JUDY(その5)
越後獅子だけではない、
映画「JUDY」を観て思い出したセリフがある。
別項「毅然として……(その1)」で書いていることである。
優れた才能ゆえに諦めなければならない夢がある──、
そういうことを思い出していた。
ジュディ・ガーランドのほんとうの夢とは、いったい何だったのか。
私にとって、この一点においてのみ、
ジュディ・ガーランドと美空ひばりが重なる。
越後獅子だけではない、
映画「JUDY」を観て思い出したセリフがある。
別項「毅然として……(その1)」で書いていることである。
優れた才能ゆえに諦めなければならない夢がある──、
そういうことを思い出していた。
ジュディ・ガーランドのほんとうの夢とは、いったい何だったのか。
私にとって、この一点においてのみ、
ジュディ・ガーランドと美空ひばりが重なる。
コンサート・ドロップアウトを宣言し、
「コンサートは死んだ」と語ったグレン・グールド。
グールドの死後、コンサートは廃れるどころか、その真逆である。
グールドの予言は外れた、ともいえる。
コンサート(ライヴ会場)には行くけれど、
レコード(録音メディア)はあまり購入しない、という人が増えている、ときく。
人気のある歌手の、近年のコンサートの様子は、大型テーマパークのようでもある。
このままますます肥大化していくようにも思えた。
そこに新型コロナである。
音楽コンサートだけでなく、大型イベントが中止もしくは延期になっている。
私が好きな自転車レースも、そうとうに影響を受けている。
不謹慎といわれるだろうが、グールドの予言が現実のものになりつつある。
とはいえグールドの予言そのままというわけではない。
電子メディアの発達によってコンサートが廃れていっているわけではない。
新型コロナが今後どうなっていくのか、私にはわからない。
早くに収束していくのかもしれないし、ずっと長引くのかもしれない。
そのため、ある試みがなされている。
無観客で演奏会、
その様子をストリーミング中継する。
これこそ電子メディアの発達による音楽鑑賞のひとつである。
そうなると、クラシックの演奏会では、基本的に無縁の存在であるマイクロフォンが、
ステージの上に立つことになる。
ラルキブデッリによるブラームスの弦楽六重奏曲を聴きおわって、
一人でよかった……、と思っていた。
聴きおわって、鏡を見たわけではないがもしかすると赤面していたかもしれない。
誰かといっしょに聴いていたとしても、
隣にいる人が、私の心の裡までわかるわけではない。
それでも一人でよかった。
悟られなくてよかった……、と思っていた。
まぶしすぎて直視できない──、
そんな表現があるが、それに近い感じでもあった。
青々とした(緑が濃すぎる)ジャケットそのままの演奏を、
どこかうらやましくも感じていたのかもしれない。
若いな──、と感じていたのではない。
こういう青春は私にはなかったぁ……、
そんなおもいがどこからかわきあがってきた。
そしてしばらくして、ここに書いてきた同級生のことを思い出していた。
彼らは、ラルキブデッリによるブラームスの弦楽六重奏曲を、どう聴くのだろうか。
いい曲ですね、いい演奏ですね、
そういう感想なのかもしれない。
彼らがどういう感想を持つのかはなんともいえないが、
私のように、まぶしすぎて直視できない的な感覚はないのではないか。
ラルキブデッリによるブラームスの弦楽六重奏曲は、もう聴いていない。
一回だけ聴いて、二回目はまだである。
一回目と同じように感じるとはいえない。
また違うことを感じるのかもしれない。
でも、まだ聴こうとはなかなか思えない。
いつか聴く日が訪れるのか、それとも二回目はないのか。
青春が遠い遠い彼方に感じられた日に聴くのだろうか。
青春とは、いったいいつのことを指すのだろうか。
辞書には、《若く元気な時代。人生の春にたとえられる時期》とある。
具体的な数字で、いつからいつまでとは記していない。
心の持ちよう、ともいわれる。
そうだろうとは思うのだけれど、
一般的な意味での青春とは、やはり中学生、高校生のころだろうか。
多感な時期ともいわれる。
多感な青春時代、ともいう。
ほんとうにそうだろうか、と思うところが私にはある。
多感な時代を送ってこなかったのかもしれないが、
そのころ多感だったかどうか、自分で判断することだろうか。
とにかく青春時代、
この項でこれまで書いてきたM君、T君、A君は、
それぞれに青春時代を謳歌していたのかもしれない。
青春時代の謳歌、といっても、
部活動に励み、勉強にも励み、
友人も多く、時には恋もして──、というようなのを、そういいたいわけではない。
目標を立てて、そこに向っていくことを、青春の謳歌といいたい。
M君、T君、A君は、そういうところでの謳歌のような気がしてならない。
どちらがほんとうの青春の謳歌だ、なんてことをいいたいわけではない。
私は、どちらの青春の謳歌も、ほぼ無縁な中学、高校時代をおくってきた。
