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Date: 5月 4th, 2012
Cate: 岩崎千明

岩崎千明氏のこと(2012年5月2日・その2)

audio sharingの公開当初は、瀬川先生の文章と岩崎先生の文章は、いわば無断公開していた。
本来なら許諾を得ての公開なのだが、ご家族の連絡先がわからず、ことわりをいれた上での公開だった。

だから岩崎綾さんのメールを届いたとき、
本文を読むのは、半分不安だった。もし公開しないでほしい、と書かれてあったら……。
でもクリックしてメールを読むと、嬉しい内容のメールだった。
メールの最後に、「母も喜んでいます」と書いてあった。
公開の許諾をきちんといただけたこと以上、この最後の行が嬉しかった。

このメールが届いた日から、ほぼ12年。
何度かメールのやりとりはあったものの、お会いしたことも電話で話したこともなかった。
だから5月2日が初対面だった。

5月2日の夜は楽しかった。
楽しかったうえに、「おみやげがあります」といって万年筆をいただいた。
岩崎先生が使われていたパーカーの万年筆を、2本も。

そういえば、深夜、検問で止められたとき「職業は?」ときかれ、
ひと言「物書き」と岩崎先生は答えられた、という話が、ジャズ・オーディオに通い、
岩崎先生の運転する車に同乗されたこともある方からのメールにあった。

岩崎先生は、小学校のとき担任から「いい文章を書くから、物書きになったらいい」といわれたとのこと。
担任の名前は角川源義氏。
角川書店の創立者の角川氏からそう言われた岩崎少年は、物書きを夢見ていたのか、目ざしていたのか──、
はっきりとしたことはわからないけれど、「物書き」と答えられたのだから……、と思ってしまう。

そんな岩崎先生の万年筆が、いま手もとにある。

Date: 5月 3rd, 2012
Cate: 岩崎千明

岩崎千明氏のこと(2012年5月2日)

昨夜(5月2日)は毎月第一水曜日に行っているaudio sharing例会であり、
テーマは「岩崎千明氏について語る」であり、
ここで何度かお知らせしたように岩崎先生の娘(綾さん)さんと息子さん(宰守さん)が来てくださった。

夜7時開始で、3時間ちょっと夜10時すぎまで話が尽きることはなかった。
昨夜の例会での3時間、その後、帰り道が途中まで同じということもあって、さらに2時間弱、
ずっと話をしていた。

ほぼ5時間の会話によって、「やっぱりそうだったのか」「えっ、そうだったのか」と思うことがいくつもあった。
昨夜のことは、これから先このブログのあちこちに書いていく。

岩崎綾さんは私が降りる駅の数駅前で下車された。
それからの10数分間、ひとり、電車のなかで思っていたことがある。

ステレオサウンドで働いていたときは、
こうやって岩崎先生のご家族の会う日がくるなんてまったく想像できなかった。
岩崎先生だけではない、瀬川先生のご家族と会うことも思いもよらなかった。

それが、昨夜、初対面にも関わらず、ずっと話が続いていく──

岩崎綾さんは、私が2000年8月にaudio sharingを公開して数ヶ月後、メールをくださった方だ。
audio sharingを公開したばかりとはいえ、まったく反応はなかったときに、
いつもの同じように、今日もaudio sharing宛のメールは届いていないんだろうな……
と思いながらメールチェックしていた。
その日の嬉しさはいまでもはっきりと憶えている。
メールの件名は「岩崎千明の娘です」だった。

目を疑った。
目を疑う、とはこういうことなのか、と思い、もう一度件名を確認した。

Date: 4月 26th, 2012
Cate: audio wednesday, 岩崎千明

第16回audio sharing例会のお知らせ(岩崎千明氏について語る)

何度かお知らせしているように、来週水曜日(5月2日)のaudio sharing例会のテーマは
「岩崎千明氏について語る」です。

「岩崎千明氏について語る」といっても、
一回の例会で語り尽くせるはずもなく、「岩崎千明氏について語る」がテーマであっても、
さらにテーマを絞ることになるわけで、どこに絞るかを、いま考えているところであって、
岩崎千明という人物は、純粋な欲張りさんなのかもしれない、と思っている。

