Archive for category テーマ

Date: 6月 16th, 2020
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(post-truth・その7)

誰が読んでいるのかわからない、いいかえると、
どれだけの知識や経験をもっているのかまったく不明な人たちに向けて書くのであれば、
きちんとしたオーディオの知識を身につけておくべきである。

こう書いてしまうと、たいしたことではないように受け止められるかもしれないが、
では、きちんとしたオーディオの知識とは、いったいどの程度のレベルのことなのか。
どれだけの知識をもっていればいいのか。
そのことについて書いていくのは、なかなか難しい。

「重量級のCDプレーヤーは、回転の慣性質量も大きくなるんですかね」の人も、
オーディオの勉強を、まったくしていなかったわけではないだろう。
少なくとも慣性質量という言葉は知っているのだから。

でも、その知識があまりにも断片すぎるのではないのか。
そんな気がする。

断片すぎる、ということは、知識の量が圧倒的に少ない、ということなのか。
そうともいえるし、これは以前書いていることなのだが、
知識の量だけでは理解には到底近づけない。

知識の有機的な統合があってこその理解である。
これはどういうことかというと、
これも以前書いていることのくり返しなのだが、
分岐点(dividing)と統合点(combining)、それに濾過(filtering)だ。

Date: 6月 16th, 2020
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(post-truth・その6)

「重量級のCDプレーヤーは、回転の慣性質量も大きくなるんですかね」は、
あきらかに間違いだから即座に否定したわけだが、
もし私が悪意で「そうだよ」といったとしたら、
その人は、「やっぱり! そうですよね!」と大きな声で喜んだはずだ。

オーディオにおいて仮説を立てるのはよくあることだ。
仮説を立てて、検証していくことで学べることはある。

「重量級のCDプレーヤーは、回転の慣性質量も大きくなるんですかね」も、
その人にとっての仮説であったのだろう。
ずいぶん稚拙な仮説ではあっても、その人にとっては大事な仮説だったのかもしれない。

でも、仮説を立てるにも、ある程度の知識は必要となる。
CDの回転がどういう性質のものなのか、大ざっぱにわかっているだけで、
そして慣性とはどういうことなのかを、これも大ざっぱにわかっているだけで、
「重量級のCDプレーヤーは、回転の慣性質量も大きくなるんですかね」という仮説は、
仮説ですらないことに気づくものだ。

私が「そうだよ」といって、周りにいた人が誰も否定しなければ、
その人は、SNSやブログなどに、その仮説は正しかった、と書いたのかもしれない。

インターネット普及前は、こんなことは起らなかった。
間違った仮説を発表できる場は、なかったといえよう。
せいぜいが、その人の親しい人とか、その人にオーディオのことを訊いてくる人に、
話すくらいでしかなかった。

けれど、インターネット普及後は違う。

ここで考えることがある。
オーディオをやっていくうえで、技術的な知識は必要なのか。

私は基本的には必要ない、と考えている。
オーディオのプロフェッショナルになるのであれば技術的知識は必要だが、
そうでなければ、所有しているオーディオ機器を自分で接続して使えるだけの知識があればいい。

ずっとそう思ってきた。けれど状況はインターネットの普及によって変ってきた。
その人が間違っている仮説を、さも正しいことのようにインターネットで公開した、としよう。

ほとんどの人が、まったく相手にしない。
けれどほんのわずかでも、それを信じてしまう人がいる。

そんな人はいないだろう、と思われるかもしれないが、
この項の前半で例に挙げた人は、
CDは角速度一定、アナログディスクは線速度一定という間違いを書いているサイトを、
大半のサイトが正しいことを書いているにも関らず、信じてしまった。

ごく少数ではあっても、あきらかな間違いを信じてしまう人がいる。
しかもインターネットは不特定多数の人に向けての公開である。
母数は、周りにいる人だけの時代よりもずっと大きい。

Date: 6月 15th, 2020
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(post-truth・その5)

ある人がCDプレーヤーを、数ヵ月前に買い替えた。
その人は、重量級のCDプレーヤーを購入した、と喜んでいる。

その人が、それまで使っていたCDプレーヤーよりも重量があるから、
その人にとっては確かに重量級といえる(感じる)のだろうが、
重量という数値だけで判断するならば、傍からみれば、それほど重量級ではない。

