Archive for category テーマ

Date: 7月 25th, 2017
Cate: オーディオ評論

評論家は何も生み出さないのか(その4)

ステレオサウンド 8号には「音楽評論とは何か」という記事がある。
音楽評論家の向坂正久氏による文章である。

四つの見出しがつけられている。
 現在の音楽評論は何故つまらないか
 客観的論文と主観的評論
 批評の尺度にも原典主義
 新しい音楽評論のために

この四つの見出しにわずかでも興味をもった人は、
ぜひ全文を読んでほしい、と思う。

向坂正久氏は1931年生れなので、
1932年生れの菅野先生、山中先生、長島先生、1931年生れの井上先生たちと同世代であり、
ステレオサウンド 8号(1968年発売)は、36か37歳。

少し長くなるが、冒頭のところを引用しておく。
     *
 すすめられるままに、私は大きなテーマを選んで書く。前号の「ナマ・レコード・オーディオ」は全体の序章のようなものだが、そこでも、すでに私は音楽評論の現状について多少の批判を加えたつもりである。自らが住するジャンルを内部批判することは、あるいは読者から見たら不可解なことに思われるかも知れないが、実は今までこうしたことがなされないために、そのつまらなさを助長させたといってもいい。
 文学畑の人から「音楽評論というのはほとんど解説ですね」といわれたことがあるが、全く演奏会やレコードの個評を除くと、知識の切り売りが圧倒的に多いのが現状である。知識が商品価値をもつのは当然だとしても、それは少くとも評論とはいえないだろう。全くの無知から出発していても、読者を感動させる文章というものがあると同時に、音楽知識をもちあわせぬ読者の心にさえ、ひびく文章というものがなくてはならぬ。評論とは文学の領域なのだから、それを基本に考えねばならないところを、音楽ジャーナリズムは知識から知識へ、言葉をかえれば頭脳から頭脳へという方向だけで、すべて事足れりとしている傾向が強い。実はこれが音楽評論をつまらなくさせている最大の原因なのである。
 音楽を素材にして、人生を語り、人間を論ずるということが、余りにも少なすぎはしないか、まるで音楽は人間が作ったものではなくて神が与えたものだといわんばかりの解説に接していては、愛好家がまともな聴き方ができなくなるのは当り前である。そしてこの五十年間に培ったそういう特殊な読者層だけを対象に音楽雑誌は毎月編集プランを組んでいるのだから、およそ評論らしい評論の載らないのは当然すぎることである。音楽評論家というレッテルをつけられている人が二百人ぐらいはいると思うが、「音楽」の二字をとって評論家として通用する人が、果たして何人いるだろう。力量はあっても音楽ジャーナリズムの要求で、習い性になった人もあり、本質的に学者であり、啓蒙家である人が多すぎる。彼らの仕事も重要だが、無地の読者をも吸収できる評論が、もっと書かれてしかるべきだろう。
 では一体、評論の望ましい型とはどんなものか具体的にあげてみよう。私はオーディオに関して全く無知であるが、本誌の「実感的オーディオ論」を毎号愉しみにして読んでいる。製品名などで、その表現のいわんとするところの幅がわからぬこともないではないが、そこには五味康祐という一人の人間が、オーディオの世界で夢み、苦闘している姿が生きている。ひと言でいえば体臭がある。この体臭とは頭脳だけからは決してうまれない。オーディオという無限の魅惑が、その肉体を通して語られることの、紛れもない証左である。なるほど彼は作家で表現力があるのは当然だ、だからおまえにも面白いのだろうという人があるかも知れない。しかしその論理は逆である。表現力があるから作家になれたのだ。およそ文章で飯を食おうと思う人間は、小説であれ、評論であれ、その基準の第一は文章で人を魅する力があるか、どうかにかかっている。知識や教養は第二の条件だ。それが音楽ジャーナリズムの世界では位置が逆転している。「学」があることが第一なのだが、これでは面白くなろう筈がない。
     *
全文引用したいくらいだが、そういうわけにもいかないので、このくらいしておく。

