Date: 6月 28th, 2019
Cate: ジャーナリズム, ステレオサウンド
Tags:

編集者の悪意とは(その12)

1988年は、オーディオブームがすでに去っていたとはいえ、
まだまだオーディオ雑誌はいくつもあった。

いまよりも、オーディオ雑誌には、それぞれの個性といえそうなものがまだあった。
沢村とおる氏が書かれているように《重さには関心が持たれるようになった》のは事実だが、
それは一部のオーディオ雑誌のことであり、
その雑誌のすべての読者がそうであった、とまではいえない。

それをさもステレオサウンドでもそうであるように、
ステレオサウンドの読者もそうであるように、
つまり十把一絡げ的ものの捉え方であり、語り方をしている。

私は、だからタンノイのオートグラフとヴァイタヴォックスのCN191の写真を選んだ。
写真の扱いも大きくしてもらっている。

写真のネーム(説明文)は、
沢村とおる氏の本文に添う内容ではない。

ここでのネームは、ステレオサウンドが、それまで語ってきたことである。

この写真とネームを、沢村とおる氏はどう思われただろうか。
私は、この記事以降も、一度も沢村とおる氏とは会ったことがない。
どう思われたのかは、まったく知らない。

それにだ、可能性としては、記事そのものを読まれていないかもしれない。
ステレオサウンドの、それまでの記事をきちんと読んでいるのであれば、
こんな内容の原稿の元となった認識のひどさは生れなかったであろうから。

仮に読んでいた、としよう。
なんて編集者だ、と怒りを覚えられたかもしれない。
編集者の悪意だ、と思われたかもしれない。

Leave a Reply

 Name

 Mail

 Home

[Name and Mail is required. Mail won't be published.]