Archive for category テーマ

Date: 12月 1st, 2018
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論をどう読むか(その5)

(その4)へのコメントが、facebookであった。
そこには、こんなことが書かれてあった。

コメントを書いてくれた人が読んだオーディオ関連の本には、
オーディオ評論家は専門知識に明るくない方がいい──、
そんなことが書いてあったそうだ。

誰が書いたのだろうか。
オーディオ評論家は……、と書いてあるくらいだから、
オーディオ評論家ではないだろう。

どんな人が、どういう立場の人が、このことを言ったかによっても、
受け止め方は違ってくるところがある。

ただ専門知識といっても、生半可な専門知識ではない。
中途半端な知識であれば、確かにないほうがいいと私も思っている。

井上先生がよくいわれていたこと、
頭で聴くな、耳で聴け、
このことはその程度の知識をもっているがゆえに起ることでもある。

もちろん基礎知識は必要である。
けれど専門知識となると、それを身につけるにはどれだけの時間と情熱を要するのか。
それにその過程においては中途半端であるのも確かである。

ならば、そういった専門知識はない方がいい。
頭で聴くことはなくなるからである。

けれど、オーディオ評論家は専門知識に明るくない方がいい──、
と書いていた人がメーカーの人だったりすると、受け止め方は違ってくる。

メーカー側にとって都合のいい広報マンとしてのオーディオ評論家ならば、
専門知識に明るくない方がいいのは確かなことだ。

Date: 12月 1st, 2018
Cate: オーディオ評論

「新しいオーディオ評論」(ルールブレイカーか・その2)

11月29日の夜は、われら三人はキリギリス、ということも出てきた。
自業自得の男たち、というのも出てきた。

キリギリスとは、イソップ寓話「アリとキリギリス」のことである。
自業自得であることはわかっている。

そんな表現をききながら、
ルールブレイカーに必要なのは、前回書いたこと(ルールを熟知していること)のほかに、
遊び心を持っていることだな、とも思っていた。

遊び心を失ってしまうと、窮屈な世界になってしまう。

Date: 12月 1st, 2018
Cate: 1年の終りに……

2018年をふりかえって(その1)

今日から12月。
月日の経つのをはやく感じた、かというと、
そうでもなかったりする。意外と長かった、と感じているところもある。

あっという間だった、と感じたときもあれば、そうでなかったときもあるし、
長いと感じていたときもある。

今年も、新しく知りあえた人たちがいる。

オーディオがもたらしてくれた人とのつながりである、と一年前にも書いた。
一年後も、同じことを書いている、とおもう、とも書いた。

まったくそのとおりだ。
そして来年もいまごろも、また同じことをきっと書いているだろう。

2018年の始まりは、
1月14日、杉並区の中央図書館の視聴覚ホールで行われた
オクタヴィア・レコードの江崎友淑氏による講演会「菅野録音の神髄」といえる。

ある人から、もしかすると菅野先生が来られる、ということをきいていた。
でも、可能性は低いだろう、とききながら思っていた。
当日も、まったく期待していなかった。

その日のことは別項「「菅野録音の神髄」(その1)」に書いている。
最前列の中央に菅野先生がおられた。

短い時間ではあったが、話すことができた。
このとき、予感はしていた。
こういう予感だけは、なぜだかあたる。

これが最後だ、という予感は、あたってほしくないのに、あたってしまう。

Date: 12月 1st, 2018
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論をどう読むか(その4)

繙いていくことが、オーディオに限らず、
その道の評論家と呼ばれる人たちの第一の仕事ではないのか。

あるスピーカーやアンプを聴いて、その音の印象を、ただ書き連ねる。
どんなにことこまかに書かれていようが、
繙くことが、そこでなされていないのであれば、それは単なる感想文でしかない。

評論の「論」のこだわりすぎて、
付焼刃の哲外的なことをあれこれ書いたところで、
そこで、何かが繙かれていることは、ほとんどない、というか、まずない。
それは、往々にして、自己陶酔文であったりする。

オーディオのことを繙くとは、
オーディオの専門家が、読み手が気づかなかったことを気づかせることである。
オーディオ評論家が、オーディオに接している時間は、
読み手(つまりオーディオマニア)よりも、圧倒的に長い。