《五十年間に培ったそういう特殊な読者層だけを対象に音楽雑誌は毎月編集プランを組んでいるのだから、およそ評論らしい評論の載らないのは当然すぎることである》
向坂正久氏は、そう書かれている。

音楽評論はオーディオ評論よりも古くからある。
そのオーディオ評論も、昨秋、ステレオサウンドが創刊50年を迎えた。

Date: 7月 24th, 2017
Cate: スピーカーとのつきあい

スピーカーとのつきあい(その2)

その1)で、スピーカーを友と書いた。
別項で「スピーカーシステムという組合せ」を書いている。

このことと、スピーカーを友とするのは関係している。
少なくとも私のなかでは。

オーディオというシステムは、
単体のオーディオ機器だけでは音を出せない。

これまでくり返し書いているように、
それにオーディオ雑誌にも昔から書かれているように、
プレーヤー(アナログもしくはデジタル)、
アンプ、スピーカーシステム、
最低でもこれだけのモノが揃わなければ、音は出せない。

どんなに優れた性能のアンプであっても、
それ一台だけでは、音は聴けない。

スピーカーを接ぎ、
入力になんらかの信号が加わらなければ、スピーカーから音は鳴ってこない。

つまりオーディオはコンポーネント(組合せ)の世界である。
このことが、私に、オーディオは道具でなく、意識である、と考えさせている。

オーディオ機器を道具として捉えるよりも、
意識として捉えている。
このことは、以前「続・ちいさな結論(その1)」、「使いこなしのこと(その33)」でも書いている。

オーディオ機器は確かに道具である側面をもつ。
けれど、それだけにとどまらず、組合せにおいて、
というよりも組合せそのものが、鳴らし手の意識である、と認識をもつようになった。

Date: 7月 24th, 2017
Cate: 再生音, 快感か幸福か

必要とされる音(その9)

ステレオサウンド 9号は1968年12月発売なので、
ステレオサウンドで働いている時に読んだ。

《楽器をいじる人にきいてもらうと、演奏のテクニックがいちばんよくわかるという》
という表現は、瀬川先生自身、楽器をいじる人の感想をきいて気づかれたのだろう。

このことは実際に楽器を演奏する人にアルテックのスピーカーを含めて、
他のスピーカーも聴いてもらい確認したい、と思いつつもその機会はなかった。

9号を読んでから何年か経ったころ、
グレン・グールドの録音風景のビデオをみた。

録音スタジオにはふたつのスピーカーがある。
ひとつはミキシングエンジニアが聴くモノで、いわゆるスタジオモニターと呼ばれる。
もうひとつは演奏家が、演奏しているブースで聴くためのププレイバックモニターである。

コロムビアのプレイバックモニターは、アルテックのA7だった。
少し意外な感じがした。

それからしばらくしてマイルス・デイヴィスの録音風景のビデオもみる機会があった。
当然だけれども、そこでもプレイバックモニターはアルテックのA7だった。

A7はいうまでもなく劇場用のスピーカーシステムである。
これをプレイバックモニターとして使うのか、という疑問があった。

グールドとマイルスのビデオを見てから、また月日が経った。
二年前の夏、「ナロウレンジ考(その15)」で、
美空ひばりとアルテックのA7のことについて書いた。

美空ひばりがアルテックのA7を指して、
「このスピーカーから私の声がしている」という記事を何かで読んだことがある、ということだった。

ステレオサウンド 9号を読んだのは1980年代なかごろだった。
それから30年ほどして、ようやく納得がいった。

Date: 7月 23rd, 2017
Cate: 再生音, 快感か幸福か

必要とされる音(その8)

ヴァイタヴォックスの名を出したあたりから、
本来書こうと考えていたところからすこし外れてきてしまっていると思いながらも、
もうすこしヴァイタヴォックスのことを書きたい、という気持がある。

ステレオサウンド 9号で、
《JBL、タンノイとくらべると、アルテックは相当変った傾向の音といえる。楽器をいじる人にきいてもらうと、演奏のテクニックがいちばんよくわかるという》
と瀬川先生が書かれている。

