Archive for category テーマ

Date: 7月 12th, 2018
Cate: 世代

とんかつと昭和とオーディオ(その7)

友人(オーディオマニアでもある)のAさんと、
先月も今月も、とんかつを食べにいっていた。

とんかつ屋で飲み、あれこれ食べて、最後に定食。
そしてデザート、コーヒーというのが、二人の間で流行っている。

そんなことができるとんかつ屋は、東京でもそう多くはないはずだ。
それに、あまり遠くに出掛けるのも億劫だし。

とんかつ屋も、やはりブームのようである。
つい先日も、二軒のとんかつ屋に行列ができていた。
どちらも予定していた店である。

飲んで食べてデザートまで、という店は、
最高のとんかつの提供を掲げている店ほどではない。

気軽に入れる店で、美味しい店だから繁盛するのもわかる。
最高のとんかつの提供を掲げている店も、行列はすごいのは知っている。

長い行列に並んでまで、という気持は二人ともない。
入ろうとしていたとんかつ屋が行列だったから、違う店に入り少しばかり飲み食いして、
行列がなくなったころをみはからって、ふたたびとんかつ屋に向う二人である。

東京で話題になっている最高級のとんかつ屋にはまだ行っていない。
そこでのとんかつがどういうものなのか、食べてないのだから何も言えないのだが、
先日Aさんと二人で食べたとんかつは、ご飯とよく合うのだ。

これは嬉しい驚きである。
とんかつだけを食べるよりも、ご飯といっしょに食べたくなるとんかつである。

もしかすると、最高級のとんかつ屋のとんかつは、
とんかつだけで食べた方が美味しいのかもしれない……、
そんなことを勝手に思いながら味わっていた。

今回食べたとんかつ屋のとんかつよりも、もっと美味しいとんかつはあるだろうし、
ご飯にしても、もっと美味しいご飯を出すところはあるはずだ。

けれど、とんかつとご飯をいっしょに食べての美味しいは、
個々のとんかつ、ご飯が美味しければ、それで味わえるとはかぎらない。

スピーカーとアンプの組合せは、そこはまったく同じである。

伊藤先生が《ラーメンと共に日本人に好かれる食いもの》とされるとんかつは、
ご飯と合うからこその《日本人に好かれる》わけだろう。

Date: 7月 12th, 2018
Cate: ディスク/ブック

スピーカー技術の100年 黎明期〜トーキー映画まで(さらに追記)

スピーカー技術の100年」を読んでいる。

細部まで熟読まではしておらず、最初から最後までパッと目を通した程度なのだが、
ひとつ気になったことがある。

333ページに《オーディオ研究家の加藤秀夫》とある。
これはそのとおりである。

331ページ《レコード演奏家として著名な高城重躬》とある。
ここがひっかかっている。
些細なことである。

けれど、高城重躬氏は、菅野先生の定義されるところのレコード演奏家だろうか。
オーディオ研究家に、なぜされなかったのか。

Date: 7月 12th, 2018
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(その44)

ステレオサウンドに入って、一年くらい経ったころに、
菅野先生からいわれたことは、いまもはっきりと心に刻んでいる。

世の中には無駄なことはひとつもない、といわれた。
続けて、無駄なことと思うのは、そう思う本人が、無駄なことにしているだけだ、と。

そんなの無駄、そのひとことで片付けてしまう人こそ、バカだ、とも、
はっきりといわれた。

ほんとうにそのとおりだ、と思ってきいていた。
このことは、歳を重ねるとともに、深く実感している。

かっこつけているつもりなのか、
オーディオのことに限っても、「そんなの無駄!」と切り捨てるかのようにいう人がいる。
そういう人には、もう何もいわない。
心の中で、「あなただけが無駄にしているだけでしょう」と呟くだけだ。

人は、どんな人であれ、間違いを犯したり、失敗をやってしまう。
間違いも失敗も、完全に拒否するには、何もしないことだ。

問題は、自らの間違いや失敗から、目を背けてしまう人がいる、
目をつむってしまう人がいる──、
つまりなかったかのようにふるまう人がいる、ということだ。

簡単に記憶から消し去ってしまっているのだろうか。
だとしたら、ひとつの特技といえよう。

けれど、そういう人は、無駄をそうやって生み出していることに気づいていない。
無駄なことはひとつもない、とは絶対に思っていない人だ。

ジュニアさん、朝沼予史宏さんは、そういう人ではない、と信じている。
けれど、ステレオサウンドの染谷一編集長は、どうなのか。

そこが知りたいし、そこをはっきりさせたい、と思い書きつづけている。

Date: 7月 12th, 2018
Cate: オーディオ入門

オーディオ入門・考(Dittonというスピーカー・その9)