欲張りといってしまうと、あまりいいイメージではそこにはないわけだが、
そういうイメージの欲張りとはあきらかに違う、いわば子供のような純粋な欲張りなような気がしている。
大人の欲張りは、どこか人の目を気にしているようなところがないわけではない。
欲しいモノを手に入れる、という行為に、どこか趣味を同じくする周りの人の目を多かれ少なかれ気にしてしまう。
そのことを意識している、意識していないに関わらず、
そのこととまったく無関係にモノを選び自分のモノとしていくのは、簡単のようであって難しい面も含む。

しかもオーディオ評論家という、常に読者の目が向いている──、
なにも読者の目だけではない、編集者の目もある、メーカーの目もある、輸入商社の目も、
自分に向いていることを意識せざるをえない環境の中で、
純粋に自分の欲しいモノをそういう、いわばしがらみ的なことをバッサリ断ち切ってオーディオを選ぶことを、
ほんとうに楽しげにやられていた人が岩崎千明という人物ではないか、と思う。

自分の使っているオーディオ機器、手に入れたオーディオ機器のことを誰にも話さない、教えないのとはわけが違う。
だから、私は岩崎先生を、純粋な欲張りさん、と呼びたい気持に、いまなっている。

それに日本ではいまも昔も、ストイックであることのほうが、
なにかカッコイイと受けとめられることが多いような気がする。
私も20代のころは、そう思っていた。意味もなく、深く考えもせずに、
ストイックであること自体、もしかするとそう見せかけることがカッコイイ、と大きな勘違いをしていた。

それだからこそ、純粋な欲張りさんには憧れも含まれている。

私は岩崎先生の文章を同時代の人間としては、ほとんど読んでいない。
1977年の3月に亡くなられているから、1976年からオーディオにはいっていって私にとって、
それはごく短い期間であったし、すでに体調を崩されていたのだろう、
1977年1月、2月発行のオーディオ雑誌で、岩崎千明の名を見ることはほとんどなかった。
少なくとも私が住んでいた田舎の書店に置いてあるオーディオ雑誌では目にすることができなかった。

しかも私はジャズは、クラシックに比べれば聴く時間はかなり少ない。
ジャズ好きの人からみれば、
そんなもの聴いているうちにはいらないといわれてしまいそうなぐらいしか聴いていない。
私は、岩崎千明氏に関しては、あきらかに遅れてきた読者である。

そういう人間の見方だから、「純粋な欲張りさん」は的外れなこと想いということもあるかもしれない。
それでも、いまは、純粋な欲張りさんだ、とおもっている。
明日には変っているかもしれないが、
5月2日のテーマは、純粋な欲張りさんということから語りはじめるつもりでいる。

5月2日のaudio sharing例会は、いつも同じ、四谷三丁目の喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。
時間はこれまでと同じ、夜7時からです。

当日は岩崎先生の娘さんの岩崎綾さんと息子さんの岩崎宰守さんも来られます。

Date: 4月 17th, 2012
Cate: 井上卓也

井上卓也氏のこと(その35)

アンプやCDプレーヤーなどの天板の振動をうまく抑えたいときがある。
そういうときにアセテートテープをつかったり、
ときにはアナログプレーヤー用のスタビライザーを乗せたりすることもあるわけだが、
あれこれ試してみて、
いちばんいい方法はアセテートテープを貼ることでもなくスタビライザーを乗せることでもなく、
自分の手を乗せることだった。

このことも井上先生に言ったことがある。
「手がいちばんいいですよね」と。「うん、そうなんだよ」という返事だった。

あくまでもこれは試聴だから使う方法であり、
自分の部屋で聴くときに常にアンプ、CDプレーヤーの天板の上に手を乗せてたりはしない。
だいたい聴取位置から手の届くところにアンプやCDプレーヤーは置いていないから無理なのだが。