ほぼすべての新製品を聴いているわけだし、
メーカーの技術者と直接話すことだってある。
海外のメーカーを訪問することもある。

そうやって得られた知識と経験を有機的に体系づけてこその専門知識。
その専門知識なしでは気づかないことが、オーディオにはある。
オーディオだけではないはずだ。

その気づきを読み手に与えるのが、オーディオ評論家の仕事である。

Date: 11月 30th, 2018
Cate: オーディオ評論

「新しいオーディオ評論」(その6)

2000年の終りに井上先生が亡くなられた。
audio sharingは、その数ヵ月前に公開していた。
それに私が以前ステレオサウンドにいたことを知っているオーディオ関係の知人たちと、
2001年からの数年間、何度かきかされたことは、
「菅野先生が亡くなられた日が、ステレオサウンドのXデーですよね」ということだった。

私と同世代か少し上の人たちの何人かが、言い方は多少違えども、そういっていた。
それに対して私は、「原田勲氏が亡くなった日が、ステレオサウンドのXデーだ」と返した。

これはいまもそう思っている。
ここでのXデーとは、ステレオサウンドの終りの始まりということと受け止めていいだろう。
Xデーという表現を使いながらも、
私に訊いてきた人たちは、Xデーが何を指すのかについては何も語らなかったし、
こちらも特にたずねることはしなかった。

どんな人であっても功罪がある。
功ばかりの人はいないし、罪ばかりの人もいないだろう。
どちらに傾いているかもしれないが、功も罪もある。

ステレオサウンドにも、それはいえる。

ステレオサウンドの功罪について、ここでひとつひとつ書くことはしないが、
確かに功はあった。
それは原田勲氏の功といっていい。

もっとも原田勲氏ひとりの功ではないにしても、
ある時までのステレオサウンドは、ステレオサウンドがあったから──、
といえることがいくつもある。

けれど原田勲氏がいなくなったら……、どうなるのか。
現社長の原田知幸氏だけになってしまったら……。

私一人がそう思っているのかもしれないが、
原田知幸氏に功はない。

だから、現会長の原田勲氏が亡くなったときが、ステレオサウンドのXデーだ、と考える。

Date: 11月 30th, 2018
Cate: オーディオマニア

ドン・ジョヴァンニとマントヴァ侯爵(その3)

昨晩の飲み会で、「本当の恋愛」ということが話題にのぼった。
「本当の恋愛」というのは、どういうことなのか。

よく「本当の恋愛をしたことがあるのか」と問われるシーンが、
物語のなかにあったりする。
実際に、先輩からそういわれたことがある人もいる。

そう問うた人は、本当の恋愛がどういうものなのか、
きちんと説明できるのかどうか。

本当の恋愛……、
そんなことがあっただろうかと思い出すまでもなく、
なかった、とすぐに思っていた。

結局のところ、私にとって本当の恋愛とは、
オーディオよりも常に優先する恋愛なのかもしれない。
だから、本当の恋愛はなかった──、とそんなことを話していた。

Date: 11月 29th, 2018
Cate: audio wednesday

第95回audio wednesdayのお知らせ(再びULTRA DAC)

新製品が出る。
オーディオ雑誌に紹介される。

すべてが聴けるわけではないから、興味ある新製品、
その中でも、ぜひとも聴いてみたい、と思った製品は、なんとかして聴ける機会をつくろうとする。

そうやって、いくつかの新製品を聴いて、
時にはがっかりすることもある。
こちらの一方的すぎる期待に応えてくれなかっただけのことであり、
その新製品が悪い、というわけではない。

こちらの、そういう期待は、聴けるまでの時間が長いほどに大きく膨らみがちである。
そうやってかなりの大きさに膨らんだ期待を、さらに上回る音を聴かせてくれるモノが、
数はそう多くないけれども存在する。

そういう新製品を聴くと、もう一度聴きたくなるものである。
最初に聴いた時は、聴きたいディスクで必ずしも聴けるとは限らない。
それに聴きたいディスクは、一枚か二枚だけなわけがない。