このころの瀬川先生はJBLの自作3ウェイの他に、
タンノイのGRF Rectangular、
アルテックの604Eを最初はラワン単板の小型エンクロージュア、
その後612Aのオリジナル・エンクロージュアに変更されているモノを鳴らされていた。

9号で、JBLとタンノイについて、
《音の傾向はむろん違うが、どちらも控え目な渋い音質で(私の場合JBLもそういう音に調整した)》
と書かれている。

瀬川先生の好まれる音の傾向からすると、
アルテックだけが毛色が違うんだろうな、と納得しつつも、
《楽器をいじる人にきいてもらうと、演奏のテクニックがいちばんよくわかるという》、
この部分は、そうなのか、と思った。

アルテックのすべてのスピーカーがそうであるといえないまでも、
少なくとも、ここでのアルテックとは604Eのことのはず。

604が、JBLよりも演奏のテクニックがよくわかる──、
ということは、このときから常に頭の片隅にいつづけていた。

ここでの演奏のテクニックとは、どの楽器のことなのだろうか、
アルテックの他のスピーカー、たとえばA7、A5もそうなのか、
さらにヴァイタヴォックスも、アルテックとは違う楽器については、
演奏のテクニックがいちばんよくわかるのか、
こんなことを漠然とおもっていた。

Date: 7月 22nd, 2017
Cate: 新製品

新製品(TANNOY Legacy Series・その18)

《伝統のあるオーディオメーカーって止まってしまっているところが多いでしょう。クラシカルなものに淫しているように思う。》

田中一光氏のことばだ。
1993年ステレオサウンド別冊「JBLのすべて」の中で語られている。

S9500のデザインについて語られたあとに、こういわれている。
どのオーディオメーカーとはいわれていない。

私は、タンノイのことだと思った。
タンノイのPrestigeシリーズのことだと思った。
いまもそう思っている。

タンノイのPrestigeシリーズのすべてのモデルがそうだとはいわないが、
《クラシカルなものに淫している》、そういう雰囲気が全体にある。

《クラシカルなものに淫している》、
うまい表現だと思ったし、
こういう表現は自分には無理だな、ともその時思った。

Prestigeシリーズを見て感じていたけれど、
うまく言葉にできずに、ノドの奥にひっかかったままだったものこそが、
《クラシカルに淫している》だった。

クラシカルなデザインが、悪いわけではない。
クラシカルなものに淫していると感じさせてしまうPrestigeシリーズ。

Prestigeシリーズこそタンノイらしい、とおもう人がいる。
だが私は、クラシカルなものに淫しているPrestigeシリーズのデザインは、
タンノイの本来的な音にそぐわない、と感じている人間である。

それともPrestigeシリーズの音も、
クラシカルなものに淫しているのだろうか。
いぶし銀もいまでは、クラシカルなものに淫した音の代名詞となってしまうのか。

Prestigeシリーズの音をすべて聴いているわけではないが、
そうではないと思っている。

Prestigeシリーズ以外のスピーカーシステムもあった(ある)のはもちろん知っている。
でも、どこかPrestigeシリーズに比べると……、というところを感じてしまう。

そこにようやくクラシカルなものに淫していないシリーズが登場した。
Prestigeシリーズに比べると……、と思わずにすむモノが、
Legacyシリーズとして、41年前のArden、Cheviot、Eatonが現代のモデルとして復活する。

Date: 7月 21st, 2017
Cate:

日本の歌、日本語の歌(アルテックで聴く・その21)

こうやってオーディオのことを毎日書いていると、いろいろなことを思い出す。
直接関係のあること、直接の関係はないけれど、間接的に関係していること、
それにまったく無関係に思えることまでも思い出す。

この項を書いていて思い出したのは、井上先生が、
1993年のステレオサウンド別冊「JBLのすべて」に書かれていたことだった。
     *
 奇しくもJBLのC34を聴いたのは、飛行館スタジオにちかい当時のコロムビア・大蔵スタジオのモニタールームであった。作曲家の古賀先生を拝見したのも記憶に新しいが、そのときの録音は、もっとも嫌いな歌謡曲、それも島倉千代子であった。しかしマイクを通しJBLから聴かれた音は、得も言われぬ見事なもので、嫌いな歌手の声が天の声にも増して素晴らしかったことに驚歎したのである。
     *
美空ひばりは《鳥肌の立つほど嫌いな存在》、
《若さのポーズもあって》、バロックと現代音楽ばかりを聴いていた時期の若い瀬川先生は、
《歌謡曲そのものさえバカにして》いた。

