Archive for category 人

Date: 9月 6th, 2015
Cate: James Bongiorno

Ampzilla(その5)

「アンプジラ」はメーカー名、ブランド名でもないことは、
黒田先生のことだから承知のうえで、書かれたのだと思う。

そんなのは勢いで書いたから、「アンプジラ」だけ型番になってしまっただけではないか、
そう思う人もいるかもしれないが、
黒田先生の原稿を読んだことのある人なら、
そういう書き方から遠いところで書かれているのが黒田先生だと知っている。

ステレオサウンド 31号「はやすぎる決着」では、原稿を書くことについて書かれている。
     *
 陽がおちてからは原稿を書かない。原稿はたいてい午前中に書く。夜は、音楽会にいったり、芝居にいったり、映画を見にいったり、外出しない時には、レコードをきいたり、本を読んだり、あるいは翌日書こうと思っている原稿のための下調べをしたりしてすごす。だから、こんな時間に(すでに零時をすぎて、ポリーニをきいたのが昨日になってしまっている)、机にむかっているというのは、例外的なことだ。なぜ、こんな尋常ならざる時間に原稿を書きはじめたかというと、おいおいおわかりいただけると思うが、それにはそれなりの理由がある。
 このように文章を書き、しかもそれを活字にするということは、一種の呼びかけだと思う。書いたものを読んでくださる人への呼びかけだと思う。それが男性なのか女性なのか、ぼくより若い人なのか年配の方なのか、悲しいかなわかりかねる。わからないながらも、呼びかける。ただそこで、相手がわからないからといって、呼びかけが独善的にならないように、気をつけなければならない。ひとりよがりのつぶやきは呼びかけとはいえない。夜は、今日はたまたま雨がふっているのでかすかに雨だれの音がきこえるが、そのひっそりとした気配ゆえに、自分の世界にとじこもるのには適当だが、どうやら呼びかけに適した時間ではないようだ。だから、よほどのことでもないかぎり、夜は、原稿を書かない。
 ただ、今夜は、いささか事情がちがう。というより、そのひとりよがりにおちいりやすい時間を利用して、敢えてひとりよがりのおのれをさらし、ひとりよがりについて考えてみようと思うからだ。多分、朝になって読みかえしたら、赤面するにきまっていることを書いてしまうにちがいない。この原稿を、夜があける前に、封筒に入れて、ポストにほうりこむことにしよう。あとは野となれ山となれといった、いささかすてばちな気持になることが、この場合には必要だ。
     *
その黒田先生が「スピーカーはJBL、アンプはアンプジラ」と書かれているのは、あえて、であるはずだ。
「スピーカーはJBL」とある。

この文章が載ったステレオサウンド 48号は1978年に出ている。
当時のJBLのラインナップはJBLとJBL Proとにわかれていて、
コンシューマー用モデルはパラゴンを頂点に、L300、L200、L212といったフロアー型から、
L26A、L36A、L40といったブックシェルフ型を含めて10機種ほどあった。
プロ用モデルは4350Aがあり、4343、4333A、4331Aなどの他に、
4301、4311といったブックシェルフ型、また4681、4682を含めて、こちらも10機種ほどあった。

「スピーカーはJBL」といっても、20機種のうちのどれかとなる。
けれど「スピーカーはJBL」のあとに「アンプはアンプジラ」が続くことで、
ここでの「スピーカーはJBL」は、絞られてくる。

4301という、65000円(1978年、一本の価格)の2ウェイのブックシェルフ型を、
598000円のパワーアンプAmpzilla IIで鳴らすことはないわけではないが、
それでも、こういう組合せは、いわぱ実験的なものであり、
家庭における組合せではまずありえないといえるわけで、
「スピーカーはJBL」とは、コンシューマー用であれば、L200、L300、パラゴンあたりであり、
プロ用であれば4331A、4333A、4343、4350Aといったところになる。

「スピーカーはJBL、アンプはGAS」であったら、ここまで絞ることはできない。
GASのアンプは3ランクあったのだから、
Grandsonであれば4301、4311との組合せはありえるからだ。

「アンプはアンプジラ」ではなく「アンプはGAS」とするならば、
しかも読み手に、どの機種(どのランク)であるのかを意識させるには、
「スピーカーはJBLの4343、アンプはGASのアンプジラ」と書く必要がある。

