Archive for category テーマ

Date: 4月 11th, 2022
Cate: ディスク/ブック

内田光子のディアベリ変奏曲(その3)

2015年の内田光子の
《スポーツに例えるならば、心技体そろった今だからこそこの難曲に挑戦したい》は、
コンサートでの演奏が前提であるわけで、
ディアベリ変奏曲は一時間弱ほどかかる曲だ。

コンサートでは、ディアベリ変奏曲の途中で休憩を入れるわけにはいかない。
あたりまえすぎることなのだが、
最初から最後まで通しでのディアベリ変奏曲であり、
一時間ほどピアニストは、ディアベリ変奏曲は向きあうことになる。

だからこその心技体そろってなのだろう。
録音では、その点は多少違ってくる。

今回の内田光子のディアベリ変奏曲がどのように録音されたのか詳細は知らない。
コンサートに近い形での演奏・録音だったのかもしれないが、
それでも途中で休憩をはさんでいないとは思えない。

コンサートでのディアベリ変奏曲よりも、録音でのディアベリ変奏曲は、
体力面に関してはいくらかは楽ではあろう。

そう思いながらも、内田光子のディアベリ変奏曲を聴いていると、
けっこう通しで録音したのではないか、という感じもしてくる。

ディアベリ変奏曲は、以前書いているように、あまり頻繁には聴かない。
前回聴いたのは、2020年秋である。

グルダのバッハの平均律クラヴィーア曲集とベートーヴェンのディアベリ変奏曲が、
SACDで登場した時である。
一年半ほどぶりのディアベリ変奏曲を、
内田光子の演奏で、すでに二回聴いているし、
クラウディオ・アラウの演奏も聴いた。

アラウと内田光子のディアベリ変奏曲を聴いて、
こんなにも音が違うのか、と少々驚いてしまった。

アラウは1985年、内田光子は2021年だから、二つの録音には三十六年の隔たりがある。
それだけでなくアラウの録音は44.1kHzで、
内田光子の録音は192kHzで、しかもMQAである。

そんなことは最初からわかっていたことなのだが、それでもこんなに違うのか、と思う。

Date: 4月 10th, 2022
Cate: 戻っていく感覚

GAS THAEDRAがやって来る(その11)

「世界のコントロールアンプとパワーアンプ」の’76年版、
「私の推奨するセパレートアンプ」のところで、瀬川先生がこんなことを書かれている。
推薦機種としてのGASのTHAEDRAとAMPZiLLAのところである。
     *
 耳当りはあくまでもソフトでありながら恐ろしいほどの底力を感じさせ、どっしりと腰の坐った音質が、聴くものをすっかり安心感にひたしてしまう。ただ、試聴記の方にくわしく載るように、私にはこの音が男性的な力強さに思われて、個人的にはLNP2とSAE♯2500の女性的な柔らかな色っぽい音質をとるが、そういう私にも立派な音だとわからせるほどの説得力を持っている。テァドラ/アンプジラをとるか、LNP2/2500をとるかに、その人のオーディオ観、音楽観のようなものが読みとれそうだ。もしもこれを現代のソリッドステートアンプの二つの極とすれば、その中間に置かれるのはLNP2+マランツの510Mあたりになるか……。
     *
瀬川先生のこの文章を、いま読んで思い出すことがある人もいれば、そうでない人もいる。
何かを思い出す人でも、何を思い出すのかは人によって違うだろうが、
記憶のよい方ならば、「’81世界の最新セパレートアンプ総テスト」の巻頭、
瀬川先生の「いま、いい音のアンプがほしい」であろう。