かといって軽量級ではないのも確かだから、本人が喜んでいることに水を差すことはいわずにいた。
でも、その人がこんなことをいった。

「重量級のCDプレーヤーは、回転の慣性質量も大きくなるんですかね」

CDプレーヤーでもターンテーブル(スタビライザー)をもつモノがある。
エソテリックの製品がそうだし、
47研究所の4704/04 “PiTracer”もそうだ。
古い製品では、パイオニアがPD-Tシリーズもそうだった。

これらの製品であれば、ターンテーブルプラッターの分だけ慣性質量は増す。
けれど、それ以外の大半のCDプレーヤーは、センターをクランプしているだけでディスクを回転させる。

CDプレーヤー本体の重量がどれだけあろうと、
ディスクの回転に関する慣性質量にはまったく関係ない。

それにCDプレーヤーにおいて、
つまり線速度一定の回転系において、慣性質量が増すことのデメリットはある。
もちろんターンテーブルプラッターをもつことで、
ディスクの回転のブレを抑えられるというメリットもある。

「重量級のCDプレーヤーは、回転の慣性質量も大きくなるんですかね」の発言には、
その場にいた複数の人から、つっこみがあった。

その人は「重量級のCDプレーヤーは、回転の慣性質量も大きくなるんですかね」であって、
「重量級のCDプレーヤーは、回転の慣性質量も大きくなるんですよね」ではなかった。

いちおう疑問形になっていたのだから、まだいいほうなのかもしれない。
でも、その人のなかでは、確信に近かったのではないか、とも感じた。

誰にも勘違いというのはある。
それでも、その人は、(その4)で書いている人と同じにみえる。
同じ人ではない。
(その4)の人と、ここで書いている人は、30以上齢が離れている。
世代はずいぶん離れている。

それでも、どの世代にもいる、ということなのか。
それともたまたまなのか。

Date: 6月 14th, 2020
Cate: 憶音

憶音という、ひとつの仮説(その8)

瀬川先生の「虚構世界の狩人」を読んだことも、
憶音について考えるきっかけに なっている。
     *
「もう二十年も昔の事を、どういう風に思い出したらよいかわからないのであるか、僕の乱脈な放浪時代の或る冬の夜、大阪の道頓堀をうろついてゐた時、突然、このト短調シンフォニィの有名なテエマが頭の中で鳴ったのである。」
「モオツアルト」の中でも最も有名な一節である。なに、小林秀雄でなくなって、俺の頭の中でも突然音楽が鳴る。問題は鳴った音楽のうけとめかただが、それを論じるのが目的ではない。
 だいたいレコードのコレクションというやつは、ひと月に二〜三枚のペースで、欲しいレコードを選びに選び抜いて、やっと百枚ほどたまったころが、実はいちばん楽しいものだ。なぜかといって、百枚という文量はほんとうに自分の判断で選んだ枚数であるかぎり、ふと頭の中で鳴るメロディはたいていコレクションの中に収められるし、百枚という分量はまた、一晩に二〜三枚の割りで聴けば、まんべんなく聴いたとして三〜四カ月でひとまわりする数量だから、くりかえして聴き込むうちにこのレコードのここのところにキズがあってパチンという、ぐらいまで憶えてしまう。こうなると、やがておもしろい現象がおきる。さて今夜はこれを聴こうかと、レコード棚から引き出してジャケットが半分ほどみえると、もう頭の中でその曲が一斉に鳴り出して、しかもその鳴りかたときたら、モーツァルトが頭の中に曲想が浮かぶとまるで一幅の絵のように曲のぜんたいが一目で見渡せる、と言っているのと同じように、一瞬のうちに、曲ぜんたいが、演奏者のくせやちょっとしたミスから——ああ、針音の出るところまで! そっくり頭の中で鳴ってしまう。するともう、ジャケットをそのまま元のところへ収めて、ああ、今夜はもういいやといった、何となく満ち足りた気持になってしまう。こういう体験を持たないレコード・ファンは不幸だなあ。
 しかし悲しいことに、やがて一千枚になんなんとするレコードが目の前に並ぶようになってしまうと、こういう幸せな状態は、もはや限られた少数のレコードにしか求めることができなくなってしまう。人は失ってからそのことの大切さに気がつく、とはよくぞ言ったものだ。
     *
レコードのジャケットを半分みえただけで、
そのレコードおさめられている音楽が、一瞬のうちに頭のなかで鳴ってしまう、という経験は、
音楽好きの人ならば、きっとあったはずだ。

