スピーカーの述懐(その62)
14年前に、別項「続・ちいさな結論(その1)で書いている。
オーディオは、音楽を聴くための道具、であるとともに、
音楽を聴く「意識」でもある。
スピーカー選びだけでなく、
そのスピーカーをどう鳴らしていくのか、
「意識」を抜きにすることはできないはずだ。
そして「らしく」「らしさ」は、「意識」の顕れだ。
14年前に、別項「続・ちいさな結論(その1)で書いている。
オーディオは、音楽を聴くための道具、であるとともに、
音楽を聴く「意識」でもある。
スピーカー選びだけでなく、
そのスピーカーをどう鳴らしていくのか、
「意識」を抜きにすることはできないはずだ。
そして「らしく」「らしさ」は、「意識」の顕れだ。
こうやって書いていて気づくことが、もう一つある。
SAEのMark 2500もそうなのだが、ある時代のパワーアンプはラックハンドルが付いていた。
Mark 2500は、ラックハンドルとメーター、どちらもついている。
メーターにしてもラックハンドルにしても、音質のことを最優先に考えるならば、ない方がいい。
特にメーターはない方がいい。
ラックハンドルは、その材質、大きさ、重さによって音への影響は変ってくる。
がっしりした金属製のハンドルを外して音を聴いてみると、よくわかる。
ペナペナな、安っぽいハンドルも、外してみると、違う音の変化をする。
重く硬いハンドルも場合、うまい味つけになっていることあって、
外した音は、最初は物足りなさを感じることもある。
メーターもハンドルも、どんなに技術が進んでも、音への影響をゼロにはできない。
それでもだ、カッコいいアンプがあるのも事実。
ヤマハのスピーカーシステムの型番は、NSから始まる。
ナチュラルサウンド(Natural Sound)から来ている。
このナチュラルサウンドを、どう解釈するのか。
人工的な要素、人為的なものをまったく感じさせないのが、ナチュラルサウンドなのだろうか。
ナチュラルサウンドの一つの解釈ではあるが、これが全てではない。
ナチュラルは自然。
この自然をどうするのかで、ナチュラルサウンドは拡がりを持ってくる。
(その58)で書いていることも、ナチュラルサウンドについて、である。
そのスピーカーらしく、そのブランドらしくなるのもナチュラルサウンドと考えてほしい。
同時に鳴らす人らしい音もまたナチュラルサウンドと言えよう。
Qobuzが日本でサービスを開始して半年以上が経っている。
Qobuzがはじまったのだから、そろそろTIDALも、と思っていたけれど、一向に始まる気配がない。
そうこうしているうちに、今度はTIDALの経営があまり芳しくない、といった話も聞こえてくる。
本当なのかどうかはわからないが、そうかもしれない……、思わないわけではない。
昨晩、ふと思い立って、先ごろ、ストリーミングが解禁になったことがニュースとして取り上げられていたKinki Kidsをroonで検索してみた。
日本でサービスを開始しているQobuzにはなく、
まだのTIDALには、けっこうな枚数のアルバムが聴ける。
これは、いったいどういうことなのか。
そろそろ日本でもサービスが開始されるのか。
それとも始まらないから、Kinki Kidsが聴けるのか。
“THE DIALOGUE”がうまく鳴っている音を聴いていると、
あれこれいろんなことを思ったり、考えたりするのは、
私にとっての“THE DIALOGUE”も、青春の一枚だからだ。
十代のころ、よく聴いたディスクが全て青春の一枚なわけではない。
よく聴いたけれど、青春の一枚と言えないディスクと、
青春の一枚と言い切ってしまえるディスクとの違いは、どこにあるのか、と自分でもよくわかっていない。
それでもひとつ言えるのは、
瀬川先生が、熊本のオーディオ店でJBLの4343で鳴らされた音を聴いているからだ。
もし聴いていなかったら、青春の一枚にはならなかったかもしれない。
ミュンヘンでのオーディオショウで発表になったJBLの新シリーズ。
オーディオ関係のウェブサイトが伝えているので、詳細は省くが、
これがJBLのフラッグシップモデルなのか……、と思った人は多いだろう。
来年はJBL創立80周年だから、本当の意味でのフラッグシップモデルは、その時なのかもしれない。