ステレオサウンド 62号、63号には、「音を描く詩人の死」が載っている。
瀬川先生に関する記事である。

この記事を執筆されたのは、編集顧問のYさん(Kさんでもある)だった。
そこに、こうある。
     *
 昨年の春、こういう書きだしではじまる先生のお原稿をいただいてきた。これはその6月に発刊された特別増刊号の巻頭にお願いしたものであった。実は、正直のところ、私たちは当惑した。編集部の意図は、最新の世界のセパレートアンプについての展望を書いていただこうというものであった。このことをよくご承知の先生が、あえて、ちがうトーンで、ご自身のオーディオ遍歴と、そのおりふしに出会われた感動について描かれたのだった。
     *
最新の世界のセパレートアンプについての展望というテーマということであれば、
編集部は「コンポーネントステレオの世界」の’79年版の巻頭、
「’78コンポーネント界の動向をふりかえって」、
’80年版の巻頭「80年代のスピーカー界展望」、どちらも瀬川先生が書かれているが、
こういう内容の原稿を期待しての、
最新の世界のセパレートアンプについての展望という依頼だったのだろう。

なのに「いま、いい音のアンプがほしい」の文章の中ほどまでは、
マッキントッシュのC22、MC275、マランツのModel 7、そしてJBLのSA600、SG520、SE400、
これらの、1981年の時点でもすでに製造中止になっていたアンプのことが占めている。
     *
 JBLと全く対極のような鳴り方をするのが、マッキントッシュだ。ひと言でいえば豊潤。なにしろ音がたっぷりしている。JBLのような〝一見……〟ではなく、遠目にもまた実際にも、豊かに豊かに肉のついたリッチマンの印象だ。音の豊かさと、中身がたっぷり詰まった感じの密度の高い充実感。そこから生まれる深みと迫力。そうした音の印象がそのまま形をとったかのようなデザイン……。
 この磨き上げた漆黒のガラスパネルにスイッチが入ると、文字は美しい明るいグリーンに、そしてツマミの周囲の一部に紅色の点(ドット)の指示がまるで夢のように美しく浮び上る。このマッキントッシュ独特のパネルデザインは、同社の現社長ゴードン・ガウが、仕事の帰りに夜行便の飛行機に乗ったとき、窓の下に大都会の夜景の、まっ暗な中に無数の灯の点在し煌めくあの神秘的ともいえる美しい光景からヒントを得た、と後に語っている。
 だが、直接にはデザインのヒントとして役立った大都会の夜景のイメージは、考えてみると、マッキントッシュのアンプの音の世界とも一脈通じると言えはしないだろうか。
 つい先ほども、JBLのアンプの音の説明に、高い所から眺望した風景を例として上げた。JBLのアンプの音を風景にたとえれば、前述のようにそれは、よく晴れ渡り澄み切った秋の空。そしてむろん、ディテールを最もよく見せる光線状態の昼間の風景であろう。
 その意味でマッキントッシュの風景は夜景だと思う。だがこの夜景はすばらしく豊かで、大都会の空からみた光の渦、光の乱舞、光の氾濫……。贅沢な光の量。ディテールがよくみえるかのような感じは実は錯覚で、あくまでもそれは遠景としてみた光の点在の美しさ。言いかえればディテールと共にこまかなアラも夜の闇に塗りつぶされているが故の美しさ。それが管球アンプの名作と謳われたMC275やC22の音だと言ったら、マッキントッシュの愛好家ないしは理解者たちから、お前にはマッキントッシュの音がわかっていないと総攻撃を受けるかもしれない。だが現実には私にはマッキントッシュの音がそう聴こえるので、もっと陰の部分にも光をあてたい、という欲求が私の中に強く湧き起こる。もしも光線を正面からベタにあてたら、明るいだけのアラだらけの、全くままらない映像しか得られないが、光の角度を微妙に選んだとき、ものはそのディテールをいっそう立体的にきわ立たせる。対象が最も美しく立体的な奥行きをともなってしかもディテールまで浮び上ったときが、私に最上の満足を与える。その意味で私にはマッキントッシュの音がなじめないのかもしれないし、逆にみれば、マッキントッシュの音に共感をおぼえる人にとっては、それがJBLのように細かく聴こえないところが、好感をもって受け入れられるのだろうと思う。さきにもふれた愛好家ひとりひとりの、理想とする音の世界観の相違がそうした部分にそれぞれあらわれる。
 JBLとマッキントッシュを、互いに対立する両方の極とすれば、その中間に位置するのがマランツだ。マランツの作るアンプは、常に、どちらに片寄ることなく、いわば〝黄金の中庸精神〟で一貫していた。
     *
私は、ここのところと
「世界のコントロールアンプとパワーアンプ」の’76年版でのGASについての文章とがリンクしてしまう。