でも、いまでは《ひと月に二〜三枚のペースで、欲しいレコードを選びに選び抜いて、
やっと百枚ほどたまった》というような聴き方は、とおい昔のことになっているかもしれない。

瀬川先生が、この文章を書かれたころからすると、レコード(録音物)の価格は、
相対的に安くなってきている。
それにいまではインターネットにアクセスできる環境があれば、
ほぼ聴き放題の状態を簡単に得られる。

月に二〜三枚のペースで、百枚ということは三年から四年ほどかかる。
いまでは百枚(それだけの曲数)は、聴く時間さえ確保できれば、それで済む時代だ。
三年から四年かかる、なんてことは、いまでは悠長すぎるのかもしれない。

けれど、それだけの時間をかけながら、音楽を聴いてきたからこそ、
一瞬のうちに頭のなかで音楽が鳴ってくる、はずだ。

この経験は憶音に関係してくることのように感じているけれど、
そういう経験をもたない人も現れ始めていても、不思議とはおもわない。

Date: 6月 13th, 2020
Cate: 憶音

憶音という、ひとつの仮説(その7)

別項で、コーネッタについて書いている。
いつかはタンノイ……、いつかはコーネッタ……、というおもいはずっと持ち続けていたけれど、
いまさらコーネッタなのか……、というおもいもないわけではない。

なのにコーネッタなのは、ここでのテーマである憶音という仮説について、
検証してみたいから、という気持もあるのだろう。

それでも思うのは、MQAを聴いていなければ、実行にうつすことはしなかっただろう、ということ。
MQAで音楽を聴いていると、確かめたいことが次々と出てくる。

こんな仮説を、誰かがかわりに検証してくれることはないのだから、
自分でやるしかない。

Date: 6月 13th, 2020
Cate: High Resolution

MQAで聴きたい三味線(その4)

食指が動かない、といってもしようがない。
まず、MQAで聴ける三味線で、しかも独奏のタイトルということで、
一枚購入したのは「はなわちえ 津軽三味線独奏集 Vol.1」である。

flac、WAV、MQAが192kHz、24ビット、
DSFが5.6MHzと11.2MHzが用意されている。

いうまでもなく私が購入したのは、MQAである。
元は11.2MHzのDSD録音とあるから、
そこが、MQAで聴きたい私としては、すこしばかりひっかかるところなのだが、
あまりこまかなことばかりいっていると、どれも買えなくなってしまう。

そうなってしまっては、オーディオマニアゆえの癇癪みたいなものである。

とにかくひさしぶりに聴く三味線である。
自分のシステムで聴いたのは、三十年以上前のことになる。

出している音も変っているので、記憶の上での比較も何にもならない。
はなわちえという人の演奏も初めて聴くわけだから、
とにかく、いまここで鳴っている音だけに耳を傾ける以外にない。

聴いていると、はなわちえの、この三味線をコーネッタで鳴らしたら、とやっぱり思ってしまった。
コーネッタはコーナー型だから、部屋のコーナーにそうやって設置すれば、
試聴位置はかぎられてしまうし、スピーカーに近いところにもなる。

まさに一人で聴くためのかたちになるわけで、
そうやって鳴ってくる三味線(独奏)を、どう感じるのかに興味がわいてくる。

7月1日のaudio wednesdayで、鳴らす。

Date: 6月 11th, 2020
Cate: ディスク/ブック

鉄腕アトム・音の世界(その2)

鉄腕アトム・音の世界」は、5月のaudio wednesdayに持っていくつもりでいた。

でも、誰も来ないだろうことは予想できていたし、
実際に誰も来なかったのだから、持っていかないことを選択した。

6月のaudio wednesdayには持っていくつもりは、最初はなかった。
前の晩に用意していて、ふと「鉄腕アトム・音の世界」が目に留った。

200Vの昇圧トランスが持っていくモノに加わってからは、
CDの枚数は少なくしたい、と思うようになってきた。
それにiPhoneには、MQAのライブラリーが充実してきているから、
CDを持っていかなくても済むといえば、そうなりつつある。

audio wednesdayに来る人の大半は、
私と同世代か上の世代の人たちである。
「鉄腕アトム」のアニメも、きっと見ていた人たちのはずだ。

その人たちがどういう反応をするのかに興味があったし、
5月のaudio wednesdayに持っていこうとしたのは、
音楽ではなく、こういうCDをアルテックはどんなふうに鳴らしてくれるか、
という点に興味があったからだ。