さすがJBL、と言いたくなるモデルが登場するかもしれないし、そうでないかもしれない。
期待はしているけれど、裏切られることも承知している。
今回発表になった新シリーズのスピーカーシステム三機種の写真を見て、菅野先生が書かれていたことを思い出していた。
*
このわずかのつき合いの間に、私は、このスピーカーを欲しくなっている私自身を発見した。ただ、せっかくの仕上げの高さにもかかわらず、あの〝グランセプター〟のエンブレムはいただけない。前面だけならまだしも、サランをはずした時にはホーンの開口部にまで〝ONKYO〟と貼ってある。このユニークな傑作は誰が見てもオンキョーの製品であることを見誤るはずがない。本当はリアパネルだけで十分だ。エンクロージュアやホーンと看板とをごちゃまぜにしたようなものだ。
私がこのシステムを買わないとしたら、このセンスの悪いブランドの誇示と、内容からして決して高いとは思わないが、とにかくペアで200万円という大金を用意しなければならないという理由ぐらいしか見つからない。
(ステレオサウンド 72号掲載「興味ある製品を徹底的に掘り下げる」より)
*
JBLの新シリーズは、ホーン開口部の下側に、新シリーズを誇示するマークが目につく。
品がない、と思った。
これを、いまのJBLの人たちはカッコいいと判断したのだろうか。
だとしたら、80周年記念モデルも音、内容はともかくとして、
デザインに関しては、というよりもセンスが少しばかり不安でもある。
映画「サブスタンス」を観てきた。
私は好きな映画なのだけど、苦手、耐えられないという人も少なからずいるだろう、という映画である。
この映画の中で、母体、分身というセルフが出てくる。
母体と分身のバランスが重要だ、というセルフも出てくる。
この母体と分身のバランスを崩してしまって──なのだが、
観ながら思っていたのは、オーディオのことだった。
「音は人なり」も何度も何度も書いてきているし、言ってもいる。
鳴らす人が母体で、音は分身といえる。
その上で、母体と分身のバランスが重要になるのか。
そんなことをなんとなく考えながら観ていた。
オーディオにおいてバランスは、確かに大事であるが、
ここでのバランスは、母体と分身のバランスのことではない。
それでも母体と分身のバランスもまた、オーディオでは大事なバランスのはず。
映画を観ていない人には伝わりにくいのはわかっているが、
なぜバランスが崩れていったのか、その結果の悍ましさ、
オーディオマニアとして観ていて、この時代に観ていると、
おもうことが少なからず出てくる。
昔から高音質を謳ったアナログディスクは、いろんなレーベルから発売されていた。
もちろんいまも発売されているわけで、半速カッティングを誇らしげに謳っているところもある。
この半速カッティングだが、私は昔から懐疑的である。
それはアナログをエネルギー伝達、デジタルを信号伝達と捉えているからだ。
もちろんアナログディスクを信号伝達メディアとして捉える考えもあっていいし、
その考えに立てば、半速カッティングは有効な手段となるわけだが、
エネルギー伝達メディアとしてアナログディスクを考えているのであれば、
半速カッティングには、どうしても疑問符がついてまわる。
1980年代、山中先生も半速カッティングには否定的だった。
それだけでなく、倍速カッティングの音を聴いてみたい、とも言われていた。
何をバカなことを──、と思う人もいるし、私のように山道する人もいる。
私も倍速カッティングが可能ならば、その音はぜひとも聴いてみたい。
くり返すが、アナログディスクをエネルギー伝達メディアとして捉えているからの倍速カッティングである。
昔から言われているのは、
カートリッジにおいてハイコンプライアンスの方が、
レコードからピックアップする情報量が多い、ということだ。
あるカートリッジの改良版が出た。
以前のモデルよりもハイコンプライアンスになっている。
そういう場合、たいていの評価に、以前のモデルよりも情報量が増えた、とあったりする。
いまもそうだと言える。
ハイコンプライアンスになると情報量が増え、それは良いこととしての評価だし、
そう受け止められてもいる。