ステレオサウンド 60号で、アルテックのA4について語られる瀬川先生は、
美空ひばりの体験をあげられている。
     *
 たまたま中2階の売場に、輸入クラシック・レコードを買いにいってたところですから、ギョッとしたわけですが、しかし、ギョッとしながらも、いまだに耳のなかにあのとき店内いっぱいにひびきわたった、このA4の音というのは、忘れがたく、焼きついているんですよ。
 ぼくの耳のなかでは、やっぱり、突如、鳴った美空ひばりの声が、印象的にのこっているわけですよ。時とともに非常に美化されてのこっている。あれだけリッチな朗々とした、なんとも言えないひびきのいい音というのは、ぼくはあとにも先にも聴いたことがなかった。
     *
井上先生にとっての島倉千代子とJBL、
瀬川先生にとっての美空ひばりとアルテック、
おそらく時期もそう離れていないはずだ。

毛嫌いしているといえる歌謡曲と歌手の歌を、
JBLとアルテックは、驚歎するほどの音で聴かせてくれている。

井上先生は、続けてこう書かれている。
     *
 しかし自らのJBLへの道は夜空の星よりもはるかに遠く、かなりの歳月を経て、175DLH、130A、N1200、国産C36で音を出したのが、私にとって最初のJBLであった。しかし、かつてのあの感激は再現せず、音そのものが一期一会であることを思い知らされたものである。
     *
瀬川先生も《あとにも先にも聴いたことがなかった》といわれている。

Date: 7月 20th, 2017
Cate: オーディオ評論, 選択

B&W 800シリーズとオーディオ評論家(その5)

B&Wの800シリーズについて書いていて、ふと思ったことがある。
マルチチャンネル再生をやるとしたら、
意外にもB&Wの800シリーズは候補に挙がってくるかも……、ということだった。

モノーラル時代はスピーカーシステムの数は一本、
ステレオ時代になって二本になった。

モノーラル時代には大型のホーン型スピーカーシステムがいくつも存在していた。
JBLのハーツフィールド、エレクトロボイスのPatrician、
タンノイのオートグラフ、ヴァイタヴォックスのCN191、
これらの他にも、いくつものモデルがあった。

これらのスピーカーシステムで、ステレオ再生(2チャンネル再生)を行う。
そのことに否定的なことをいう人ももちろんいたけれど、
これらのスピーカーシステムによるステレオ再生は、独自の世界を築いていたこともあって、
いまだその世界に憧れつづける者もいる。

でも、このことはステレオ再生が二本のスピーカーシステムだったこともあるように、
最近では考えている。

もしステレオ再生が2チャンネルではなく、
センターチャンネルを加えた3チャンネル、
リアチャンネルを加えた4チャンネル、
センターとリアの両方の5チャンネル、
そういうシステムであったなら、
モノーラル時代のスピーカーシステムで……、というやり方はうまくいかなかったかもしれない。

モノーラル時代の、これらのスピーカーシステムは大型で、しかも高価だった。
そういうスピーカーを三本、四本、五本揃えるのは、それだけでたいへんなことだが、
問題はそこではなく、スピーカーのもつキャラクターの濃さについてである。

いかなるスピーカーであっても、キャラクター(個性)がある。
そのスピーカー固有の音色がある。

そのキャラクターが、スピーカーの数が二本よりも多くなっていくときに、
問題として顕在化していくのではないだろうか。

私は4チャンネル再生の経験がない。
聴いたことがないわけではないが、オーディオに関心をもつ前であったし、
単にきいた、というだけでしかない。

4チャンネル再生の問題点は頭ではわかっているし、
定着しなかった理由は、知識として知っている。

それでも、ふとおもうのは、
当時B&Wの800シリーズのようなスピーカーシステムが存在していたら、
フォーマットの制定も行われていたら、
違う展開を見せていた可能性について、だ。