その新製品が、ほんとうにいい音であるならば、
このディスクも、あのディスクも……、と次々に聴きたいディスクが出てくる。

そう思わせてくれる新製品(新製品と限らなくてもいい)は、
そうそう出合えない。

おもいが募っていくオーディオ機器が現れてくれるのは、
それが買えるか買えないか、そういうことは抜きにして、嬉しいものである。

オーディオマニアでよかった、とおもえる。
メリディアンのULTRA DACは、ひさびさにそうおもえた「新製品」である。

Date: 11月 29th, 2018
Cate: オーディオ評論

「新しいオーディオ評論」(ルールブレイカーか・その1)

仲良しチーム(三人)で会っていた。
あれこれ話していたから、こんな時間にブログを書き始めているわけだが、
話の中にルールブレイカーという言葉が出てきた。

話をききながら、新しいオーディオ評論家とはルールブレイカーかもしれない──、
そんなことをおもいながら、
ルールブレイカーは、いわば喧嘩師であり、
ルールを熟知しているからこそのブレイカーでもあるのか、と考えていた。

Date: 11月 28th, 2018
Cate: 日本のオーディオ

日本のオーディオ、これまで(上原晋氏のこと・その4)

ステレオサウンド 55号から、菅野先生によるタンノイ研究が始まった。
一回目は、やはりオートグラフである。
二回目が、SRMとCLMの比較であり、
四回目(58号掲載)で、SRMシリーズを全機種試聴というものである。

SRMシリーズには、オリジナルとなるSuper Red Monitor(SRM)、
これをやや小型化したSRM15X、
12インチ口径同軸搭載のSRM12XとSRM12B、
10インチ口径のSRM10Bの五機種があった。

つまりABCシリーズのArden、Berkeley、Cheviot、Devon、Eatonのラインナップが、
そのままSRMシリーズでも展開されていた。

SRMシリーズは、大掴みに言えばABCシリーズのエンクロージュアを強固にしたものだ。
SMM12Xは、だからABCシリーズのCheviotに相当するモデルともいえる。

CheviotとSRM12Xの外形寸法はほぼ同じだが、重量はCheviotが25kg、SRM12Xが30kgである。
SRM12Xだけでなく、SRMシリーズは、ABCシリーズの相当モデルよりも重量は増えている。

私はSRMシリーズはほとんどが聴いていない。
かろうじてSRMを、わすかな時間聴いたことがあるだけだ。

参考までに、ステレオサウンド 58号での菅野先生の評価を引用しておく。
     *
 SRM12Xは、ユニット口径が12インチの同軸型で、3149と称されるユニットが内蔵されている。トゥイーターとのクロスオーバーも、15インチユニットとは異なり、1・4kHzにとられている。最大連続入力100W、ピークなら350Wというヘヴィデューティな設計で、92dB/W/mの音圧レベルだから、相当な能力をもっているといえるだろう。一連の音質調整をこのシリーズはすべて備えていることはいうまでもない。つまり、ロールオフ4段、ハイエナジー5段でコントロールが可能。エンクロージュアはバスレフ型で、パイプダクトが下部に一本ある。たいへんバランスのよいシステムで今回の試聴機種の中では最も強く印象づけられた製品であると同時に、SRMシリーズの中にあって、堂々と存在の独自性を誇り得る機種でもあると思う。12インチ口径のユニット3149の音質はたいへん優れていて、全帯域のバランスとしては、むしろ15インチ口径のK3808や、K3838、3828よりよいと思われる。ごく低い領域は15インチ口径が勝ることは当然だが、しかしエンクロージュアを小型化した場合には、絶対、12インチ口径の低音のほうが質がよいはずだ。
(中略)
 SRM12Xは、SRMシリーズの中で最も一般向きとして受け入れられる製品だと思う。30cmのデュアルコンセントリックのバランスはたいへん好ましく、音の質感はタンノイの重厚さを保ちながら、シリーズ中、もっともカラーレイションの少ないものといってよい。聴き応えのあるタンノイ特有の説得力は強いが、中低行きがよくコントロールされているので、固有の癖と感じられる音ではない。スケール感は十分で,15インチユニットの大型フロアータイプとまではいかなくても、一般家庭の20畳ぐらいまでの部屋なら不足はないはずだ。
     *
いまこうやって菅野先生のSRM12Xの評価を読み返していると、
上原晋氏らしい選択とおもえてくる。

Date: 11月 28th, 2018
Cate: audio wednesday

第95回audio wednesdayのお知らせ(再びULTRA DAC)

