Archive for category テーマ

Date: 6月 29th, 2019
Cate: ショウ雑感

2019年ショウ雑感(その6)

私はふだんカバンを持ち歩かない。
なので、オーディオショウに行っても、カタログをもらうことはない。
持って帰るのを面倒だ、と思う男だからだ。

でもESD ACOUSTICのカタログだけはもらってきた。
帰りの電車で読んでいた。

日本のオーディオメーカーのカタログとはずいぶん違う。
全体的におおらかな印象のカタログである。
いそいで日本語のカタログを作ったのだろうか。

ESD ACOUSTICのブースでは、お茶も淹れていた。
スタッフも、みな中国の人たちだったようだ。

大型システムということもあるのだろうが、
椅子の設置(スピーカーとの距離のとりかた)にしても、
贅沢な、というか、おおらかな、というか、
日本の出展社とは、ここも違っていた。

ESD ACOUSTICは、これからどうやって売っていくのか。
どこか日本の輸入元と契約するのか、
日本支社をつくって、自分たちで売っていくのか。

製品が、これからどう変っていくのかも楽しみだが、
どうやって日本で商売をしていくのかも、私は興味がある。

とにかく私はESD ACOUSTICの存在を面白い、と思っている。
こういう面白がれるメーカーが、いま日本のメーカーにあるだろうか。

いやいや、日本のオーディオメーカーは、そういう時代はとっくに通りすぎた──、
そういう声もきこえてきそうだが、
それで若い世代を、オーディオの世界に呼べるだろうか、とおもう。

Date: 6月 29th, 2019
Cate: ショウ雑感

2019年ショウ雑感(その5)

ESD ACOUSTICのシステムは、
ハニワオーディオのシステムをさらに大がかりにした、ともいえる。
ちょうど中国と日本、国の広さが、そのままシステムの規模に当てはまるような感じでもある。

オールホーンの5ウェイシステムで、ユニットは励磁型である。
これだけで拒否反応を示す人もいるだろうし、
中国のメーカーということでも拒否反応、もしくは無視する人もいるかもしれない。

でも、日本のメーカーで、これだけのシステムを開発するところはあるだろうか。
そんなの開発費の無駄──、
そんないいわけをいってしまっているかもしれない。

ESD ACOUSTICは、2017年にできたメーカーだ。
まだ若いメーカーだ。

ハニワオーディオと同じような道を、もしかすると歩んでいくのかもしれないが、
このままさらに突き進んでいくのかもしれない。

ESD ACOUSTICのブースに入ったのは、13時過ぎだった。
その後、ほかのブースをまわって、15時過ぎにもう一度入った。

鳴っていた音は、二回目のほうがこなれていたし、鳴りもよくなっていた。
そうとうに大がかりなシステムだけに、どこがどうとははっきりしたことは何もいえないが、
全体的に、電源を入れても目覚めの遅いシステムのような気がする。

13時と15時のあいだにまわったブースに、ビクターがある。
ウッドコーンの8cm口径のフルレンジスピーカーを鳴らしていた。

ウッドコーンの製品化は大変だったはずだ。
一度中止になった開発を再開しての実用化である。

だから、ビクターのその姿勢に対して否定的、批判的な気持はまったくない。
それでも、私はSX1000 Labや、ME1000、MC-L1000など、
これらの製品を開発してきたビクターを知っている。

それからすると、一抹の寂しさも感じるのだが、
それ以上にESD ACOUSTICの熱量をすぐそばで体感したあとでは、
日本のオーディオ業界は老いていくだけなのか、とつい思ってしまう。

Date: 6月 29th, 2019
Cate: ショウ雑感

2019年ショウ雑感(その4)

今日から二日間開催のOTOTENに行ってきた。

東京は雨模様。
そのためなのか来場者は、多いとは感じなかった。
けれどちいさな子供をつれたお母さんが、
とあるブースで、子供を膝にのせて聴いている姿が印象に残っているし、
このお母さんだけでなく、今年のOTOTENは、子供連れの家族で来場している人を二組ほどみかけた。