でも、本当にハイコンプライアンスになるのは、いいことなのだろうか。
この疑問は、昔から持っている。
十年ほど前にも書いているように、
デジタルは信号伝達、
アナログはエネルギー伝達と考えている。
これは私の考え方、受け止め方であって、
アナログディスクを信号伝達メディアとして再生すること、
そういうアプローチの人がいることに、何か言いたいわけではないし、
そういう考えに立つならば、カートリッジはハイコンプライアンスなのも理解できる。
理解はしても、アナログディスクをエネルギー伝達メディアとして受け止めている私は、
ハイコンプライアンスのカートリッジよりも、
ローコンプライアンスのカートリッジに惹かれる。
ウェストレックスの10Aを聴くと、まさにアナログディスクはエネルギー伝達メディアだと、強く思い込める。
昨晩、菅野先生の「ボーズ訪問記」からの引用のために、
ステレオサウンド 82号をひさしぶりに開いた。
引用が終り、パラパラページをめくっていた。
黒田先生の「ぼくのディスク日記」がある。
スイスのレーベル、イェックリンについて書かれている。そこにも(しちょう)が出てくる。
ここでは、嗜聴である。
「ぼくのディスク日記」は私が担当していた。
だから、当時、こういう嗜聴もあるな、と思っていたことを思い出した。
ステレオサウンド 82号に、菅野先生の「ボーズ訪問記」が載っている。
この項の(その3)で、
《いわばシグナル・トランスデューサーの概念に対してアコースティック・トランスデューサーの概念で作られたものなのだ。》
スイングジャーナル 1977年7月号のSJ選定新製品で、
菅野先生が901 Series IIIについて書かれたことを引用している。
アコースティック・トランスデューサーを、どう考えるか。
ここにつながることが、「ボーズ訪問記」にある。
*
私は良い音にとって三つの要素が重要だと考えています。まずバランス。各周波数帯のエネルギーバランスが重要です。次にコンサートホールの空間的アスペクト。各方向からどれだけのエネルギーがやってくるかということですね。コンサートホールではほぼ全方向から音が飛んできますから。それに時間差です。たとえばオーケストラを聴いているとすると、いろんな方向に反射して200ミリから500ミリ秒の遅れが出ます。今いるこの小さな部屋なら20〜50ミリ秒ぐらいでしょう。これらをスペクトラム(Spectrum)、スペーシャル(Spacial)及びテンポラル(Temporal)と呼んでいます。こういったことはホールの重要な要素ですが家庭では実感できません。規模が小さすぎるからです。けれども我々はどれだけナマの音楽に近づけるかということはできます。たとえばスピーカーのバランスや指向性をよくすることはできますが、時間差を与えることはできません。この三要素を家庭でどこまで再現できるかが、ナマの音にどれだけ近づけるかということです。周波数のエネルギーバランス、音のリスナーに届く方向という二点はかなり現代の技術です可能なことですが、テンポラル、つまり時間差の面ではいかんとも難しい問題があります。ディジタルを使った遅延装置等が開発されていますが、これとて所詮スピーカーを通した部屋の特性に限定されてしまうのです。物理的に不可能な点がここにあります。したがってもしここに絶対のナマの音というものがあれば、我々は限りなく、自その点に近づいてもそこには到達出来ないという事です。
もし絶対のナマの音がと言いましたが、これも確たるものとは限定できない。人間の感性は動きますからね。
*
ボーズ博士の発言だ。
ステレオサウンド 82号は、1987年春に出ている。
この時は、まだ編集部にいたけれど、この記事への反応は薄かったように思っていた。
どれだけの読者が、この「ボーズ訪問記」を熱心に読んでくれたかは、なんとも言えない。
だから、引用したところを読んでなんらかの関心を持ったならば、ぜひ全文を読んでほしい。
フランコ・セルブリンのKtêmaで、“THE DIALOGUE”の見事な鳴り方を聴いて、
そのパワーリニアリティの優秀さに驚き、感心するとともに、
ホーン型スピーカーのローレベルにおけるリアリティということも考えていた。
リアリティであって、ローレベルにおけるリニアリティではない。
