Archive for category テーマ

Date: 11月 13th, 2019
Cate: ラック

ラックのこと(その15)

私がいたころ、ステレオサウンドの試聴室のラックは、
ヤマハのGTR1Bだったことは、何度か書いている。

GTR1Bには棚板が一枚付属していた。
試聴室では棚板を使うことはなかった。

GTR1B一台に、オーディオ機器は一台、という使い方だった。
GTR1Bの天板にアンプなり、CDプレーヤー、アナログプレーヤーを置く。

GTR1Bの中には、何も置かない。
置くとしても、コントロールアンプで電源部が外付けになっている製品では、
その電源部を置くことはあったが、
他のオーディオ機器を収納することはなかった。

収納することはなかったので、GTR1Bはラックというよりも置き台としての存在だった。
しかもGTR1B同士はぴったりつけることは絶対にしなかった。
5mmか1cmくらいは離していた。

理由は音質上の点からである。
試聴室という環境だから、こういう使い方ができる、というか許されるわけで、
家庭でこんな使い方はやりたくても、なかなかできなかったりする。

つまりラックとは、複数のオーディオ機器を収納する機能である。
けれど、その機能を考えてデザインされたラックは、ほとんどないようにみえる。

いま市販されているラックの詳細のすべてを知っているわけではない。
それでも、オーディオショウでよく使われるラックをみて、
ラックとしての機能をきちんとデザインしている、と思える製品はみたことがない。

それぞれに創意工夫が施されているが、
そのラックに収納する複数のオーディオ機器のさまざまな相互干渉を抑える、
そのことに留意していると思えないからだ。

Date: 11月 13th, 2019
Cate: ディスク/ブック

ベートーヴェン ピアノ協奏曲全集(その1)

キングインターナショナルから、
児玉麻里(ピアノ)、ケント・ナガノ/ベルリン・ドイツ交響楽団による
ベートーヴェンのピアノ協奏曲全集が、SACDの四枚組で発売になる。

児玉麻里/ケント・ナガノによるベートーヴェンは、
菅野先生のリスニングルームで聴いている。
別項「マイクロフォンとデジタルの関係(その2)」で書いている。

第一番と第二番のカップリング(2006年録音)のCDである。
ノイマンが開発したデジタルマイクロフォンのデモンストレーションの意味あいもあっての録音だった。

菅野先生のところで聴いた音は、
まさしくベートーヴェンの音楽は、動的平衡の音による建造物だった。

すぐには入手できなかったCDだが、数年後には入手できた。
いまでも発売されている。

もちろん買った。
とうぜんだが、菅野先生の音のようには鳴らない。

こんなふうに書くと、音だけ優れた録音と思われそうだが、
演奏も素晴らしい。
素晴らしいからこそ、動的平衡の音による建造物と感じたのだ。

この録音も、今回のSACD全集に含まれている。

Date: 11月 13th, 2019
Cate: 素朴

素朴な音、素朴な組合せ(その26)

数年前に友人宅に遊びに行った時、テレビで日本のドラマを見ていた。
そこに出てくる男優の一人の口元が、つねに口角が上っているのが、気になった。

辛そうな表情を演じている時でも、口角が上っている。
どんな表情の時でも、そうなのだ。
だからなのか、その男優の演技・表情に違和感を覚えた。

いつのころからか口角を上げよう、みたいなことがいわれ始めた。
ヘの字に曲げてぶすっとしているよりは、いい印象を与えるだろうが、
その男優のように、ずーっと口角が上りっ放しでは、もうおかしい、というか、
笑う場面でもないに、つい笑いたくなってくる。

ドラマのスタッフは、誰も何もいわなかったのか。

そういえば、つい先日も口角を上げっ放しの人がいた。
人前で話すこともある仕事をしている人だ。
もう、ずーっと口角が上っている。

話していない時も話している時もそうである。
もう不自然な表情である。
少なくとも私はそう感じていた。

その人は、見た目を重視しているのだろうか。
そういえば「人は見た目が9割」という書籍が売れている、ともきいている。

その人は、鏡の前で口角を上げながら話すことを練習しているのか。
そんなことを思いながら、その人の話を聞いていた。

その25)で、アルカイックスマイルのことを書いた。
アルカイックスマイルとは、辞書には、
《古典の微笑。ギリシャの初期の彫刻に特有の表情。唇の両端がやや上向きになり、微笑みを浮かべたようにみえる》
とある。

