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Date: 9月 18th, 2017
Cate: オーディオマニア

五条件(その4)

「オーディオ愛好家の五条件」における五味先生の言葉使いは、
人によっては不快、不愉快、さらには怒りをおぼえるという人もいよう。

五味先生はあらためていうまでもなく、プロの物書きだ。
物書き(職能家)だから、書いたこと(活字になって発表したこと)は、
すべて自分に返ってくることは百も承知で書かれている、と私は思っている。

その上で、あそこでの表現をされている。
五条件とあるし、一読わかりやすい内容のようにも思える。

けれど、この五条件について、これまで何人ものオーディオマニアと話してみると、
解釈は実に人さまざまだった。

「④真空管を愛すること。」でも、
どこをどう読めば、そんなふうに受け止められるのか、と不思議になるほど、
人はどこまでも独善的に読めるものだと感心できるほどの人もいた。

「⑤金のない口惜しさを痛感していること。」は、
五味先生自身、《少々、説明が舌たらず》と書かれている。
説明は舌たらずだが、ここにそういった説明はもういらないはずだ。

でも、そのためか、そうじゃないだろう、と声を大にしていいたくなることが何度かあった。
この人は、所詮、こういう読み方なのか、と思った。

この「金のない口惜しさを痛感していること」、
もうこの意味すら通じないのか、と落胆もした。
だから、その人との縁は切った(ともいえるし切れてしまった、ともいえる)。

そういうお前の解釈こそ、ずれているのではないか、
独りよがりなのではないか、そういわれてもいい。

私は私の読み方で読んできた、いまも読んでいる。

Date: 9月 18th, 2017
Cate: 対称性

対称性(その10)

瀬川先生の指摘にあるように、
B&Oのアナログプレーヤーは、
レコードを真上から掬いとるような形で持っていくような状態でレコードをかけかえるようになる。

EMTの930stも、プレーヤーとしての形状はB&Oと大きく違っていても、
実際に使ってみると、同じレコードのかけかたを、使い手に要求する。

国産のアナログプレーヤーに多いのは、
プレーヤーの正面からほとんど手を前に並えするような形でレコードをかけかえる方法である。

五味先生が、オーディオ愛好家の五条件で、
ヒゲのこわさを知ること、を挙げられている。

ヒゲとは、レコードをプレーヤーにかける際に、
スピンドルの先端でレーベルをこすってしまった線状のあとのことだ。
一発でレコードのセンター孔にスピンドルを通せば、ヒゲがつくことはない。

漫然とレコードを扱っているからついてしまい、
しかも消せないのがヒゲである。
どんなに盤面がきれいにクリーニングされていようと、
ヒゲがついていては、その人のレコードの扱いがどんなものか知れよう。

B&O、EMTがレコードを真上から掬いとるような形でかけかえさせるようにしているのは、
ヒゲをつけないような配慮のようにも思える。

プレーヤーの正面からほとんど手を前に並えするような形でレコードをかけかえるから、
ヒゲがつきやすいレコードの扱いになってしまう。
そういうプレーヤーでも、真上に掬いとるような形でかけかえれば、
ヒゲがつくような扱いをすることはなくなるはずだ。

Date: 9月 17th, 2017
Cate: plain sounding high thinking

plain sounding, high thinking(その4)

2016年の1月のaudio wednesdayから音を鳴らすようになった。
昨年は九回の音出し。
今年はいまのところ毎月行っている(11月は音出しはなし)から、九回。

十八回の音出し、すべてを聴いているのは私ひとり。
2015年秋に、いまのエンクロージュアが喫茶茶会記に入り、約二年。
ユニットの配置が変り、その他さまざまなところが変った(というか変えてきた)。

そうとうに音は変ってきている。
毎月一回の音出し。
その度にセッティングして、会が終ればセッティングを崩すことになる。

毎回のセッティングにかける時間は一時間ほど。
毎回少しずつセッティングを変えている。
常連の方でも、気づかないほどに少しずつ変えている。

audio wednesdayでの音出しは、私自身の好みを聴いてもらおうとは考えていない。
目の前にあるスピーカーが鳴りたいように鳴らす方向での音出しを考えているだけである。

そのために必要なのは、スピーカーが出してくる音とのコミュニケーションだと思う。
そうやって出していく音が、”plain sounding”となっていくような気がしている。