そんな私が、ラルキブデッリによるブラームスの弦楽六重奏曲を聴いて、
青春時代とは──、そんなことをおもってしまった。
むせかえるような濃密な芳香を、そこに感じたからである。
聴いていて、どこか気恥ずかしいものも感じていた。
誰だったのかは忘れてしまっているが、
外国の著名な女優だったかもしれない、
「長い時間をかけて、やっと手に入れた皺」──、
そんなことを読んだ記憶がある。
エージングとは、そういうことではないだろうか。
スピーカーのエージングということが、むかしむかしからいわれ続けてきている。
エージングとは、いったいどういうことなのか。
人それぞれ違ってくることだろうが、
私には、皺を刻んでいくことのような気がするし、
それだけでなく、皺が似合うスピーカーとそうでないスピーカーとが、
大きく分ければ、そうであるような気がする。
どのスピーカーが、皺が似合うのか。
これも人によって多少は違ってこよう。
これまで、この項で書いてきている例でのスピーカーは、
私からすれば、もっもと皺が似合うスピーカーのひとつである。
アンチエージングということで、
皺を完全に拒否する生き方もある。
そういう生き方もあるだろうし、
そういう音のスピーカー、
つまり皺がまったく似合わない、
いつまで経っても似合いそうにない音のスピーカーもある、といえる。
どちらのタイプのスピーカーを選択するかで、
スピーカーのエージングとはどういうことなのか、
そのことに対する考え方は大きく違ってくるはずだ。
越後獅子、
五味先生の「モーツァルトの《顔》」に出てくる「越後獅子」は、
映画の序盤で浮んできていた。
中盤以降は、ロンドン公演がおもに描かれている。
「JUDY」は、実話をベースとしたフィクションということになっている。
とはいえ、ほぼ実話なのだろう、とおもって観ていた。
ジュディ・ガーランドは、ロンドン公演が終って半年後に亡くなっている。
自殺ともいわれている、そうだ。
そういう状態のジュディ・ガーランドがみせるロンドン公演でのパフォーマンス、
それが成しえるのは、やはり越後獅子ゆえなのだと、どうしても思ってしまう。
もちろん才能があってのことなのは重々わかっている。
それでも映画が描かれるシーンは、越後獅子としての時代がなければ……、とおもってしまう。
映画を観る前に、レネー・ゼルウィガーの歌唱によるサウンドトラックを聴いていた。
このサウンドトラックの最後に、“Over The Rainbow”である。
映画を観ていると、“Over The Rainbow”が劇中で歌われるのは、
最後のシーンだな、と誰もが気づくだろう。
最後のシーンでうたわれる。
そして映画「JUDY」も終る。
映画で使われた“Over The Rainbow”と、
サウンドトラックの“Over The Rainbow”は、
どちらもレネー・ゼルウィガーが歌っているが、同じなわけではない。
なぜなのかは、ここで書いてしまうと、
これから観る人を怒らせてしまうことにもなるだろうから省く。
そごでどういうことが起るのかも、
映画をこれまで観続けてきた人ならば、想像の範囲のことだ。
それでも、このシーンは胸に響く。
しかも、このことは実際に起ったことだ、ときいている。
これをもって、ジュディ・ガーランドは、最後の最後で幸せだった、とはいわない。
越後獅子の最期のようにも、私の目には映った。
4月1日のaudio wednesdayは、
メリディアンの218に、いくつかのオーディオ用アクセサリーを、
あれこれ試しながらの試聴になる。
オーディオ用アクセサリーと書いてしまったが、
オーディオ用アクセサリーとして市販されているモノは、一つだけ持っていく。
あとはオーディオ用と謳っているモノではない。
ただ、メインとなるモノが、まだ海外から届いていない。
予定ではそろそろ届くはずなのだが、
もしかすると今回は間に合わないかもしれない。
テーマがテーマだけに、しっかりと試聴してもらいたい、と考えている。
そのため、最初の二時間(19時から21時まで)は、ディスクに一枚に絞る。
どれにしようかと迷っていたが、
別項で触れているアバドとシカゴ交響楽団によるベルリオーズの幻想交響曲にするつもりでいる。
おもに四楽章と五楽章を鳴らし、
あいだに一楽章をはさんでいく予定でいる。
とにかく開始からほぼ二時間は、このディスク以外はかけない。
218+αのテーマを一段落してからの21時以降、
さまざまなディスクをかけていく。
場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。
19時開始です。
別項「218はWONDER DACをめざす」で書いてきていること、
218に手を加えてきていることは、ここでのテーマとは絡んでくる。
218に手を加えているのは、私好みの音にしたい、ということではない。
「218はWONDER DACをめざす(その16)」で引用した菅野先生の文章、
