Archive for category テーマ

Date: 3月 24th, 2019
Cate: audio wednesday

第99回audio wednesdayのお知らせ(三度ULTRA DAC)

瀬川先生が「続コンポーネントステレオのすすめ」に書かれていることが、
そのままメリディアンのULTRA DACにもあてはまる。
     *
 さて、カートリッジに望む第二条件は、そうしてあらゆる音楽(レコード)をきちんと鳴らしてくれるばかりでなく、そこに、そのカートリッジでなくては聴けない音の魅力がなくてはならない。そうでなくて、どうして、そのカートリッジをあえて選ぶ理由があるのだろう。
 この音の魅力というのを、カートリッジの音のクセと混同して頂きたくない。あらゆる音楽に、その音楽固有の音色の魅力がある。それぞれに異なる音楽の魅力をうまく抽き出しながら、しかもつい聴き惚れてしまうほどの美しい音楽的なバランスの良さが必要だ。どことなく無機的な、いわゆる蒸留水のような音は私は最も嫌う。だいいち、もとの音楽には演奏家の心をこめた気迫もあれば、色や艶もあり、そこにかもし出されるえもいわれぬ深い味わいがある。そういう音楽の魅力を、まるで鳴らしてくれないカートリッジがある。低音から高音までフラットでバランスが良い。ひずみもきわめて少なく、トレースは全く安定していて、どんなレコードも心配なく鳴らしてくれるのに、その音に味わいも艶も余韻の微妙な美しさもなくて、ただ白痴のような美しさだけ聴かせる。そんなカートリッジはどこか間違っていると私は思う。いや、正しいか間違いかなどはこの際問題ではない。そういうカートリッジではレコードの世界の深さを聴き手に伝えてくれないから、思わず時のたつのを忘れてあとからあとからレコードを聴き耽るというような気持にさせてくれない。結構な音でございます、では音楽の魅力は伝わってこない。だが、そういう音だけのカートリッジが、世間では案外、良いカートリッジ、みたいに言われている。
     *
カートリッジをD/Aコンバーターに置き換えて読む。
《思わず時のたつのを忘れてあとからあとからレコードを聴き耽るというような気持にさせて》くれるのが、
ULTRA DACである。

場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。
19時からです。

Date: 3月 24th, 2019
Cate: オーディオマニア

つきあいの長い音(その40)

つきあいの長い音は、原風景へとなっていくのか。

Date: 3月 24th, 2019
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンド 210号(その2)

別項「オーディオのデザイン、オーディオとデザイン(Air Force ZEROのこと・その3)」で、
菅野先生が、オーディオのデザインについての連載を、
「ひどい記事だったね」といわれたことを書いている。

気づいてほしいのは、ひどい記事と思われながらも、
その連載をきちんと読まれていたことである。

私も、その連載は毎回読んでいた。
読んでいたから、菅野先生とふたりして「ひどい記事だったね」となったわけだ。

ひどい記事だと思っても、一度は目を通す。
そのことを思い出したから、今日、ステレオサウンド 210号を手にとっていた。

336〜337ページの、LINNの新製品、
Selekt DSMの記事でページをめくる手が止った。

違和感といったら大袈裟すぎだけど、
あれっ? と思うところがあってだ。

記事にはSelekt DSMの写真がある。
Selekt DSMのディスプレイには、
Shostakovich;
Symphony No.5 in…
96kHz/24bit FLAC
と表示されている。

これ自体におかしいところがあるわけではない。
ショスタコーヴィチの交響曲第五番を、
Selekt DSMを試聴した人は聴いたのだな、と写真を見て思う。

けれど試聴記にはショスタコーヴィチのことはまったくない。
試聴記になくても聴いたんだろうな、と思い、
新製品紹介の最後にある試聴ディスク一覧(399ページ)をみると、
確かに、ショスタコーヴィチ:交響曲第五番とある。

けれどショスタコーヴィチを試聴用に聴いているのは三浦孝仁氏である。
Selekt DSMを試聴しているのは山本浩司氏である。

試聴ディスク一覧は、試聴に使われたディスク(ファイル)のすべてではないことは、
必ず「他」と記されていることからもわかる。

そうであっても、試聴記に一切出てこないディスク(ファイル)を表示させるのか。
Selekt DSMのひとつ前のページでは、dCSのBartók DACを三浦孝仁氏が紹介している。