喫茶茶会記のアルテックで聴いてると、私のシステムで聴くよりも楽しい。
音そのものもそうだが、いっしょに聴いている人たちの反応があるから、
よけいに楽しい。

大きな驚きがあった、という感想を伝えてくれた人がいた。
翌日、amazonで注文した、とのことだった。

「鉄腕アトム・音の世界」に収録されている音たちは、
それまで世の中に存在しなかった音である。

Date: 6月 9th, 2020
Cate: audio wednesday

第113回audio wednesdayのお知らせ(いつかは……、というおもいを)

audio wednesdayの場を提供してくれている喫茶茶会記は、
四谷三丁目にあるジャズ喫茶である。

そのジャズ喫茶で、タンノイを鳴らす。
タンノイでジャズ、と書くと、
!か?、もしくは!?がつくだろう。

けれど菅野先生はスイングジャーナルで、
タンノイでジャズを、という組合せをやられていた。

井上先生は、ステレオサウンド別冊「世界のオーディオ」のタンノイ号で、
オートグラフを、マッキントッシュのMC2300とマークレビンソンのLNP2という組合せで、
やはりジャズを鳴らされている。

すごく実体感のある音が鳴ってきた、とあるし、
実際に井上先生に訊いたこともある。

いい音が鳴った、ということだったし、
ウッドベースの音は、ほんとうに気持ちよかった、とのことだった。

なので別項「妄想組合せの楽しみ(番外・その1)」では、
ジャズ喫茶の店主だったら、という妄想を書いている。

ジャズ喫茶の店主だったら、スピーカーを何にするか。
ロックウッドのMajor Geminiにする、と書いている。

タンノイのHPD385Aを二発、
独特のエンクロージュアに搭載したモニタースピーカーである。

コーネッタで、どこまで鳴らすか、は、当日の音を聴いてからだ。
コーネッタが、どこまで鳴ってくれるのか、が、いまのところの最大の関心事の一つである。

場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

19時開始です。

Date: 6月 9th, 2020
Cate: High Resolution

MQAで聴きたい三味線(その3)

シーメンスのコアキシャルで聴いた三味線は、
数枚だったが、すべてアナログディスクだった。

これを書きながら思い出したのは、CDになってから、
自分のシステムでは三味線の録音を聴いていないことだ。

正確にいえば、三味線単独の録音を聴いていない。
余所では数度聴いてはいる。

SACDが登場してからも、三味線の録音を聴きたい、とは思わなかった。
なので、三味線のSACDが出ているのかも知らない。

なのにMQAの音を継続して聴くようになってから、
三味線は、いったいどんなふうになるのだろうか、と思うようになった。

e-onkyoでは、純邦楽ということになる。
邦楽は、歌謡曲やJ-POPのことになっている。

e-onkyoで、純邦楽+MQAで検索すれば、いくつか表示される。
純邦楽のタイトル自体、e-onkyoにはそれほどない。

e-onkyoが特別少ないというのではなく、
レコード店でも扱いは小さい。

「コンポーネントステレオの世界 ’77」の記事中にもあるが、
1976年当時でも、邦楽のコーナーがないレコード店はあった。

MQAのタイトルは少ないが、
flac、WAVはそこそこある、といえなくもない。
そのなかには聴きたい、と思う録音があるが、
残念なことにMQAにはなっていない。

理由は、純邦楽を録音しているレコード会社が、
MQAに関心がない、というところだろうか。

ハイレゾリューションで三味線を聴きたいのではない。
MQAで聴いてみたいのだ。

そうなると,現在のところのe-onkyoのラインナップは、食指がなかなか動かない。

Date: 6月 9th, 2020
Cate: ショウ雑感

2020年ショウ雑感(その23)

黒田先生の「ききたいレコードはやまほどあるが、一度にきけるのは一枚のレコード」に、
フィリップス・インターナショナルの副社長の話がでてくる。
引用するのは、これで四回目になる。
     *
ディスク、つまり円盤になっているレコードの将来についてどう思いますか? とたずねたところ、彼はこたえて、こういった──そのようなことは考えたこともない、なぜならわが社は音楽を売る会社で、ディスクという物を売る会社ではないからだ。なるほどなあ、と思った。そのなるほどなあには、さまざまなおもいがこめられていたのだが、いわれてみればもっともなことだ。
     *
「ききたいレコードはやまほどあるが、一度にきけるのは一枚のレコード」は1972年の文章だ。