「スピーカーはJBL、アンプはアンプジラ」と
「スピーカーはJBLの4343、アンプはGASのアンプジラ」、
書き手としてどちらを選ぶかとしたら、
「アンプジラ」がメーカー名でもブランド名でもないことは承知のうえで、
「スピーカーはJBL、アンプはアンプジラ」になる。

別の選択はないのか。
たとえば「スピーカーはJBL、アンプはマークレビンソン」である。

Date: 9月 2nd, 2015
Cate: James Bongiorno

Ampzilla(その4)

ステレオサウンド 48号の黒田先生の連載「さらに聴きとるものとの対話を」を、
高校一年の時に読んだ。

「旗色不鮮明」という副題がつけられている。
一ページ三段組みのレイアウト。
一ページはタイトルで二段分がとられている。
一ページ目の文章は一段分のみ。

二ページ目の一段目に、アンプジラの名前が出てくる。
二ページ目の一段目だから、「旗色不鮮明」の冒頭にアンプジラの名前が出てくるわけで、
アンプジラはという単語は12回登場してくる。

こんなふうに出てくる。
     *
「きみ、なにできいているの?」
「スピーカーはJBL、アンプはアンプジラ」
「きみ、なにをきいているのの?」
「プログレッシヴ・ロック」
 前の方の会話には、
「へえ、いい装置できいているんだな」
 という言葉がつづくかもしれないし、後の方の会話には、
「最近きいたレコードでなにかおもしろいレコードあった?」
 という言葉がつづくかもしれない。
 いずれにしろ、会話は、「ぼくは──」とか「わたしは──」とか、一人称代名詞が入りこめないようなかたちで、進行する。そして、具合のわるいことに、「スピーカーはJBL、アンプはアンプジラ」という、本来は使っている道具をいっただけの言葉が、ひとり歩きをはじめて、その言葉を口にした人物のことを語ろうとさえする。
     *
最初読んだ時は、気にならなかったことが、
数年経ち、もう一度読んでひっかかることがあるのに気づいた。

「旗色不鮮明」の最後はこうまとめられている。
     *
 メーカー名、ブランド名が登場する会話では、なにかが、一瞬鮮明になったような錯覚におちいる。しかし、よくよく考えてみれば、なにひとつ鮮明にはなっていない。
 野に咲く花はみつけやすい。だから鮮明だ。草木の間に身をひそめる野うさぎは、ちょっとやそっとではみつけられない。だから不鮮明だ。──といえるような気もするが、待てよと思う。本当にそうかなと思う。ナルシシズムは、うぬぼれ、ひとりよがりを、そのうちにとりこんでいる。うぬぼれ、ひとりよがりをとりこんだものが、鮮明になりうるのかどうか。野に咲く花がみつけやすいのは、花の方でみつけられたいと思っているからだ。
「スピーカーはJBL、アンプはアンプジラ」
 という言葉は、いかにもものほしげな表情をして、
「へえ、いい装置できいているんだな」
 という言葉をほしがっていないか。
 その言葉は、「JBL」なり、「アンプジラ」なりにのっかって、自分をアッピールしたがっている人の顔を浮かびあがらせないか。むろん、その言葉が、いつでもそういう人の顔を浮かびあがらせるということではない。むしろ、そうではないことの方が多いだろう。ただ単純に、自分の使っている道具を相手に知らせる目的だけで、その言葉は発せられたのかもしれない。ただ、ものにつきすぎたところでの言葉は、きわどく似非ナルシシズムと手をつなぐ。そのことは心得ていた方がいい。さもないと、うぬぼれ、ひとりよがりでみちみちたあいまい湖につかって、一向に鮮明とは思えぬ、しかしなんとなくひと目をひく旗をこれみよがしに、結果として、ふっていることになりかねない。
     *
だから「旗色鮮明」では「旗色不鮮明」であるわけだが、
ここで書きたいことは、このこととはほとんど関係がない。

「旗色不鮮明」には「EMT」「グッチ」というブランド名も出てくる。
《メーカー名、ブランド名が登場する会話》なのに、
なぜか「アンプジラ」だけ、メーカー名でもブランド名でもなく、型番なのである。

「JBL」も「EMT」も、さらには「グッチ」もメーカー名、ブランド名であるにもかかわらず、
「アンプジラ」だけが「GAS」ではなく「アンプジラ」と書かれていることに、気づいたわけだ。

Date: 8月 26th, 2015
Cate: James Bongiorno

Ampzilla(その3)