そこの試聴記にはショスタコーヴィチと出てくる。

Date: 3月 24th, 2019
Cate: Noise Control/Noise Design

Noise Control/Noise Designという手法(その3のその後)

日本民間放送連盟が総務省に、
ラジオのAM放送の廃止を求める方針を決めた、というニュースが二日前にあった。

すでにAM放送の一部はワイドFM対応のチューナーで受信できるようになっている。
ノイズがFM放送よりも多く、音質面でもAM放送は不利である。

しかもAM放送は1992年にステレオ放送となったが、
いろいろな事情から元のモノーラル放送に戻っている。
一方でインターネットのストリーミングを利用したradikoではステレオで聴ける。

そういう状況においてAM放送が廃止に向うのは仕方ないことなのかも、と思いながらも、
AM放送が終ってしまったら、鉱石ラジオも無用の長物と化してしまう。

電源を必要としない鉱石ラジオ(ゲルマニウムラジオ)。
いまでもキットが売られているようだから、
若い世代の人たちでも作ったことのある人は少なくないかもしれない。

もっともプリミティヴな受信機である。
ゆえにFM放送は受信できないものだと、二日前まで思い込んでいた。

一応確認のためと思い、検索してみると、
かなり技術的に難しい面もあるが、鉱石ラジオでのFM放送の受信もできないわけではない。
AM放送用の鉱石ラジオの手軽さは、ないといえる。

九年前に(その3)を書いている。
そこである方のツイート、
「ゲルマニウム(ラジオ)でなければ復調できない類の記憶」を引用している。

AM放送がほんとうに廃止されれば、ノイズに関する一つの記憶が、
そこから先の世代には存在しなくなる。

Date: 3月 23rd, 2019
Cate: デザイン

プリメインアンプとしてのデザイン、コントロールアンプとしてのデザイン(その10)

ここではヤマハのコントロールアンプC5000を取り上げているが、
なにもC5000だけが、プリメインアンプ的なデザインのコントロールアンプなわけではない。

たまたま、このテーマを書いている途中でC5000が登場したこと、
それとCI、C2といった以前のヤマハのコントロールアンプ、
同時代のCA2000、 CA1000IIIなどのヤマハのプリメインアンプのデザインは、
はっきりと、それぞれにコントロールアンプ的であり、
プリメインアンプ的であった記憶がいまも残っているからだ。

C5000のデザインを見て、私と同じようにプリメインアンプ的だと感じる人もいれば、
そんなふうには感じないという人もいるはずだ。

私自身、どうしてそんなふうに感じるのか、その理由を知りたくて、このテーマを書いている。
まだはっきりと理由を見つけられているわけではないが、
書き始めたころから結論のひとつとして見えているのは、
コントロールアンプとしてのデザインに必要なことは、
オーディオ・システムのデザインの中心として存在できる、ということだ。

それはわかっていたから、別項「オーディオ・システムのデザインの中心」を書いている。

セパレートアンプならば、コントロールアンプがオーディオ・システムのデザインの中心なのはわかるけれど、
プリメインアンプならば、オーディオ・システムのデザインの中心ではないのか──、
そういわれそうである。

いまのところ、ここをうまく言葉として説明できないでいる。
ゆえにもどかしさを感じているが、
プレーヤー、プリメインアンプ、スピーカーといったシステムと、
プレーヤー、コントロールアンプ、パワーアンプ、スピーカーといったシステムとでは、
デザインの中心の意味あいが微妙に、しかしはっきりと違ってくるところがある、と感じている。

この感じているところを、はっきりと掴めたら、
ここでのテーマに、はっきりとした答を出せるはずだ。

Date: 3月 22nd, 2019
Cate: きく

ひとりで聴くという行為(その2)

映画「アリータ: バトル・エンジェル」を観終って、
友人のAさんにすぐにショートメールを送った。

IMAX 3Dで、ぜひ観てほしい、と。
Aさんも「アリータ: バトル・エンジェル」には興味を持つだろうと思って、だった。
Aさんからの返事は、ちょっと意外だった。