レコード会社は、確かに《ディスクという物を売る会社》ではなく、
《音楽を売る会社》である。

レコードが、いまではアナログディスクのことを指し示す言葉として扱われるようになっているが、
レコード(record)は、記録、録音といった意味であるから、
音楽を録音して売る会社が、レコード会社であり、
時代時代によって、SPであったりLPであったり、
CD、SACD、MQA-CDでもあったりする。
それだけでなく、オープンリールテープ、カセットテープなどもあった。

ならばオーディオ会社は、何を売る会社なのだろうか。
スピーカーを売る会社、アンプを売る会社、
アナログプレーヤーを売る会社……、なのだろうか。

スピーカーやアンプを売っていることは確かだ。
それは当時、フィリップスが、LPやカセットテープを売っていたのと同じことだと捉えれば、
オーディオ会社は、音を売る会社ともいえる。

オーディオショウは、ならば、音を売るためのショウとも考えられる。
そうであるならばオーディオショウのあり方は、いまのままでいいのか、とも考えなければならない。

Date: 6月 8th, 2020
Cate: High Resolution

MQAで聴きたい三味線(その2)

「コンポーネントステレオの世界 ’77」では、
上杉先生が邦楽のための組合せをつくられている。

スピーカーシステムは、ヤマハのNS1000(Mが付くタイプではない)、
プリメインアンプがラックスのL309V、
プレーヤーしてステムがビクターのQL7Rで、カートリッジがエラックのSTS455Eである。

高価なシステムではないが、カラー見開きのページで、
これらオーディオ機器の集合写真は、なんとも雰囲気がよかった。
いかにも三味線、箏などの邦楽を聴くのに、ぴったりという感じが伝わってくる。

「コンポーネントステレオの世界」は、架空の読者からの手紙から始まる記事で、
架空の読者とオーディオ評論家の狙いと試聴によって、組合せができあがっていく。

邦楽での組合せでの架空の読者からの手紙には、こうある。
     *
 邦楽のレコードをきくには、たとえばワーグナーの楽劇とか、すさまじいロックのレコードをきく時のような、オーディオ的な面での、むずかしさはないかもしれません。しかし、邦楽には、独特の〝静けさ〟がどうしても必要で、レンジはせまくとも、音に対しての反応がシャープでないといけないようです。
     *
「コンポーネントステレオの世界 ’77」を読んだ時は、そういうものなのか、とおもったくらいだった。
その後、伊藤先生が三味線をきちんと鳴らすスピーカーはきわめて少ない、
その少ないスピーカーの一つが、シーメンスのスピーカーであること──、
これらのことをいわれているのを知って、たしかにそうだ、とおもった。

シーメンスのオイロダインで、三味線を聴きたかったけれど、
もうその機会は訪れないだろう。

でもシーメンスのコアキシャルでは、平面バッフルで鳴らしていたから、
三味線のレコードは聴いている。
といっても数えるほどしか聴いていない。

でも、私のなかでは、そのときのコアキシャルでの三味線の音が、
いまも聴きたい三味線の音につながっている。

Date: 6月 7th, 2020
Cate: audio wednesday

第113回audio wednesdayのお知らせ(いつかは……、というおもいを)

いつかはタンノイを……、
これは「五味オーディオ教室」からオーディオの世界に入ってきた私が、
ずっといだいてきたおもいである。

いつかはタンノイを……、
このタンノイとは、オリジナル・エンクロージュアのオートグラフのことである。
とはいえ、タンノイ・オリジナルのオートグラフは、
すでに製造中止になっていて、輸入元ティアックによる国産エンクロージュアになっていた。
それにユニットもHPD385にかわっていた。

スピーカーだけは新品で……、
これもずっとおもっていることだが、製造中止になっている以上、
中古で手に入れたスピーカーも、すでにいくつかある。

オートグラフの後継機として、ウェストミンスターがある。
いいスピーカーだと思っている。

それでも、オートグラフをベートーヴェンにたとえるなら、
ウェストミンスターはブラームスである。
このことは以前書いているので、これ以上はくり返さないが、
ここはどうしても譲れないところである。

もうひとつ加えるなら、オートグラフの佇まいとウェストミンスターのそれとは、
かなり違う。
ウェストミンスターを置くだけのスペースがあったとしても、
どうしても自分のモノとしたい、とは思えない理由である。