B&Wの800シリーズを鳴らしていたオーディオ評論家として、
小林悟朗さんがそうだったことを思い出した。

小林悟朗さんは800シリーズでマルチチャンネル再生を行われていた。

Date: 7月 20th, 2017
Cate: デザイン

オーディオのデザイン、オーディオとデザイン(JBL S106 Aquarius 2・その5)

JBLが1988年に出したS119はSLOT-LOADED DESIGNではないわけだから、
Aquariusの名を付けなかったのは当然のことといえる。

S119は外観こそS109 Aquarius 4と同じといえても、
設計思想、構造が違う。
確かに構想も似ている、といえる面はあるが、
しっかりと見ていけば、似ているだけであって、違う設計思想であることがはっきりしてくる。

Aquariusシリーズを代表するモデルがS106 Aquarius 2であったなら、
S119をAquariusシリーズの復刻という認識は出てこなかったはずだ。

S106 Aquarius 2、
このスピーカーシステムの存在を知った時に、
Aquariusシリーズからイメージする外観とは違って新鮮だった、
にも関わらず初めて見る、という感じがあまりしなかったのは、
エレクトロボイスのPatrician 600を知っていたからなのかもしれない。

エレクトロボイスのPatricianといえば、
Patrician 800がもっとも知られている、といえよう。
復刻されたことで、1980年代半ばごろまで現行製品だった。

800と800の前身モデルといえる700以前のPatricianは、
モノーラル時代のスピーカーシステムだった。

1955年か56年に登場したのがPatrician IVであり、
外観だけ一新したのがPatrician 600だった。

ステレオサウンド 45号「オーディオの名器にみるクラフツマンシップの粋」で、
エレクトロボイスのPatricianシリーズが取り上げられている。
井上卓也、長島達夫、山中敬三の三氏がPatricianシリーズを語っている。

最初のPatrician、Patrician 600、Patrician 800がカラーで紹介されている。
私の目を惹いたのは、Patrician 800ではなく、Patrician 600だった。

ステレオ時代を迎えてから出てきたPatrician 800よりも、
モノーラル時代につくられたPatrician 600のほうが、コンテンポラリーに感じられたからだ。

そのPatrician 600とJBLのS106 Aquarius 2、
似ているというより、共通するものを感じる。

Date: 7月 19th, 2017
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(長岡鉄男氏とpost-truth・その13)

オーディオマニア(キチガイ)のためのオーディオ評論家(キチガイ)がいる、
オーディオマニア(キチガイでない)のためのオーディオ評論家(キチガイ)がいる、
オーディオマニア(キチガイでない)のためのオーディオ評論家(キチガイでない)がいる。

オーディオマニア(キチガイ)のためのオーディオ評論家(キチガイでない)はいない。

ここでいうキチガイとキチガイでないをわけるのは、
決定的にわけるのは想像力である。

想像力だけではないが、想像力の欠如はキチガイとはならない。
想像力がある人すべてがオーディオマニア(キチガイ)になるわけではない、
オーディオマニア(キチガイでない)の人もいるが、
想像力の欠如では、オーディオマニア(キチガイ)にはなれない。

Date: 7月 19th, 2017
Cate: ディスク/ブック

没後20年 武満徹オーケストラ・コンサート(2016/10/13)

2016年10月13日、没後20年 武満徹オーケストラ・コンサートに行ってきたことは、
その日のブログに書いている。

録音がなされていたことも書いた。
CDになって出るであろう、と思っていたが、なかなかリリースされなかった。

ようやくタワーレコード限定で、
没後20年 武満徹オーケストラ・コンサート(2016/10/13)」が発売される。

聴きに行ったコンサートが収録されていることは、これまでもあった。
CDになって出ているものもある。

「没後20年 武満徹オーケストラ・コンサート(2016/10/13)」も、
そういう一枚であるが、他の同種のディスク(録音)と少し違うのは、
曲目によって編成が変っていくのにあわせて、
マイクロフォン・セッティングも変っていた。