Date: 4月 9th, 2022
Cate: High Resolution

TIDALという書店(その16)

レコード芸術の3月発売の4月号は、少し楽しみにしていた。
別項で触れている、金子三勇士の「Freude(フロイデ)」の録音が、
どう評価されているのかに関心があったからだ。

レコード芸術はKindle Unlimitedで読める。
表紙をみると、特集は「激推し! 21世紀型 次世代ピアニスト」とある。

金子三勇士も若手ピアニストなのだから、
「Freude」についても、特集でも取り上げられているかも──、
と読むまでは、そんなふうに期待していた。

特集に登場するピアニストに金子三勇士は入っていなかった。
新譜紹介のコーナーにも、「Freude」はなかった。
別のページで簡単な紹介があっただけである。

「Freude」は3月4日の発売。
レコード芸術は毎月20日の発売。
だから4月号で、なんらかのかたちできちんと取り上げられるものと、勝手に思っていた。

期待して読んで気づいたことがある。
新譜紹介のところに登場しているディスクは、2月発売のものが大半だったことだ。

えっ? と思った。
3月発売の新譜が、3月20日発売の号に載っていないか、と。

きくところによると、レコード会社はサンプル盤を用意していない、らしい。
すべてのレコード会社がそうなのかどうかまでは知らないが、
けっこう大手のレコード会社でも、そうらしい、ということだ。

以前ならば取り上げてくれる雑誌の編集部には、
発売前にサンプル盤を提供することで、発売日前後の号に取り上げられるようになっていた。
それが、いまではどうも違ってきているようなのだ。

さらに貸出用のディスクには通し番号がふられていて、返却が求められるともきいている。

確かに「Freude」は3月4日発売なのだから、
それからということになれば、20日発売の4月号には間に合わない。

Date: 4月 8th, 2022
Cate: ディスク/ブック

内田光子のディアベリ変奏曲(その2)

今日(4月8日)は、内田光子の「ディアベリ変奏曲」の発売日である。
MQA-CDで発売されている。

買おうと思っていたけれど、TIDALで先に聴いてしまった。

2015年、内田光子はサントリーホールで「ディアベリ変奏曲」を弾いている。
その時のインタヴューが、毎日新聞のサイトで公開されている。

そこには、こうある。
《スポーツに例えるならば、心技体そろった今だからこそこの難曲に挑戦したい》。

当時、このインタヴューを読んでいた。
心技体そろった今、とあるのだから、
一年以内くらいに「ディアベリ変奏曲」を録音するものだとばかり思ってしまった。
そうそう心技体そろった状態を維持できるとは思えなかったからだ。

録音は2021年10月である。
日本で「ディアベリ変奏曲」を弾いてから、まる六年経っている。

いまも心技体そろっている、ということなのか。
内田光子は1948年12月20日生れだから、
録音のときは、73歳になる少し前である。

「ディアベリ変奏曲」のディスクは、そう多くは持っていない。
ベートーヴェンのピアノ・ソナタほどには頻繁に聴かない、ということもある。

それでもグルダの録音とクラウディオ・アラウの晩年の録音は、
素晴らしいと感じている。

この録音は1985年4月。
アラウは1903年2月6日生れだから、この時82歳。

Date: 4月 7th, 2022
Cate: 純度

オーディオマニアとしての「純度」(続・カザルスを聴いておもうこと)

2020年10月に、
オーディオマニアとしての「純度」(カザルスを聴いておもうこと)」で、
燃焼こそ純度だ、と書いている。

2020年10月の時点では、カザルスのベートーヴェンの交響曲を、MQAでは聴けなかった。
TIDALでMQA Studioで聴けるようになったのは、2021年秋からだ。

