KK適塾 2017(2月2日)
今年度のKK適塾の二回目は、2月2日に行われる。
受付が始まっている。
KK塾、KK適塾に行って毎回おもうのは、
もっとオーディオ関係者が来てほしい、ということだ。
オーディオ関係者とは、オーディオ業界の人だけを指すわけではない。
オーディオ好きの人を含めて、の意味だ。
二回目の講師は藤崎圭一郎氏である。
今年度のKK適塾の二回目は、2月2日に行われる。
受付が始まっている。
KK塾、KK適塾に行って毎回おもうのは、
もっとオーディオ関係者が来てほしい、ということだ。
オーディオ関係者とは、オーディオ業界の人だけを指すわけではない。
オーディオ好きの人を含めて、の意味だ。
二回目の講師は藤崎圭一郎氏である。
成熟した大人。
たしか、そういわれた。
心臓移植を例に挙げられての話だった。
心臓は亡くなった人からの移植はできない、とのこと。
つまり生きている人から取り出した心臓だから、移植できる、と。
もちろん生きている人に麻酔をかけて心臓を取り出してしまったら、それは殺人である。
だから脳死がある。
脳は死んでいても、人工呼吸器をつけていれば心臓は動いている。
そういう状態の人がいるから、心臓移植ができるわけだ。
心臓移植を受けなければ助からない人が、家族にいたとしたら、
おそらく全員が心臓移植を望むはずだ。
だが自分の子供が、プールで溺れて脳死状態になったとしよう。
子供の心臓を、心臓移植を必要としている人に提供できるだろうか。
数時間前まで元気だった自分の子供が、突然脳死宣告される。
しかも心臓を必要としている人がいる。
もしかすると、奇蹟に近いことがおきて、脳死状態から復帰できるかもしれない、
と親ならばおもいたくなる。
目の前にいるのは、自分の子供である。
心臓は動いていて、肌にふれれば温かい。
ここで成熟した大人の決断が求められる。
自分の子供が心臓移植を必要とし、心臓移植を望むのであれば、
脳死となったら心臓を提供することを求められる──、
一方的に望むだけでは、それは成熟した大人とはいえない。
酷なことであっても、自分だけがよければ……、という考えは通用しない。
ドナーとなることを拒否するのであれば、移植を受けることも望まなければいい。
それも成熟した大人の考えである。
脳死と臓器移植が、転売屋とどう関係するのか、といえば、
直接の関係はないけれど、転売屋は成熟した大人のやることだろうか。
とても未成熟であると感じる。
秋葉原のパーツ店は、店そのものは小さくとも、
在庫としてはかなりの数を抱えている。
閉店のウワサをいちはやくかぎつけた人たちは、
在庫をすべて買い取りたい、といってきたそうだ。
ただし、話にならないほどの価格だった、と聞いている。
人をバカにするにもほどがある、という。
そんな感じだったようだ。
安く買い叩いて、高く売る。それが目的の人たちなのだろうか。
いわゆる転売屋と呼ばれている人たちである。
ジャズ喫茶の閉店のウワサとともに、同じことをもちかけた人たちも、
ほんとうのところはどうなのだろうか。
転売屋の人たちがまったくいないわけではないだろう。
すべての人がそうだ、といわない。
通い詰めた場所がなくなるのだから、何か記念として……、という人もいるはずだ。
職業に貴賎はない、という。
そうだ、とはおもう。
五味先生がラヴェルのマ・メール・ロワを聴かれたときのことを書かれている。
*
これを初めてS氏邸で聴くまで、ラヴェルにこういう曲があることを私は知らなかった。聴いて陶然とはじめはした。二度目に聴かされたとき、街かどに佇む夜の娼婦をまざまざ私はこの曲趣に見たのを忘れない。寒い夜で、交番所があって、其処にはフランスのしゃれた巡査がマントを着て立っており、コツコツ靴を鳴らして時々付近を巡邏する。街灯が遠く、建物の角に斜めに立っている。人気のないショー・ウインドからむなしい明るさが路上にもれ、そんな窓のかどに淋しそうな娼婦が佇んでいるのだ。街を通る人影はほとんどない。でも彼女は立ちつづける。吐く息が寒気で白い湯気のように窓の照明に映る。