岩崎千明氏のこと(その27)
音像の確かさと音像の見事さは、同じように受けとめられる人もおられるかもしれないが、
私はこのふたつのことは同じことをいっているようにみえて、本質的な違いがあると感じている。
岩崎先生にもう確認することはできないから、あくまでも私の想像でしかないけれど、
岩崎先生は音像の見事な音では、対決はすることはやられないのではないだろうか。
もちろん見事な音像に、音像の確かさが含まれているのであれば、なにもいうことはない。
けれど、現時点では音像の確かさと音像の見事さは、必ずしも同じことを語る表現ではない、と感じている。
音像の確かさと音像の見事さを、いまの時点であえて使い分けようと私がしているのは、
このふたつのことの違いこそが、
私がオーディオにのめり込むことになった大きなきっかけである「五味オーディオ教室」の最初に書かれていること、
そして、それがずっと私にとっての、テーマのひとつであり、
そのことをはっきりと捉えることが課題にもなっていた。
「五味オーディオ教室」を熱心に読んだことのある方ならば、そのことがなんなのかはすぐに理解されるはず。
最初に「五味オーディオ教室」を読んだ時、
「音を知り、音を創り、音を聴くための必要最少限の心得四十箇条」として、
その最初の「音を知る」という大きな括りの最初(一箇条)に
「音」と「音楽」の違いをわきまえよ。とつけられて、語られていることが、
音像の見事さと音像の確かさとの違いでもある。
音像の確かさにあって、音像の見事さに存在しないものは、肉体である。
肉体のない音と対決できるだろうか。