いまは著作権がとにかく厳しい。
昔は、Ampzillaが登場したころはそうでもなかった。

東宝はゴジラ(Godzilla)の商標には、とにかくうるさい、ときく。
ゴジラをイメージさせるネーミングには、東宝から連絡が行き、使えなくなるそうだ。

なので不思議である。
Ampzillaが登場した当時は見逃してくれたであろう、と思う。
でもいまではAmpzillaというネーミングは、すぐに東宝から連絡が来るはずだ。
なのに、いまもAmpzillaのままである。

著作権といえば、1970年代後半のGASの広告も、
いまでは考えられないような内容だった。

当時はスターウォーズ、未知との遭遇が大ヒットしていた。
当時のステレオサウンドのGASの広告は、
スターウォーズをアンプウォーズにしたものと未知との遭遇そのもの広告があった。

前者はAmpzillaが、他社製のパワーアンプを攻撃しているイラストが使われていた。
他社製のパワーアンプはいくつかあり、どれも実際の製品そのものだった。

比較広告とはいえないものの、
スターウォーズをパロディ化しているとはいえ、
AmpzillaがXウィングで、他社製のアンプが帝国軍のモノを思わせる描き方なのだから、
いま、こんな広告を載せようものなら、いたるところからクレームが来るであろう。

当時の輸入元はバブコだったが、
バブコの広告の担当者が考えたものとは、いまでも思えない。

そのころのアメリカでのGASの広告を見る機会はなかったが、
おそらくアメリカでの広告をそのまま日本にもってきたのだと思っている。

Date: 8月 18th, 2015
Cate: 書く, 瀬川冬樹

毎日書くということ(夢の中で……)

年に二、三回、目が覚めてあせることがある。
ぱっと時計をみると、夜中の二時とか三時である。

いつもだったら、そのまま眠りにつくわけだが、
たまにあせってしまうのは、
「今日はブログを書いていなかったのに、なぜ寝てしまったのか……」と思ってしまうからだ。

うたたねのつもりが、なぜか布団のなかで寝ている。
その状況にまずあせる。

いますぐ起きて書かなきゃ……、とかなりあせりながらも、
あっ、書いていたんだ、とほっとする。

ブログを書かずに布団の中にはいることはないのに、
なぜこんな思いを何度も味わうのだろうか。

今年もすでに二回、そんなことがあった。
おそらく来年も、そんなふうに真夜中にひとりあせり(ほんとうに心臓に悪い)、
ほっとして眠りにつくことをくり返していると思う。
一万本までは書くと決めているから、
いまのペースでいけばあと四年と数ヵ月は続く。
ブログを書くのをやめないかぎり、あと何度、あせりながら目を覚ますのだろうか。

今日も未明に目が覚めた。
ただ今日のは、違っていた。
夢を見ていた。生々しい夢ではなく、現実そのものと思えるリアルさだった。

今朝の夢では、瀬川先生に会えた。
元気だったころの瀬川先生だった。こちらはいまの私である。

夢の中で、瀬川先生の音を聴ければよかったのだが、そうではなかった。
でも、嬉しかった。
それは、audio sharingを公開していること、
それにこのブログを書き続けていることを、瀬川先生に報告できたからだ。

頭がおかしいのではないか、と思われてもいい。
それが夢にすぎないことはわかっていても、それでも瀬川先生に報告できたことが、
とにかく嬉しかった。

Date: 7月 26th, 2015
Cate: 岩崎千明, 瀬川冬樹

岩崎千明と瀬川冬樹がいない時代(その3)

アンプでいえばSAEに関して、同じような印象を抱いた。
SAEのパワーアンプMark2500は、マークレビンソンのML2を導入されるまでは、
瀬川先生にとってメインとなるパワーアンプだった。

Mark2500は欲しいと思っていた。
けれど改良型(というよりもパワーアップ版)のMark2600は、
Mark2500と比較すると改良されているとは言い難かった。

SAEのその後、輸入元がRFエンタープライゼスから三洋電機貿易に変った。
パワーアンプのラインナップも一新された。
Xシリーズ、その後のAシリーズ、
価格的にも性能的にもMark2500と同じクラスのモデルもあった。
けれど、欲しいと思うようなところが感じられなかった。

スレッショルドにもそんな感じを持っていた。
800Aというデビュー作、STASISシリーズと、
私にとってスレッショルドは注目のメーカーだった。

けれどSTASISシリーズに続いて登場したSシリーズ(STASIS回路を採用)を見た時、
STASISシリーズにあった色がなくなり、音もそれほどの魅力を感じさせなくなっていた。