巡査は彼女が娼婦なのを知っているが黙って交番所にもどってくる。寝しずまった都会の夜景。娼婦も、詩人も、単に生き方がちがうにすぎない。詩人がすぐれていて娼婦は賤しいとどうして言えようか? 彼女は必死で生きようとしている。暗くて貌はわからないが、きっと美人だ。いろいろなことが彼女の過去にあったろう。めったにもう人は通らない時刻なのを彼女は知っている。それでも佇んでいる。過去を背負って立ちつづけるのが神の意志にそうことを彼女は知っている。忘れたころに、自動車のヘッドライトが遠くの街路を音もなしに走り去ってゆく……ゆっくり、彼女はハイヒールを鳴らして巡査の方にやってくる。煙草を吸いたいからマッチを貸してちょうだい、と彼女は言う。若い巡査は黙ってズボンのポケットのマッチを出すが、自分では点けてやらない。彼女は暗がりにボウと一瞬、炎の明るさへ自分の顔を泛べて、擦る。痩せてはいるが果して美貌だ。烟りが、交番所の火にゆらゆらと立ち昇る……あなたも吸わないかと彼女はすすめるが彼は無言で頭をふる。彼女は靴音を残してまた元の場所へ歩み去る──
(《逝ける王女の為のパヴァーヌ》より)
*
《娼婦も、詩人も、単に生き方がちがうにすぎない》
こういうのを10代のころに読んでいるからなのか、
《詩人がすぐれていて娼婦は賤しい》とは思わない。
この文章を読んでいても、私と違う人もいる。
知人は、賎しい職業だ、と思う人だ。
そういうひとが、小説を書いて芥川賞が欲しい、という。
そういう人を間近でみていたから、《詩人がすぐれていて娼婦は賤しい》とは思わないわけだが、
それでも転売屋と呼ばれてる人たちは、賎しいのではないか、とすらおもう。
職業に貴賎はないのだとしたら、
商売に貴賎はあるのかもしれない。
こんなことを書いているのは、
久坂部羊氏の話に、脳死と臓器移植のことがあったからだ。
12月22日は、KK適塾 2017の一回目だった。
これまでは、KK塾、KK適塾に行った、その日のうちにブログを書いていた。
今回は二日後の今日になって書いている。
22日は、KK適塾のあとはaudio sharingの忘年会だった。
帰宅したのは1時をまわっていて、アルコールも入っていたから、
KK適塾について書くのは控えた。
23日は、喫茶茶会記の忘年会だった。
そのあとにギャラリー・ルデコにも行っていた。
23日も帰りが遅く、アルコールが少し入っていた。
アルコールが残っていても書ける文章はある。
でもアルコールが入っている(残っている)状態では書きたくない文章がある。
KK適塾については、アルコールが残っていては書きたくなかったから、
24日の今日になって、ようやく書いている。
KK適塾 2017一回目の講師は、久坂部羊氏。
医療の現場にいた人の話である。
医療を行う側の常識、考え方と、治療を受ける側の常識、考え方とは、
すべてが一致しているわけではない。
そうだろうな、と思った話と、そうだったのか、と思った話とがあった。
久坂部羊氏の話のくわしいことを書くつもりはない。
23日、ちょっと驚く話を聞いた。
東京の、よく知られているジャズ喫茶が来年2月に閉店する、ということだった。
どの店なのかは書かない。
閉店のウワサをいち早くかぎつけた人たちがいる。
その人たちの中には、そのジャズ喫茶のオーディオ機器やレコードを狙っていて、
具体的な話をもちかけた人もいる、とのこと。
そういえば秋葉原のラジオデパート二階の店も、今年閉店になっている。
五味先生と瀬川先生は、本質的に近い、と私は感じている。
それでもカラヤンに対する評価は、違ってくる。
人は一人ひとり違っているのだから、違うのが自然なことだと頭でわかっていても、
このことに関しては、昔から、そしていまもひっかかっている。
黒田先生と瀬川先生は、
ふたりとも、ある時期JBLの4343を鳴らされていて、
カラヤンの評価も高かった。
このことについて考えていくと、
「カラヤンと4343と日本人」というタイトルで、
いつか書きたい、と思っている。
まだ、いまは書けそうな気がしない。
