleは終った。
ティム・クックではiPhoneを革新的にするのは無理だ、とか。
iPhoneも、Androidスマートフォンと変らない、とか。

こんなことを嬉しそうに(そう見える)話したり書いたりする人にとって、
Appleの旬は過ぎ去ってしまった、iPhoneの旬は終った、と映っているのだろう。

facebook、twiterなどのSNSをやっていると、
どうしてもこんな書き込みを目にする。うんざりした気分になってくる。
そして、こういう人たちは、進歩・進化をどう捉えているのだろうか、とも思う。

だからあえて「メーカーとしての旬」とタイトルにつけて書くことにした。