これまでインターナショナルオーディオショウでもOTOTENでも見かけなかっただけに、
この人たちが来年以降も来てくれるのかどうか、知りたいところである。

今回のOTOTENで強い印象のブースといえば、ESD ACOUSTICである。

ガラス棟のG502とG510を使っている。
会場の国際フォーラムに行ったことのある人ならば、
インターナショナルオーディオショウで、どこが使っているかをいえばすぐにわかるはず。
G502とG510は、ガラス棟でもっとも広いスペースである。

ESD ACOUSTICがどんなオーディオ機器を鳴らしていたのかは、
AV Watchの記事、PHILE WEBの記事をご覧いただきたい。

この時代に、こういうスピーカーを開発するのか、
スピーカーだけでなく、アンプもCDプレーヤーも、システム一式揃っている。

鳴っていた音は、欠点を指摘しようと思えばいくつもできる。
セッティングも、もっともっときちんとやれば、と思わせるレベルである。

それでもこれだけのシステムをつくり上げた熱量は、素直に感心する。

日本のメーカーでいえば、以前のハニワオーディオが、これに近かった、といえなくもない。
ハニワオーディオはOTOTENに出展している。

けれど以前の大型スピーカー、システムではなく、
小型のスピーカーとシステムで、わが道を行くともいえる音出しを、今年もやっていた。

Date: 6月 28th, 2019
Cate: ロングラン(ロングライフ)

定番(その5)

この項でも、別項でも、
ラックスのアンプの、最近のずんぐりむっくりなプロポーションに否定的なことを書いてきた。

私だけがそう感じているのではなく、
私の周りでは、私と同世代か上の世代の人たちも、やはり同じように感じている人が少なくない。

最近、そのラックスからCL1000が登場した。
1970年代のラックスのソリッドステートのコントロールアンプC1000(1010)と、
ほぼ同じといえるデザインをもつ管球式コントロールアンプである。

このCL1000、ずんぐりむっくりではない。
かといって、C1000と同じ外形寸法かというと、少し違う。

C1000はW48.5×H17.5×D24.5cm、
CL1000はW46.0×H16.6×D45.4cm。
奥行きは大きく違うが、横幅と高さは数センチの違いであり、
C1000とCL1000の横幅と高さの比率は同じである。

CL1000の横幅が、ずんぐりむっくりプロポーションの44.0cmだったら、
どんな印象に変っていただろうか。

C1000とはずいぶん違った印象になったのだろうか。
もしそうなっていたら、ある人はCL1000を買わなかったかもしれない。

友人のAさんの友人(Cさん)、昔からの音楽好きな人らしい。
ずっとラックスのC1000を愛用してきた。

そのCさんは、CL1000を買った、そうだ。
たまたま臨時収入があったこと、
C1000も、もう四十年以上経つアンプだから、
いくら気に入っているとはいえ、維持していくのも大変になっている。

そこに、パッと見、同じといえるCL1000である。
これならば、奥さんのいない隙にC1000と交換してもバレない、というメリット(?)もある。

もしCL1000の横幅が44.0cmだったら、
ずんぐりむっくりのプロポーションだったら、
Cさんは買い替えなかっただろうし、
音を聴いて気に入って、奥さんに黙ってこっそり入れ替えたとしたら、
黙って買ったこと、臨時収入を隠していたことなどが、すぐにバレてしまっただろう。

横幅、高さは数センチ小さくなっていても、
フロントパネルのプロポーションは変っていないCL1000だからこそ、
Cさんは踏み切れたのではないのか。

Date: 6月 28th, 2019
Cate: オーディオマニア

無為な自由

無為な時間、
無為な日々、
Googleで「無為な」と入力すると、
これらの検索キーワードが自動的に表示される。

無為な時間にしても、無為な日々にしても、
それは捉え方次第では、無為な自由なのかもしれない。

二ヵ月ほど前、
続・何度でもくりかえす」で、
無為に耐えられないのがオーディオマニアなのかもしれないし、
無為に耐えられるようになってこそオーディオマニアだと断言できる、
と書いた。

無為な自由とオーディオマニア。
いま、そんなことを考えている。

Date: 6月 28th, 2019
Cate: ジャーナリズム, ステレオサウンド

編集者の悪意とは(その13)