Date: 9月 17th, 2017
Cate: ジャーナリズム

オーディオの想像力の欠如が生むもの(その29)

オーディオの想像力の欠如がしているから、「岩崎千明と瀬川冬樹がいた時代」から
「岩崎千明と瀬川冬樹がいない時代」へと移行したときに生じた空洞を感じないのだろう。

Date: 9月 17th, 2017
Cate: オーディオマニア

五条件(その3)

オーディオ愛好家の五条件の冒頭は、こうである。
     *
 オーディオ愛好家──たとえば本誌を購読する人たち──をそうでない人より私は信用する。〝信じる〟というのが誇大に過ぎるなら、好きである。しかし究極のところ、そうした不特定多数の音楽愛好家が喋々する〝音〟というものを私はいっさい信用しない。音について私が隔意なく語れる相手は、いま二人しかいない。その人とは、例えばハルモニア・ムンディ盤で聴くヘンデルの、こんどの〝コンチェルト・グロッソ〟(作品三)のオーボーの音はちょっと気にくわぬ、と言われれば、それがバロック当時の古楽器を使っている所為であるとか、コレギウム・アウレウムの演奏にしては弦の録音にいやな誇張が感じられるとか(コレギウム・アウレウム合奏団の弦楽器は、すべてガット弦を、古い調弦法で調弦して使っている)、そんな説明は何ひとつ聞かずとも私は納得するし、多分百人の批評家がコレギウム・アウレウム合奏団のこのレコードは素晴しい、と激賞しても「ちょっと気にくわぬ」その人の耳のほうを私は信じるだろう。
 もちろん、彼と私とは音楽の聴き方もちがうし、感性もちがう。それが彼の印象を有無なく信じられるのは、つづめて言えば人間を信じるからだ。彼がレコード音楽に、オーディオに注いだ苦渋に満ちた愛と歳月の歴史を私は知っている。
     *
《人間を信じるからだ》とある。
これにつきる。

信じられぬ相手に、オーディオの、音楽の何を語れるというのだろうか。
SNSの普及、そこでのオーディオについてのやりとりをながめていると、
この人たちは、五味先生のオーディオ愛好家の五条件を読んでいないのか、とおもう。

私が勝手にそうおもっているだけだ。

Date: 9月 17th, 2017
Cate: オーディオマニア

五条件(その2)

五味先生のオーディオ愛好家の五条件。

「①メーカー・ブランドを信用しないこと」では、
《音を出すのは器械ではなくその人のキャラクターだ。してみれば、メーカーブランドなど当てにはならない。各自のオーディオ愛好ぶりを推量する一資料にそれはすぎぬ、ということを痛切に経験したことのない人と私はオーディオを語ろうとは思わない。》
と書かれている。

「②ヒゲのこわさを知ること。」では、
《三百枚余の大事なレコードを私は所持するが、今、その一枚だってヒゲはないのをここに断言できる。レコードを、つまりは音楽をいかに大切に扱い、考えるかを端的に示すこれは一条項だろう。
 したがって、一枚に何万円を投じてレコードを買おうとその人の勝手だが、ヒゲだらけの盤でパハマンやシュナーベルやカペーがいいとほざく手合いを、私は信用しないのだ。》
と書かれている。

「③ヒアリング・テストは、それ以上に測定器が羅列する数字は、いっさい信じるに足らぬことを肝に銘じて知っていること。」では、
《テストで比較できるのは、音の差なのである。和ではない。だが和を抜きにしてぼくらの耳は音の美を享受はできない。何にせよ、測定結果やヒアリング・テストを盲信する手合いとオーディオを語ろうとは私は思わないものだ。》
と書かれている。

「④真空管を愛すること。」では、
《真空管のよさを愛したことのない人にオーディオの何たるかを語ろうとは、私は思わない。》
と書かれている。

「⑤金のない口惜しさを痛感していること。」では、
《この時ほど、金がほしいと思ったことはない。金さえあれば四十九番のレコードが買える、それをいい音で聴ける……そんな意味からではない。どう言えばいいか、ハイドンの味わった貧しさが無性にこの時、私には応えたのだ。ハイドンの立場で金が欲しいと思った。矛盾しているようだが、彼が教えてくれた贅美のうちにある悲しみは、つまりは過去の彼の貧しさにつながっている。だからこそ美しく響くのだろうと私はおもう。
 少々、説明が舌たらずだが、音も亦そのようなものではないのか。貧しさを知らぬ人に、貧乏の口惜しさを味わっていない人にどうして、オーディオ愛好家の苦心して出す美などわかるものか。美しい音色が創り出せようか?》
と書かれている。