ステレオサウンドでの試聴は椅子の前にヤマハのラックGTR1Bが4つあり、
そこにアンプやCDプレーヤーを置くわけだから、手を伸ばせばすぐに天板に手は届く。

自分の手だから振動を指先や手のひらから感じとれるし、耳では音を聴いている。
それに天板との接触面積もかなり大幅に変えられるし、
同じ面積でもぐっと力を加えれば重量を増すのと同じことになる。

しかも手の内部には骨がある。
いわば硬い芯があるわけで、このことも、
ただ硬いものを置いたり柔らかいものでダンプしたり、とは違う意味をもつ。

実際、井上先生は試聴中に天板の上に手を置かれていたし、
その置き方も置く位置も音の変化に応じて変えられていた。

そして井上先生はアンプの試聴の時、必ずボリュウムだけでなく、あらゆるツマミの感触を確かめられていた。

Date: 4月 15th, 2012
Cate: audio wednesday, 岩崎千明

第16回audio sharing例会のお知らせ(再掲)

次回のaudio sharing例会は、5月2日(水曜日)です。

テーマは、3月の例会に予定していた「岩崎千明氏について語る」です。
いまfacebookで、岩崎先生のページ「オーディオ彷徨」を公開しています。
そちらに3月の例会の告知をしたところ、
岩崎先生の娘さんの岩崎綾さんからのコメントがあって、
5月の例会に来てくださることになりました。息子さんも来られる予定です。

時間はこれまでと同じ、夜7時からです。
場所もいつものとおり四谷三丁目の喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

喫茶茶会記の店主福地さんが、茶会記・店主日記の4月10日のところもお読みください。

Date: 4月 14th, 2012
Cate: 岩崎千明

「オーディオ彷徨」(熟読ということについて)

辞書には、熟読とは、内容をじっくり味わいながら読むこと、内容を深く読み取る、といったことが書かれている。
熟読がこのとおりであれば、一回だけ読んでも、
きっちりと書かれている内容を読み取ることが出来れば熟読したことになる。
何度読んでも、そのためには時間もより多く必要になるわけで、
だからといって内容を読み取れなければ熟読とはいわない。

ようするに本を読むための時間と熟読のあいだには深い関係はない、とつい最近まで思っていた。
早く読んでも熟読できる人もいれば、そうでない人もいるのだから。

けれど、熟読には、もうひとつ意味があるように感じはじめていて、
そうなると熟読には、やはり時間が、それもかなりながい時間が必須だ、と思うようになってきた。

岩崎先生の「オーディオ彷徨」に収められているものにエレクトロボイス・パトリシアンIVを、
アメリカ建国200年の1976年に導入された文章がある。
この文章のタイトルがじつにいい。
そして、熟読とはこういうことであると、
パトリシアンIVのついて書かれた文章のタイトルは語っている、と私は勝手にそう受け取っている。

「時の流れの中でゆっくり発酵させつづけた」

数は少ないけれど、私にははっきりと「時の流れの中でゆっくりと発酵させつづけた」本がある。
これらの本に関してのみ、やっと熟読した、といえよう。

Date: 4月 13th, 2012
Cate: 菅野沖彦

菅野沖彦氏のスピーカーについて(その8)

現在日本に輸入されているマッキントッシュのスピーカーシステムは、
XRT2K、XRT1K、XR200の3機種で、菅野先生が愛用されているXRT20とはずいぶん違った形になってしまった。

XRT20と型番上は同じXRTシリーズということになるのだろうが、XRT20と現在のXRT2K、1Kの共通点は、
トゥイーターの使用個数が近い、ということぐらいだと私は思う。
そのトゥイーターもXRT20はソフトドームを採用していた。
初期のXRT20はフィリップス製のソフトドーム型だったが、
事情により比較的早い時期からフィリップス製ではなくなっている(と聞いている)。

現在のXRT2K、1Kに使われているトゥイーターはチタン・ダイアフラムのハードドーム型である。

マッキントッシュのXRTシリーズを、
単にトゥイーターを多数使用したスピーカーシステムぐらいにしか捉えられない人にとっては、
ソフトドーム型だろうとハードドーム型だろうと、大きな違いはない、と考えるだろう。
けれど、ゴードン・ガウが、あえてソフトドーム型トゥイーターを24個使うことで実現したものは、
いったいなんだったのかを考えてみると、ハードドームかソフトドームかの違いは、
XRTシリーズの特徴的なトゥイーター・コラムの変えてしまう、とさえ思っている。