音楽ライヴ、落語、遊園地などは平気でも、
なぜか映画館は苦手というか苦痛に感じる、とのこと。

この返事を受けとったのは先月末。
いまになって、「ひとりで聴くという行為(その1)」をそのままにしていたことを思い出した。

これも続きを書こうと思っていたのに、
ついつい他のテーマを書き始めて忘れてしまっていた。

(その1)では、ある記事を紹介している。
映画のシーンによって、人は異なる化学物質を放出している:研究結果」という記事である。

タイトルが、かなり内容を伝えている。
この研究が事実なら、Aさんは人が放出する化学物質に対して、かなり過敏なのではないのだろうか。

おそらく落語や音楽でも、人はなんらかの化学物質を放出しているのだろうが、
落語で、たとえばきわめて残酷なシーンとか悲しいシーンとかはないだろう。
非現実的なシーンもないといえる。

ところが映画はそうではなかったりする。
一本の映画のなかに、さまざまなシーンがある。
一本の映画のシーンがかわるごとに、観客は異なる化学物質を放出する。

それに最新のCGを使った映画は、どこまでが現実に撮影したことなのか、
その判断がほとんどつかない、といえるレベルに達してる。

もうつくれないシーンはない、ともいえる。
そういう映画では、人が放出する化学物質も強くなるのだろうか。

人気のある映画、つまり大勢の観客がいる映画では、
放出される化学物質の量も増えるわけで、
そういった化学物質に過敏症の人がいるとしたら、
映画館での映画鑑賞は苦痛になるであろう。

Date: 3月 22nd, 2019
Cate: ディスク/ブック

La Voix humaine

フランシス・プーランクのオペラ“La Voix humaine”。
オペラといっても歌手は一人。

先日、対訳に気になってGoogleで検索していたら、
いま日本では「人間の声」と訳されているのを知った。

私が“La Voix humaine”を知ったのは、CDが登場したからだった。
この曲の名盤として知られているジョルジュ・プレートル/パリオペラ・コミーク管弦楽団、
ドゥニーズ・デュヴァル(ソプラノ)による演奏が、CD化された。

このころ、“La Voix humaine”は「声」と訳されていた。
1980年代後半の話だ。

フランス語はまったくな私でも、“La Voix humaine”をみれば、
「声」ではなく「人間の声」が正確な訳だということはわかる。

それでもずっと「声」で日本では通じるものと思い込んできた。
30年以上そうだった。

それがいつのころからなのかはわからないが、「人間の声」が一般的になっているようだ。

“La Voix humaine”では電話がなくてはならない存在である。
なので、当時出たCDも電話がジャケットに描かれていたし、
昨年廉価盤で登場したワーナークラシック版も、ジャケットは電話である。

「声」に馴染んでいた私には、
なんとも生々しい印象を受けてしまう。

もちろん“La Voix humaine”では、
電話の受話器を手にしての背の語りは進んでいくわけで、
デュヴァルの声は電話を通した声ではない。

だからこその“La Voix humaine”なのかもしれないし、
「人間の声」のほうが、より“La Voix humaine”という作品のことを正確に表わしている──、
そうなのかもしれないとわかっていても、やっぱり私には「声」のほうがしっくりくるし、
「声」だけのほうが、電話の存在を「人間の声」とあるよりも感じてしまう。

このへんになると、感じ方の違いなのであって、
「人間の声」のほうがいいと感じる人のほうが多いのだろうから、
いまでは「人間の声」が一般的なのだろう。

些細なことである。
些細なことついでに書けば、“La Voix humaine”では、
最後に受話器のコードを首に巻きつけて……、という場面がある。

注釈つきでなければ、通用しない時代になるんだろうな、と思う。

Date: 3月 21st, 2019
Cate: バッハ, マタイ受難曲

ヨッフムのマタイ受難曲(その4)

