オーディオにおけるジャーナリズム(特別編・その10)
(その8)で引用した瀬川先生の発言。
これに対して、井上先生はこう語られている。
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井上 ここまで夢中になってやってきて、ひとつ区切りがついた、といったところでしょう。この十三年間をふりかえってみると、いちばん大きく変化したのは、オーディオ観そのものであり、オーディオのありかたであり、そしてユーザー自体ということですよね。その意味で「ステレオサウンド」がどうあるべきかということを、このへんで、いちど考えなおす必要がある、という瀬川さんのご指摘には、ぼくもまったく同感です。
ただ、それが、熱っぽく読ませるためにどうかということでは、ぼくはネガティブな意見です。つまり、そういった意識そのもが、かなり薄れてきている時代なんだと、ぼくは思っているのです。
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これを受けて、瀬川先生は、
熱っぽく読む、というのはひとつの例えであって、
今後も熱心に本気に読んでもらうためにはどうしたらいいのか、ということだと返されている。
このあとに菅野先生、山中先生、岡先生の発言が続く。
詳しい知りたい方は、ステレオサウンド 50号をお読みいただきたい。
岡先生の発言を引用しよう。
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岡 ひとついえることは、創刊号からしばらくの時期というのは、われわれにしても読者にしても、全部新しいことばかり、まだ未知の領域ばかり、といった状態だったわけでしょう。だからなんとなく熱っぽい感じがあったんですよ。それがしだいに慣れてきた、というか繰り返しのかたちが多くなって、そのためにいかにも情熱をかたむけてやっている、という感じが薄くなったことはたしかでしょう。
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井上先生の発言にある、ひとつの区切り。
50号は1979年3月に出ている。
36年が、50号から経っている。
この36年間に、いくつの区切りがあっただろうか。
業界にも、オーディオマニアにもそれぞれの区切りがさらにあったはず。
そして岡先生の発言に出て来た「慣れ」。
長くやっていれば、どうしても慣れは生じてくる。
瀬川先生は、ほかの方の発言をどういうおもいで聞かれていたのだろうか。
もどかしさがあったのではないだろうか。
この「もどかしさ」は、(その9)で書いたもどかしさとは違うもどかしさではなかったのか。
ステレオサウンド 50号を手にしたとき、私は16だった。
そのころはなんとなくでしか感じられなかったことが、いまははっきりと感じられる。
同時に、瀬川先生と仕事をしたかったという、いまではどうしようもできない気持がわきあがってくる。