駅からの帰り道。
すれ違った小学中学年くらいの女の子とそのお母さん、それにお母さんの友だち、
と思われる三人組とすれ違った。

女の子が主張していた。
「映画館って、映画観るだけでしょ。何が楽しいの。観る以外何もないでしょ」と。

お母さんも、その友だちも苦笑いしているように見えた。
映画館は、女の子のいうように映画を観るところであり、
映画を観る以外の何かは、ほとんどない。

パンフレットを買ったり、上映中の映画の関連グッズが少し販売しているくらい。
あとは、おきまりのポップコーンくらいか(私は嫌いなので買わないけれど)。

私が、その女の子と同じくらいのころ、
映画はけっこうな娯楽だった。
近所の歩いて行ける名画座でもそうだったし、
バスに一時間ほど乗って、熊本市内のロードショー館でみる新作映画は、
もっともっと楽しい娯楽であった。

映画を観るだけ、であった。
それが、たまらなく楽しかった。

いまは、どうも違うのか。
それとも、その女の子だけが特別なのか。
その女の子と同世代の子たちも、同じように映画館をつまらない場所だと思っているのか。

この女の子は、映画館を、ディズニーランドとかのテーマパークと比較して、
そんなことを言っていたのか。

Date: 7月 12th, 2018
Cate: フルレンジユニット

大口径フルレンジユニットの音(その13)

(その12)で、友人のOさんが、秋葉原に行く、ということを書いている。
コイズミ無線で、Beymaの30cm口径のダブルコーンの12GA50を購入。
さっそく今日聴いています、という連絡があった。

ダブルコーンのフルレンジユニットの周波数特性は、
グラフをみると中高域がアバレ気味で、中高域のクセが強いのでは? と、
つい思いがちになる。

そういう傾向のダブルコーンのフルレンジがあるのも確かだ。
けれど30cm口径ともなれば、中低域の量感もきちんとある。
バランス的に、小口径の、同じ傾向のダブルコーンのフルレンジよりも、
案外気にならないのではないか、と思っている。

Beymaの12GA50の音は、懸念されるようなクセはない、とOさんから連絡があった。
そうだろう、と思う。

12GA50は、こんな値段で大丈夫なの? と思いたくなるような価格設定だ。
一本約一万五千円。

ふつう、この価格の、この口径だとフレームはプレス製だと思いがちだが、
アルミダイキャストである。

振動系、磁気回路が同じでも、
フレームが違えば、聴感上のS/N比が違ってくる。
聴感上のS/N比は聴感上のfレンジにも関係してくることは、
以前書いている通りだ。

Oさんは、このブログを読み、12GA50を購入されている。
つまりOさんにとって、このブログは、
別項「黒田恭一氏のこと(「黒恭の感動道場」より)」に出てくる「口コミ」となったわけだ。

Date: 7月 11th, 2018
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(その43)

問題を起した人のクビを切るだけなら、上に立つ人ならば誰でもできる。
切っただけでは、それで終ってしまう。

菅野先生は、やり直す機会を与えられていた。
ひとつの組織の上に立つ人しての行動といえる。

オーディオ評論家は、いわばフリーだから、
組織という言葉を持ってくるのはおかしいと思われるだろうが、
実際には「組織」といっていい。

逆にいえば、そういう認識なしに、
オーディオ評論家としての、ほんとうのところでのいい仕事はできないはずだ。

ステレオサウンドという、ひとつの組織で、ジュニアさんは追い出されている。
仕事のやり方に問題があったのは否定できない事実だが、
菅野先生が朝沼予史宏さんに向けた配慮を、
ステレオサウンドはジュニアさんに向けることはなかった。