同じドーム型振動板をもつトゥイーターでも、
振動板が金属を使った硬い振動板のハードドーム型と樹脂系や布などの柔らかい素材のソフトドームでは、
振動板の動き・挙動はまったく同じとはいえない。
コーン型ユニットでも紙の振動板もあれば金属の振動板のユニットがあるけれど、
コーン型における振動板の素材の違いによる動作・挙動の違いは、
ドーム型における動作・挙動の違いに比べれば小さい、と考えられるのは、ユニットそのものの構造からくる。

Date: 4月 7th, 2012
Cate: audio wednesday, 岩崎千明

第16回 audio sharing 例会のお知らせ

次回のaudio sharing例会は、5月2日(水曜日)です。

テーマは、3月の例会に予定していた「岩崎千明氏について語る」です。
いまfacebookで、岩崎先生のページ「オーディオ彷徨」を公開しています。
そちらに3月の例会の告知をしたところ、
岩崎先生の娘さんの岩崎綾さんからのコメントがあって、
5月の例会に来てくださることになりました。息子さんも来られる予定です。

時間はこれまでと同じ、夜7時からです。
場所もいつものとおり四谷三丁目の喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 3月 29th, 2012
Cate: 岩崎千明

岩崎千明氏のこと(その28)

「五味オーディオ教室」の冒頭の文章は、
ステレオサウンド 16号に掲載された文章とほぼ同じである。

ステレオサウンド 16号にはオーディオ巡礼が載っている。
オーディオ巡礼は15号から始まった企画で、
15号には野口晴哉氏、岡鹿之介氏が登場されている。このオーディオ巡礼には「ふるさとの音」となっている。

16号は「オーディオ評論家の音」であり、山中先生、菅野先生、瀬川先生の音を聴かれている。
「五味オーディオ教室」の冒頭の文章は、
菅野先生の音を聴かれて書かれたものである。

その文章については、別項「ハイ・フィデリティ再考」の(その3)でも一部引用している。
そして、「ハイ・フィデリティ再考」の(その3)でも書いているように、
この文章に関しては、きっちり全文を読んだとしても、解釈がむずかしい面をもっている。
だから、ふたたび(今度はさらに長くなるが)引用しておく。
     *
あなたは「音」を聴きたいのか、「音楽」を聴きたいのか
「オーディオすなわち〝音〟であり、〝音〟をよくすることによって、よりよい〝音楽〟がえられる」——この一見自明である理が、はたしてほんとうに自明のことであるのかどうか、まずその疑問から話を始めたい。
 以前、評論家の菅野沖彦氏を訪れ、その装置を聴いたときのことである。そこで鳴っているのはモニターの鋭敏な聴覚がたえず検討しつづける音であって、音楽ではない。音楽の情緒をむしろ拒否した、楽器の明確な響き、バランス、調和といったものだけを微視的に聴き分ける、そういう態度に適合する音であった。むろん、各楽器が明確な音色で、バランスよく、ハーモニーを醸すなら当然、そこに音楽的情緒とよぶべきものはうまれるはず、と人は言うだろう。
 だが理屈はそうでも、聴いている私の耳には、各楽器はそのエッセンスだけを鳴らして、音楽を響かせようとはしていない、そんなふうにきこえる。たとえて言えば、ステージがないのである。演奏会へ行ったとき、われわれはステージに並ぶ各楽器の響かせる音を聴くので、その音は当然、会場のムードの中できこえてくる。いい演奏者ほど、音そのもののほかに独特のムードを聴かせる。それが演奏である。
 ところがモニターは、楽器が鳴れば当然演奏者のキャラクターはその音ににじんでいるという、まことに理論的に正しい立場で音を捉えるばかりだ。——結果、演奏者の肉体、フィーリングともいうべきものは消え、楽器そのものが勝手に音を出すような面妖な印象をぼくらに与えかねない。つまりメロディはきこえてくるのにステージがない。
 電気で音をとらえ、ふたたび電気を音にして鳴らすなら、厳密には肉体の介在する余地はない。ステージが消えて当然である。しかしそういう電気エネルギーを、スピーカーの紙の振動で音にして聴き馴れたわれわれは、音に肉体の復活を錯覚できる。少なくともステージ上の演奏者を虚像としてではなく、実像として想像できる。これがレコードで音楽を聴くという行為だろう。かんたんにいうなら、そして会場の雰囲気を音そのものと同時に再現しやすい装置ほど、それは、いい再生装置ということになる。
 レコード音楽を家庭で聴くとき、音の歪ない再生を追及するあまり、しばしば無機的な音しかきこえないのは、この肉体のフィーリングを忘れるからなので、少なくとも私は、そういうステージを持たぬ音をいいとは思わない。そしておもしろいことに、肉体が消えてゆくほど装置そのものはハイ・ファイ的に、つまりいい装置のように思えてくる。