カザルス指揮によるベートーヴェンの交響曲第七番は、最初LPで聴いた。
CBSソニーのLPで、だから国内盤である。

マスターサウンドを謳っていた。
その音は、というと、決していいとはいえなかったけれど、
カザルスの燃焼するさまは、きちんと伝わってきた。

でも聴いていると、もっといい音のはず、と思う。
しばらくしてドイツ盤を買って聴いた。

音の艶、弦の響きなど、日本盤とはさすがに違う、と感じたものの、
カザルスの燃焼度ということでは不満が残った。
これならば日本盤のほうをとる。

CDになって、日本盤、アメリカ盤を聴いた。

カザルスのベートーヴェンの交響曲は、優秀録音とはいえない。
それはわかっているのだが、もっとどうにかなるのではないのか──、
そんなおもいがずっとついてまわっていた。

それでも聴けば、その凄さに圧倒されるのだから、
充分な音といえば、そういえなくもない。

それでも欲はある。
MQA Studio(44.1kHz)で聴けるカザルスの第七番は、
燃焼こそ純度だ、とそういえる音で鳴ってくれる。

その美しさが聴きとれる。

Date: 4月 7th, 2022
Cate: 戻っていく感覚
1 msg

GAS THAEDRAがやって来る(その10)

SAEのMark 2500の音について、瀬川先生はこう語られている。
     *
 聴いた順でいえば、ダイナコ、ハーマンカードン、それからマッキントッシュの系列の腰の太い音というのが個人的には嫌いで、もっと細身の音が好きなんです。SAEの音はその意味ではまず細い。低域の方でちょっとふくらむぶんには、むしろぼくは歓迎する。つまり、プロポーションとしては、非常にぼく好みの音がしたわけです。
     *
瀬川先生が細身の音を好まれていたのは確かにそうであるのだが、
だからといって、下半身から肉づきをすべて削ぎ落とした音を、
瀬川先生が好まれた音と勘違いしている人がいるのを知っている。

以前、別項で書いているから詳しいことはくり返さないが、
中低域から下の帯域の量感を根こそぎ削ってしまった音を、いい音だ、
それだけでなく、瀬川先生の音を彷彿とさせる音、とまで言った男がいる。

彼は、瀬川先生の文章のどこを読んでいたのだろうか。

女性のプロポーションでいえば、ウェストに肉がついているかのような音は、
瀬川先生が嫌われていたことは、試聴記を読んでいくだけですぐにわかることだ。

けれどその下、つまりお尻まわりの肉づきは、
SAEのMark 2500の音を高く評価されていたことからも、
瀬川先生自身語られていることからも、好まれていたこともすぐにわかる。

自分にとって都合のいいところだけ読んで、
そうでないところはまるでなかったかのように無視して、
あげくの果てに、瀬川先生の音を彷彿とさせる音と、
似ても似つかない自身の音を、そう表現する。

それで誰かに迷惑をかけるわけでもないし、
その男の音を聴いている人はそう多くないから、
まして瀬川先生の音を聴いている人はもっと少ないのだから、
実害はあまりない、といえばそうである。

それでもいいたいのは、もっときちんと読もう、ということだ。

Date: 4月 7th, 2022
Cate: 戻っていく感覚

GAS THAEDRAがやって来る(その9)

「世界のコントロールアンプとパワーアンプ」の’76年版には、
SAEのMark 2500も登場している。

この「世界のコントロールアンプとパワーアンプ」の’76年版での試聴がきっかけとなって、
瀬川先生はMark 2500を買いこまれてしまった。
そのことは、テスト後記にも書かれている。

で、ここでまたテーマから逸れてしまうのだが、
瀬川先生のテスト後記には、ジュリアン・ハーシュのことが出てくる。

ジュリアン・ハーシュといって、いまはどのくらい通じるのだろうか。
ジュリアン・ハーシュの名前は知らなくても、
アンプの理想像の代名詞的に使われる“straight wire with gain”。