ジュニアさんは、あのとき健康を害されていた。
少しばかり長い休養も必要だった。

しばらく離れて、またやり直せる機会を、ステレオサウンドは与えなかった。
だから、それで終ってしまっている。

私は、朝沼予史宏さんよりもジュニアさんのほうが才能が上と見ている。
このへんは人によって見方が変ってくるだろうから、
私はそう思っている、というだけである。

その6)から取り上げている今回の件、
ステレオサウンドの染谷一編集長が、avcat氏という匿名のオーディオマニアに、
207号の柳沢功力氏のYGアコースティクスのHailey 1.2の試聴記のことで謝罪した件。

ジュニアさんの問題とも、朝沼予史宏さんの問題とは性質が違う。
今回の件を、何が問題なの? という人がいるのも知っている。
ここも、ジュニアさん、朝沼予史宏さんの件とは違うところだ。

染谷一氏本人も、なんの問題があるのか、ぐらいに思っているのかもしれない。

ジュニアさんの場合は、
彼自身がほんとうにつくりたかったオーディオの本の編集において起ったこと。
一人で突っ走りすぎた、ともいえるのかもしれない。

朝沼予史宏さんの場合も、私には、(その41)で書いたことが原因のように思える。

どちらも想いが暴走してしまったのかもしれない。

染谷一編集長の件は、ここがはっきりと違う。

Date: 7月 11th, 2018
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(その42)

菅野先生の「やりすぎたんだよ」は、
朝沼予史宏さんを慮ってのことばである。

菅野先生はComponents of the yearの選考委員長として、
朝沼予史宏さんを選考委員から外されている。

苦渋の決断である。

菅野先生は、こう続けられた。
「朝沼くんならば、きっとやり直せる」と。
それを期待してのことだった。

菅野先生は、そのころの朝沼予史宏さんの行為はやってはいけないことだし、
そんなことを続けていては、朝沼予史宏という一人のオーディオ評論家をつぶしてしまうことになる、
朝沼予史宏という才能を殺してしまうことになる。

そんなことになる前に、なんとかしないと……。
選考委員から降ろされることが、朝沼予史宏さんに与える影響の大きさは、
菅野先生がいちばんわかっておられたはずだ。

それによってしんどい時期があっても、
朝沼予史宏さんならば、はい上がってくれる、と。

それには一年、二年……、もう少し必要なのかもしれない。
それでも腐らずにオーディオ評論という仕事を全うしていけば、
そこで再びComponents of the yearの選考委員になれたのである。

なのに朝沼予史宏さんが、突然逝ってしまわれた。
こんなことになろうとは、菅野先生もまったく予想されていなかった。

あの日の菅野先生の落ち込まれ方は、
朝沼予史宏さんへの期待への裏返しでもあった。

Date: 7月 11th, 2018
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(その41)

オーディオ評論家の領域を超えたところでの仕事、
オーディオ評論家の領域を逸脱してしまった行為。

前者をめざしていたはずなのに、気づいたら後者であった。
それが朝沼予史宏さんが、Components of the yearの選考委員ではなくなった理由だ。

具体的ないくつかのことは、
菅野先生からではなく、他のオーディオ業界の人らから聞いている。
ここで、その具体的なことは書かない。

朝沼予史宏はペンネームである。
五十音順で最初にくるように、「あ」で始まる苗字にした、
予見、予知の「予」を名にいれたかった、
そんな理由を、朝沼さんから直接きいている。

そのことをきかされたとき、沼田さん(朝沼さんの本名)は野心家なのかも……、と思った。
そうだったのかもしれない。
そうだったからこその、あのヴァイタリティであった、とはいえないだろうか。

私が先生と呼ぶオーディオ評論家の人たちは、
一般的なイメージとしてのオーディオ評論家の領域を超えたところでの仕事もされていた。

どの人がどういうことをも、ある程度は知っているが、
これもここで書くことではない。

朝沼予史宏さんも、そのへんのことは私と同じか、それ以上に知っていたはずだ。
だから、そこを目指されたのかもしれない。

けれど、時代が違っていた。
同じ人が、違う時代に生きていたら、
オーディオ評論家の領域を超えたところでの仕事をできたかは、なんともいえない、と思う。

オーディオ評論家の領域を超えたところでの仕事をめざしていたのに、
オーディオ評論家の領域を逸脱してしまった行為を、気づいてらやっていた──、
そういうことなのかもしれない。

菅野先生は、「やりすぎたんだよ」といわれていた。
確かに、朝沼予史宏さんのそれらの行為は「やりすぎ」である。
オーディオ評論家の領域を逸脱してしまった行為である。