《ハイテクとローテクのバランスが21世紀のオーディオを創る》、
ここでのローテクと私が218に加えているローテクとは完全に一致しているわけではないが、
それでもローテクであり、218に加えたローテクとは、
ハイテク本来の性能を活かしていくための手法である。
音をよくしよう──、
ということではなく、
音を悪くしている因子をできるかぎり抑えていこう、というものである。
その結果として、ハイテクがもつ高い性能が、音に活かされてくるようになる。
私ひとりが思っているだけなのだろうが、
手を加えた218は、私にとって“plain sounding, high thinking”そのものである。
iPhone(スマートフォン)でインターネットに接続していると、
さまざまな広告が表示される。
それらの広告で知ったのが、リコーフォトアカデミーだった。
ゼミナール、教養講座、ワークショップ、基礎講座が組まれている。
詳しいことは、リコーフォトアカデミーのサイトをご覧いただきたい。
カメラーメーカーの、こういう取り組みを知ると、
オーディオメーカーは? とやはり思ってしまう。
オーディオメーカーは、各地で試聴会を行っている。
東京では、今年は6月にOTOTEN、11月にはインターナショナルオーディオショウがある。
とにかく音は、そういう場で聴ける。
けれど、リコーフォトアカデミーのような取り組みを行っているメーカーはあるのだろうか。
リコーフォトアカデミーのページには、こうある。
*
「カメラの使い方については一通り理解しているが思うような写真が撮れない」「自分のテーマが見つけられない」「なかなか写真が上達しない」写真を趣味として真剣に取り組んでいくと、このような悩みにぶつかる方も多いのではないでしょうか。
リコーフォトアカデミーでは、様々な被写体に対する撮影テクニックだけでなく、何をテーマとして何を表現するのか、という写真の本質を学べるカリキュラムを中心に、写真を生涯の趣味として楽しんでいくためのヒントとなる講座を幅広く開講いたします。
*
このことは、オーディオにそっくりあてはまる。
入魂の音、
それも全神経を傾注したの結果による音ではなく、
魂のこめられた音という意味での、入魂の音というのはあるのだろうか。
ありますよ、といってくる人がいる。
入魂の意味を説明したうえでも、ありますよ、といってくる人がいる。
音に魂が込められるのか──、
そのことを問いたいのではない。
その前の段階のことを問いたい。
音に魂を込める。
その魂は、どこから持ってくるのか。
そう問えば、自分の中からだ、という答が返ってくるはずだ。
人は生きているから、どこかに魂はあるといえる。
けれど、問いたいのは、あなたの魂は目覚めているのか、だ。
睡ったままの魂を、どうやって音に込めるのか。
なぜオーディオをやってきたのか。
ここまで情熱を注いできたのか。
結局、自分の魂を目覚めさせよう、としてきたのだと、
ここにきておもうようになった。
マカラはメカニズムを専門とするメーカーがつくりあげたプレーヤーシステムである。
マカラの人たちは、片持ちが音にどういう影響を与えるのか、
そのことを知っていたのかどうかはわからない。
それでもメカニズムの専門家として、片持ちの製品を世の中に送り出すことはしなかった。
マカラのプレーヤーシステム4842は、いまから四十年前に登場している。
なのに現在のプレーヤーHolboが片持ちのまま製品化している。
片持ちのままのプレーヤーを、製品と呼んでいいのか、という問題はここでは語らないが、
なぜ片持ちのままなのか。
メーカーの開発者に訊くしかないのだが、
おそらくトーンアームの高さ調整との関係ではないのか、と推測できる。
片持のリニアトラッキングアームであれば、
弧を描く通常のトーンアームと同様の機構で、
トーンアームの高さを調整できる。
けれどベアリングシャフトと呼ばれているシルバーの太いパイプを両端で支えたとしよう。
この構造で、高さ調整をすると、調整箇所が二箇所になる。
エアーベアリング型のアームにとって、
ベアリングシャフトの水平がきちんとでていなければ動作に支障がでる。
片持ならば、調整箇所は一箇所で、
基本的にはプレーヤー全体の水平が確保されていれば、
ベアリングシャフトも水平ということになるし、
高さを変更しても水平は維持できている(はずだ)。
ところが高さ調整の箇所が両端二箇所ともなると、
プレーヤー全体の水平は出ていても、
ベアリングシャフトの水平は、二箇所をきちんと調整する必要がある。
いいかげんな調整では水平が微妙に狂ってしまう。
その点を防ぐには片持ち構造が、いちばん楽な方法である。
ホルボのHolboというアナログプレーヤーを、
片持ちの代表例として取り上げたのには、一つだけ理由がある。
Holboは、プレーヤーシステムであるからだ。
トーンアーム単体ならば、他の例といっしょに取り上げただろうが、