メインのマイクロフォンは、上から吊されているから変化はないが、
補助マイクロフォンは本数も位置も、曲に応じて変えられていた。

武満徹の作品をあまり聴かない私でも、
このディスクはその点でも興味深い。

Date: 7月 18th, 2017
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(長岡鉄男氏とpost-truth・その12)

オーディオマニアとは、はっきりといおう、キチガイである。
キチガイは気違いと書く。

気が、ふつうの人と違うわけだ。
そういう人がオーディオをやっている。
その人たちのことをオーディオマニアという。
私は、そういう認識でいる。

世の中に、オーディオマニアと自称する人は、
いまどのくらいいるのか。

マニアという言葉が嫌いで、
オーディオファン、オーディオファイル、レコード演奏家と自称する人もいる。
そういう人もひっくるめて、ここではオーディオマニアとしているわけだが、
真の意味でオーディオマニア(キチガイ)といえる人は、そう多くはない、と感じている。

オーディオマニアを自称している人が、キチガイなのかどうかは、わかりにくい。
高価なオーディオ機器を揃えていたり、
珍しいオーディオ機器を持っていたり、
レコードのコレクションも見事だったり、
人がうらやむようなリスニングルームも持っていたりしている人が、
オーディオマニア(キチガイ)とは限らない。
限らないから、わかりにくい。

オーディオマニア(キチガイ)とオーディオマニア(キチガイでない)とがいる。
オーディオを始めてから40年以上。
ここ十年くらい、意外に、というか、当然というべきか、
オーディオマニア(キチガイ)は少ない、と感じている。
そうとうに少ないように感じている。

同じことは、そのままオーディオ評論家にいえる。
オーディオ評論家(キチガイ)とオーディオ評論家(キチガイでない)とがいる。

長岡鉄男氏は、
オーディオマニア(キチガイでない)のためのオーディオ評論家(キチガイでない)である。

Date: 7月 17th, 2017
Cate: ディスク/ブック

揺れるまなざし

1976年秋、テレビから流れてきた資生堂のコマーシャルには、
目を奪われた、と表現したらいいのか、
当時13歳だった私は、もう一度「ゆれる・まなざし」のコマーシャルを見たいと思った。

前年にソニーからベータマックスの家庭用ビデオデッキは発売されていたけれど、
普及しているわけではなかった。
ビデオデッキがあれば、何度も見れるのに……、と思ったし、
同じクラスだったT君もそうだったようで、
彼は化粧品店に頼んで、「ゆれる、まなざし」のポスターを貰っていた。

真行寺君枝という名を、このとき知った。

バックに流れていたのは、小椋佳の「揺れるまなざし」だった。
小椋佳のCDは一枚、「揺れるまなざし」が収められているのだけを持っている。

情景が浮んできそうな歌詞。
けれど「揺れるまなざし」だけは、はっきりとした情景として浮ぶことはなかった。
真行寺君枝は美しかった。

それでも真行寺君枝のまなざしが、「ゆれる、まなざし」とは感じられなかった。

「揺れるまなざし」の歌詞は、物語のようでもある。
冬も近くなった秋なのは、歌い出しの歌詞でわかる。

続く歌詞、
 めぐり逢ったのは
 言葉では尽くせぬ人 驚きにとまどう僕
 不思議な揺れるまなざし

こんなことが現実にあるのか、と思った。
あったらいいなぁ、とも中学二年の私は願ってもいた。

現実にはそんなことはなかった。
50年以上生きていれば、ハッとするほど美しい人とすれ違うことはある。

それでも「揺れるまなざし」が描く情景とは、違っていた。
《驚きにとまどう》ことはなかった。
《言葉では尽くせぬ人》ではなかった。

先日、横浜に朝から用事があった。
信号待ちをしていたときが、まさに「揺れるまなざし」だった。

近くに立っていた人のまなざしがそうだった。
驚きにとまどった。
言葉では尽くせぬまなざしだった。

「揺れるまなざし」から41年経って、
歌の世界だけではないことを知った。

すぐに「揺れるまなざし」を思い出していたわけではない。
しばらくして、すこし落ちついて「揺れるまなざし」を口ずさんでいた。

Date: 7月 15th, 2017
Cate: スピーカーとのつきあい

ホーン今昔物語(その14)