ヨッフムのマタイ受難曲。

いまでは多くのマタイ受難曲がCDとなっている。
でも、私がマタイ受難曲を初めて聴いたとき、
マタイ受難曲のLPの数は少ないとはいわないが、多くはなかった。

名演といわれていたのはリヒターであり、
クレンペラーも高い評価を得ていた。
あとはメンゲルベルク、カラヤン、リリングなどの演奏があった。

ヨッフムのマタイ受難曲は、さほど注目されていなかった、と記憶している。
レコード芸術の恒例の特集となった名曲名盤の企画。

私が20代のころ、ヨッフムのマタイ受難曲に点を入れている人は佐々木節夫氏だけだった。
そういうものなのか、と思ったから、いまもはっきりと憶えている。

私は五味先生の影響で、ヨッフムのマタイ受難曲を最初に聴いている。
そうそう頻繁に聴くわけではないが、こちらが歳をとるとともに、
ヨッフムのマタイ受難曲の美しさが、いかに深いかを感じる。

その3)は二年半ほど前に書いた。
(その4)を思い出したように書いているのは、
メリディアンのULTRA DACで聴きたい一枚だからだ。

Date: 3月 21st, 2019
Cate: 世代

世代とオーディオ(埋められないのか・その2)

三年前に「あるスピーカーの述懐」の(その8)と(その9)を書いた。

そこで「手強い」スピーカーと「難しい」スピーカーの違いについて書いた。
この違いをわからなければ、私がいいたい「毒」についてはわかってもらえないような気がする。

その違いを理解するには、結局、「手強い」スピーカーと出逢い、
自分の手で鳴らしてみるしかない。

Date: 3月 21st, 2019
Cate: 世代

世代とオーディオ(埋められないのか・その1)

ひとつ前の「AXIOM 80について書いておきたい(その17)」へのコメントがfacebookであった。

コメントの内容をここでは引用しないが、
「AXIOM 80について書いておきたい(その17)」での毒についての捉え方が、
読む人によって、こうも違ってくるのか、と感じている。

コメントをくれた人は若い。まだぎりぎり20代である。
そうなると、これまで聴いてきたオーディオ機器は、その若い人と私とでは大きく違っていよう。
数も違えば、内容も違う。
違って当然である。

けれど聴いてきた音によって、培われるところがある以上、
ここに世代の違いを感じてしまう。

世代の違いが生じるのが悪いわけでもないし、それだから面白いところもあるわけだが、
それでもオーディオの毒、音の毒、そういったことでの毒の捉え方そのものに違いを感じてしまうと、
こちらの文章力の未熟さは棚上げして、埋められないものがあるのを、感じてしまう。

これは「AXIOM 80について書いておきたい(その17)」だけではない。
EMTの930stについて、そのことを最近強く感じて書いている。

いくら930stについて書いても、ある世代より下の人たちは、
930stの音を聴いていない人が圧倒的に多い。

それでも930stというプレーヤーというモノは、中古であれば残っている。
けれど、そういう中古の930stを聴いて、どれだけきちんとしたところが伝わるのか、と思うからだ。

程度のいい930stを聴く機会は、稀であってもあろう。
それでも、どの時代に聴いてきたのか、どの年齢で聴いてきたのか、
そういったことによっても感じとれるものは違ってくるはずだ。

それに私と同世代であっても、930stを同じ場所で同じ音を聴いても、
人によってこんなに感じ方、捉え方が違うのか、と驚くことはある。

そういう驚きとは反対に、こうも一致するのか、という驚きも、またある。
だから一概に世代の違いだけを理由にしてはいけないことはわかっている。

それでも、毒の捉え方の違いは、また別のところにある問題のようにも感じている。

Date: 3月 20th, 2019
Cate: ディスク/ブック

BRITTEN conducts MOZART Symphonies 25 & 29

CDも、登場後数年したころから廉価盤があらわれた。
クラシックでいえば、初CD化が廉価盤というのもけっこうある。

ベンジャミン・ブリテン指揮のもーつLとの交響曲との出逢いは、
そんな廉価盤によってだった。

いかにも廉価盤といったジャケット、
少なくともジャケットだけでは買う気になれない、そういう感じのものだった。

けれどブリテン指揮のモーツァルトか、
こんなに安いのか、ということで、手を伸ばした。

廉価盤だからといって、そこに納められている音楽までがそうであるわけがない。
そんなことは承知とはいえ、
ここまで廉価盤的なCDだと、こちらの態度も緩んでしまう。

それでも鳴ってきた音は、すぐにそんな緩んだ、こちらの態度を引き締める。
実を言うと、ブリテンの演奏(指揮)を聴いたのは、これが最初だった。

名盤の誉れ高いカーゾンとのモーツァルトのピアノ協奏曲は、聴いていなかった。
聴いていなかった理由は、以前書いていることのくり返しになるが、五味先生の影響によるものだ。