唇の両端が上向きになるのだから、口角を上げた表情ではあるが、
上に挙げた二人の男性の表情は、アルカイックスマイルではない。

Date: 11月 13th, 2019
Cate: 1年の終りに……

2019年をふりかえって(その3)

今年は、ほんとうにひさしぶりにデッカのデコラを聴くことが叶った。
しかもコンディションの非常にいいデコラである。

10月のひどい台風の過ぎ去った日に聴いた。
グラシェラ・スサーナの歌もかけてもらった。

10月のaudio wednesdayと11月のaudio wednesdayのあいだに聴いている。
デコラを聴いていたから、
この経験があったからこその、
11月のaudio wednesdayでの218の音につながっていた、と思っている。

ほかの人には理解してもらえそうにないことだろうが、
ほんとうにそうなのだ。

Date: 11月 13th, 2019
Cate: 1年の終りに……

2019年をふりかえって(その2)

2018年12月に、来年はわがままでいよう、と書いた。
これまで抑えてきたけれど、わがままをはっきりと出して行く、と。
2019年、わがままでいられたかな、とふりかえっている。

ふりかえっているくらいだから、まだまだだった、と反省している。
だから、今年も書いておく、
来年は、きっちりとわがままを貫き通そう。

オーディオに関するかぎり、わがままでいよう。

Date: 11月 13th, 2019
Cate: 1年の終りに……

2019年をふりかえって(その1)

ここ数年、12月になったら、一年をふり返って的なことを書いている。
今年も12月になったら書くつもりでいた。

けれど12月に書き始めたら、書き終わらないうちに来年になりそうなので、
まだ11月だけど早めに書き始めたい。

今年も、新しく知りあえた人たちがいる。
audio wednesdayを毎月第一水曜日にやっているからこそ、知りあえる人がいる。

audio wednesdayをやるのは楽しい反面、
時には面倒だな、と思うことだってある。
5月には100回目をやった。

あとどれだけ続けるのか(というか続くのか)は、
私自身にもわからない。

毎月やっていて、誰も来なくなったら終りにする。
一人でも来てくれるのであれば、続ける。
決めているのは、それだけである。

去年も書いているが、
来年もいまごろも、また同じことをきっと書いているだろう。

昨年、ULTRA DACのエヴァンジェリストのつもりでいる、と書いた。
今年もそうだった、といえる。

加えて今年は218のエヴァンジェリストでもあった、といっていいかも。

ゆえに今年いちばん驚いたのは、メリディアンの輸入元がオンキヨーに、
12月から変るということだ。

突然の発表だった。
発表後に、オンキヨーに関するニュースがいくつかあった。
オンキヨー、大丈夫なのか、と心配になる。

この心配は、私の場合、メリディアンがどうなるのか、という心配である。

Date: 11月 13th, 2019
Cate: 世代

世代とオーディオ(その表現・その8)

私が10代、20代のころ、
インターネットに接続できる環境はなかったし、
SNSも当然なかった。

オーディオについて何かを書いたとしても、
それを不特定多数の人に向けて発表できる場はなかった。

いまは違う。
スマートフォンがあれば、いつでもどこでも接続できるし、
SNSもあるから、書くだけで公開できる、という環境が揃っている。

オーディオマニアも世代によって、違っている、ともいえるし、そうでもないといえるし、
世代による違いよりも、結局は個人の違いのほうが大きい、ともいえる。

それでもオーディオを始めたころから、
SNSがある世代とそうでなかった世代とでは、明らかな違いがあるようにも感じている。

いつでも、思ったこと、感じたこと、考えていることなど、
公開した、と思えば、すぐにできる。

そこに、「いいね」がついたりする。
会ったこともない人たちからの反応がある。

そういう世代のすべての人たちが──、とはいわないが、
一部の人たちは、反応を意識してのSNSの利用なのではないか。
そんな気がしてならないのだ。

他人の目(評価)なんて、まったく気にせずにオーディオを楽しめばいいのに──、
そう思うのだ。

SNSに捕われてしまっていることに気づかないままでいいのか。

Date: 11月 12th, 2019
Cate:

賞からの離脱(BCN+Rの記事・その2)

BCN+Rの記事の最後には、
《しかし、一番厳しい目は消費者の購買行動そのものだ。市場の洗礼を受ける前に専門家だけで製品の序列を決めてしまうことには、やはり大きな疑問が残る》
とある。