この表現を使ったのが、ジュリアン・ハーシュで、
彼はアメリカのオーディオ誌“Stereo Review”の書き手の一人である。

瀬川先生は、ジュリアン・ハーシュについてこう書かれている。
     *
 もっとも、アメリカのオーディオ界では(いまや日本でも輸出に重点を置いているメーカにとっては)有名なこの男のラボ(自宅の地下室)に招かれて話をした折、こんな男の耳など全くアテにならないという印象を持ったほどだから、ハーシュの(測定や分析能力は別として)音質評価を私は一切信用していないのだが、右の例を別にしても、国産のアンプが海外ではそれなりに高い評価を受ける例が少しずつ増えていることは事実なのだ。
     *
これを読んでどうおもうかは、その人の勝手(自由)である。

話を元にもどそう。

Date: 4月 6th, 2022
Cate: 戻っていく感覚

GAS THAEDRAがやって来る(その8)

瀬川先生は、GASのアンプの音について、
《もっと下の肉がたっぷりついてくるという感じ》と語られているが、
このことについては補足が必要だろう。

「世界のコントロールアンプとパワーアンプ」の’76年版で、こう語られている。
     *
 音は、ぼくの聴き方ではやや太っているんだけれど、それはたとえば太ったいやらしさじゃなくて、いかにもあるべきところにきちんと肉がついていて、安定感がよくどっしりと地面に立っているという安心感を感じる。だから、どのレコードを聴いても、もうこのアンプで聴いていれば本当に安心できるという気がするわけです。
 しかし、このアンプを自分で買うだろうかと考えると、必ずしもそうはいえないわけです(笑)。なぜかということを考えていたんですけれども、一つのたとえでいえば、このアンプは男性的な音だと思うんです。立派な、見事な男と会っている、あるいは眺めているような感じの音で、ぼくは自分が男だから゛やはりもう少し女っぽくないとやりきれないところがあるんです。同じ言葉をしゃべっても、男がしゃべるのと女がしゃべるのとの違いみたいなもので、ぼくはやはり女がしゃべってくれた方が魅力を感じるわけですね。その意味でテァドラ+アンプジラはとても男性的だし、LNP−2と510Mは比較の上で女性的です。
     *
「世界のコントロールアンプとパワーアンプ」の’76年版でも、
井上先生、黒田先生は試聴メンバーである。岡先生も入っている。

「HIGH-TECHNIC SERIES 3」の巻頭座談会とあわせて読むことで、
瀬川先生がどういう音を求められていたのかが、よりはっきりと浮び上ってくる。

少しテーマから逸れてしまうが、
ステレオサウンドの瀬川冬樹著作集「良い音は 良いスピーカーとは?」、
このムックに不満があるのと、こういう点である。

合わせて読むことで、瀬川先生がどういう音を求められていたのか、
それを知る手がかりになる記事の掲載という視点が欠けている。

そういう視点を持った編集者が、ステレオサウンドという会社にはもういないのだろう。

Date: 4月 6th, 2022
Cate: 輸入商社/代理店

十数年前のことを思い出す(その3)

2019年10月9日、
メリディアンの輸入元が、12月からオンキヨーになる、ということを聞いた。

驚きよりも、大丈夫なのか……、という不安の方が大きかった。
予感は的中することになった。

2019年12月からだったのが、2020年1月に、というふうになったし、
2020年1月になっても、オンキヨーのウェブサイトにメリディアンのページが作られることはなかった。

2020年、2021年、オンキヨーは何もしなかった、
何もできなかった、といっていい。
オーディオ雑誌にメリディアンが登場することはなかった。

やっと、そのメリディアンの輸入元がハイレス・ミュージックになる。
ハイレス・ミュージックが再開することになったわけだ。

こういう例は珍しい。
その1)で触れたジャーマン・フィジックスは、輸入元が変り、
数年後には取り扱い中止。結局、どこも扱わなくなってしまっている。

メリディアンはそうならなかった。
そうなる可能性もあった、と思っている。

ハイレス・ミュージックが再開しなければ、どこも手を上げなかっただろう。

Date: 4月 5th, 2022
Cate: 戻っていく感覚

GAS THAEDRAがやって来る(その7)

