続・長生きする才能(その2)
「私の好きな演奏家たち」は遺稿集となった「人間の死にざま」(新潮社刊・絶版)に収められている。
「私の好きな演奏家たち」の、このくだりを読んだあとしばらくして頭に浮んできたのは、
「喪神」について書かれた五味先生の文章のことだった。
これは「オーディオ巡礼」(ステレオサウンド刊)の「オーディオと人生」のなかで書かれている。
五味先生が世に出る機縁となった、そして芥川賞受賞作でもある「喪神」のモチーフとなったのは、
西田幾太郎氏の哲学用語を借りれば、純粋経験とある。
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ピアニストが楽譜を見た瞬間にキイを叩く、この間の速度というのは非常に早いはずである。習練すればするほどこの速度は増してゆき、ついには楽譜を見るのとキイを叩くのが同時になってしまう。経験が積み重なってゆくと、こういう状態になる。それを純粋経験という。
ルビンスティンもグールドも純粋経験でピアノを叩いている。それでいて、あんなに演奏がちがうのはなぜか。そこに前々から疑問を抱いていた。純粋経験とは、意志が働く以前のことで処理されているはずなのに、と。そのときふと思ったのは、これは線上で考え続けていたことだが、人を斬ったらどういう感じがするだろうか、ということだった。
一方、私はキリスト教神学を学んだときのことを思いあわせた。キリスト教が、我々人間に禁じている唯一のものは、自殺である。なぜそれがいけないか。誰にでもできるからにちがいない。私は、かつて貧乏のどん底にいて、俺にいますぐできることはなんだろうか、と考えたことがある。そのとき即座に頭に浮んだのが、自殺だった。名古屋へ行きたいと思っても旅費がない。徒歩で行くとしても、その間の食料を考えなくてはならない。パチンコをはじいてみても、玉はこちらの思うとおりにはころがってはくれない。つまり世の中で、貧乏のどん底にいる人の自由になるものは何もない。しかし死のうと思えば、いつでも、誰でも人は自殺することだけはできる。それでキリスト教は自殺を禁じたのだろうと考えていた。そこで、自殺のできない男というものを想いえがいた。
わが身を護るために、人を斬ってきた男が、やがて純粋経験で人を斬るようになる。これはもう、己の意志で斬るのではないから寝ているときに背後から襲われても、顔にとまった蝿を無意識に払いのける調子で、迫った刃を防禦本能でかわし、反射的に相手を仆してしまう。しかも本人は仆したことさえ気がつかない。ここに私は目をつけた。どんな強敵が襲いかかってきても、相手を倒すことのできる男、そこまで習練を積んだ男が、もし、おのれに愛想をつかして、自殺を思い立ったら、どうしたらよいか。自分の腹に短刀を当てようとした瞬間、純粋経験が働いて、夢遊病者のように短刀を抛り出してしまうだろう。そのことを自分で気がつかずにいるだろう。そんな男が死ぬには、どうすればよいか。自分を殺せるだけの人間を、もう一人造りあげて、その男に斬らせるよりほかない。
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この文章を何度目かに読んだときに、五味先生は自殺できない人間として、一人の剣豪に托して書かれたわけだが、
いまの時代、自殺できない人間は、どういう人だろうか、と思ったことがある。
思いあたったのは、ジャクリーヌ・デュ=プレだった。