沢村とおる氏の原稿を読んで、カチンときたところ以外にも、
不満をおぼえたところはまだある。

不満だけではない、いったいこの人は、どういう立場で原稿を書いているのだろうか──、
そういう疑問もいっしょにくっついてきてのものである。

沢村とおる氏は《われわれアマチュア》という表現を複数回使われている。
なぜ、こんな表現を使うのか。

わざとへりくだっての《われわれアマチュア》なのだろうか。
けれど、いかにもアマチュアとしか思えない箇所もある。

 スピーカーシステムの商品化に当たって、貴社ではエンクロージュアの設計をどのようになさっていますか?
 (イ)ユニット構成に基づいて、それに一番適合したエンクロージュアを考える。
 (ロ)エンクロージュアのアイデアを生かしながら、合ったユニットを選ぶ。
 (ハ)ユニットとエンクロージュアを相互に考えながら、一体化して考えていく。

このアンケートについて、沢村とおる氏は、次のように書かれている。
     *
 これに対する解答は、無解答の1社を除いて、全メーカーが(ハ)と答えている。これは当然こうなるだろうと、予想していた通りの結果だが、分かっていることをなぜ尋ねたのかというと、われわれアマチュアがスピーカーシステムを自作する時は、そうではないからである。たいていは(イ)のケースがほとんどで、例えばJBLのユニットが良さそうだから、それを使おう。それに合ったエンクロージュアは、どんな形式で、どんな大きさのものがいいか? といったふうに、ユニットを決めてから、それに適合したエンクロージュアを選んでいくのが普通である。時にはエンクロージュアの面白さから(ロ)になることもあるが、(ハ)ということは、まずあり得ないといっていいだろう。これがアマチュアと、専門家であるメーカーの考え方の違うところである。
     *
確かに、このころの国産スピーカーメーカーは(ハ)であった。
けれど、だからといって、これだけで、
《これがアマチュアと、専門家であるメーカーの考え方の違うところ》と言い切れるものだろうか。

ここで思い出してほしいのは、海外のスピーカーメーカー、
この時代のJBL、タンノイといったメーカーのスピーカーづくりについて、である。

Date: 6月 28th, 2019
Cate: ジャーナリズム, ステレオサウンド

編集者の悪意とは(その12)

1988年は、オーディオブームがすでに去っていたとはいえ、
まだまだオーディオ雑誌はいくつもあった。

いまよりも、オーディオ雑誌には、それぞれの個性といえそうなものがまだあった。
沢村とおる氏が書かれているように《重さには関心が持たれるようになった》のは事実だが、
それは一部のオーディオ雑誌のことであり、
その雑誌のすべての読者がそうであった、とまではいえない。

それをさもステレオサウンドでもそうであるように、
ステレオサウンドの読者もそうであるように、
つまり十把一絡げ的ものの捉え方であり、語り方をしている。

私は、だからタンノイのオートグラフとヴァイタヴォックスのCN191の写真を選んだ。
写真の扱いも大きくしてもらっている。

写真のネーム(説明文)は、
沢村とおる氏の本文に添う内容ではない。

ここでのネームは、ステレオサウンドが、それまで語ってきたことである。

この写真とネームを、沢村とおる氏はどう思われただろうか。
私は、この記事以降も、一度も沢村とおる氏とは会ったことがない。
どう思われたのかは、まったく知らない。

それにだ、可能性としては、記事そのものを読まれていないかもしれない。
ステレオサウンドの、それまでの記事をきちんと読んでいるのであれば、
こんな内容の原稿の元となった認識のひどさは生れなかったであろうから。

仮に読んでいた、としよう。
なんて編集者だ、と怒りを覚えられたかもしれない。
編集者の悪意だ、と思われたかもしれない。

Date: 6月 27th, 2019
Cate: ジャーナリズム, ステレオサウンド

編集者の悪意とは(その11)

沢村とおる氏は、「スピーカーエンクロージュアづくりの秘密をさぐる」の冒頭に、
次のようなことを書かれている。
     *
 にもかかわらず、一般ユーザーの人々には、エンクロージュアの重要性は、まだそれほど認識されていないように思われる。確かに、重量化競争のせいで、重さには関心が持たれるようになったが、これは単に重ければいい、というものではないのはもちろんで、そこにどんなコンセプトがあり、どれだけのノウハウが注ぎ込まれているかに注目する必要があるのである。
     *
私は、この箇所で、まずカチンときた。
沢村とおる氏が、どういう経歴の人なのかは知っていたし、
菅野先生から、どんな人なのかも少しはきいていた。