ST350トゥイーターを搭載したInterface:Dは、
ティール&スモール理論によって設計された、
少なくともコンシューマー用スピーカーシステムとしては最初のモデルのひとつである。

いつのころからかスピーカーのカタログにはTSパラメーターが記載されるようになった。

ティール&スモール(Thiele & Small)理論なるものを、
私が初めて目にしたのは、ステレオサウンド 49号(1978年12月発売)でだった。

巻末近くに、特別インタビューとして、
チャートウェルのデビッド・ステビング、エレクトロボイスのジム・ロング、
タンノイのリビングストンが登場している。

エレクトロボイスのジム・ロングが語っている。
     *
 そこて、インターフェースシリーズのことについてですが、このシリーズはオーストラリアのティール博士の理論に基づいてウーファーを作ったことがセールスポイントになっています。ティール理論というのは、一九六二年にオーストラリアで発表されたもので、雑誌に発表されました。アメリカで出版物に紹介されたのは一九七一年のことです。その時に技術部長のニューマンのところへ出版物が送付されてきたのです。彼はその記事を読み、大いに引きつけられて、あくる日に私のところにこの本を持ってきたわけです。しかし、そのときは私は今までのバスレフ理論とそれほど違うようには思えなかったので、たいして気にもとめなかったのですが、ニューマンと話し合っているうちにその素晴らしさがわかってきたのです。しかも、エンクロージュアの小型化と低音再生能力、能率の向上という相反する条件が満たされるというので、これは素晴らしいセールスポイントになると思い、採用すべきだと主張したわけです。しかし、JBLやアルテック、ARはこの記事に関して興味を示しませんでした。それはおそらく、他のメーカーはすでに成功していたからだと思います。EV社は新しいモデルについて思案している時でしたので、条件的にも受け入れやすかったこともあり、タイムリーだったと思いますね。ですから、それまで考えていたプロトタイプを中止してまで、このティール理論のバスレフ型を採用することにしたわけです。
     *
Interface:Dは3ウェイバスレフ型である。
バスレフ型なのはウーファー(底板に取り付けられている)だけでなく、
350Hz以上を受け持つスコーカー(13cmコーン型)もバスレフ型であり、
もちろんティール&スモール理論によって設計されている。

Date: 7月 15th, 2017
Cate:

オーディオと青の関係(その21)

タンノイ・アメリカが搭載していたユニットの磁気回路のカバーは青に塗装されていた。
つまりはMonitor Blueということになる。

本国イギリスのタンノイのユニットにはMonitor Redがあった。
1953年から1957(8)年ごろまでつくられたユニットは、
磁気回路のカバーとウーファー中央のカバー(センターキャップに相当するところ)が、
赤に塗装されていたからだ。

そうイギリスには赤があった。
グッドマンのAXIOM 80もそうだ。
磁気回路が赤色に塗装されていた。

AXIOM 80以外にも、磁気回路の後側にはられている銘板が赤であることが多い。
ワーフェデールのユニットもそうだった。
ヴァイタヴォックスの初期のS2ドライバーの銘板も、そういえば赤だった。

オーディオと青の関係を考えていたら、
イギリスのオーディオにおける赤のことを思い出してしまった。

Date: 7月 15th, 2017
Cate: 再生音

続・再生音とは……(聴き方こそが……)

オーディオを熱心にやってきた人が、
ある程度キャリアを積んでいうことがある──、
「最後は部屋だよ」と。

さらには「最後は部屋なんではなく、最初から部屋なんだよ」という人もいる。
そのくらいに部屋(リスニングルームという環境)が、
音に与える影響は大きいのはいうまでもないこと。

音を支配する、とまでいう人もいる。

「五味オーディオ教室」には、
《再生音は部屋がつくり出す》とあった。
組合せにおける相性は、つまり部屋との相性だ、ともあった。
まったくそのとおりだ。

もちろん、オーディオ機器も関係してのことである。

そんなことはわかったうえでいおう、
再生音を決めるのは、その人の聴き方である、と。