これが消費者不在のグランプリを容認してしまう、ともある。

そのとおりといえば、そのとおり、である。
でも、考えれば、市場の洗礼を、すべての製品が等しく受ける、ということはあるのだろうか、
という疑問がわいてくる。

例えば新製品が、12月とか4月とか、決った時期に各社から一斉に発売されるのであれば、
まだわからなくもない。

実際はそうではない。
1月に出る新製品もあれば、夏ごろとか秋が過ぎて、とか、
さらには12月ぎりぎりに登場したりする。

1月の新製品と12月の新製品とでは、一年近い差があるわけだ。
2019年に発売になった新製品を、
2020年に評価するとしよう。

それで市場の洗礼を受けたことになるだろうが、
1月の新製品と12月の新製品とで、市場の洗礼が等しい、とは誰も思わないだろう。

それに新製品を出すメーカーとしては、
早くに新製品を出したメーカーにすれば、発売後約一年後に賞という形で評価されるのを、
どう思うだろうか。

BCN+Rの記事は、そのへんの事情をどう考えているのか。
雑誌の、現在の賞の在り方が、いまのままでいいとはまったく思っていないが、
だからといって、BCN+Rの記事は現状を無視しているだけでなく、
どこかケチをつけるためだけの記事のようにも思えてくる。

Date: 11月 12th, 2019
Cate: 世代

世代とオーディオ(その表現・その7)

(その6)にfacebookで、若い方からのコメントがあった。
私よりも二回りほど若い人である。

そこには、
オーディオ側から「どう、このいい音は」と言われているような音が好きではない、
だからそういう音にしないようにしている──、
そう書いてあった。

好き嫌いは誰にでもあることだから、第三者の私がとやかくいうことではない。
それはわかったうえで書くのは、
そういう音を、自在にだせるだけの力量を身につけているのか、である。

若いのだから、いろいろな音を出していってほしい、と思う。
コメントの人だけではない。
若いのだから、もっとのびのびオーディオをやってほしい。

好き嫌いもある時期無視してでも、
そこ(オーディオ)から出せる音の幅の広さを、とことんしゃぶりつくしてほしい。
なんという不徹底ぶりなのか、とも感じてしまうし、
中途半端なオーディオを、若い人がやるものじゃない、とも思う。

若いうちから老成ぶって、そういうことをいうのは早い、といっておく。
大人ぶることはないのだ。

大人ぶった子供(あえてそう書いておく)になぜなろうとするのか。
子供じみた大人(大人といえないのだろうが)にでもなってしまいたいのか。

Date: 11月 12th, 2019
Cate: 世代

世代とオーディオ(その表現・その6)

オーディオでも、フツーにいい音、という表現が使われているのだろうか。
耳にしたことはある。

といって、私の周りではほとんど使われていない。
けれど人が変れば、フツーにいい音、という表現はよく使われているのか。

そういえば、普通の音、という表現もある。
この普通の音が使われるのは、
どこといって特徴のない音、際立ったところのない音、魅力のない音、
そういった音に対して使われることもある。

一方で、さりげない、なにげない、けれどいい音に対しても、
普通の音という表現は使われる。

そして後者の場合、普通の音を出すのが難しい、というふうにもつけ加えられることがある。
こうなると普通の音は褒め言葉である。

フツーと普通。
こうやって文字で表現すると、カタカナと漢字の違いもあるし、
フツウではなくフツーと、あえてしているわけで、音引きがつくかつかないのか、もある。

フツーにいい音、とはいうが、普通にいい音とは、まずいわない。
普通の音は、それ自体が、いい音である、ということを含んでいる場合があるからだ。

ただ普通の音こそだすのが難しい──、
こういったことをきくと、どのくらいの世代の人がいっているかによって、
私のなかでは、そういうことは、もっと歳をとってからにしようよ、といいたくなることがある。

いいたくなるだけで、いったりはしないし、
コメントに書いたりはしない。

それでも若い人が、普通の音こそだすのが難しい、といっているのをきくと、
若いのだから……、とおっせかいをいいたくなる。
余計なお世話といわれるのはわかっているが、
若いうちにしか出せない音があるのに、
若いうちから「普通の音こそだすのが難しい」といっている人も、
歳をとってから気づくのではないだろうか。

