Date: 9月 3rd, 2015
Cate: オーディオ評論, デザイン
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ミソモクソモイッショにしたのは誰なのか、何なのか(2020年東京オリンピック・エンブレムのこと)

佐野研二郎氏デザインのエンブレムは使用中止になった。
八月は、否が応でも、この騒動が目に入ってきた。

あれこれ思い、考えた。
思い出したこともいくつもある。

そのひとつが、菅野先生の文章である。
著作集「音の素描」のオーディオ時評VIIIである。

さほど長くないので引用しておく。
     *
 夏になると人々はサングラスをかけはじめる。もっとも最近は、サングラスがオシャレの一つの道具で、別に夏ではなくても、それほど日射しが強くなくても、年中使っている人がいる。夜でもかけている人がいるが、あれは一体どういうつもりなのだろうか? このサングラスというものをかけてみると、視覚の感覚がずい分変わることに驚かされたり興味を感じたりするだろう。フィルターを通して光の波長をコントロールするのだから、裸視での色彩感とはずい分ちがったものになるのは当然だ。
 そして、不思議なことに、長くこれをかけていると、我々の色彩感はそれになれて、かけはじめた時に感じた色彩の不自然さを感じなくなってしまう。それも、たかだか二、三時間で充分。もし二、三日かけっぱなしにしていれば、そのフィルターを通した色彩こそ本物で裸視の色彩のほうが不自然だという、おかしなことにもなるのである。
 あるへっぽこ画家が、妙なことを思いついた。彼はありとあらゆるサングラスを買いこんで自由自在に色盲の世界を楽しんだ。そうして見た色を彼はキャンバスにぬりつけてみた。キャンバスに向うときにはサングラスをはずすのである。こうして彼は、そこに彼のセンスでは画けない色彩の世界を発見し、その馬鹿げた遊びに夢中になったのである。まともなサングラスでは面白くないから、いろいろな色ガラスを彼は使い始めた。彼のキャンバスには赤い空や黄色い雲や、そして緑色の人の顔が画かれた。
 知ったかぶりの彼の友人達は、それを天才的な色彩感覚だと無責任にほめそやした。事実彼の絵は売れ始めたし、多くの展覧会に入選し、賞ももらった。彼の天才? の道具であるサングラスには、その辺の露店で売っている数百円の色眼鏡もたくさんあって、幸か不幸かそれらの眼鏡の中には像を著しく歪ませるものも少なくなかった。線がひん曲がったり、顔がゆがんだりする奴だ。水平線がうねうね曲ったりした。彼はすっかり悪乗りしていい気分になってその歪んだ形をキャンバスに画いた。右眼が化物のようにでっかくて左眼が縦長のような顔も画いた。魚眼レンズにも当然興味を持った。こうして画かれた彼の絵は、かつてモンマルトルの貧困な一画家から身を起こし、世界的な大画伯として君臨した真の天才の作品にまで喩えられる始末。
 彼の周囲の無責任で手に負えない気取り屋たちにとっては、事実、その大天才の作品と彼の絵との差はわからなかった。彼らはその差を外国人と日本人との差、社会的評価の差としか考えなかった。
 かつて彼と共に苦労したもう一人の画家は、ひたすら写実に徹し、自分の眼で見た、自分の脳裏に焼きついた印象をまったく無視して、キャンバスのスペースに絵筆の技術と謙虚な写実の努力をもって画き続けていた。しかし、その作品は周囲から見向きもされないのである。彼は不幸にして生まれついての色盲であったから、その写実性と、キャンバスに画かれた色彩とは、なんとも様にならない不調和でしかなかった。彼の努力にもかかわらず、その作品は誰も認めなかった。実際その絵は決して優れたものではなかったが、少なくとも前者の作品より誠実であった。
 馬鹿馬鹿しい話しだが、オーディオのもっているいろいろな問題は、この二人の絵画きの話と照し合せてみる時、何かそこに考えさせられるものを含んではいないだろうか。忠実に音を伝達すべきオーディオ機器の理想と、レコード音楽や再生の趣味性の持つ諸問題のほんの一例かも知れないが、考えるに価することのように思えるのである。
     *
ここに出てくるサングラスの別の名詞(パソコンとアプリケーションとインターネット)に、
画家をデザイナー(アートディレクター)と置き換えて読めば、
今回の騒動をある部分を予感しているようにも思えてくる。

「音の素描」をaudio sharingで公開するために10年以上前に入力作業をやっていた。
やりながら感じていたのは、そのまま当時の事象にあてはまるという驚きだった。

今回、改めて、オーディオ時評VIIIを読み返した。

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