Date: 7月 11th, 2018
Cate: フルレンジユニット
1 msg

大口径フルレンジユニットの音(その12)

(その11)で終りにするつもりでいたが、
友人のOさん(私より10くらい若い)が、この項を読んでくれて、
30cm口径のダブルコーンのフルレンジに興味を持った、という連絡があった。

しかも今日これから秋葉原に行き、購入してくる、とのこと。

audio wednesdayに来てくれたブラジル音楽好きのHさんも、
メールで、7月の会はおもしろかった、と伝えてくれた。

Kさんは、いつも鳴らしているアルテックよりも、ずっと好ましい、
これからも、これ(AXIOM 402)で行きましょう、といっていた。

AXIOM 402を聴いて、何か感じるものは人それぞれあったはずだ。

AXIOM 402の背面にある周波数特性の範囲。
40Hzから11,000Hz。
40×11000=44,000である。
ほぼ40万の法則にあう。

AXIOM 401は30Hzから12,000Hzで、こちらは36万。
どちらも40万に近い値になる。

数値での周波数特性は、表記の仕方によって違ってくるから、
ユニットの背面の数値をそのまま鵜呑みにしているわけではないが、
それでも、と思うところはある。

小口径のフルレンジであれば、高域にはのびていくが、
低域方向は逆に苦しくなる。

シングルボイスコイルのフルレンジユニットで、
40万の法則的といえるのは、30cm口径のダブルコーンかもしれない。

Date: 7月 11th, 2018
Cate: ディスク/ブック

スピーカー技術の100年 黎明期〜トーキー映画まで(追記)

佐伯多門氏の「スピーカー技術の100年」。
昨日、電子書籍にしてほしい、と書いた。

電子書籍にするのであれば、英訳してほしい、とも思う。
そうすれば海外でも販売できる。

オーディオの技術書で、日本の書籍が海外で評価されていることはないのではないか。
海外の技術書は、日本にも入ってきている。
私も何冊か持っている。

英訳して紙の本ということでは、コスト面でも大変だろうが、
英訳・電子書籍であれば、一度制作してしまえば、長いこと販売できる。

Date: 7月 11th, 2018
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(理解についての実感・その6)

フルトヴェングラーの「音楽ノート」のなかにある。
     *
 生きた作品は、思想や理論によって破壊されることがない。かといって、その生命が思想や理論によって守られるということもありえない。肝要なのは、火花が飛び移り、生きた音楽が生きた聴衆を見出すということである。そこでは、自己の過剰の知性による固定観念のなかに忌まわしく捕えられた現代に見られる、あの即座に準備され、いつでもすぐ仕上がる知ったかぶりなどは、まったく無視されるのである。
     *
私がどう解釈したかを、ここで書くつもりはない。
理解への実感に関係することだと感じたから、引用している。

そして、ここでのタイトルにも関係している。

Date: 7月 10th, 2018
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(その40)

その39)を読んで、オーディオ業界の事情通を自称している人のなかには、
菅野先生がそんな表情をするはずがない、と思う人がいるに違いない。

菅野沖彦が朝沼予史宏の才能を嫉んでつぶそうとした──、
いいかたは微妙に違っていても、
そんなことを言ったりインターネット上に書いたりしている人がいた。

そのことについて菅野先生は何も語られていない。
だから誤解が誤解のまま、一時期拡がっていた。

それは誤解だよ、と何度か書こうと思った。
けれど思いとどまって書かずに、十数年が経った。
まだ誤解は残っているようだ。

ほんとうに朝沼さんをつぶそうとしていた人が、
2002年12月8日に、あんな表情をするはずがない。

朝沼予史宏さんは、
Stereo Sound Grand Prixの前のComponents of the yearの選考委員の一人だった。
けれど降ろされていた。

オーディオ業界の自称事情通の人らは、
菅野沖彦が朝沼予史宏を降ろした、と吹聴していた。

確かにそれは事実だ。
このことが誤解につながっている。
だが理由がある。
朝沼予史宏さんをつぶそうとしてでは断じてない。

その逆だった。

Date: 7月 10th, 2018
Cate: 老い

老いとオーディオ(余談・その8)

ウエスギ・アンプのU·BROS3とマイケルソン&オースチンのTVA1。
ふたつのKT88のプッシュプルアンプの対比というより、
グラシェラ・スサーナの「抱きしめて」では、二人の女性の対比である。