Date: 11月 11th, 2019
Cate: plus / unplus

plus(その17)

つい先月も引用した瀬川先生の文章は、
ここでのテーマでも引用したくなる。
     *
 N−氏の広壮なリスニングルームでの体験からお話しよう。
 その日わたくしたちは、ボザークB−4000“Symphony No.1”をマルチアンプでドライブしているN氏の装置を囲んで、位相を変えたりレベル合わせをし直したり、カートリッジを交換したりして、他愛のない議論に興じていた。そのうち、誰かが、ボザークの中音だけをフルレンジで鳴らしてみないかと発案した。ご承知かもしれないが、“Symphony No.1”の中音というのはB−800という8インチ(20センチ型)のシングルコーン・スピーカーで、元来はフル・レインジ用として設計されたユニットである。
 その音が鳴ったとき、わたくしは思わずあっと息を飲んだ。突然、リスニングルームの中から一切の雑音が消えてしまったかのように、それは実にひっそりと控えめで、しかし充足した響きであった。まるで部屋の空気が一変したような、清々しい音であった。わたくしたちは一瞬驚いて顔を見合わせ、そこではじめて、音の悪夢から目ざめたように、ローラ・ボベスコとジャック・ジャンティのヘンデルのソナタに、しばし聴き入ったのであった。
 考えようによっては、それは、大型のウーファーから再生されながら耳にはそれと感じられないモーターのごく低い回転音やハムの類が、また、トゥイーターから再生されていたスクラッチやテープ・ヒスなどの雑音がそれぞれ消えて、だから静かな音になったのだと、説明がつかないことはないだろう。また、もしも音域のもっと広いオーケストラや現代音楽のレコードをかけたとしたら、シングルコーンでは我慢ができない音だと反論されるかもしれない。しかし、そのときの音は、そんなもっともらしい説明では納得のゆかないほど、清々しく美しかった。
 この美しさはなんだろうとわたくしは考える。2ウェイ、3ウェイとスピーカーシステムの構成を大きくしたとき、なんとなく騒々しい感じがつきまとう気がするのは、レンジが広がれば雑音まで一緒に聴こえてくるからだというような単純な理由だけなのだろうか。シングルコーン一発のあの音が、初々しいとでも言いたいほど素朴で飾り気のないあの音が、音楽がありありとそこにあるという実在感のようなものがなぜ多くの大型スピーカーシステムからは消えてしまうのだろうか。あの素朴さをなんとか損わずに、音のレンジやスケールを拡大できないものだろうか……。これが、いまのわたくしの大型スピーカーに対する基本的な姿勢である。
     *
まさしく、ここでのテーマ、カテゴリーであるplus/unplusの実例である。

unplusという単語はない。
私の勝手な造語である。
un-は、形容詞·副詞につけて「不…」の意を表わすから、plusの前につけた。

ボザークのスピーカーシステムはフルレンジを中心として、
トゥイーターとウーファーを足してマルチウェイとすることで帯域を拡大している。
まさしくplusである。

そのボザークのシステムからトゥイーターとウーファーを電気的に切り離す。
フルレンジユニットのみでの音となる。unplusの音である。

フルレンジのつまでは気づかなかった発見が、
plus/unplusによって浮び上ってきた、ともいえる。

plusすることに積極的であるならば、
unplusにも臆することなく取り組んでこそのオーディオのはずだ。

Date: 11月 10th, 2019
Cate: オーディオマニア

オーディオマニアとして(圧倒的であれ・その4)

11月7日のaudio wednesdayで、圧倒的であれ、がどういうことなのか、
少しは示すことができたと自負している──、
これは、別項で書いているメリディアンの218のことである。

Date: 11月 10th, 2019
Cate: 憶音

憶音という、ひとつの仮説(その6)

人はどうやって音を聴いているのか。
特にオーディオマニアは、どうやって音を聴いているのか、
そしてどうして音が比較できるのか。

そんなことを考えて思いついたのが、憶音である。
別項「50年(その9)」で書いたことが、憶音の発想のきっかけである。

根拠は特にない。
ただ、これまでさまざまな機会で音を聴いてきて、
その時々で感じたなぜ? に答を見出そうとして思いついたことである。

なので妄想じみた考えなのは自覚している。
それでも思うのは、人はその場で鳴っている音を聴いているのではなく、
実のところ、いったん脳に記憶にされた音を聴いているのではないだろうか。