Date: 9月 16th, 2017
Cate: audio wednesday

第81回audio wednesdayのお知らせ(1982年10月4日)

10月のaudio wednesdayは、
4日ということでグレン・グールドをテーマにするのは前回お知らせしたとおり。

この他に考えているのは、喫茶茶会記のトゥイーターの変更がひとつある。
現在、サブトゥイーターとしてグッドマンのDLM2がついている。

一見ドーム型だと思ってしまうが、ホーン型である。
とはいえ、私の感覚ではドーム型として扱っているところもある。

一度、JBLの2405にしたことがある。
ただ、その時は2441+2397をアルテックのかわりに鳴らしていたから、
喫茶茶会記通常とは大きく違っての2405への変更であった。

今回はDLM2のみを、JBLの075に変更してみるつもりでいる。
うまくいくかどうかはなんともいえない。
075は設計の古いトゥイーターだから、20kHzまで周波数特性がのびているわけではない。
指向特性も、2405と比較すると周波数が高くなると狭くなっていく。
いわゆるビーミングである。

とはいうものの075は正真正銘ホーン型トゥイーターである。
音のエネルギーの再生においては、たっぷり出してくれる。

いま考えているのは、075の置き方だ。
アルテックの811Bホーンを横にずらせば、隣に設置できる。
一昨年の11月、喫茶茶会記に、いまのエンクロージュアが入ってきたときは、
そういうユニット配置だった。

それを私がいまの配置に変更した。
そのときの感じでいえば、ウーファーとホーンをオフセットの位置関係にはしたくない。
インライン配置のまま、ホーンの隣に置くのはぎりぎりできるかもしれないが、
やや不安定な感じを受けそうだし、かといって今DLM2を置いている位置では、
うまくいくとは思えない。

となると何らかの置き台を用意して、075をぐっと持ち上げてホーンの上部に来るようにするか、
反対にホーンをあと7cmほど持ち上げて、エンクロージュアとの間に置くか。

その他にも考えなくてはならないことはいくつもあって、
当日に、すべてを実験できるわけでもないから、
075に変更したからといって、必ずしもいい結果が得られるとはいえないが、
個人的にはスピーカーの表情が、どう変化していくのか、楽しみである。

場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 9月 16th, 2017
Cate: 選択

オーディオ機器を選ぶということ(再会という選択・その5)

憧れのオーディオ機器なんてない、という人もいるのかもしれないが、
オーディオマニアなら、憧れのオーディオ機器はあるはずだ。

憧れて憧れて、やっとのおもいで自分のモノに出来たこともあれば、
手が届かなかったことだってある。こちらのほうが多い。

価格が高いだけなら、購入計画をたてて、そこを目指していけばいいけれど、
あっという間に市場から消えてしまうモノに関しては、えっ? とあきらめるしかない。

JBLの4343、マークレビンソンのLNP2、EMTの930stといったモノに憧れてきた。
他にもいくつもあるが、こういったモノは人気もあって、そこそこの数が売れている。

なのでじっくり待てば、程度のいい状態のモノと出合えることはある。
けれどあっという間に消えてしまったモノとなると、そうはいかない。

手に入れたい、という気持もあるけれど、
それ以上にもういちど、その音を聴きたい、と思う意味での憧れのオーディオ機器がある。
いまもいくつかある。

その中の半分くらいは、市場からあっという間に消えてしまっている。
ふたたび出合えることは、誰かのリスニングルームであってもないだろうと、
なかば諦めている。

諦めているからこそ、まったく予期しない機会に出合えたときの私の気持は、
ほんとうに嬉しい。

その嬉しさは、ふたたび出合えたこと以上に、
このスピーカーの良さをわかっている人が、やっぱりいてくれた、という嬉しさの方が、
ずっとずっと大きい。

心の中で「同志がいた」と叫びたくなるほどに、嬉しいものだ。
二日前(9月14日)が、まさにそういう日だった。

Date: 9月 13th, 2017
Cate: ジャーナリズム

オーディオの想像力の欠如が生むもの(その28)