ホーン型スピーカーならばなんでもいいというわけではなく、
優れたコンプレッションドライバーによるホーン型スピーカーということになるが、
ホーン型ならではのローレベルでのリアリティは、
現代のダイレクトラジエーター型のスピーカーからは、まだまだ得られないではないのか。
そしてもうひとつ思うことがある。
ここで書いているローレベルのリアリティとは、
スピーカーによる演出に近いのではないか、ということであり、
このローレベルのリアリティは、ホーン型スピーカーのそれとは違う、もうひとつがある、ということ。
伝統的なBBCモニタースピーカーにも、ホーン型とは違うローレベルのリアリティがある。
そこに私は惹かれているように、今回Ktêmaでの“THE DIALOGUE”を聴いての気づきだ。
この項を書いていると、カッコいいアンプについて考えようになってきている。
音がいいアンプとか優秀なアンプとか、完璧なアンプ、理想のアンプ、
そういったことではなく、
パッと見て、カッコいいと思えるアンプのことである。
だからといって、出てくる音がとんでもなくひどかったら、
カッコいいとは思わないわけで、音も大事なのだけど、
それよりもカッコいいかどうか、それにはメーターの存在が、
けっこう大きく関係しているように感じている。
SAEのMark 2500。
ここ数年、毎日、その顔(フロントパネル)を見ていると、
Mark 2500は、私にとってカッコいいアンプの、かなり上位に来るな、と思う。
SAEにはMark 2400というモデルもあった。
ほとんどMark 2500と同じ顔つきといえる。
違いは、メーターの感度切替用のプッシュスイッチがないだけなのだが、
たったこれだけでも印象はずいぶん違ってくる。
Mark 2500はカッコいいと思うのに、Mark 2400をそう思ったことは一度もない。
写真を見る度に、残念だな、わずかな違いなのに、全体の印象はこれほど変るのか──、
そんなことを思ってしまう。
ということはカッコいいアンプとメーターは、あまり関係がないんではないか、
そういうことになるわけだが、それでもカッコいいアンプとメーターは、そう単純なことではないとも思う。
今の世の中、全てはビジネスが支配的である。音楽の現場も、それを包含する文化のあらゆるアクティヴィティは商業主義に支配されざるを得ないといってよい状況だ。ましてや、一つ一つが、利益追求の企業が生産する商品であるものを使わなければならないオーディオについては、その中で文化的、芸術的息吹を呼吸することは困難なことであろう。今のオーディオが物中心に流されるのも、むべなるかな……である。僕の願いは、この環境の中で、無理は承知で、あえてメーカー各位に、この点の反省を、そして、ユーザー諸兄には物をこえた心の世界の認識を求め、自ら、ハングリー精神を養っていただきたい……ことにある。人間らしさを保ち、幸せの価値観をもつための、そして、文化を守り築くための、現代社会からのサバイバルである。
*
この文章を読まれて、どう思われるか。
菅野先生の「オーディオ羅針盤」のあとがきからの引用だ。
「オーディオ羅針盤」は1985年に出版されている。四十年前だ。
フランコ・セルブリンのKtêmaで聴いた“THE DIALOGUE”のベースは、良かった、と前回書いた。
私はとてもいいと感じていたし、この日、来られた方もいいと感じられた。
でも、この日のベースの音を締りが悪い、とか、緩いとか言う人はきっといるだろうな、とも思っていた。
適度にふくらんで、気持よく弾んでくれるのだから、
アクースティクベースの鳴り方としては、良いと感じるわけだが、
昔から、そうアナログディスク全盛の時代から、
低音は締っていなければ、いい低音ではない、と主張する人が、
けっこう多いどころか、時には(場合によっては)多かったりすることだってあった。
締った低音、クリアーな低音は、確かにオーディオ的快感がある。
贅肉を一切感じさせない低音は、でもどこまでいってツクリモノの低音でしかない。
“THE DIALOGUE”でのベースは、アクースティクベース(ウッドベース)である。
それがオーディオ的快感といえる低音で鳴っても心地良くはない。