GASのアンプの音のことで思い出すのは、
ステレオサウンド別冊「HIGH-TECHNIC SERIES 3」である。

アンプの別冊ではなく、トゥイーターの別冊である。
なのにGASのアンプの音に関連して思い出すのは、巻頭座談会があるからだ。

JBLの4343のトゥイーターを、他社製のトゥイーター五機種につけかえての試聴。
井上先生、黒田先生、瀬川先生による試聴と座談会である。

ピラミッドのリボン型トゥイーターのT1のところ、
瀬川先生が、こんなことを語られている。
     *
瀬川 この「ピラミッド」の音を「2405」との比較でいうと、たとえば、アンプの聴き比べをしている時の、「ガス」対「マークレビンソン」の音のように思えてならないのです。「2405」の場合にはいまも三人三様の言い方をしたけれども、かなりくまどりのはっきりした、いわば言葉に出していえる差みたいなものが表に押し出されて、そこがたいへん快くもある。あるいはそれが少し硬めの艶を乗せて快く聴かせる。と同時に、玄の音などで、やや金っ気を混ぜて聴かせるという、いやみな点もある。これは「マークレビンソン」のアンプにもあるのですけれど、あのいかにも線の細い、高域を少し強調するところですね。それが「マークレビンソン」をきらう人にとっては相当気になる部分だとぼくは解釈している。
 ただ、ぼく個人の言い方をすれば、それは大変好きな部分なんです。それが「ガス」系のアンプにすると、もっと下の肉がたっぷりついてくるという感じで、そして、高域のキラキラ光ったところが抑えられてくる。つまり、トータルで言えばより自然になったという言い方が成り立つと思うのです。「ピラミッド」をスーパートゥイーターにつけた「4343」は、あらゆる楽器に対してここにいるぞ、ここにいるぞみたいなことを言ってこないで、ごく自然に目の前に展開したという印象が強いんです。
     *
「HIGH-TECHNIC SERIES 3」を読んだ時、
マークレビンソンのアンプは数回聴いていた。
でもGASのアンプは聴く機会がなかった。

それもあって、2405とピラミッドの音についての座談会を、
私はマークレビンソンとGASの音の違いについてのことでもある──、
そう受けとりながらくり返し読んでは、その音を想像していた。

念のため書いておくと、
ここでの「マークレビンソン」のアンプとは、
LNP2であったりML1(JC2)であったりするわけで、ML7以降の音のことではない。

Date: 4月 4th, 2022
Cate: ディスク/ブック

グールドの「熱情」

ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第23番には、
「熱情」という通称がついている。

この通称にとらわえてしまうと、演奏の評価を誤ってしまうのかもしれないが、
それでもグレン・グールドの「熱情」は、
グールドによるベートーヴェンの他のピアノ・ソナタほどには際立っているとは、
これまで感じたことはなかった。

「熱情」をそれほど聴くわけではない。
他のピアニストの演奏でも、それほど聴かない。

昨年、TIDALでグールドのコロムビアでのすべての録音がMQA Studioで聴けるようになってから、
すべてのアルバムを聴き直しているところ。

今日は、「熱情」がおさめられているアルバムを聴いていた。
前回、グールドの「熱情」を聴いたのがいつだったのか、
正確に思い出せないほどにひさしぶりのグールドの「熱情」となった。

第二楽章を聴いていて、ハッとした。
こんなに美しかったか、とハッとした。

ピアノの演奏よりも、むしろグールドのハミングの美しさに、ハッとしたものだった。

MQAだからなのだ、と勝手に思っている。

Date: 4月 3rd, 2022
Cate: オーディオマニア

つきあいの長い音(その44)

つきあいの長い音──、私にとってはボンジョルノのアンプの音となるのか。

Date: 4月 3rd, 2022
Cate: High Resolution

MQAのこと、TIDALのこと(ABBA・その3)