ステレオサウンドで働くようになって、
ウェスターン・エレクトリックの真空管の音にふれる機会があったし、
特別なことでもなくなってきていた。
ウェスターン・エレクトリックの300Bよりも、
シーメンスのEdに魅力を感じていた私でも、音を聴けばウェスターン・エレクトリックの300Bだった。
オーディオのベテランほど、ウェスターン・エレクトリックの真空管を高く評価していた。
サウンドボーイの編集長のOさんも、そのひとりだった。
Oさんが話してくれた。
ウェスターン・エレクトリックの真空管の音は、ボケている。
トランジスターアンプのほうが、音の輪郭はボケずに鮮明である。
けれど、ウェスターン・エレクトリックの音は、芯がきちんとあるし、
そこはボケていない。
トランジスターアンプの音とは正反対である、と。
マイク野上さんの、ライカのレンズの話とまったく同じことだ。
ライカで撮った写真にシャープネスをかけると同じことを、
ウェスターン・エレクトリックの真空管のアンプに対してはできないが、
パソコンでのシャープネスという処理を、音の世界では耳(聴き手の頭)で行っているとしたら……。
そしてライカのレンズのボケとは、グラデーションをきちんと捉えている、ということのはず。
だからこそ情報量が多いのではないのか。
「音楽・オーディオ・人びと」の巻頭の瀬川先生撮影の写真、
元の写真をスキャンしてシャープネスをかけたら、どう仕上がるのか。
サプリーム No.144で、岡先生が書かれている。
*
最近、トリオの前会長中野英男さんの「音楽・オーディオ・人びと」という、とてもおもしろい本が出たが、その莞島にのっている中野さんの写真は瀬川冬樹撮影となっている。中野さんの懇望をきいて、最初の手術で退院してやや元気を恢復したばかりの瀬川さんは、しばらくライカを手にしていないから、シャッターの感触をとりもどしたいので、しばらく時間がほしいといい、実際にトレーニングをやったそうである。しかし、むかしのような感触がもどらぬままに撮影しなければならぬことになり、御当人は不本意な出来ばえだといっていたという。仕事についていいかげんなことのできない、またそれを自分に許せなかった瀬川さんらしいエピソードだったと改めておもうのである。
*
瀬川先生撮影の写真は、もちろん見ている。
岡先生の、この文章を読む前に見ている。
不思議な感じがしたのを憶えている。
瀬川先生にとっては不本意な出来ばえだっただろうが、
それでも、たった一枚の写真であっても、そこから感じられることがあったのも事実だ。
文章も写真も、どちらも視覚情報であっても、伝えてくるものは同じではない。
なんとなくではあっても、瀬川先生が求められていた音は、
こういう音だったんだな、と納得できるものを感じていた。
ライカのレンジは、ボケ味が特長だと、以前からいわれている。
実際にライカのカメラとレンズを使ったことのない私は、
そういうものなんだ、という程度の認識であった。
日本のレンズのほうが、全体的にシャープだということもきいてはいる。
ライカのレンズと日本の優秀なレンズ、
どちらがカメラのレンズとして優れているのかは、私には判断できないが、
先日、マイク野上さんからきいた話は、ひじょうに興味深かった。
ライカのレンズで撮った写真を、Photoshopなどのアプリケーションでシャープネスをかけると、
ものすごく鮮明な写真に仕上がる、とのこと。
その情報量の多さにも、驚くそうだ。
そしてライカのレンズで撮った写真には、芯がある、と。
まったく同じことを、30数年前にきいている。
2018年1月14日、
杉並区の中央図書館の視聴覚ホールにて、
オクタヴィア・レコードの江崎友淑氏による講演会「菅野録音の神髄」が行われる。
申し込みは、直接、中央図書館に連絡とのこと。
詳細は下記のリンク先をお読みください。
講演会「菅野録音の神髄」
昔は、メーカーのショールームがあたりまえのように存在していた。
自社製品の試聴だけでなく、
積極的にオーディオに関するイベント・試聴会を行っているメーカーも少なくなった。