音を聴き分けられないシロウトでも、音楽の違いはわかる
 この危険な倒錯を、どこでくい止めるかで、音楽愛好家と音キチの区別はつくと私は思ってきた。オーディオの世界に足を踏み入れたものなら一度は持ってみたいと思うスピーカー、ジム・ランシング(JBL)のトーン・クォリティを、以前から、私がしりぞけてきたのはこの理由からである。ジムランが肉体を聴かせてくれたためしはない。むろん、人それぞれに好みがあり、なまじ肉体の臭みのない、純粋な音だけを聴きたいと望む人がいて不思議はない。そしてそういう、純粋に音だけと取組まねばならぬ職業の一人が録音家だ。この意味で菅野さんがジムランを聴くのは当然で、むしろ賢明だと思う。
 しかしあくまでわれわれシロウトは、無機的な音ではなく、音楽を聴くことを望むし、挫折感の慰藉であれ、愛の喪失もしくはその謳歌であれ、憎悪であれ、神への志向であれ、とにかく、人生にかかわるところで音楽を聴く人に、無機的ジムランを私は推称しない。むろんこれは私個人の見解である。
     *
ステレオサウンド 16号に掲載されている文章も、これとほとんど同じである。僅かな違いはあるけれど、
その違いについてふれる必要はない。

実は、菅野先生に、このことについていちど訊いたことがある。

Date: 3月 27th, 2012
Cate: 岩崎千明

岩崎千明氏のこと(その27)

音像の確かさと音像の見事さは、同じように受けとめられる人もおられるかもしれないが、
私はこのふたつのことは同じことをいっているようにみえて、本質的な違いがあると感じている。

岩崎先生にもう確認することはできないから、あくまでも私の想像でしかないけれど、
岩崎先生は音像の見事な音では、対決はすることはやられないのではないだろうか。

もちろん見事な音像に、音像の確かさが含まれているのであれば、なにもいうことはない。
けれど、現時点では音像の確かさと音像の見事さは、必ずしも同じことを語る表現ではない、と感じている。

音像の確かさと音像の見事さを、いまの時点であえて使い分けようと私がしているのは、
このふたつのことの違いこそが、
私がオーディオにのめり込むことになった大きなきっかけである「五味オーディオ教室」の最初に書かれていること、
そして、それがずっと私にとっての、テーマのひとつであり、
そのことをはっきりと捉えることが課題にもなっていた。

「五味オーディオ教室」を熱心に読んだことのある方ならば、そのことがなんなのかはすぐに理解されるはず。

最初に「五味オーディオ教室」を読んだ時、
「音を知り、音を創り、音を聴くための必要最少限の心得四十箇条」として、
その最初の「音を知る」という大きな括りの最初(一箇条)に
「音」と「音楽」の違いをわきまえよ。とつけられて、語られていることが、
音像の見事さと音像の確かさとの違いでもある。

