Date: 4月 14th, 2012
Cate: 岩崎千明
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「オーディオ彷徨」(熟読ということについて)

辞書には、熟読とは、内容をじっくり味わいながら読むこと、内容を深く読み取る、といったことが書かれている。
熟読がこのとおりであれば、一回だけ読んでも、
きっちりと書かれている内容を読み取ることが出来れば熟読したことになる。
何度読んでも、そのためには時間もより多く必要になるわけで、
だからといって内容を読み取れなければ熟読とはいわない。

ようするに本を読むための時間と熟読のあいだには深い関係はない、とつい最近まで思っていた。
早く読んでも熟読できる人もいれば、そうでない人もいるのだから。

けれど、熟読には、もうひとつ意味があるように感じはじめていて、
そうなると熟読には、やはり時間が、それもかなりながい時間が必須だ、と思うようになってきた。

岩崎先生の「オーディオ彷徨」に収められているものにエレクトロボイス・パトリシアンIVを、
アメリカ建国200年の1976年に導入された文章がある。
この文章のタイトルがじつにいい。
そして、熟読とはこういうことであると、
パトリシアンIVのついて書かれた文章のタイトルは語っている、と私は勝手にそう受け取っている。

「時の流れの中でゆっくり発酵させつづけた」

数は少ないけれど、私にははっきりと「時の流れの中でゆっくりと発酵させつづけた」本がある。
これらの本に関してのみ、やっと熟読した、といえよう。

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