オーディオの楽しみ方(つくる・その9)
話が少し前後してしまうが、
瀬川先生の「オーディオの系譜」に「私の最初のLPプレイヤー」が収められている。
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このプレイヤーと前後して、2A3PPのアンプを作った。2A3は新しい真空管ではなかったが、回路をアレンジして、その頃はまだ進歩的であったNFを適度にかけ、加えて、これも新しい回路のトーンコントロールをつけた。スピーカーは三菱ダイヤトーンのP100Fという一〇インチ(二五センチ)径のフルレンジ型。これが密閉型のエンクロージャーに入っていた。アンプの回路に多少の工夫をしたつもりだったので、これを雑誌『ラジオ技術』の読者の投稿欄(「マイセット」というタイトルがついていた)に投稿してみた。すると折り返し編集部の金井稔という署名で、アンプを見にゆきたい、と葉書が来た。秋のある日、金井氏と、皆川さんという白髪のカメラマンとが、私のあばら家を訪れて、アンプを見、写真に撮ったあとで、これは「マイセット」欄ではなく、ひとつ格が上の「読者の研究」欄に載せるから、原稿を書き直してくれ、といわれた。まだ一六歳で世間知らずだった私はすっかり有頂天になって、かなり調子の高い原稿を送った。けれどその原稿は、全面的に金井氏の手で書き直されて、ともかく私のアンプは写真とともに活字になった。これが、オーディオでものを書くきっかけを作ってくれたわけで、以後、私は『ラジオ技術』の執筆者として待遇され、それが縁になってのちにこの雑誌の編集者として入社することになるが、その話はここでやめにする。
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1951年のある日の出来事である。
その日のことをラジオ技術の金井稔氏が、書かれている。
ラジオ技術1982年1月号掲載の追悼文で。
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1人の詰襟学生服の高校生が、ラ技の受付に立っていた。「こんな実体図を画いてみたのですが……。」
当時、この種の読者は少なくなかったのだが、見ると2A3PPのシャシ裏実体図がきちんとスミ入れされてて画かれている。丸ペン、カラス口の引き方もよい。何よりも自分で作ったパワー・アンプの実体厨だから表現手法が気がきいている。これが大村君とのわがラ技編集部での初対面であった。
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金井稔氏の興味を惹いた実体配線図がなかったならば、
瀬川先生(大村少年)がラジオ技術編集部で働くことはなかったかもしれない。