くり返すが、Holboはプレーヤーシステムである。
プレーヤーシステムであるならば、
この手のエアーベアリング方式のリニアトラッキングアームの片持ちは、
メーカーが気付いているのであれば、なんとかできるからだ。
1980年第後半、アメリカからリニアトラッキングアーム単体がいくつか登場した。
それらのなかには、Holboに搭載されたトーンアームとよく似たモノがあった。
でも、それらのリニアトラッキングアームは、
既存のアームレスプレーヤーに取り付けなければならない。
取り付けのためのアームベースは、メーカーによって違ってくるが、
多くのモノは、弧を描く一般的なトーンアーム用のスペースしか想定していない。
その限られたスペースに、リニアトラッキングアームという、
別の動きをするトーンアームを取り付けなければならない。
そのために片持ちにならざるをえなかった面もあるとはいえる。
それでも工夫はできたはずだが。
エアーベアリング方式で、リニアトラッキングアームといえば、
日本のマカラが最初のモデルのはずだ。
余談だが、
1979年のオーディオフェアで発表されていたフィデリティ・リサーチのプレーヤーは、
プロトタイプであったが、このマカラをベースにしていた。
マカラのリニアトラッキングアームも、一見すると片持ちのようにみえるが、
片持ちになっていると思われる側は、下部からの支柱があるのがわかる。
朝の来ない夜はない、
春が訪れない冬はない、
そんなことが昔からいわれ続けている。
苦境にいる人を励まそうとしてのことなのだろうし、
自分自身に言い聞かせている人もいることだろう。
確かに、朝の来ない夜はないし、
春が訪れない冬はないのも事実だ。
けれど、ここでの「夜」と「冬」は、
いうまでもなく実際の夜と冬ではない。
人によって、その「夜」と「冬」の長さは違う。
何がいいたいかというと、
「朝」を迎えるには、
「春」を歓迎するには、長生きしなければならない、ということだ。
「朝」が来る前に死んでしまえば、それは明けない「夜」、
「春」が訪れる前にくたばってしまえば、「冬」のままだったことになる。
デジタルの技術の進歩は、そういったことだけでなく、
趣味のオーディオの世界では、ハイレゾ(High Resolution)の方も向いている。
サンプリング周波数は高くなっていく。
別項で書いているように、
ハイアーレゾ(Higher Resolution)、
さらにはハイエストレゾ(Highest Resolution)を目指しているかのようでもある。
こういったデジタルの技術の進歩を、歓迎はしている。
けれど一方で、危惧するところもある。
デジタルの技術の進歩は、
鳴らし手に万能感を与えるのではないか、ということだ。
鳴らし手がほんとうに万能になるのではなく、万能感を与えるだけで終ってしまうのではないのか。
そうなってしまっては、完全に誤った道となってしまう。
そんな方向にオーディオが進んでしまった時、
それだけでなくオーディオマニアが、そんな方向に進んでしまった時、
オーディオがオーディオでなくなるとき──、ではないのか。
唐突なように感じる人もいるかもしれないが、
私は、ここでイェーツのよく知られる詩の一節をおもい出す。
“In Dreams Begin Responsibilities”
この短い一節をどう訳すのか、
どう受け止めるのかは人によって、大きく違ってくるかもしれないが、
それでも、“In Dreams Begin Responsibilities”のないオーディオは、
もうオーディオではなくなっている。
デジタルの技術は、さらにオーディオに深く入りこんできている。
自動補正も、いまやスマートスピーカーにまで搭載されるようになってきている。
(その13)で少し触れているように、
オーディオの世界にも、自動運転的な技術が当り前のようになってきている。
それはオーディオという趣味をつまらなくするとは考えていない。
再生レベルの底上げにつながっていく、という期待を私は持っている。
やみくもにスピーカーをセットして、
各種プロセッサー類を何もわからずに使っても、
いろんな偶然が重なって、いい音が出る可能性がまったくないわけではないが、
オーディオの世界は、そんな甘いものではない。
でもデジタルの技術の進歩は、最初の一歩を確実に変えていく。
レベルを向上させてくれる。
鳴らし手は、そこからスタートできるわけである。
そこまでの苦労こそが、その人の経験(実力)になっていくのは確かだが、
それでも長いことオーディオをやっている人でも、
最初の一歩ふきんで、ずっと堂々巡りしていることだってある。
オーディオは、クルマの運転と違い、教習所がない。
基本をきちんと教えてくれる人が基本的にはいない。
それに免許もいらない。
だからこそデジタルの技術の進歩が、
教習所がわり、教えてくれる人のかわりになってくれることで、
オーディオ全体のレベルは確実に上っていくはずだ。