一週間後の12月5日のaudio wednesdayで、
もう一度メリディアンのULTRA DACが聴ける。

10月12日に、それが決って、一ヵ月以上待ち遠しい、という気分を味わっている。
やっと、あと一週間で再び聴ける、
書いているだけで嬉しくなってくる。

場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。
19時からです。

Date: 11月 28th, 2018
Cate: 日本のオーディオ

日本のオーディオ、これまで(上原晋氏のこと・その3)

上原晋氏のリスニングルームに入って、まず思ったのは、
ラックスのアルティメイトシリーズの冊子ではよくわからなかった部屋の形である。

大きく捉えれば五角形の部屋である。
とはいえ正五角形ではないし、
あくまでも大きく捉えれば、であって、平行面の少ない部屋である。
この部屋の形は、数枚の写真だけで正確に伝えるのは難しい。

天井はもっとも高いところでは4mを優に超えている。
教会の建物のように天井は傾斜している。
1978年に完成したリスニングルームとのことだった。

基本的な設計は上原晋氏自身によるもの、らしい。
リスニングルームは、そのように変形とはいえ、建物の外観はごく普通である。
ラックスの冊子にもあるように、
左右のスピーカーの間にある扉を開けると、上原晋氏の作業室といえる空間がある。

この空間も、また変形である。
つまりリスニングルームを、そういう設計(形)にするために生じた空間を、
仕事場にされていたし、その隣は暗室であった。

リスニングルームには、上原晋氏撮影の写真が飾られていた。
長男の嵩史氏によれば、晩年はオーディオはあまりやられていなかったようだ。

写真に集中されていた、とのこと。
理由はよくわからない、とのことだった。

でも上原晋氏のシステムを眺めていると、
なんとなくではあるが、そうかもしれない、とはおもえてくる。

スピーカーは前述したようにタンノイのSRM12Xだ。
このスピーカーは型番の数字が示すように12インチ口径の同軸型ユニットを搭載している。

SRMは、Super Red Monitorの略で、
15インチ口径搭載のSuper Red Monitorがあるし、SRM15Xもあった。
さらには外観的はほぼ同じである、Classic Monitor(CLM)もあった。

けれど上原晋氏はSRM12Xを選ばれている。
アナログプレーヤーにも同じことがいえる。

回転数が合わないということで、別のプレーヤーをいまは使用されているが、
リスニングルームには、ラックスのPD131が置いてある。
上級機のPD121ではなく、131の方があった。

Date: 11月 27th, 2018
Cate: 日本のオーディオ

日本のオーディオ、これまで(上原晋氏のこと・その2)

アルティメイトシリーズは1983年に発売になった。
ラックス最後の真空管アンプということだけでなく、限定販売でもあった。

けれど翌1984年には、
ウェスターン・エレクトリックの300Bを採用したシングルアンプMB300を出す。
その後も、ラックスは真空管アンプを出しつづけているし、
現在も真空管アンプはラインナップのなかに、いつもある。

アルティメイトシリーズは、すぐに完売した、ともきいている。
限定ということも売行きを加速したのかもしれないが、
真空管アンプは、まだまだ商売になる、とラックスは思ったのだろうか。

このことについて、あれこれ書くつもりはない。
アルティメイトシリーズは、ラックスにとって特別な製品であったのだろう、
カタログの他に、冊子もつくっている。

ラックスの製品で、こういうことはあったのかどうか知らないが、
他のメーカーをながめてみても、あまり例がないことだろう。

冊子がつくられることは、ままある。
けれど、それらの冊子は、
各オーディオ雑誌に製品が取り上げられた記事をまとめたものである。

アルティメイトシリーズの冊子のような例は、少なくとも私には他に知らない。

この冊子をみたことがある人ならば、
そこに上原晋氏のリスニングルームが載っていることを記憶されていることだろう。

タンノイのGRFメモリーが置かれてあった。
このタンノイを、アルティメイトシリーズのアンプで鳴らす、という記事である。
この記事のせいだろうか、
上原晋氏は、GRFメモリーを鳴らされていた、と思われた人は少なくないはず。
けれど、実際はタンノイのSRM12Xを鳴らされていた。