音像の確かさにあって、音像の見事さに存在しないものは、肉体である。
肉体のない音と対決できるだろうか。

Date: 3月 26th, 2012
Cate: 岩崎千明

岩崎千明氏のこと(その26)

ステレオサウンド 39号はカートリッジの特集号である。
岩崎先生も試聴メンバーとして参加されている。
岩崎先生の「テストの方法」には、次のことが書かれている。
     *
もうひとつのスピーカーシステムを、このラインナップに加えている。これは、ごく小さなブックシェルフ型の自作のシステムで、アルテックの12cmフルレンジ・405Aをたったひとつ収めたものだ。これは、至近距離1mほどにおいて、ステレオ音像のチェックに用いたものだ。いうなればヘッドフォン的使用方法だ。シングルコーンの405Aも、コアキシャル604−8Gもともに音源としてワンスポットなのでこの点からいえば大差ないはずともいえなくもないのだが、実際は好ましかるべきマルチセラーの高音輻射より405Aの方が音像をずっとはっきり判断できるのは、多分、単一振動板だからだろう。単純なものは必ず純粋に「良い」のをここで知らされる。それにも拘らず604をメインとしたのは、音質判断上もっとも問題とされてしまう音色バランスの判断のためである。
     *
このとき岩崎先生はカートリッジ123機種を、自宅で試聴されている。
だから試聴用スピーカーとして、メインに使われたのは上の文章からもわかるようにアルテックの620Aである。
この他に、405Aを使った自作のブックシェルフ型に、さらにJBLのハーツフィールドでも試聴されている。
10機種ぐらいの数であれば、3組のスピーカーシステムでの試聴もそう大変なことではない。
けれどステレオサウンド 39号では123機種という数である。

405Aとハーツフィールドはサブ的な試聴のためのものだったのかもしれないが、
それでも大変な手間をかけて試聴されている。
ちなみにアルテック620AとJBLハーツフィールドは別々の部屋に置かれているので、
アルテック620Aが置いてある部屋(パラゴンの置かれている部屋でもある)で、
620Aと405Aで試聴した後に、部屋を移動してハーツフィールドで聴かれていることになる。

ここで書きたいのは、そのことではなく、同軸型の604-8Gを搭載した620Aをメインとしながらも、
音像のより確かな判断をするために405Aを使われている、ということである。

この、音像の確かさは、岩崎先生によって、重要な要素であることは、
書かれたものをまとめて読んでいくと誰しもが気づくこと。
パラゴンを買われた理由のひとつにも、音像の確かさが大きく関係している。

そして、この音像の確かさを求められるのは、「対決」するためなのだと私は思う。そうとしか思えない。

Date: 2月 26th, 2012
Cate: 川崎和男

一度だけの……

オーディオのことで、たった一度だけ神頼みしたことがある。

「音は人なり」だから、神頼みしたところでどうにかなるものではないことは重々承知している。
けれど、あのときだけは「どうか、いい音で鳴ってください」と心の中でお願いしていた。
音が鳴りはじめるまで、何度も何度もそう神頼みしていた。

かけてもらったCDの前奏が流れてきた。
それまでの2曲とは、鳴り方が違う、と感じていた。
私だけが感じていたのか、そのとき、あの場所にいた人たちみながそう感じていたのかは確認していない。
とにかく安堵した。これならば、絶対に絶対にうまく鳴ってくれる、そう確信できた。

カレーラスの歌がきこえてきた。
「川の流れのように」をホセ・カレーラスがうたう。
このCDから、この曲を選んでよかった、と、やっと思えた。

後にも先にも、神頼みしたことは、この一回きりである。
これから先のことはわからない。
けれど、このとき、神はいるのかも……と想っていた。

いまから10年前の7月4日のこと。

Date: 2月 19th, 2012
Cate: 五味康祐

続・長生きする才能(その3・思い出したこととある映画のこと)

ジャクリーヌ・デュ=プレは1987年10月19日に亡くなっている。
このころは、まだ新聞を購読していた。デュ=プレが亡くなったことは新聞記事で知った。
大きなショックはなかった。けれど、デュ=プレが多発性硬化症だと知った時に、
治療法を見つけ出してやろうと思っていたことを、ずっと忘れていたことをデュ=プレの訃報記事は思い出せた。

