憶音という、ひとつの仮説(その5)
ジェラルド・モーリス・エデルマンは「記憶された現在」といっている。
味覚にしても聴覚、嗅覚、視覚など知覚のすべては、
その瞬間瞬間だけのものではなく、
過去の経験に頼っているという意味での「記憶された現在」である。
味覚だけに限っても、(その3)で書いている菅野先生のコカ・コーラの件、
(その2)で書いた、私の三ツ矢サイダーの件、
どちらも「記憶された現在」だと思える。
エデルマンの「記憶された現在」も仮説なのだろうと思う。
「記憶された現在」を否定する仮説も、とうぜんあるように思う。
それでも、いまのところ「記憶された現在」には、感覚的に納得できる。
同じ場で同じ音を聴いているにもかかわらず、
まるで正反対の音の印象が出ることは、決して珍しいことではない。
聴く人が二人以上いれば、こんなことはよくある。
これも「記憶された現在」として捉えれば、なるほど、と思えるわけだ。
ケーブルで音は変らないと言い張る人がいることも、
「記憶された現在」という観点からみれば、違う側面が見えてくるのではないだろうか。
これまで聴いてきた記憶、
さまざまなオーディオ機器を比較試聴してきた記憶、
どこか、誰かの部屋で聴いた音の記憶、
そういった音の記憶の蓄積が、いつ音を聴いている瞬間瞬間に呼び起こされ、
いまそこで聴いている音に関係してくる、
もしくはひとつになって聴こえてくる。
そして、いま聴いた音もまた記憶になっていく。