評論家は何も生み出さないのか(その4)
ステレオサウンド 8号には「音楽評論とは何か」という記事がある。
音楽評論家の向坂正久氏による文章である。
四つの見出しがつけられている。
現在の音楽評論は何故つまらないか
客観的論文と主観的評論
批評の尺度にも原典主義
新しい音楽評論のために
この四つの見出しにわずかでも興味をもった人は、
ぜひ全文を読んでほしい、と思う。
向坂正久氏は1931年生れなので、
1932年生れの菅野先生、山中先生、長島先生、1931年生れの井上先生たちと同世代であり、
ステレオサウンド 8号(1968年発売)は、36か37歳。
少し長くなるが、冒頭のところを引用しておく。
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すすめられるままに、私は大きなテーマを選んで書く。前号の「ナマ・レコード・オーディオ」は全体の序章のようなものだが、そこでも、すでに私は音楽評論の現状について多少の批判を加えたつもりである。自らが住するジャンルを内部批判することは、あるいは読者から見たら不可解なことに思われるかも知れないが、実は今までこうしたことがなされないために、そのつまらなさを助長させたといってもいい。
文学畑の人から「音楽評論というのはほとんど解説ですね」といわれたことがあるが、全く演奏会やレコードの個評を除くと、知識の切り売りが圧倒的に多いのが現状である。知識が商品価値をもつのは当然だとしても、それは少くとも評論とはいえないだろう。全くの無知から出発していても、読者を感動させる文章というものがあると同時に、音楽知識をもちあわせぬ読者の心にさえ、ひびく文章というものがなくてはならぬ。評論とは文学の領域なのだから、それを基本に考えねばならないところを、音楽ジャーナリズムは知識から知識へ、言葉をかえれば頭脳から頭脳へという方向だけで、すべて事足れりとしている傾向が強い。実はこれが音楽評論をつまらなくさせている最大の原因なのである。
音楽を素材にして、人生を語り、人間を論ずるということが、余りにも少なすぎはしないか、まるで音楽は人間が作ったものではなくて神が与えたものだといわんばかりの解説に接していては、愛好家がまともな聴き方ができなくなるのは当り前である。そしてこの五十年間に培ったそういう特殊な読者層だけを対象に音楽雑誌は毎月編集プランを組んでいるのだから、およそ評論らしい評論の載らないのは当然すぎることである。音楽評論家というレッテルをつけられている人が二百人ぐらいはいると思うが、「音楽」の二字をとって評論家として通用する人が、果たして何人いるだろう。力量はあっても音楽ジャーナリズムの要求で、習い性になった人もあり、本質的に学者であり、啓蒙家である人が多すぎる。彼らの仕事も重要だが、無地の読者をも吸収できる評論が、もっと書かれてしかるべきだろう。
では一体、評論の望ましい型とはどんなものか具体的にあげてみよう。私はオーディオに関して全く無知であるが、本誌の「実感的オーディオ論」を毎号愉しみにして読んでいる。製品名などで、その表現のいわんとするところの幅がわからぬこともないではないが、そこには五味康祐という一人の人間が、オーディオの世界で夢み、苦闘している姿が生きている。ひと言でいえば体臭がある。この体臭とは頭脳だけからは決してうまれない。オーディオという無限の魅惑が、その肉体を通して語られることの、紛れもない証左である。なるほど彼は作家で表現力があるのは当然だ、だからおまえにも面白いのだろうという人があるかも知れない。しかしその論理は逆である。表現力があるから作家になれたのだ。およそ文章で飯を食おうと思う人間は、小説であれ、評論であれ、その基準の第一は文章で人を魅する力があるか、どうかにかかっている。知識や教養は第二の条件だ。それが音楽ジャーナリズムの世界では位置が逆転している。「学」があることが第一なのだが、これでは面白くなろう筈がない。
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全文引用したいくらいだが、そういうわけにもいかないので、このくらいしておく。
《五十年間に培ったそういう特殊な読者層だけを対象に音楽雑誌は毎月編集プランを組んでいるのだから、およそ評論らしい評論の載らないのは当然すぎることである》
向坂正久氏は、そう書かれている。
音楽評論はオーディオ評論よりも古くからある。
そのオーディオ評論も、昨秋、ステレオサウンドが創刊50年を迎えた。