もしもオーディオにのめり込まず違う道を選択していたとしても、
1987年の時点では私はまだ24歳だった。多発性硬化症の治療法なんて見つけ出せるはずがない。
土台無理なこと……。

デュ=プレが亡くなってから10年数年経ったころ、ある映画を観た。
「ロレンツォのオイル/命の詩」(原題:Lorenzo’s Oil)を観た。
この映画が日本で公開されたのは1993年、私はDVDになってから、この映画のことを知り観た。

実話に基づく映画である。
多発性硬化症ではないけれど、ここでも副腎白質ジストロフィーという難病が出てくる。
映画のタイトルのロレンツォは、主人公のひとり息子の名前。副腎白質ジストロフィーの患者だ。

ロレンツォの両親は医者ではない。医学知識を持った人たちではない。
だから最初は治療法(というより医者)をとにかく探し求める。けれど見つからない。
そして自力で治療法を見つけようとする。ロレンツォを助けるためにあきらめない。

結論を書いてしまうと、治療法を見つけ出す。
タイトルからもわかるように、ある特定のオイルがそれである。
映画のエンディングには、
ロレンツォのオイルで副腎白質ジストロフィーから回復した子供たちの写真が映し出されていた。

ロレンツォの両親の、治療法を見つけ出すまでの行動こそ、死に物狂いというのだろう。
ロレンツォの両親の、そういう姿を見ていて、また昔のことを思い出していた。

デュ=プレが多発性硬化症だと知った時に思っていたことだ。

ようするに私は死に物狂いになれなかった。
つまりは他人事でしかなかったわけだ。
どれほどジャクリーヌ・デュ=プレのエルガーのチェロ協奏曲に感動した、と言ったり書いたりしていても、
遠いイギリスに住む人の、他人事だったから、死に物狂いになる、そのずっと手前のところにしかいなかった。

「続・長生きする才能」を書き始めて、そのことを思い出していた。

Date: 2月 18th, 2012
Cate: 五味康祐

続・長生きする才能(その3)

いまの時代、剣豪はいない。
だからいまの時代、自殺できない人がいるとすれば、それはまわりが死なせてくれない人だろうと考えた。
どういう人がそうなのか。

ジャクリーヌ・デュ=プレは1971年(26歳のとき)から指先の感覚が鈍くなる症状が出始めていて、
1973年には多発性硬化症と診断され演奏家としてピリオドが打たれている。

私がデュ=プレのエルガーのチェロ協奏曲を聴いたとき、すでに彼女は現役の演奏家ではなかった。
デュ=プレが多発性硬化症だったことを知ったのが先だったのか、エルガーの協奏曲を聴いたのが先だったのか、
なぜか記憶が曖昧になってしまっているが、
とにかくデュ=プレのエルガーをはじめて聴いたときの衝撃は、いまでもはっきりと憶えているほどに強烈だった。
胸がしめつけられる、とはこういうことなのか、とも感じていた。

EMIはいちどもデュ=プレのエルガーの協奏曲を廃盤にはしていない、ともきいている。
イギリスのクラシック音楽を愛好する人たちにとって、デュ=プレはほんとうに特別な存在なのだろう。

バレンボイム指揮によるプロコフィエフの「ピーターと狼」のナレーションを
デュ=プレがやっているニュースを知ったとき、もうチェリストとしてのデュ=プレのレコードは聴けないのか。
誰か多発性硬化症の治療法を見つけ出さないのか、とも思ったこともある。
ほんの一時期の気の迷いであったのかもしれないが、医学の道に進んで治療法を……と考えていたことすらある。

私ですらそんなことを考えていたのだから、デュ=プレのまわりにはそういう人がいたことだろう。
実際に、いろんな人がいろんなことを言ってきた、ということも本で読んだことがある。
多発性硬化症は体の自由が奪われるから、デュ=プレの傍にはつねに彼女の世話をする人もいる。