オーディオ評論家による試聴会も、ほぼ月一回行われていて(しかも複数のオーディオ評論家)、
当時熊本に住んでいた私は、
東京で暮らしているオーディオマニアをどれだけ羨ましく思ったことか。
ラックスも積極的だったことがある。
その時の話を、友人のKさんから聞いている。
あるときラックスのショールームに来ている人から、
JBLのホーンについての質問があった、とのこと。
蜂の巣、スラントプレートの音響レンズ付き、ラジアルホーン、ディフラクションホーン、
JBLのホーンはアルテックも種類が多かった。
それぞれのホーンの違いは、どういうものか、という質問だった。
岩崎先生の答は「見た目の通りの音がする」ということ。
見た目には形状だけでなく、大きさも含まれている。
材質、色、質感もふくめての見た目であり、
確かに見た目のままが音として現れている、といえよう。
質問した人は、もう少し具体的な答が欲しかったのかもしれないが、
ホーンの見た目が、そのホーンの音であるは、何もJBLのホーンについてだけいえることではなく、
すべてのホーンについていえることでもある。
昨晩、杉並区の中央図書館のK様からメールをいただいた。
(その1)と(その2)で指摘した試聴コーナーについて、書かれてあった。
展示コーナーに職員を除虫させるわけにはいかないため、
オーディオにあまり関心のない人、機械操作になれていない人でも簡単に操作できること、
CDの盗難防止を配慮しての、ラジカセとヘッドフォンという選択ということだ。
このふたつの理由もあってのことだとは思っていた。
でもCD盗難に関しては、パソコンにリッピングして……、という手もあるのに、と思ってもいた。
今回の展示は図書館という公共の場でのものである。
著作権に触れるようなことはできない、とのことだった。
(その1)で、ステレオサウンドは協力しなかったのか、と書いたが、
決してそういうことはなかった、とのことである。
中央図書館にいかれた方は、少しがっかりされたかと思う。
けれど、今回の展示会を企画されたKさんは、オーディオマニアである。
マッキントッシュのスピーカーシステムに、マッキントッシュのアンプで鳴らされている。
菅野先生を尊敬されている。
そういう人がやっている企画である。
図書館という公共の場で、
しかも音を出すことが困難な場での苦労はあるのはわかっている。
特別展示「菅野沖彦の世界」は1月20日まである。
あと一ヵ月以上ある。
展示物もヴァージョンアップしていく、とのこと。
だから、すでに行ってがっかりした人も、もう一度足を運んでほしい、と思う。
今日(12日)発売のステレオサウンドに告知されているそうだが、
現在オーディオ・ラボのSACDを出しているオクタヴィア・レコードの江崎友淑氏による
「菅野録音の真髄」という講演も予定されている。
杉並区のウェブサイトには15日に告知される。
西荻窪、南荻窪と杉並区に10年以上住んでいたので、
杉並区の中央図書館には何度も行っている。
その中央図書館の一階、CDコーナーで、
特別展示『音のマエストロ「菅野沖彦の世界」』が開催されるということを知って、
おおよそどのくらいのスペースが割かれるのかの想像はついた。
今日から開催されている。
行ってきた。
展示スペースは、想像したとおりの広さだった(広くはない)。
杉並区のウェブサイトには、「菅野氏が録音した音源の試聴コーナーもあります」と書いてある。
図書館での試聴コーナーだから、スピーカーでの音出しではないことはわかる。
ヘッドフォンでの試聴なのは理解できる。
けれど、そこにあったのは安っぽいCDラジカセとヘッドフォンだった。
菅野先生の録音はSACDでも出ている。
せめてSACDプレーヤーと良質のヘッドフォンアンプとヘッドフォンは用意できなかったのか、
と正直思う。
ステレオサウンドが、今回の展示に協力している、ともある。
確かにステレオサウンドが創刊号から展示してあった。
ただガラスケースの中に、である。
ステレオサウンドの協力とは、これだけなのか、とも思った。