スレッショルドは800Aの印象が強く、
第二弾にあたる400A、4000 Customは優秀なアンプという印象に留まるところもあった。
そしてSTASISシリーズ。
つまり私の印象ではSシリーズの次のモデルには期待できるはず、という期待があった。
けれど……、である。

SAEもスレッショルドもどうしたんだろう、と思った。

こういう例は他にもいくつもある。
瀬川先生ということでマークレビンソンについて書き始めたから、
アンプメーカーのことばかり続けてしまっただけで、スピーカー、アナログプレーヤー関係など、
いくつかのメーカーが、それまでの輝きを失っていったように感じていた。

メーカーにも好調な時と不調な時があるのはわかっている。
たまたま不調と感じられる時期が重なっただけのことなのだろうと思うようにした。
だから、このことはしばらく誰にも話したことがなかった。

それから10年ぐらい経ってだった、
よくオーディオについて語っていた知人に、このことを話した。
彼は「そんなの偶然ですよ」だった。

そうだろうと思っていた答が彼の口から出ただけで、がっかりしたわけではなかった。
たぶん多くの人が(というよりほとんどの人が)、彼と同じように答えたであろう。

Date: 7月 24th, 2015
Cate: 岩崎千明, 瀬川冬樹

岩崎千明と瀬川冬樹がいない時代(その2)

瀬川先生は1981年11月7日に亡くなられた。
私は1982年1月からステレオサウンドで働くようになった。
だからというべきなのかもしれない、
瀬川先生がいない時代を直接肌で感じることができていた、と思っている。

何を感じていたのかというと、
いくつかのオーディオメーカーの勢い、輝きが失われていったこと、
さらには劣化していったと思えるメーカーがあったことである。

こんなことを書くと、瀬川先生に否定的な人たちは、
そんなことがありえるわけはないだろう、単なる偶然だ、というに決っている。

それでもあえて書く。
オーディオ界ははっきりと瀬川先生の死によって変ってしまった。

例えばマークレビンソン。
LNP2、JC2による成功、そしてML2で確固たる世界を実現・提示して、
ML7、ML6Aまでは順調に成長していったといえる。
けれど瀬川先生の死と前後するようにローコストアンプを出してきた。
ML9とML10、ML11とML12。

これらのセパレートアンプを見て、がっかりした。
こんなアンプしかつくられないのか、と。

マークレビンソン・ブランドのローコストアンプが市場から望まれていたことはわかる。
私自身も望んでいた。

けれど、それは例えばジェームズ・ボンジョルノがGASでやっていたのと同じレベル、
もしくはそれをこえたレベルでの話である。

ボンジョルノはアンプづくりの奇才と呼ばれていた。
それはなにも最高級のアンプをつくれるだけではない。
パワーアンプではAmpzillaに続いて、Son of Ampzilla、Grandsonを出してきた。

どれをとってもボンジョルノのアンプであることがわかる。
外観も音も、はっきりとボンジョルノがつくったアンプである。

Ampzillaが欲しくても予算の都合で、いまは購入できない。
そういう人がGrandsonを選んだとしても後悔はしない。

Grandsonで楽しみ、お金を貯めてAmpzillaを買う。
Ampzillaを手にしたからといってGrandsonの魅力が薄れるということはない。

むしろトップモデルのAmpzillaを手にして聴き較べてみることで、
Grandsonの魅力を新たに感じることもできよう。

マークレビンソンのアンプはどうだろうか。
LNP2+ML2を買えない人がML11+ML12を買ったとしよう。
マークレビンソン・ブランドのローコストアンプに、GASのアンプのような魅力があっただろうか。

Date: 7月 12th, 2015
Cate: ジャーナリズム, 瀬川冬樹

オーディオにおけるジャーナリズム(特別編・その10)

その8)で引用した瀬川先生の発言。
これに対して、井上先生はこう語られている。
     *
井上 ここまで夢中になってやってきて、ひとつ区切りがついた、といったところでしょう。この十三年間をふりかえってみると、いちばん大きく変化したのは、オーディオ観そのものであり、オーディオのありかたであり、そしてユーザー自体ということですよね。その意味で「ステレオサウンド」がどうあるべきかということを、このへんで、いちど考えなおす必要がある、という瀬川さんのご指摘には、ぼくもまったく同感です。
 ただ、それが、熱っぽく読ませるためにどうかということでは、ぼくはネガティブな意見です。つまり、そういった意識そのもが、かなり薄れてきている時代なんだと、ぼくは思っているのです。
     *
これを受けて、瀬川先生は、
熱っぽく読む、というのはひとつの例えであって、
今後も熱心に本気に読んでもらうためにはどうしたらいいのか、ということだと返されている。