歌い出しの「抱きしめて」。
その後に続く歌詞。

一人は「抱きしめて」といいながら、
こちらとの距離をぐっと縮めてくる。
「抱きしめて」の歌詞のあとは、すぐそこにいるような錯覚すら起す。

もう一人の「抱きしめて」は、そこに込められている心情は同じであっても、
ずっと控えめだ。奥ゆかしいともいえよう。

実際にこんなシチュエーションがあったなら、
そのあとにとる行動は、男ならみな一緒であろう。

それでも控えめな「抱きしめて」のあとには、
こちらから近づいていく必要はある。

その6)で上杉先生の、ステレオサウンド 60号での発言を引用している。
ここでは、もう引用しないが、つまりはそういうことだ。
控えめな「抱きしめて」でも、そういうことである。

肝心なところは同じであり、そういう違いをTVA1とU·BROS3には感じる。
若いころならTVA1を迷うことなく選ぶ、と(その7)で書いている。

そのころから30年が経っている。
どちらの「抱きしめて」も、いい。

聴き手のこちらの心情も、いつも同じなわけではない。
TVA1の「抱きしめて」でなければならない時もある。
U·BROS3の「抱きしめて」こそ、と思うときもある。

歌っているのはグラシェラ・スサーナである。
一人の歌手なのに、アンプというシステムの内面が変ることで、
「抱きしめて」も、それに続く歌詞も、
込められている心情は変らずとも表現はまるで違ってくる。

アンプの違いが、心情の違いになってしまっては困る。
なんともつまらない「抱きしめて」になってしまうアンプもある。

そんなアンプなら、「抱きしめて」を誰かと一緒であっても聴けよう。
けれど、心情をきちんと歌にのせてくれるアンプであるなら、
TVA1にしてもU·BROS3にしても、これはやはり独りで聴くしかない。

誰かと一緒でも聴ける、という人は、
「抱きしめて」に込められている心情がわかっていない。
それだけだ。

Date: 7月 10th, 2018
Cate: ディスク/ブック

スピーカー技術の100年 黎明期〜トーキー映画まで

無線と実験に長期連載されていた「スピーカー技術の100年」。
佐伯多門氏が執筆されていた。

この記事だけのために無線と実験を買おうか、と思うくらいだった。
けれど、いずれ一冊にまとめられるだろうと思って、買わずにいた。

連載が終ってどれぐらい経つだろうか。
そろそろ出るかな、と思っていたら、
佐伯多門氏の「スピーカー&エンクロージャー大全」が出た。

「スピーカー技術の100年」を出さずに、こっちなのか、と思ったくらいにがっかりした。
もしかしたら出ないかもしれない……、
そうなったら図書館に行って、ひたすらコピーしてくるしかないのか……。

7月9日に、やっと「スピーカー技術の100年」が出た。
近くの書店になかったので、まだ手にしていない。

もうこの種の本は出てこない、と思っていた方がいい。
ハイエンドオーディオばかりに夢中になっている一部のオーディオマニアは、
そんな古いスピーカー技術のことを知ったところで何になる──、
そんなことを思うかもしれない。

そういう人にほっとくしかない。

「スピーカー技術の100年 黎明期〜トーキー映画まで」が出たのは嬉しい。
ただ、現時点では電子書籍化はされていないようだ。
こういう本こそ、電子書籍化をしてほしい。
つまり紙の本が絶版になったとしても、電子書籍だけは継続して出版してほしい。

Date: 7月 10th, 2018
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(理解についての実感・その5)

編集者は読者が読みたがっている記事を提供する──、
そんなふうに考えている編集者がいるのかどうかはわからないし、
ステレオサウンド編集部がそうなのかも知らない。

仮に、ステレオサウンド編集部がそう考えて編集という仕事をやっていたとしたら、
お門違いとしかいいようがない。

読者が読みたがっている記事──、
そんなものは幻想だし、ありはしない。

読者のほとんどはおもしろい記事、ワクワクするような記事を読みたがっていても、
具体的にそれがどういう記事なのか、
そんなことは多くの読者は考えていないし、そういうものである。

そのことを嘆いたりはしない。

編集者は、読者が読みたがっている記事、
そんな幻想ではなく、読者に読ませたくなる記事をつくっていけばいい。
ただ、それだけだ。