これも以前書いているが、私にとってのタンノイ本来の音は、
フロントショートホーン付きのエンクロージュアでのみ、と考えている。

こうなると、もうコーネッタしかない。
コーネッタは、「コンポーネントステレオの世界 ’77」で初めて、
その存在を知った。
といっても、詳しいことを知ったわけではない。

その二年後、「コンポーネントステレオの世界 ’79」でもコーネッタを見た。
リスニングルームの雰囲気とともに、コーネッタを欲しい、とおもった。

いつかはタンノイを……、というおもいも少しずつ変化してきている。
オートグラフだけではなくなってきている。
コーネッタを鳴らしたい、とおもう気持が、数年ごとに、わき上がってくる。

7月1日のaudio wednesdayでは、コーネッタを鳴らす。

場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

19時開始です。

Date: 6月 7th, 2020
Cate: High Resolution

MQAで聴きたい三味線(その1)

少しは飽きてくるのかな……、と、まったく思わないわけでもなかった。
けれど、メリディアンの218で聴いていると、MQAへの関心は増す一歩である。

MQAで聴いてみたい──、
そう思うものはかなりある。

そのうちの一つが、三味線である。
といっても、三味線の世界に詳しいわけではない。
まったく知らないわけではないが、ほとんど知らない、といったほうがいい。

それでもMQAで三味線は、どんなふうに鳴ってくれるのか、ということに、
ひじょうに関心と興味がある。

こんなふうに思うのは、伊藤(喜多男)先生が、
三味線がきちんと聴けるスピーカーは、世の中にほとんどない、といったことをいわれていたからだ。

いまでこそ、あまりいわれなくなったが、
スピーカーは、その国独自の音色をもつ。

だからヨーロッパサウンド、アメリカンサウンドがあり、
ヨーロッパのなかでも、イギリス、フランス、ドイツ、デンマークなどでは違ってくるし、
アメリカのなかでも、西海岸と東海岸の音ということが盛んにいわれていた。

そこには、その国独自の音楽文化との関連性も語られていた。
ならば三味線、つまり純邦楽の再生には、日本のスピーカーなのか、
そういうことになりそうだが、伊藤先生はそう思われていなかったはずだ。

三味線にかぎらず、箏、尺八、それから(歌ではなく)唄となると、
私が思い浮べるのは、「コンポーネントステレオの世界 ’77」での上杉先生の組合せである。

Date: 6月 7th, 2020
Cate: 日本のオーディオ

リモート試聴の可能性(その2)

いま書店に並んでいるオーディオ雑誌、
ステレオ、オーディオアクセサリー、ステレオサウンド、
いずれも特集は、試聴室で試聴をしないでもすむ企画になっている。

そうだろうな、と思うし、だからといって、次号以降も同じ、というわけにはいかない。
試聴室で試聴を行うけれど、
数人のオーディオ評論家がいっしょに試聴する、ということはしばらく影をひそめるだろう。

オーディオ評論家は一人。
あとは編集者が必要最低限の人数での試聴。
気をつけるところは、試聴中は、
試聴室にはオーディオ評論家だけ、ということもありそうである。

試聴機器を入れ替える時だけ、編集者が試聴室に入る。
これまでの試聴からすれば、なんと大袈裟な……、という印象を持つ人もいるだろうが、
そのくらい気をつけるのが、これからの当り前になっていってもおかしいことではない。

夏が終り秋になれば、メーカー、輸入元は、
オーディオ賞関係の試聴が増えてくる。

いまでは各オーディオ雑誌が、それぞれに賞をもうけていて、
それが年末号の特集になっている。

そのための試聴は、たいていはオーディオ評論家のリスニングルームに、
メーカー、輸入元の担当者が機器を持ち込んでの試聴である。

これも今年は変っていくのかもしれない。
担当者数人とオーディオ評論家だけならば、小人数での試聴とはいえ、
担当者は毎日のように、同じことをくり返していく。
外回りの、しかもある部分、肉体労働でもある。

雑誌社の試聴室ならば、搬入もしやすかったりするが、
オーディオ評論家のリスニングルームは個人宅である。
場合によっては、けっこう大変なことだってある。

感染リスクは、決して低くはない、といえる。
しかもオーディオ評論家、特にステレオサウンドに書いている人たちは、高齢者が多い。

Date: 6月 5th, 2020
Cate: 「かたち」

音の姿勢、音の姿静(その1)