このあとに菅野先生、山中先生、岡先生の発言が続く。
詳しい知りたい方は、ステレオサウンド 50号をお読みいただきたい。

岡先生の発言を引用しよう。
     *
 ひとついえることは、創刊号からしばらくの時期というのは、われわれにしても読者にしても、全部新しいことばかり、まだ未知の領域ばかり、といった状態だったわけでしょう。だからなんとなく熱っぽい感じがあったんですよ。それがしだいに慣れてきた、というか繰り返しのかたちが多くなって、そのためにいかにも情熱をかたむけてやっている、という感じが薄くなったことはたしかでしょう。
     *
井上先生の発言にある、ひとつの区切り。
50号は1979年3月に出ている。
36年が、50号から経っている。

この36年間に、いくつの区切りがあっただろうか。
業界にも、オーディオマニアにもそれぞれの区切りがさらにあったはず。

そして岡先生の発言に出て来た「慣れ」。
長くやっていれば、どうしても慣れは生じてくる。

瀬川先生は、ほかの方の発言をどういうおもいで聞かれていたのだろうか。
もどかしさがあったのではないだろうか。

この「もどかしさ」は、(その9)で書いたもどかしさとは違うもどかしさではなかったのか。

ステレオサウンド 50号を手にしたとき、私は16だった。
そのころはなんとなくでしか感じられなかったことが、いまははっきりと感じられる。

同時に、瀬川先生と仕事をしたかったという、いまではどうしようもできない気持がわきあがってくる。

Date: 7月 3rd, 2015
Cate: 瀬川冬樹

バターのサンドイッチが語ること、考えさせること(その2)

瀬川先生がバターのサンドイッチをつくられていたころといまとでは、
入手できるバターの数はそうとうに多くなっているであろう。

高級食材を扱うスーパーもいくつかあるし、
インターネットでの通販もある。
バターの選択肢は、どの程度かはわからないけれど、確実に増えている。

瀬川先生が生きておられたころ、
いまのようにオーディオ・アクセサリーはそれほど登場していなかった。
ケーブルにしても、こんなにもメーカーの数が増え種類も増えるとは思えなかったし、
その他のアクセサリーに関してもそうだった。

いまアクセサリーの選択肢は相当に増えている。
そのこと自体はけっこうなことといえるだろう。

選択肢が増えたことで、
オーディオの想像力の欠如が少しずつ浮び上ってきているように感じてもいる。

Date: 6月 29th, 2015
Cate: 瀬川冬樹, 瀬川冬樹氏のこと

瀬川冬樹氏のこと(UREI Model 813の登場・その5)

「SOUND SPACE 音のある住空間をめぐる52の提案」での瀬川先生の提案が印象につよく残っている理由は、
ひとつではない。

四畳半という狭い空間でも、広い空間で味わえるスケール感のある堂々とした響きを、
なんとか再現したい、という瀬川先生の意図、
押入れを利用した平面バッフル、
それに取りつけられるアルテックの604-8Gと515B。

このふたつだけでも非常に興味深い記事である。

けれど、瀬川先生の提案はそれで終っているわけではない。
組合せも提示されている。

アルテック604-8Gを平面バッフルに取りつけ、
それを鳴らすアンプはコントロールアンプがアキュフェーズのC240、
パワーアンプはルボックスのA740である。

アナログプレーヤーはリンのLP12にSMRのトーンアーム3009 SeriesIIIにオルトフォンのMC30。

このアンプとアナログプレーヤーの選択は、ジャズを604-8G+平面バッフルで聴くためのモノではなく、
明らかにクラシックを聴くための選択である。

記事中では音楽についてはまったく触れられていない。
それでも、瀬川先生の組合せをつぶさにみてきた者には、
書かれてなくともクラシックを、四畳半でスケール感のある堂々とした響きで聴くためのモノであることは、
すぐにわかる。

そうか、クラシックを聴くための組合せなのか……、とおもう。

HIGH-TECHNIC SERIES 4での604-8Gの試聴記では、こう語られている。
     *
このような大きなプレーンバッフルに付けて抑え込まないで鳴らしてみると、明るさがいい意味で生きてきて朗々と鳴り響き、大変に心地よいサウンドとして聴けるわけですね。ただ、クラシックに関しては、ぼくにはどうしてもスペクタクルサウンド風に聴こえてしまって、一種の気持ちよさはあるんだけれども、自己主張が強すぎるという感じもします。
     *
同じことはUREIのModel 813についても書かれている。
にも関わらず、ここでのこの組合せである。