五味先生の「わがタンノイの歴史」にこうある。
     *
この応接間で聴いた Decola の、カーゾンの弾く『皇帝』のピアノの音の美しさを忘れないだろう。カーゾンごときはピアニストとしてしょせんは二流とわたくしは思っていたが、この音色できけるなら演奏なぞどうでもいいと思ったくらいである。
     *
なので、カーゾンとのピアノ協奏曲は、交響曲よりも早くにCD化されていたが、
手を伸ばすことはなかった。

けれど、カーゾンとのピアノ協奏曲を早くに聴かなかったことを後悔はしなかった。
むしろブリテン指揮のモーツァルトの交響曲を先に(最初に)聴いてよかった、とさえいまは思っている。

だから五味先生には感謝している。

ブリテンのモーツァルトの交響曲は美しい。
廉価盤のCDで聴いても、これだけ美しいのであれば、LPで聴けば……、と考える。

そのころLPを探した。
イギリスのレコード店から定期的に中古盤のリストを送ってもらい、
こまめにチェックしていた時期もある。

結局、見つけられなかったか、LPの入手はあきらめた。
それでも、もっと美しい音なのではないのか、というおもいが消えたわけではなかった。

SACDが出ないのか、と思いつづけていた。
ブリテンのモーツァルトのSACDが、まさかステレオサウンドから発売になるとは思っていなかった。

1月にすでに発売になっていたことを知ったのは、2月も終ろうとしていたころだった。
今回発売になったのは25番と29番である。

私は40番も聴きたい。
ステレオサウンドの、このブリテンのSACDが売れれば第二弾として、40番も発売になるかもしれない──、
そんな期待から、これを書いている。

Date: 3月 19th, 2019
Cate: audio wednesday

第99回audio wednesdayのお知らせ(三度ULTRA DAC)

六日前に、愛聴盤をぜひ、と最後に書いた。

メリディアンのULTRA DAで愛聴盤を、ぜひ聴いてほしい、と思っている。
思っているけれど、一つ前の「老いとオーディオ(青春の一枚)」を書きながら、
できれば「青春の一枚」といえる愛聴盤を、ULTRA DACで聴いてほしい、と思っていた。

三度(みたび)ULTRA DACは、青春の一枚だったディスクをぜひ。

場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。
19時からです。

Date: 3月 19th, 2019
Cate: 老い

老いとオーディオ(青春の一枚)

別項で、ケイト・ブッシュの“THE DREAMING”を青春の一枚だった、と書いた。
だった、と過去形で書いた。

だった、としたことを取り消そうとしたいわけではない。
“THE DREAMING”は、私にとって青春の一枚だったことは確かだ。

けれど書きながら、
3月6日のaudio wednesdayで“THE DREAMING”を聴いてきた心境を思い出してみれば、
“THE DREAMING”をこういう音で、この歳になっても鳴らせるのか、と思っていたのは事実である。

50をすぎて枯れてしまった、枯れてきている音ではなかった。
実というと、ほかの人よりも、ほかならぬ私自身が、
“THE DREAMING”を最初の曲から聴きはじめたものの、
途中でお腹いっぱいになったように感じてしまうのではないか──、
わずかではあっても、そんな気持があった。

一曲目の“SAT IN YOUR LAP”の冒頭の、あの鞭打を思わせる音を聴いた瞬間から、
もうワクワクしていた。

“THE DREAMING”はどれだけ聴いたか、もうわからない。
“SAT IN YOUR LAP”もどれだけ聴いたろうか。

だから、もしかするともう条件反射のようなものなのかもしれない。
“SAT IN YOUR LAP”の音を聴いただけで、
“THE DREAMING”の世界に入りこめるような錯覚があるのだろうか。