オーディオの想像力の欠如のままでは、わがままになることはできない。
わがままを貫き通すこともできない。

Date: 9月 12th, 2017
Cate: ジャーナリズム, 組合せ

組合せという試聴(その9)

昔のステレオサウンドにはあったアンケートハガキ。
ベストバイ特集号の前号には、
読者の選ぶベストバイ・コンポーネントの投票用紙といえるハガキだった。

アナログプレーヤー、カートリッジ、トーンアームから
アンプ、チューナー、デッキ、スピーカーにいたるまで、
現用機種とともに記入されていた。

その8)で書いているように、
読者の選ぶベストバイ・コンポーネントの集計をやっていると、
ほんとうにそこに記入されている機種を組み合わせて音を出したら……、と思うものが少なくなかった。

意外性でおもしろいかも、と思う組合せ的ハガキもあった。
読者みなが組合せを意識して記入しているとはかぎらないのはわかっている。

それでも集計をする者からすれば、それぞれの項目だけを見て集計していても、
ハガキのすべての項目をまず見ることを忘れているわけではない。

返ってきたハガキを見ていると、
それまでのステレオサウンドの特集(総テスト)で評価の高かった機種が、
それぞれのジャンルで並んでいる、というものも少なくなかった。

その3)で書いた受動的試聴と能動的試聴。
組合せを考慮していないと感じるハガキからは、
受動的試聴での評価の高いモノが並んでいるだけの印象を感じていた。

実際のところはわからない。
私がそう感じたハガキであっても、記入した人は、組合せを考慮しての記入だったのかもしれない。

私がそのハガキから、そこのところを読みとれていなかった、という見方もできる。
それにすべての読者が、ステレオサウンドで取り上げた機種すべてを聴いているわけでもない。
どこに住んでいるのか、東京に住んでいても積極的に出掛ける人もいればそうでない人もいる。

オーディオ店での試聴は、単に聴いた、という程度と受け止めている人もいる。
ハガキを書いた人が、どの機種を聴いていて、それもどういう環境で、どの程度しっかり聴いているのか、
また聴いていない機種はどれなのか、
そういったことはまったくわからない。

聴ける機種よりも聴けない機種の方が多い人が多かったのではないか。
ならば受動的試聴の結果(試聴記)を参考にハガキを記入する。

Date: 9月 12th, 2017
Cate: バイアス

オーディオとバイアス(ブラインドフォールドテスト・その3)

(その2)の最後に、
聴く前の思い込み、バイアスは、
そこで鳴った音がいい音であれば、いつのまにか消えてしまっている、
と書いた。

聴く前の思い込みが、そこで鳴った音で消え去ってからが、
そこで鳴った音、その音を鳴らしたオーディオ機器の音を評価することができる、ともいえる。

そう思いながらも、まったく反対のことも思っている。

昔からいわれ続けているのは、
可能性の高いオーディオ機器、能力が高いオーディオ機器ほど、
ポンと置いて接続しただけでいい音が出ることは、まずない、ということ。

スピーカーは、特にそうである。
優れたスピーカーであればあるほど、そうともいえる。

そういうスピーカーであっても、ポンと置いて……、という例もまた昔からよくいわれている。
だからこそ、使いこなしが大事だ、と何度も多くの人がいい続けてきているわけだ。

ポンと置いて接いで鳴らして、ひどい音が鳴ってきた。
それですぐ(文字通りのすぐ、である)に、そのスピーカーを手放した人も知っている。
そこまで極端でなくとも、しばらく鳴らしてもいい音にならないから、と手放す。

そういう人もいれば、絶対にいい音で鳴ってくれるはずだ、という思い込みで、
そのスピーカーと正面から取り組む人もいる。

長島先生とジェンセンG610Bとの関係は、まさにそうである。
他人からすれば執念といえるほどの思い込みによって、
そのスピーカーが、他のスピーカーでは絶対に鳴らし得ない音を鳴らすようになる。

強烈なバイアスが、オーディオには必要でもある。

Date: 9月 11th, 2017
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンドの表紙に感じること(その4)