Date: 6月 28th, 2015
Cate: 瀬川冬樹, 瀬川冬樹氏のこと

瀬川冬樹氏のこと(UREI Model 813の登場・その4)

「SOUND SPACE 音のある住空間をめぐる52の提案」という別冊が、
1979年秋、ステレオサウンドから出ている。

夢のような住空間の提案もあれば、現実に即した提案もあった。
編集経験を経て読み返せば、この本をつくる労力がどのくらいであったのかがわかる。

ブームにのっただけの、体裁をととのえただけのムックを何冊も出すよりも、
これだけの内容のムックを、数年に一冊でいいから出してほしい、と思うわけだが、
同時にもう無理なことであることも承知している。

52の提案の中に、瀬川先生による提案がいくつもある。
その中のひとつに、
「空間拡大のアイデア〝マッシュルーム・サウンド〟」がある。

見かけは四畳半という狭い空間でも、屋根裏の、いわばデッドスペースとなっている空間を利用することで、
小空間でも堂々とした響きを得たいとテーマに対しての瀬川先生の提案である。

その本文には、こうある。
     *
 そもそも、スケール感のある堂々とした響きというのは、どういう音のことなのでしょうか。それは第一に、その音楽が演奏された空間のスケールを感じさせる、豊かな残響感の美しさにあります。そして次に、その音楽を下からしっかりと支える中低域から低域にかけての充実した響きが大切です。この目的を実現するための再生側の条件として、瀬川氏は空間ボリュウムのスケールと大型の再生装置(特にスピーカー)が必要だとされます。
     *
スケール感のある堂々とした響きを得るための大型の再生装置──。、
この提案で瀬川先生が選ばれたスピーカーはJBLの4343、4350、
他社の大型フロアー型スピーカーシステムではなく、
アルテックの604-8Gを平面バッフルにとりつけたモノだった。

つまり四畳半に平面バッフルを、いわば押し込む。
四畳半だから2.1m×2.1mのサイズでは、物理的に入らない。
ここでの提案では、幅1.3m・高さ1.75mの平面バッフルである。

2.1m×2.1mのサイズの約半分とはいえ、かなり大型の平面バッフルに604-8G、
さらに低域の量感を充実をはかるために515Bウーファーをパラレルにドライヴすることも提案されている。

Date: 6月 27th, 2015
Cate: 瀬川冬樹, 瀬川冬樹氏のこと

瀬川冬樹氏のこと(UREI Model 813の登場・その3)

瀬川先生が、サンスイのショールームでかけられた二枚のシェフィールドのダイレクトカッティング盤は、
《ザ・キング・ジェームズ・バージョン》と《デイブ・グルーシン/ディスカバード・アゲイン》。

記事には、《ザ・キング・ジェームズ・バージョン》を聴き終ったところで拍手がおこった、とある。
しかも、誰かが「おみごと!」と口走ったとも書いてある。

シェフィールドのダイレクトカッティング盤をきちんと鳴らした音を一度でも聴いたことのある人ならば、
どういう音が、この時鳴っていたのかが伝わってくる。

シェフィールドのダイレクトカッティング盤の音は、
604-8Gを平面バッフルに取りつけた音を最高に活かしてくれる(発揮してくれる)。

良質のダイレクトカッティング盤のもつ爽快さは、
他ではなかなかというよりも、まず得られない良さである。

いまアナログディスク・ブームといわれているし、
もうブームではない、完全な復活だ、ともいわれているが、
ダイレクトカッティング盤の音を聴いたことのない人たちが、いまでは多いように思う。

私は、アナログディスク・ブーム、アナログディスクの復活には異論があるが、
それでもこれから先、ダイレクトカッティング盤全盛時代の、
シェフィールドやその他のレーベルから登場した良質のダイレクトカッティング盤に匹敵する、
そういうレベルのダイレクトカッティング盤が登場してくるのであれば、
アナログディスクの復活はホンモノだといえよう。

サンスイのショールームで、
2.1m×2.1mの平面バッフルに取りつけられた604-8Gで、
シェフィールドのダイレクトカッティング盤を聴けた人たちは幸運といえる。

HIGH-TECHNIC SERIES 4の「大型プレーンバッフルの魅力をさぐる」は、
当日に参加された50数名の人たち全員に感想をきいて、その一部が記事になっている。