冊子の記事をよく読み、よく写真をみれば、なんとなくわかることなのだが、
GRFメモリーは、冊子のために一時的に上原晋氏のリスニングルームに持ち込まれたものだ。

Date: 11月 26th, 2018
Cate: 純度

オーディオマニアとしての「純度」(わがまま、でいる聖域)

「ぼく(私)、ナイーヴですから」と、なぜか自慢気にいう人たちがいる。
私は繊細だから傷つきやすい、とでもいいたいのだろう。

けれどナイーヴ(naive)とセンシティヴ(sensitive)とは違う。
繊細とは、ナイーヴではなくセンシティヴのほうである。

繊細であるためには、強くなくてはならない。
「ぼく、ナイーヴですから」といっているようでは、
繊細でいるための強さにはほど遠い。

別項で「オーディオ入門・考(いつまでも初心者なのか)」を書いている。
ほんとうの意味での初心者は嫌いではない。

どんな人にでも、初心者のときはある。
けれど、どんなにキャリアを積んでも、「私は初心者ですから」という人が、
はっきりいって嫌いである。大嫌い、といってもいい。

そんな人は、どんなにオーディオを長いことやっていても、
聖域を築けなかった(持てなかった)のだから。

Date: 11月 26th, 2018
Cate: ショウ雑感

2018年ショウ雑感(その24)

音楽が好きな人に、オーディオに興味・関心をもってもらうには、どうしたらいいのかについては、
私がステレオサウンドにいたころからいわれ続けているし、
おそらく、そのずっと前から、そうだったのだろう。

人によって、違う。
ほどほどの価格でもいい音で聴いてもらうことが大切、という人もいれば、
正反対の、価格は無視して、とにかくいま考えられる最高の音を聴いてもらうのがいい──、
そういう意見もある。

私は、「五味オーディオ教室」で、この世界に入ってきたわけだから、
どこかで、すごい音、いい音を聴いて──、というわけではない。

もう、このことに関しては、人それぞれなのだろう。

ただそれでも、ひとつだけいえることはある。
オーディオはかっこいい、と思わせることだ。

ところが、いまはどうだろう。
ひとつ前に書いたような人が、オーディオショウの会場にいる。
それを、かっこいい、と思う人がいるだろうか。

こんな人のことは、どうでもいいわけで、
オーディオ評論家を、かっこいいと感じている人が、はたしているのか、と思う。

先日も、そういう話になった。
それ以前にも、別の人と、同じようなことを話している。
twitterでは、昔のオーディオ評論家はかっこよかった、というツイートをみかけたこともある。

たしかに、そういう時代があった。
そういう時代を、私は知っている。
私だけではない、そういう時代を知っている人は、まだまだ大勢いる。

別項「オーディオ評論をどう読むか(その2)」で、太陽と月の輝きの違いについて書いた。

月は光を自ら発することはできない。
私が、かっこいいと感じるかどうかは、光を発することができるかどうかだ。

Date: 11月 26th, 2018
Cate: ショウ雑感

2018年ショウ雑感(その23)

大阪ハイエンドオーディオショウで、ひとつとても気になったことがあった。
ショウの運営とか、そういうことではない。
来場者について、である。

インターナショナルオーディオショウでも、写真を撮る人はけっこういる。
音が鳴っている時でも撮る人はいる。
そういう人でも、遠慮というものがやっぱりあって、さっと撮って、というふうに感じていた。

大阪ハイエンドオーディオショウでみかけた人は、すごかった。
音が鳴っていて、こちらが坐って聴いているにもかかわらず、
器材の前、スピーカーの前に立って撮っている。
一枚や二枚ならば、こんなことは書いたりはしない。

もう何枚も撮っている。
しかもほんの少しだけアングルを変えて撮っている。

いちおう、こちらの方を向いて、すみませんねぇ〜、みたいな顔をしてみせるが、
基本的には、自分のことだけしか考えていない人なのだろう。

おそらくブログかウェブサイトで、それらの写真を公開するのだろう。

こういったオーディオショウに来る人は、なにもオーディオマニアばかりではないはずだ。
好きな音楽をいい音で聴きたい、とおもって、
オーディオに関心をもって来る人もいたとおもう。

そういう人が、こんな人と遭遇したら、どう思うだろうか。
ちなみに、その人は、私が入った次のブースでも、同じように撮影していた。