もしデュ=プレが自殺を考えていたとしたら……、そんなことを「喪神」と絡めて思ったわけだ。
デュ=プレが自殺を考えたことがあるのかどうかはわからない。
あくまでも考えた、もしくはデュ=プレのような境遇の人が自殺を考えた、としよう。

多発性硬化症の進行によって体の自由がきかなくなっていくわけだから、
試みることすら困難なこととであろうし、もしなんらかの方法で実行したとしても、
ひとりでいることのできない身体だから、すぐに見つかり死ぬことはできない。

五味先生は「喪神」で、「自分を殺せるだけの人間を、もう一人造りあげて、その男に斬らせる」ことにされた。
デュ=プレの場合はどうすればよいのか。そのことを考えていたことがある。

Date: 2月 17th, 2012
Cate: 五味康祐

続・長生きする才能(その2)

「私の好きな演奏家たち」は遺稿集となった「人間の死にざま」(新潮社刊・絶版)に収められている。
「私の好きな演奏家たち」の、このくだりを読んだあとしばらくして頭に浮んできたのは、
「喪神」について書かれた五味先生の文章のことだった。

これは「オーディオ巡礼」(ステレオサウンド刊)の「オーディオと人生」のなかで書かれている。
五味先生が世に出る機縁となった、そして芥川賞受賞作でもある「喪神」のモチーフとなったのは、
西田幾太郎氏の哲学用語を借りれば、純粋経験とある。
     *
ピアニストが楽譜を見た瞬間にキイを叩く、この間の速度というのは非常に早いはずである。習練すればするほどこの速度は増してゆき、ついには楽譜を見るのとキイを叩くのが同時になってしまう。経験が積み重なってゆくと、こういう状態になる。それを純粋経験という。
ルビンスティンもグールドも純粋経験でピアノを叩いている。それでいて、あんなに演奏がちがうのはなぜか。そこに前々から疑問を抱いていた。純粋経験とは、意志が働く以前のことで処理されているはずなのに、と。そのときふと思ったのは、これは線上で考え続けていたことだが、人を斬ったらどういう感じがするだろうか、ということだった。
一方、私はキリスト教神学を学んだときのことを思いあわせた。キリスト教が、我々人間に禁じている唯一のものは、自殺である。なぜそれがいけないか。誰にでもできるからにちがいない。私は、かつて貧乏のどん底にいて、俺にいますぐできることはなんだろうか、と考えたことがある。そのとき即座に頭に浮んだのが、自殺だった。名古屋へ行きたいと思っても旅費がない。徒歩で行くとしても、その間の食料を考えなくてはならない。パチンコをはじいてみても、玉はこちらの思うとおりにはころがってはくれない。つまり世の中で、貧乏のどん底にいる人の自由になるものは何もない。しかし死のうと思えば、いつでも、誰でも人は自殺することだけはできる。それでキリスト教は自殺を禁じたのだろうと考えていた。そこで、自殺のできない男というものを想いえがいた。
わが身を護るために、人を斬ってきた男が、やがて純粋経験で人を斬るようになる。これはもう、己の意志で斬るのではないから寝ているときに背後から襲われても、顔にとまった蝿を無意識に払いのける調子で、迫った刃を防禦本能でかわし、反射的に相手を仆してしまう。しかも本人は仆したことさえ気がつかない。ここに私は目をつけた。どんな強敵が襲いかかってきても、相手を倒すことのできる男、そこまで習練を積んだ男が、もし、おのれに愛想をつかして、自殺を思い立ったら、どうしたらよいか。自分の腹に短刀を当てようとした瞬間、純粋経験が働いて、夢遊病者のように短刀を抛り出してしまうだろう。そのことを自分で気がつかずにいるだろう。そんな男が死ぬには、どうすればよいか。自分を殺せるだけの人間を、もう一人造りあげて、その男に斬らせるよりほかない。
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この文章を何度目かに読んだときに、五味先生は自殺できない人間として、一人の剣豪に托して書かれたわけだが、
いまの時代、自殺できない人間は、どういう人だろうか、と思ったことがある。

思いあたったのは、ジャクリーヌ・デュ=プレだった。