それを読んでも、604-8Gの音が圧倒的であったことがうかがえる。
記事にもアルテックに《よほど強い印象を受けられたのだろう》とある。

Date: 6月 26th, 2015
Cate: 瀬川冬樹, 瀬川冬樹氏のこと

瀬川冬樹氏のこと(UREI Model 813の登場・その2)

ステレオサウンド別冊「コンポーネントステレオの世界 ’80」でのアルテック620Bの組合せ。
そこで、瀬川先生は述べられている。
     *
(UREIの♯813は)アメリカのプロ用のモニターのひとつで、たいへん優秀なスピーカーです。このUREI♯813の成功に刺激されて、アルテックは620Bモニターを製作したのではないか、と思えるふしがあるくらいなのです。
     *
瀬川先生の、この推測がどの程度確度が高いのか、はっきりしたことはわからない。
でもたしかに、620Bを見て聴けば、そう思えるところがあるのも確かだ。

たったこれだけの発言だが、私にとっていくつものことを結びつけてくれる。

「続コンポーネントステレオのすすめ」で、UREI 813のことを、こう書かれている。
     *
 このスピーカーの基本はアルテックの604-8Gというモニター用のユニットだが、UREIの技術によって、アルテックの音がなんと現代ふうに蘇ったことかと思う。同じ604-8Gを収めた620Aシステムでは、こういう鳴り方はしない。この813に匹敵しあるいはこれを凌ぐのは、604-8Gを超特大の平面(プレイン)バッフルにとりつけたとき、ぐらいのものだろう。
     *
813の評価としてこれ以上のものはない。
少なくとも私にとってはそうであるし、HIGH-TECHNIC SERIES 4を熱心に読み、
超特大の平面(プレイン)バッフルに憧れた者、なんとか部屋に押し込めないかと考えた者も同じはずだ。

HIGH-TECHNIC SERIES 4での604-8Gの試聴記もそうだが、
それ以上に巻末にある「大型プレーンバッフルの魅力をさぐる」での瀬川先生の発言が強く印象に残っている。

この記事はHIGH-TECHNIC SERIES 4の試聴で使用した2.1m×2.1mの平面バッフルを、
当時、西新宿にあったサンスイのショールームに持ち込んだ様子をリポートしたものだ。
     *
瀬川 わたし自身は正直いってアルテックの音はあまり好きではないのですが、この音を聴いたら考え方が変わりましたね。しびれました。近頃忘れていた音だと思います。
(中略、瀬川先生はアルテックと同じカリフォルニアのシェフィールドのダイレクトカッティング盤を二枚かけられている)
こういう音を聴くと、新しいアメリカのサウンドの魅力が実感できるでしょう。あまり素晴らしい音なのでまだまだ聴きたいところですが、タンノイも控えていますのでこの辺にしましょう。
     *
2.1m×2.1mの平面バッフルに604-8Gを取りつけた音に匹敵する音を、UREIの813は聴かせてくれる──、
813は家庭での設置がやや難しいスピーカーではあるが、
2.1m×2.1mの平面バッフルの導入に較べれば、その難易度はずっと低い。

昂奮せずにいられようか。

Date: 6月 25th, 2015
Cate: 瀬川冬樹, 瀬川冬樹氏のこと

瀬川冬樹氏のこと(UREI Model 813の登場・その1)

ステレオサウンド 46号は1978年3月に、
HIGH-TECHNIC SERIES 4は1979年春に、
「続コンポーネントステレオのすすめ」は1979年秋に出ている。

46号の特集は「世界のモニタースピーカー そのサウンドと特質を探る」で、
17機種のモニタースピーカーが取り上げられている。

17機種の中でひときわ印象に残ったのは、K+HのOL10UREIのModel 813である。
瀬川先生は、どちらも推薦機種にされている。

試聴記を読めばわかるが、このふたつのモニタースピーカーの性格は、かなり違っている。

HIGH-TECHNIC SERIES 4は「魅力のフルレンジスピーカー その選び方使い方」で、
国内外のフルレンジユニット37機種を、
32mm厚の米松合板による2.1m×2.1mの平面バッフルでの試聴を行っている。
ここにアルテックの604-8Gが登場している。