昨年11月に出たABBAのひさしぶりのアルバム“Voyage”は、
MQA(96kHz)で聴ける。

“Voyage”の発売に合わせて、
これまでのアルバムもMQAで聴けるようになるのか、と期待していたが、
そんなことはなかった。

6月1日に、CDボックスが出る、という。
ということはリマスターでの発売なのか、
だとしたらTIDALでMQAで、今度こそ聴けるようになる──かもしれない。

ABBAのボックス発売のニュースを見ても、
リマスターされたのかどうかははっきりしない。

それでも期待しているし、
今回MQAで聴けるようにならなければ、当分無理であろう。

Date: 4月 3rd, 2022
Cate: 選択

オーディオ機器を選ぶということ(再会という選択・その7)

インターネットが普及して、
ヤフオク!も広く浸透しているからこそ、
今回のケースのように、THAEDRAを格安で、
それだけでなく家から一歩も出ずに手に入れることが、
つまり再会することができた。

以前だったら、THAEDRAが欲しい、
もう一度THAEDRAと思い立ったら、
中古オーディオ店を巡回していくか、
オーディオ雑誌の売買欄をこまめにチェックしていくしかない。

どちらにしても労力は、けっこうなものである。

それがいまや椅子に腰掛けたまま、iPhoneを触っているだけで済む。
手軽すぎる、といってもいいくらいである。

でも、だからといってありがたみが薄れるわけでもない。
20代のころ、SUMOのThe Goldを手に入れたときも、今回の件に近かった。

The Goldが欲しい! と思うようになった。
12月だった。
ステレオサウンドの最新刊も出たばかりで、ちょうどぽっかりと時間が空いていた。

出社していたけれど、ふらっと会社を抜け出して秋葉原に行った。
なぜだか、予感があったからだ。

ダイナミックオーディオに行った。
The Goldが、そこにあった。
私を待っていたかのように、そこにいた。

隣にはTHAEDRAもあった。
両方とも欲しかったけれど、この時はThe Goldだけしか買えなかった。
予算が足りなかった。

The Goldは、こんなふうにしてあっさりと自分のモノとなった。
不思議なものだ。

Date: 4月 3rd, 2022
Cate: 選択

オーディオ機器を選ぶということ(再会という選択・その6)

20代のころ、GASのTHAEDRAを使っていた。
1980年代後半である。

THAEDRAが登場して、ほぼ十年経ったころの話だ。
なので、そのころTHAEDRAを使っていた人も少なくなかったし、
THAEDRAを使っている、と周りのオーディオマニアにいったとしよう。

その時、「いまさらTHAEDRAねぇ……」という人はいなかった、といってよいだろう。
それから三十年以上が経ち、
「THAEDRAをヤフオク!で落札した」と不用意にいおうものなら、
「いまさらTHAEDRAねぇ……」と返してくる人はいる──、と思う。

たとえば、これがTHAEDRAではなく、マランツのModel 7だったらどうだろうか。
「いまさらModel 7ねぇ……」という人はいるだろうか。

おそらくいるだろうけれど、
「いまさらTHAEDRAねぇ……」という人よりもずっと少ないように思う。

MODEL 7はTHAEDRAより、ずっと以前に登場している。
なのに「いまさらModel 7ねぇ……」という人はずっと少ない。

理由はいくつか考えられる。
そのうちの一つは、資産価値ということがあるように感じられる。

いまマランツのModel 7の中古相場は高騰している。
百万円を超える場合も珍しくなくなってきている。
三百万近い値がつけられていたケースもある。

私がオーディオに興味をもったころ、1976年ごろは三十万円ほどだった。
そのころ登場したTHAEDRAの定価は六十六万円だった。

それから四十年以上が経ち、Model 7の相場は高くなる一方で、
THAEDRAの相場は低くなってきている。

低くなってきたからこそ、今回私は三万円ほどで手にすることができたわけなのだが。