菅野先生と沢村とおる氏とのスイングジャーナルでのやりとり、
というか、対立、もしくは喧嘩に近い的なことかあったのも知っていた。

とはいえ、沢村とおる氏とは一度も会ったことはなかった。
どんな人なのかは、白紙に近いところもあったわけだが、
この箇所を読んだだけで、こういう認識の人が、
スピーカーの開発に携わっているのか──、
まともなスピーカーが生まれるはずがない、
読んだ瞬間、そういう認識になってしまった。

ステレオサウンドを古くから読んでいる人ならば、
沢村とおる氏が、まったくステレオサウンドを読んでいないことは明白だろう。
本人は、しっかりと読んできた、というかもしれないが、
原稿を読めば、そうでないことはバレてしまう。

この人の、読んできたは、眺めてきたくらいものなのだろう。
別にステレオサウンドをしっかり読み込んでいなくてもいい、といえばそうだ。
書いたものが面白ければ、それでいい。

実際はそうではなく、認識不足も甚だしい。
この人は、オーディオマニア、
つまり自分が勤めている会社の客を、この程度と高を括っているとしか思えない。

Date: 6月 27th, 2019
Cate: ジャーナリズム, ステレオサウンド

編集者の悪意とは(その10)

ステレオサウンド 87号(1988年夏号)の特集は、
「世界のスピーカー その新しい魅力を聴く」であり、
特集の最後には、沢村とおる氏による
「スピーカーエンクロージュアづくりの秘密をさぐる」という、
国産メーカー各社へのアンケート調査結果をまとめた記事がある。

沢村とおる氏は、スイングジャーナルの読者だった方は、
誌面で氏の名前をよくみかけられていたはず。

沢村とおるはペンネームで、よく知られている国産メーカーの人であった。
ちなみに沢村は、奥さんの旧姓である。

「スピーカーエンクロージュアづくりの秘密をさぐる」は、私の担当ではなかった。
けれど、担当者から、原稿を渡され、どうにかならないか、といわれた。

読むと、これを載せるのか、と思った。
担当者が困り果てているのもわかる。
しかも〆切りをすぎての原稿で、その程度の出来でしかなかった。

もっと早くにあがってきた原稿ならば書き直しというのがいいわけだが、
そんなことはいってられない。

結局どうしたかといえば、記事を読まれた方ならばわかるように、
沢村とおる氏による本文と、
記事で掲載した写真の説明文とは、正反対の内容になっているところがある。

どの写真を使うか、その写真の説明文は私がやっている。

編集作業も終り近くになっての青焼き校正で、
担当者と私以外の編集者も、本文と写真を同時に見る(読む)ことになる。と
そこで、Sくんが
「本文とネーム(写真の説明文)、まるで逆のことをいっているじゃないですか」
と訊いてきた。

私は「それでいいんだ」と答えた。

Date: 6月 26th, 2019
Cate: audio wednesday

第102回audio wednesdayのお知らせ(ラジカセ的音出し)

カセットテープによる音出しが、7月3日のaudio wednesdayのテーマなのだが、
どこか弱いなぁ、とは自分でも感じていた。

でも、昨晩のAV Watchに
ウォークマン40周年イベントが銀座で。歴代機登場、限定ブックレットも」という記事があった。

最初のウォークマン(TPS-L2)は、1979年7月1日に発売されている。
もう40年なのかぁ、と多くの人がおもっているのではないか。

1979年夏、高校二年生だった。
ウォークマンが出たのは、もちろん知っていた。

人気なのも知っていた。
でも、当時の高校生に、33,000円は、安い買物ではなかった。
同級生で持っていたのは、一人もいなかった。

1981年、東京に出てきてからである。
ウォークマンを電車や街中で見かけたのは。

欲しい、と思っていたけれど、それでも買えなかった。
ステレオサウンドで働くようになってからは、
ウォークマンくらいは買えたわけだが、
別項でも書いたように、編集部のSさんから第二世代のウォークマン(WM2)をもらった。

これが、私にとって初めてのウォークマンである。

Sさんは、初代ウォークマンも持っていて、
やっぱり初代のほうが音がいい、という理由で、WM2が不要になって、もらえたわけである。
1982年のことだから、ウォークマンの登場から三年である。

