Date: 12月 25th, 2017
Cate: 川崎和男
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KK適塾 2017(一回目・その3)

成熟した大人。
たしか、そういわれた。

心臓移植を例に挙げられての話だった。
心臓は亡くなった人からの移植はできない、とのこと。
つまり生きている人から取り出した心臓だから、移植できる、と。

もちろん生きている人に麻酔をかけて心臓を取り出してしまったら、それは殺人である。
だから脳死がある。

脳は死んでいても、人工呼吸器をつけていれば心臓は動いている。
そういう状態の人がいるから、心臓移植ができるわけだ。

心臓移植を受けなければ助からない人が、家族にいたとしたら、
おそらく全員が心臓移植を望むはずだ。

だが自分の子供が、プールで溺れて脳死状態になったとしよう。
子供の心臓を、心臓移植を必要としている人に提供できるだろうか。

数時間前まで元気だった自分の子供が、突然脳死宣告される。
しかも心臓を必要としている人がいる。

もしかすると、奇蹟に近いことがおきて、脳死状態から復帰できるかもしれない、
と親ならばおもいたくなる。
目の前にいるのは、自分の子供である。
心臓は動いていて、肌にふれれば温かい。

ここで成熟した大人の決断が求められる。
自分の子供が心臓移植を必要とし、心臓移植を望むのであれば、
脳死となったら心臓を提供することを求められる──、
一方的に望むだけでは、それは成熟した大人とはいえない。

酷なことであっても、自分だけがよければ……、という考えは通用しない。
ドナーとなることを拒否するのであれば、移植を受けることも望まなければいい。
それも成熟した大人の考えである。

脳死と臓器移植が、転売屋とどう関係するのか、といえば、
直接の関係はないけれど、転売屋は成熟した大人のやることだろうか。
とても未成熟であると感じる。

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