46号の特集にもアルテックのモニタースピーカーは、612C620Aが登場している。

UREI 813にもアルテック 612C、620Aにも、アルテックの604-8Gが搭載されている。

「続コンポーネントステレオのすすめ」では、JBLの4343、KEFのModel 105、スペンドールのBCII、
ダイヤトーンの2S305、セレッションのDitton 66、ヤマハのNS1000M、テクニクスのSB8000、
ヴァイタヴォックスのCN191、アルテックのA7X、BOSEの901SeriesIV、QUADのESL、
そしてUREIのModel 813の組合せをつくられている。

これらの記事をもとめて読む。
その後に「コンポーネントステレオの世界 ’80」でのアルテックの620Bの、
瀬川先生の組合せを読むと、すべてがつながっていくような気がしてくる。

Date: 6月 9th, 2015
Cate: 岡俊雄

アシュケナージのピアノの音(続々続・岡俊雄氏のこと)

菅野先生が、以前次のような発言をされている。
     *
たとえば同じクラシックのピアノ・ソロであっても、ぼくはブレンデルだとわりと小さい音で聴いても満足できるんだけれども、ポリーニだともうちょっと音量を高めたくなるわけです。
(ステレオサウンド別冊「コンポーネントステレオの世界 ’82」より)
     *
菅野先生の指摘されていることは、多くの人が無意識のうちにやっていることだと思う。
私も、いわれてみれば……、と思った。

岡先生はショルティとアシュケナージを高く評価されていたことは、以前書いた通りだ。
ショルティは、私の中では音量をけっこう高めにして聴きたくなる指揮者である。
ショルティのマーラーは、他の指揮者のマーラーよりも大きくしたくなるところがある。

これはすべての人に共通していえることなのか、そうでないことなのかはわからないけれど、
ショルティのマーラーをひっそりと鳴らしても……、とやはり思ってしまう。

アシュケナージは、どうなんだろうと、いま思っている。

意外に思われるかもしれないが、
岡先生はけっこうな大音量派だった。
岡先生の音を聴いたとき、その音量に驚いたことがある。

驚いたあとで、そういえば……、と思い出していた。
これも「コンポーネントステレオの世界 ’82」に載っていることだ。
     *
 ぼくは自分の部屋で、かなりレベルを上げて聴いて、ワイドレンジで豊かな感じを出したいなということでいろいろやってきて、専門的な言葉でいえば、平均レベルが90dBぐらいから上でピークが105dBから、場合によると110dBぐらいのマージンをもつ、ピアニッシモは大体50から55dBぐらいで満足できるような、その程度のシステムで聴いていた。わりと庭が広いので、春さきから秋にかけては窓をあけっぱなしにして聴いていたのです。
 隣の家までかなり距離はあるんですけれども、隣の家が改造して、昔は台所があってその向こう側に居間があったのを、こんどは居間を台所の横に移しちゃったんです。それでうちでデカイ音を出すと、平均レベルで90dB以上でピークで100dBを超えたりすると、モロにいくわけですね。それぐらいでやっていたら、ある日突然電話がかかってきて、お宅の音がうるさくて困ると、クレームがきてしまった(笑い)。
     *
これを読んでいたことを忘れていた。
そうだそうだ、岡先生はけっこう大音量派なのだ、ということを思い出していた。

だから岡先生もショルティはかなり大きめな音で聴かれていたように思う。
アシュケナージはどうだったんだろうか。
ショルティのマーラーほど大きくはなくても、他のピアニストよりも大きめの音量だったのだろうか。

Date: 5月 30th, 2015
Cate: 長島達夫

長島達夫氏のこと(図説・MC型カートリッジの研究)

ステレオサウンドから「MCカートリッジ徹底研究」というムックが発売になっている。

この本の後半は、長島先生の「図説・MC型カートリッジの研究」の再録したものである。
ただ完全な再録ではなく、「ほぼ全ページ」ということらしい。

それでも「図説・MC型カートリッジの研究」の復刊は素直に喜びたい。
でも表紙は「図説・MC型カートリッジの研究」の方が文句なしに素晴らしい。

ラックスのPD121にオルトフォンのMC20、
ヘッドシェルはフィデリティ・リサーチのFR-S/4。
撮影は亀井良雄氏。

まだ読んでいない本についてあれこれいいたくはないが、
「図説・MC型カートリッジの研究」のそのままの復刊であってほしかった。

もっとも「図説・MC型カートリッジの研究」には広告もはいっているから、
そのままの復刊が無理なことは理解しているのだけれど……。

とにかく「MCカートリッジ徹底研究」の価値は、「図説・MC型カートリッジの研究」である。
これだけは古くならない。