オーディオマニアとは、思い入れをいくつももっている人だ、と私は思っている。
あるディスクへの思い入れ、
ある演奏家への思い入れ、
ある楽器への思い入れ、
もっともこまかなところへの思い入れもあるからこそ、
オーディオに関心のない人からは理解されないほどオーディオ(音)に情熱を注ぐ。

オーディオ雑誌は、そういう人たちへの本であってほしい、
と私は勝手に思っている。

ステレオサウンドというオーディオ雑誌が、ある時代、
多くのオーディオマニアが熱心に読んでいたのは、そこのところを大事にしていたからではないのか。

だから、読み手は、思い入れのあるステレオサウンドというのが、何冊かある、といえる。

雑誌に思い入れ? という人もいよう。
私もすべての雑誌に思い入れがあるわけではない。
思い入れのある雑誌のほうが、圧倒的に少ない。

だがステレオサウンドは、オーディオ雑誌である。
どっぷりオーディオに浸かってきた人たちが読む雑誌である。

そこに思い入れが感じられなくなってしまえば、
単なる情報誌である。

Date: 9月 11th, 2017
Cate: 会うこと・話すこと

会って話すと云うこと(その14)

夕方、オーディオ仲間、友人のAさんの家に行っていた。
数年前までアメリカに住んでいたAさんは、アメリカに倉庫を借りていて、
そこにいろいろ保管している。

その一部を今夏アメリカで整理して、日本に送っている。
その中に、JBLのユニットがあり、それを見に行っていた。

075、375+537-500、N800である。
そのどれも何回となく見ているし、音も聴いている。
人によっては、ただ見に行くだけなの? と思うかもしれない。

音は聴いていない。見に行っただけである。
いまではスマートフォンで、そこそこきれいな写真が簡単に撮れ、
すぐに送信できるし、してもらえる。

行って直接見ることは、触れることでもある。
ひさしぶりに触った375+537-500。
見る・聴く機会はけっこうあっても、触れるのは20数年ぶりだろうか。

2441+2397の組合せよりも、375+537-500の方が重い。
ホーンが木製か金属製かの違いがある。
それに537-500にはスタンドも付属している。

375も2441も、重量は変らないが、
ホーンシステムとしての重量バランスは、
2441+2397は悪い。アンバランスである。

375+537-500はホーンが重たい分、重量バランスはずっといい。
トータル重量と重量バランスに関しては、
カタログに記載されている数値を見れば、想像がつくことではあっても、
こうやって自分の手で持ち上げてみると、思い出される感覚がある。

大切にしたい感覚だと思う。

Date: 9月 10th, 2017
Cate: 憶音

憶音という、ひとつの仮説(その5)

ジェラルド・モーリス・エデルマンは「記憶された現在」といっている。

味覚にしても聴覚、嗅覚、視覚など知覚のすべては、
その瞬間瞬間だけのものではなく、
過去の経験に頼っているという意味での「記憶された現在」である。

味覚だけに限っても、(その3)で書いている菅野先生のコカ・コーラの件、
その2)で書いた、私の三ツ矢サイダーの件、
どちらも「記憶された現在」だと思える。

エデルマンの「記憶された現在」も仮説なのだろうと思う。
「記憶された現在」を否定する仮説も、とうぜんあるように思う。

それでも、いまのところ「記憶された現在」には、感覚的に納得できる。

同じ場で同じ音を聴いているにもかかわらず、
まるで正反対の音の印象が出ることは、決して珍しいことではない。
聴く人が二人以上いれば、こんなことはよくある。

これも「記憶された現在」として捉えれば、なるほど、と思えるわけだ。

ケーブルで音は変らないと言い張る人がいることも、
「記憶された現在」という観点からみれば、違う側面が見えてくるのではないだろうか。

これまで聴いてきた記憶、
さまざまなオーディオ機器を比較試聴してきた記憶、
どこか、誰かの部屋で聴いた音の記憶、
そういった音の記憶の蓄積が、いつ音を聴いている瞬間瞬間に呼び起こされ、
いまそこで聴いている音に関係してくる、
もしくはひとつになって聴こえてくる。

そして、いま聴いた音もまた記憶になっていく。

Date: 9月 10th, 2017
Cate:

日本の歌、日本語の歌(アルテックで聴く・その24)