「五味オーディオ教室」に、こう書いてあった。
     *
 はじめに言っておかねばならないが、再生装置のスピーカーは沈黙したがっている。音を出すより黙りたがっている。これを悟るのに私は三十年余りかかったように思う。
 むろん、音を出さぬ時の(レコードを聴かぬ日の)スピーカー・エンクロージァは、部屋の壁ぎわに置かれた不様な箱であり、私の家の場合でいえばひじょうに嵩張った物体である。お世辞にも家具とは呼べぬ。ある人のは、多少、コンソールに纏められてあるかも知れないが、そんな外観のことではなく、それを鳴らすために電気を入れるとしよう。プレーヤーのターンテーブルが、まず回り出す。それにレコードをのせる以前のたまゆらの静謐の中に、すでにスピーカーの意志的沈黙ははじまる。
 優れた再生装置におけるほど、どんな華麗な音を鳴らすよりも沈黙こそはスピーカーのもてる機能を発揮した状態だ。装置が優れているほど、そしてこの沈黙は美しい。どう説明したらいいか。レコードに針をおろすのが間延びすれば、もうそれは沈黙ではない。ただの不様な置物(木箱)の無音にとどまる。
 光をプリズムに通せば、赤や黄や青色に分かれることは誰でも知っているが、円盤にそういう色の縞を描き分け、これを早く回転させれば円盤は白色に見えることも知られている。つまり白こそあらゆる色彩を含むために無色である。この原理を応用して、無音こそ、すべての音色をふくんだ無音であると仮定し、従来とはまったく異なる録音機を発明しようとした学者がいたそうだ。
 従来のテープレコーダーは、磁気テープにマイクの捉えた音を電気信号としてプラスする、その学者の考えは、磁気テープの無音は、すでにあらゆる音を内蔵したものゆえ、マイクより伝達される音をマイナスすれば、テープには、ひじょうに鮮明な音が刻まれるだろう、簡単にいえばそういうことらしい。
 私はその方面にはシロウトで、テープヘッドにそういうマイナス音の伝達が可能かどうか、また単純に考えて無音(零)からマイクの捉えた音(正数)をマイナスするのは、数式で言えば結局プラスとなり、従来のものとどう違うのか、その辺はわからない。しかし感じとしては、この学者の考えるところはじつによくわかった。
 ネガティブな録音法とも称すべきこれを考案した学者の話は、だいぶ以前に『科学朝日』のY君から聞いたのだが、その後、いっこうに新案の録音機が発表されぬところをみると、工程のどこぞに無理があるのだろう。あるいはまったく空想に過ぎぬ録音法なのかもしれぬが、そんなことはどうでもよい。
 おそらくこの学者も私と同じレコードの聴き方をしてきた人に相違ないと思う。ひじょうに密度の濃い沈黙——スピーカーの無音は、あらゆる華麗な音を内蔵するのを知った人だ、そういう沈黙のきこえる耳をもっている人だ、と思う。
 レコードを鑑賞するのに、針をおろす以前のこうした沈黙を知らぬ人の鑑賞法など、私は信用しない。音楽が鳴り出すまでにどれほど多彩な楽想や、期待にみちびかれた演奏がきこえているか。そもそも期待を前置せぬどんな鑑賞があり得るのか。
 音楽は、自然音ではない。悲しみの余り人間は絶叫することはある。しかし絶叫した声でメロディを唄ったりはすまい。オペラにおける“悲しみのアリア”は、この意味で不自然だと私は思う。メロディをくちずさむ悲しみはあるが、甲高いソプラノの歌など悲しみの中で人は口にするものではない。歌劇における嘆きのアリアはかくて矛盾している。
 私たちがたとえば“ドン・ジョバンニ”のエルヴィーラの嘆きのアリア「私を裏切った……」(Mi tradi……)に感動するのは、またトリスタンの死後にうたうイゾルデに昂奮するのは、言うまでもなくそれが優れた音楽だからで、嘆くのが自然だからではない。厳密には理不尽な矛盾した嘆き方ゆえ感動するとも言えるだろう。
 そういうものだろう。スピーカーは沈黙を意志するから美しい。こういう沈黙の美しさがきこえる耳の所有者なら、だからステレオで二つもスピーカーが沈黙を鳴らすのは余計だというだろう。4チャンネルなど、そもそも何を聴くに必要か、と。四つもの沈黙を君は聴くに耐えるほど無神経な耳で、音楽を聴く気か、と。