今回のaudio wednesdayは、3日だから、
ウォークマンの発売から40年と2日目である。

40年という歳月の長さからすれば、二日くらい誤差みたいなものだろう、と勝手に決めて、
単なる偶然とはいえ、今回はカセットテープに関係することでよかったなぁ、と思っている。

使用するカセットデッキはソニー製だ。
ミュージックテープ、自身で録音されたテープ、持ってきてください。

場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。
19時からです。

Date: 6月 26th, 2019
Cate: 戻っていく感覚, 書く

毎日書くということ(戻っていく感覚・その8)

あと五百本ちょっとで、目標の一万本なのだが、
ここにきて自問自答していることは、
ここに「溢れるおもい」はあるのだろうか、である。

私自身が判断することではない。
読まれている方の判断にまかせるしかないが、
私自身、10代のころ、文字で、
つまりオーディオ雑誌を読むことで、「溢れるおもい」に接してきた。

だから、ここに私自身の「溢れるおもい」はあるのだろうか、と考えてしまう。

Date: 6月 25th, 2019
Cate: 基本, 音楽の理解

それぞれのインテリジェンス(その5)

クラシックの演奏家の違いによる演奏を、
楷書と草書にふたつだけで分類して語るのは無理があるのはわかっていても、
それでもマーラーの交響曲で、
しかも同じドイツグラモフォンでの録音でも、
アバドとバーンスタインのマーラーは、(別項)で書いているように、
アバドは楷書的、バーンスタインは草書的、と口走りたくなる。

昨年のことなのだが、ある人のリスニングルーム兼仕事場にいた。
CD棚を見ていて、バーンスタインのマーラーがあるのに気づいた。

そのCD棚はクラシックのCDばかりがあったわけではない。
ジャズもあれば、ロック、ポップスもあった。

部屋の主の好きな音楽が並んでいる。

それでもバーンスタインのマーラー(ドイツグラモフォン盤)が目に入ってきた。
これだけでも嬉しいのだが、その隣にはアバドのマーラーも並んでいた。

人それぞれだから……、と何度も書いているし、
その4)でも書いている。
別項でベートーヴェンの「第九」について書いているけれど、
そこでも、人それぞれだから……、ということになる。

同世代であっても、オーディオという共通の趣味をもっていても、
同じようにステレオサウンドを始めとするオーディオ雑誌を、学生時代に読んでいても、
やっぱり人それぞれなんだぁ……、とおもう。

人それぞれ──、そうであっても、
バーンスタインのマーラーとアバドのマーラーが並んでいるCD棚があれば、
この部屋の主とは、世代も違うし、いろんなことが違うけれど、
もしかすると私と同じ(もしくは近い)マーラーの聴き方をされているのかも……、と思ってしまう。

Date: 6月 25th, 2019
Cate: 世代

“NO MUSIC, NO LIFE.”に感じていること(その3)

貪欲であることは、かっこわるいといわれれば、確かにそうである。
そうであっても、何かひとつのことに貪欲でなかったならば、
それは趣味とはいえないように思う。

オーディオ、音楽に限れば、
音、音楽に対して貪欲だった時期が、
少なくともオーディオマニア、音楽マニアを自称・自認している人ならば、
かつてあったはずだ。

いまでも、あからさまにしないだけで、貪欲なことに変わりない人も、
きっといるはずだ。

貪欲さから逃れられないからこそマニアなのだろう。

このあたりで手を打とう、
この辺で、もう充分じゃないか、
そんなふうに、そこで割り切ってしまえる人は、
以前はマニアだったのかもしれないが、
そこで手を打ってしまったら、その時点でマニアを卒業ということになるのか。

それでもくすぶっているものを持ち続けていれば、
何かのきっかけで再燃することだってあるはず。
となれば、マニアのままだったといえるのだろうか。

こんなことをぐだぐた考えていわけだが、
ここでのカテゴリーは、世代である。

世代の違いということで、すべてを語ってしまえれば楽なのだが、
そうではないことぐらいはわかっているつもりである。

それでも、世代の違いなのかぁ……、と感じてしまうことがある。

音に対しての貪欲さ、オーディオに対しての貪欲さは、
本人があからさまにしないようにしていても、
いっしょに音を聴いていれば、
それもそこで音を変えていくようなことをやってみれば、
はっきりと感じとれる。

