Date: 9月 2nd, 2015
Cate: James Bongiorno
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Ampzilla(その4)

ステレオサウンド 48号の黒田先生の連載「さらに聴きとるものとの対話を」を、
高校一年の時に読んだ。

「旗色不鮮明」という副題がつけられている。
一ページ三段組みのレイアウト。
一ページはタイトルで二段分がとられている。
一ページ目の文章は一段分のみ。

二ページ目の一段目に、アンプジラの名前が出てくる。
二ページ目の一段目だから、「旗色不鮮明」の冒頭にアンプジラの名前が出てくるわけで、
アンプジラはという単語は12回登場してくる。

こんなふうに出てくる。
     *
「きみ、なにできいているの?」
「スピーカーはJBL、アンプはアンプジラ」
「きみ、なにをきいているのの?」
「プログレッシヴ・ロック」
 前の方の会話には、
「へえ、いい装置できいているんだな」
 という言葉がつづくかもしれないし、後の方の会話には、
「最近きいたレコードでなにかおもしろいレコードあった?」
 という言葉がつづくかもしれない。
 いずれにしろ、会話は、「ぼくは──」とか「わたしは──」とか、一人称代名詞が入りこめないようなかたちで、進行する。そして、具合のわるいことに、「スピーカーはJBL、アンプはアンプジラ」という、本来は使っている道具をいっただけの言葉が、ひとり歩きをはじめて、その言葉を口にした人物のことを語ろうとさえする。
     *
最初読んだ時は、気にならなかったことが、
数年経ち、もう一度読んでひっかかることがあるのに気づいた。

「旗色不鮮明」の最後はこうまとめられている。
     *
 メーカー名、ブランド名が登場する会話では、なにかが、一瞬鮮明になったような錯覚におちいる。しかし、よくよく考えてみれば、なにひとつ鮮明にはなっていない。
 野に咲く花はみつけやすい。だから鮮明だ。草木の間に身をひそめる野うさぎは、ちょっとやそっとではみつけられない。だから不鮮明だ。──といえるような気もするが、待てよと思う。本当にそうかなと思う。ナルシシズムは、うぬぼれ、ひとりよがりを、そのうちにとりこんでいる。うぬぼれ、ひとりよがりをとりこんだものが、鮮明になりうるのかどうか。野に咲く花がみつけやすいのは、花の方でみつけられたいと思っているからだ。
「スピーカーはJBL、アンプはアンプジラ」
 という言葉は、いかにもものほしげな表情をして、
「へえ、いい装置できいているんだな」
 という言葉をほしがっていないか。
 その言葉は、「JBL」なり、「アンプジラ」なりにのっかって、自分をアッピールしたがっている人の顔を浮かびあがらせないか。むろん、その言葉が、いつでもそういう人の顔を浮かびあがらせるということではない。むしろ、そうではないことの方が多いだろう。ただ単純に、自分の使っている道具を相手に知らせる目的だけで、その言葉は発せられたのかもしれない。ただ、ものにつきすぎたところでの言葉は、きわどく似非ナルシシズムと手をつなぐ。そのことは心得ていた方がいい。さもないと、うぬぼれ、ひとりよがりでみちみちたあいまい湖につかって、一向に鮮明とは思えぬ、しかしなんとなくひと目をひく旗をこれみよがしに、結果として、ふっていることになりかねない。
     *
だから「旗色鮮明」では「旗色不鮮明」であるわけだが、
ここで書きたいことは、このこととはほとんど関係がない。

「旗色不鮮明」には「EMT」「グッチ」というブランド名も出てくる。
《メーカー名、ブランド名が登場する会話》なのに、
なぜか「アンプジラ」だけ、メーカー名でもブランド名でもなく、型番なのである。

「JBL」も「EMT」も、さらには「グッチ」もメーカー名、ブランド名であるにもかかわらず、
「アンプジラ」だけが「GAS」ではなく「アンプジラ」と書かれていることに、気づいたわけだ。

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