ようするに3ヘッドのテープデッキのような仕組みである。
録音ヘッドがテープに記録した磁気変化を、すぐ隣りにある再生ヘッドが読み取り電気信号へと変換する。
テープが脳にあたる。

耳から入ってきた音(信号)を、脳が記憶する。
この記憶の仕方・性能は、人によって違ってくるだろうし、
同じ人であっても、その日の体調やその他によって左右されるのかもしれない。

そうやって記憶した音(信号)をなんらかの方法で再生して、
その音(信号)を聴いている。

しかもテープのトラック数は一つとは限らない。
これも人によって違ってくるように感じている。

それにトラックによって、記憶の性能にバラツキもあるのかもしれない。
ただひとつ違うのは、テープには「記録」されるのであって、脳には「記憶」されることだ。

少なくとも音楽に関しては、
そして、これもなぜなのかはまったくわからないが、
オーディオを介して鳴ってくる音楽に関しては、少なくともそうなのではないのか。

Date: 11月 10th, 2019
Cate: 「本」

オーディオの「本」(近所の書店にて・その5)

「ステレオサウンドが一人勝ちすると、オーディオ界にとってはよくないことだ」、
井上先生から何度かきいている。

井上先生は2000年12月に亡くなられているから、
ステレオサウンドという固有名詞のことろは、別の固有名詞に置き換えられたかもしれない。

井上先生の、このことばを聞いたときは、
確かにステレオサウンドの一人勝ちも、ありえないことではなかった。

でも、現状はずいぶん変ってきた。
オーディオ雑誌の書店での取り扱いが冷たくあしらわれるようになってきて、
少しずつ、けれど確実にオーディオ雑誌が淘汰されるようになってくると、
最後にのこるのは、ステレオサウンドとはいえなくなってきている。

だからといって、このオーディオ雑誌が残る、とはいえない状況でもある。
淘汰の末に、どれか一誌が残ったとしても、
それは一人勝ちといえるのか、という疑問はあるが、
すべてのオーディオ雑誌が書店から消えてしまうことはない、はずだ。

そうなったときに、どうなるのか。
仮にステレオサウンドが生き残ったとしよう。

それを喜ぶ人もいよう。
やっぱりステレオサウンドが、No.1のオーディオ雑誌だ、と信じ込める人は、
そうであろう。

けれど考えてみてほしい。
そうなった時に、ステレオサウンドの編集方針は大きく変化していくはずだ──、
というよりも、変化せざるをえない。

オーディオ雑誌には役目があり、
それぞれのオーディオ雑誌には役割があるからだ。

Date: 11月 10th, 2019
Cate: 「本」

オーディオの「本」(近所の書店にて・その4)

無線と実験を取り扱わなくなった近所の書店は、
無線と実験だけが書棚から消えたわけではない。

「スピーカー技術の100年」が出たとき、この本を扱っていた。
発売後すぐにではなかったが、しばらくして背表紙だけが見える扱いではあったが、
書棚に並ぶようになった。

こういう書店でも扱われるようになったということは、
そこそこ売れているんだな、と思えたし、
売れていたからこそ「スピーカー技術の100年II 広帯域再生への挑戦」が今年出たわけだ。

けれど無線と実験扱わなくなった近所の書店の書棚には、
「スピーカー技術の100年II 広帯域再生への挑戦」はもう並んでいない。

「お前が住んでいるところの書店がたまたまそうなだけだろう」といわれるかもしれないが、
果してそうだろうか。

先月10日、近所の書店から無線と実験が消えてから、
個人経営と思われる書店の前をとおると、ちょっと寄ってみて、
無線と実験があるのかどうか確かめていた。

数日経っていたりしたから、売れてしまってなかったのかもしれないが、
無線と実験をみかけない書店のほうが多かった。

それに「スピーカー技術の100年」は、近所の書店だけでなく、
ここでも扱っている、といくつかの書店の書棚を見て思っていたが、
「スピーカー技術の100年II 広帯域再生への挑戦」は、
やっぱり扱っているところが減っているように感じる。

無線と実験のことばかり書いているが、
書店のオーディオ雑誌の扱いは、冷たくなりつつあるのを感じている人は、
私だけではないはずだ。

先日話した人も、そう感じていた。

オーディオ雑誌はずいぶん淘汰されてきた。
けれど、また淘汰されつつあるのが現状である。