Date: 6月 24th, 2019
Cate: High Fidelity

ハイ・フィデリティ再考(ふたつの絵から考える・その9)

マリア・カラスの歌う「清らかな女神よ」が、
マリア・カラスの自画像というのは、私の手前勝手な聴き方ゆえの結論であり、
これが正しいマリア・カラスの「清らかな女神よ」の聴き方であるとか、
そう感じないのは間違っている、などという気はさらさらない。

ただ私には、いまそう聴こえるわけで、
この歳で、そう聴こえてくるという、この結論は、将来、大きく変ることはないように思われる。

「清らかな女神よ」は、いうまでもなく、
ベルリーニのオペラ「ノルマ」のなかのアリアである。

マリア・カラスのために書かれた曲でもない。
第一、作曲の時点でマリア・カラスは生まれていない。

ベルリーニが生きていたころ、マリア・カラスがオペラ歌手として全盛を迎えていて、
ベルリーニが、そのマリア・カラスのための「ノルマ」を作曲した、
「清らかな女神よ」を書いた──、というのであれば、
マリア・カラスにとって、「清らかな女神よ」は自画像といえるのか。

でも、それは自画像というより、肖像画のような気もしなくはない。
肖像画的アリアを、マリア・カラスが歌唱によって自画像といえる域にまで持ってくるのかだろう。

「清らかな女神よ」(Casta Diva, カスタ・ディーヴァ)の録音が、
これまでどれだけなされたのかを数えたわけでもないし、すべてを聴いているわけでもない。

マリア・カラスの「清らかな女神よ」が、最高の「清らかな女神よ」なのかは、
そんなわけだから私にはいえない。

私がいいたいのは、「清らかな女神よ」が、マリア・カラスの自画像であるということだ。

黒田先生は、オペラにおいて、
マリア・カラスだけ聴いていればそれでいい、という考え方・聴き方には賛成できないが、
それでも「ノルマ」に関してだけはカラスに尽きる──、
そんなことを、三十年ほど前に書かれていた。

私がこれまで聴いてきたオペラの数は、黒田先生が聴かれてきたのとくらべると、
ほんのわずかといわれてもしかたないくらいである。

なので「ノルマ」に関してだけはカラスに尽きる──、とはいえないが、
「清らかな女神よ」に関してだけはカラスに尽きる、
そういえるのは、「清らかな女神よ」がマリア・カラスの自画像ときこえるからである。

これから先、どれだけの「清らかな女神よ」が演奏されたり、録音されていくことだろう。
そのすべてを聴くことはできない。
それでも、マリア・カラスのように歌える歌手は、もう現れないのではないか。

Date: 6月 24th, 2019
Cate: 「本」

雑誌の楽しみ方(最近感じていること・その4)

最寄りの駅にいく途中に書店がある。
この書店にはショーウィンドウがあって、
店内に入らずとも、この書店オススメの本がわかるようになっている。

もう数ヵ月以上だろうか、
一冊の本が、ずっとそこに飾られている。

雑誌に育てられた少年」である。
気になっているものの、手にとっていない。

でも、「雑誌に育てられた少年」、
これに共感する人は、けっこういると思う。
私もそうだ、と、少なからぬ人が頷いているのではないだろうか。

私も「雑誌に育てられた少年」の一人だ。
オーディオもそうだ。

「五味オーディオ教室」を読んで、
そのあとは、さまざまなオーディオ雑誌を読んできた。

周りにオーディオマニアはいなかった。
オーディオ専門店も、バスで一時間ほどかかるところにしかなかった。
そういうこともあって、オーディオ雑誌をとにかく読んだ。

でも、周りにオーディオマニアがいて、
近くにオーディオ専門店があっても、オーディオ雑誌を読みふけったであろう。

Macintosh(パソコンのMac)にしてもそうだった。
1992年ごろは、Mac関係の雑誌がいくつもあった。
MacPower、MacLife、MacJapan、MacWorldがあった。
すべて買って読んでいた。

自転車に関してもそうだった。
自転車雑誌を、書店に並んでいるものすべて買って読んでいた。

Macも自転車も東京に来てからのことである。
それでも、まずは雑誌からだった。

そしてどちらも1990年代のことである。