一曲目の“SAT IN YOUR LAP”から二曲目の“THERE GOES A TENNER”を聴いているときには、
老いの実感なんて、その瞬間には関係なくなっていた。

最後の三曲、
“ALL THE LOVE”、“HOUDINI”、“GET OUT OF MY HOUSE”では、
どっぷりケイト・ブッシュの世界だけでなく、
“THE DREAMING”を夢中になって聴いていた、
そして少しでもいい音に、ということで夢中になっていたころとすっかり同じ心境だった。

だからこそ「青春の一枚だった」と書いてしまったのか。

Date: 3月 19th, 2019
Cate: デザイン

オーディオのデザイン、オーディオとデザイン(Air Force ZEROのこと・その3)

四年ほど前に、200号までにステレオサウンドでオーディオのデザイン論が語られるとは思えない──、
別項で書いた。

語られることはなかった。
これから先も語られることはないと思っている。

このオーディオのデザイン論こそが、ステレオサウンドがやってこなかったこと、やり残してきたことだ。
私が編集部にいたときも、オーディオのデザイン論はやってこなかった。

十年以上昔になるか、
ステレオサウンドに、素人によるデザイン感的な文章が連載となっていた。
デザイン論とはとうてい呼べないものだった。
ほんとうにひどい、と思って読んでいた。

その連載が終了して、デザインについてある人と話していた時に、この記事のことが話題になった。
「ひどい記事だったね」とふたりして笑いあった。

こんなことを四年前に書いた。
ある人の名前は四年前は明かさなかった。
ある人とは菅野先生である。

菅野先生とデザインについて話していたときに、
私がつい、ポロッと「そういえば、あのステレオサウンドの連載、ひどかったですね」と言った。
すると菅野先生も、お前もそう思うか、という感じで「デザインの素人による内容だよ」と言われた。

ひどい記事と口にしたときには、しまった、と思わなかったわけではない。
菅野先生がどう思われていたのかは知らなかったからだ。

けれど、こちらが本音で話せば、菅野先生はきちんと応えてくださった。
その菅野先生は、もういない。
瀬川先生もそうだ。

オーディオのデザイン論についてきちんと語れる人たちがいない。
なのに、ステレオサウンドは、川崎先生の連載をわずか五回で手離している。

川崎先生が、なぜ離れられたか──、
その理由は現編集長の染谷一氏がいちばんわかっているはずだ。
というより、わかっていなくてはならない。

Date: 3月 19th, 2019
Cate: デザイン

オーディオのデザイン、オーディオとデザイン(Air Force ZEROのこと・その2)

これも続きを書くつもりはなかった。
けれどfacebookへのコメントを読んで続きを書こうと思ったし、タイトルも変更した。

コメントはデザイナーの坂野博行さんからだった。
「Air Force ZEROにはデザイン不在が明らか」とあった。

ここで気をつけてほしいのは、デザイナー不在ではなく、デザイン不在ということだ。
デザイナー不在とデザイン不在は、同じではない。

憶測にすぎないが、Air Force ZEROにもデザイナーがいるはずだ。
おそらく、あの人ではないだろうか、と思っているが、確証はないから名前は出さない。

デザイナーが関っているのに、デザイン不在。
そんな人をデザイナーと呼べるのか──、
そのことについてはここでは述べないが、
おそらく、本人はデザイナーだと思っているだろうし、
その人にデザインを依頼した側も、そんな人をデザイナーと思っているわけだ。

とにかくAir Force ZEROは、デザイン不在の四千万円のアナログプレーヤーである。

Air Force ZEROは、各オーディオ雑誌で絶賛されるであろう。
あれだけの内容のアナログプレーヤーだから、
これまでのプレーヤーからは聴けなかった世界を提示してくれることとは思う。

そうであれば音に関して絶賛されるのはいい。
けれど、中にはAir Force ZEROのデザインを褒める人も出てくるのではないだろうか。

本音で、Air Force ZEROのデザインが素晴らしいという人がいたら、
その人の感性はまったく信用できない。

褒めなくとも、Air Force ZEROのデザインに関して何も語らない人、
つまりオーディオ評論家がいよう。

オーディオ評論家(商売屋)ならば、褒めるか、黙っているかのどちらかのはずだ。