 たしかに一時期、4チャンネルは、モノがステレオになったときにも比すべき“音の革命”をもたらすとメーカーは宣伝し、尻馬に乗った低級なオーディオ評論家と称する輩が「君の部屋がコンサート・ホールのひろがりをもつ」などと提灯もちをしたことがあった。本当に部屋がコンサート・ホールの感じになるなら、女房を質においても私はその装置を自分のものにしていたろう。神もって、これだけは断言できる。私はそうしなかった。これは現在の4チャンネル・テープがプログラム・ソースとしてまだ他愛のないものだということとは、別の話である。他愛がなくたって音がいいなら私は黙ってそうしている。間違いなしに、私はそういう音キチである。
 ——でも、一度は考えた。私の聴いて来た4チャンネルはすべて、わが家のエンクロージァによったものではない。ソニーの工場やビクターやサンスイ本社の研究室で、それぞれに試作・発売しているスピーカー・システムによるものだった。わが家のエンクロージァでならという一縷の望みは、だから持てるのである。幸い、拙宅にはテレフンケンS8型のスピーカーシステムがあり、ときおりタンノイ・オートグラフと聴き比べているが、これがまんざらでもない。どうかすればオートグラフよりピアノの音など艶っぽく響く。この二つを組んで、一度、聴いてみることにしたわけだ。
 ただ、前にも書いたがサンスイ式は疑似4チャンネルで、いやである。プリ・レコーデッド・テープもデッキの性能がまだよくないからいやである。となれば、ダイナコ方式(スピーカーの結合で位相差をひき出す)の疑似4チャンネルによるほかはない。完璧な4チャンネルは望むべくもないことはわかっているが、試しに鳴らしてみることにしたのだ。
 いろいろなレコードを、自家製テープやら市販テープを、私は聴いた。ずいぶん聴いた。そして大変なことを発見した。疑似でも交響曲は予想以上に音に厚みを増して鳴った。逆に濁ったり、ぼけてきこえるオーケストラもあったが、ピアノは2チャンネルのときより一層グランド・ピアノの音色を響かせたように思う。バイロイトの録音テープなども2チャンネルの場合より明らかに聴衆のざわめきをリアルに聞かせる。でも、肝心のステージのジークフリートやミーメの声は張りを失う。
 試みに、ふたたびオートグラフだけに戻した。私は、いきをのんだ。その音声の清澄さ、輝き、音そのものが持つ気品、陰影の深さ。まるで比較にならない。なんというオートグラフの(2チャンネルの)素晴らしさだろう。
 私は茫然とし、あらためてピアノやオーケストラを2チャンネルで聴き直して、悟ったのである。4チャンネルの騒々しさや音の厚みとは、ふと音が歇んだときの静寂の深さが違うことを。言うなら、無音の清澄感にそれはまさっているし、音の鳴らない静けさに気品がある。
 ふつう、無音から鳴り出す音の大きさの比を、SN比であらわすそうだが、言えばSN比が違うのだ。そして高級な装置ほどこのSN比は大となる。再生装置をグレード・アップすればするほど、鳴る音より音の歇んだ沈黙が美しい。この意味でも明らかに2チャンネルは、4チャンネルより高級らしい。
 私は知った。これまで音をよくするために金をかけたつもりでいたが、なんのことはない、音の歇んだ沈黙をより大事にするために、音の出る器械をせっせと買っていた、と。一千万円をかけて私が求めたのは、結局はこの沈黙のほうだった。お恥ずかしい話だが、そう悟ったとき突然、涙がこぼれた。私は間違っていないだろう。終尾楽章の顫音で次第に音が消えた跡の、優れた装置のもつ沈黙の気高さ! 沈黙は余韻を曳き、いつまでも私のまわりに残っている。レコードを鳴らさずとも、生活のまわりに残っている。そういう沈黙だけが、たとえばマーラーの『交響曲第四番』第二楽章の独奏ヴァイオリンを悪魔的に響かせる。それがきこえてくるのは楽器からではなく沈黙のほうからだ。家庭における音楽鑑賞は、そして、ここから始まるだろう。
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さらに五味先生は《無音はあらゆる華麗な音を内蔵している》とも書かれていた。
13のときに「五味オーディオ教室」出逢って、44年。

「音の姿静」だと、やっと気づいた。