せめて試聴器材の貸し出しに協力できなかったのか。
メーカー、輸入元にステレオサウンドが声をかければ、
器材を貸し出してくれるところは、いくつかあるはずだ。
ステレオサウンドが、あと一歩の協力をしていれば……、
と中央図書館に足を運んだ人は、みな思うはずだ。
今回の展示は始まったばかりである。
試聴器材の変更は可能なはずだ。
12月12日追記
一部、私の勝手な誤解があったこと、(その3)に書いています。
音楽之友社から1976年末に出た「ステレオのすべて」に、
黒田恭一、菅野沖彦、瀬川冬樹、三氏による記事
「リアリティまたはリアリスティックとプレゼンスの世界から いま音楽は装置に何を望むか」。
この鼎談は、瀬川先生の音について考えていく上で読んでおきたい記事であり、
同時に菅野先生の音について考える上でも読んでおきたい。
しかもこの年の春に出ているステレオサウンド 38号の、
いわば続きといえる内容だけに、
38号の特集「オーディオ評論家──そのサウンドとサウンドロジィ」の後に読むべき記事である。
*
菅野 僕は瀬川さんといつもよく話すことなんだけど、瀬川さんもJBLが好きで、僕もJBLが好きで、何年か前に瀬川さんのところへ行ってJBLを聴かせていただいた時にものすごくすばらしい音だと思った。だけどそこで聴いた音はね、僕からするとまったく今我々の申し上げたプレゼンスの傾向としてすはらしい音だと思ってしびれたわけです。それで僕が鳴らしているJBLというのは今度は今いったリアルの傾向で鳴らしているわけですね。それでよくお互いに同じスピーカーを使ってまあ鳴らし方がちがうなというふうに言っているわけで、つまりこれは鳴らし方にも今製品で言ったけどね、鳴らし方にもそういう差が出てくるというね、そこまで含められてくるでしょうね。
黒田 それで今回のこの企画のことを話された時に、菅野さんのそのリアリスティックで聴くっていう話しを聞いて、僕はやっぱり以前その聴かせていただいた音がピンときている。なるほどあれはリアリスティックという言葉を好んで使いそうな男の音だと、それで瀬川さんはプレゼンスだと。全くそうだと。それはその両者がそういう言葉を頻繁にお使いになるのは当然だと僕は思ったんです。で、ただその煮つめていけばどっかで同じになっちゃうことなんで、それを何かここではっきりさせようというのがどうもその編集部の意図らしいんです。
*
リアリスティックとプレゼンス。
ステレオサウンド50号から連載が始まった瀬川先生のリスニングルームの記事。
そのタイトルは「ひろがり溶けあう響きを求めて」であり、
これらのことを抜きにして、たんなる音のバランスだけで、
瀬川先生の音を、活字(誌面)から読みとろうとしても、無駄というよりも、
知人のように間違った方向にいくことだってある。
4年前に「4343とB310(もうひとつの4ウェイ構想・その14)」を書いたことを、もう一度書いておく。
それでは瀬川先生の音のバランスの特長は、どこにあるのかといえば、
それは、基音(ファンダメンタル)と倍音(ハーモニクス)とのバランスにある、と推断する。
これを理解できずに、瀬川先生の出されていた「音」を、周波数スペクトラム的な観点から、や、
使用されていたオーディオ機器への観点から追い求めても、まったく似ても似つかぬ(ただの)音になってしまう。
残念なのは、基音と倍音のバランスの観点(感覚)から、
実際に瀬川先生の「音」を聴かれた人の、瀬川先生の「音」について語られているのが、ない、ということだ。
岡先生は映画畑の人だった。
昨晩のaudio wednesdayでショルティのマーラーの二番をかけたあとの
「一本の映画を観ているようだった」の感想を聞いて、ふと岡先生のことをおもっていた。
岡先生がショルティの演奏を高く評価されていたことは、
ステレオサウンドを読んできた人ならば知っているはずだし、
ここでも何度か書いている。
「一本の映画を観ているようだった」をきいて、
もしかして、そうだったのかも……、おもった。
そういう面を、岡先生は感じとられていたのだろうか、と。