瀬川先生の「オーディオの系譜」に、こう書いてある。
     *
 日本のオーディオ界と欧米オーディオ界との交流が少しずつ密になるにつれて、私自身も海外のオーディオ専門家と直接合って、彼らの意見を聞き議論する機会が増えはじめた。そして驚いたことは、アメリカやイギリスやその他の欧州諸国のオーディオの専門家たちが、「日本のスピーカーの音は非常に個性的だ」と、まるで口をそろえたようにいうことだった。
 どんなふうに個性的かを、とても具体的に語ってくれたのは、例えばアメリカの業界誌『ハイファイ・トレイドニューズ』の編集長、ネルソンだった。彼はこういった。
「はじめて日本製のスピーカーの音を聴いたとき、私の耳にはそれはひどくカン高く、とても不思議な音色に聴こえた。ところがその後日本を訪問して、日本の伝統音楽(例えばカブキ)や日本のポップミュージック(演歌など)を耳にしたとき、歌い手たちの発声が日本のスピーカーの音ととてもよく似ていることに気づいて、それで、日本のスピーカーがあんなふうに独特の音に作られている理由がわかったように思った。だが、日本のスピーカーが欧米に進出しようとするなら、欧米の音楽が自然な音で鳴るように改良しなければならないと思う」
 全く同じ意味のことを、イギリス・タンノイの重役で、日本にも毎年のように来ているリヴィングストンもいう。「日本のスピーカーは、日本の伝統音楽や日本のポップミュージックを再生するために作られているように私には思える。だが、もしも西欧の音楽(クラシックでもポップスでも)を、われわれ(西欧の人間)が納得するような音で再生するためには、日本のスピーカーエンジニアたちは、西欧のナマの音楽を、できるだけ多く聴かなくてはならないと思う」
 同じくイギリスのスピーカーメーカー、KEFのエンジニアであり社長であるクックは、もっと簡単に「日本のスピーカーの音はとてもアグレッシブ(攻撃的)だ」とひとことで片づける。
 これらの話は、もうあちこちで何度も紹介したのだが、しかし、彼らのほかにも、私が会えた限りの欧米のオーディオの専門家の中に、日本のスピーカーの音を「自然」だという人はひとりもいなかった。
     *
また、こうも書かれている。
     *
 もう何年か前、まだ4チャンネルの話題が騒々しかったころ、イギリスの有名なオーディオメーカー数社の人たちが、研究のため、日本のあるレコード会社を訪れて、4チャンネルの録音を聴かされた。そのときのあまりの音量の大きさに、中のひとりが、「(オレたちがオーディオの専門家と知っていて、あえてこの音量で聴かせるというのは)きっとジョークに違いない」といったという、それこそイギリス人一流のジョークが伝わっているほどだ。日常、非常に穏やかな音量でレコードを鑑賞するという点で、イギリス人は世界でも一、二を争う国民かもしれない。
 そうしてもうひとつ、彼らは、生の音、むき出しの音、品のない音、攻撃的にきつい音をひどく嫌う。日本のスピーカーの音を「攻撃的(アグレッシブ)だ」と指摘したKEFの社長レイモンド・クックの話は、既に書いたが、彼らイギリス人の耳には、JBLのモニターの音も、アグレッシブとまではゆかないにしても、やや耳ざわり(ハーシュ)に聴こえる、という。
     *
1980年ごろに書かれたもののであり、1970年代の日本のスピーカーはアグレッシヴと、
海外のオーディオ関係者の耳には聴こえていたことがわかる。

JBLの音がやや耳ざわりで、日本のスピーカーがアグレッシヴということは、
そうとうに個性的な音を鳴らしていた。
もっとも、この傾向は、瀬川先生が亡くなられた1981年以降もしばらく続いている。

確かにそういう音を、あの時代の日本のスピーカーは出していた。
けれど、それ以前はどうだったのか。

アメリカやイギリス、ドイツなどの古い時代のスピーカーを聴く機会はあっても、
日本のスピーカーの、その時代のモノを聴く機会は私にはほとんどなかった。

なので、はっきりとしたことはいえないのだが、
輪島祐介氏の『創られた「日本の心」神話』を読んでいて結びついていったのは、
現在「演歌」と呼ばれる歌が登場し、流行りだした時代とオーディオブームの到来、
そしてアグレッシヴといわれる音のスピーカーの登場は無関係ではないような気がしてきた。