Archive for category 録音

Date: 6月 26th, 2011
Cate: 録音

50年(その7)

音場もそうだが、それ以上に音像は、視覚的な感覚に通ずるものである。
フォルティッシモで強く弾かれたとき、実際のピアノの鍵盤が崩れることはない。
だがそれが一旦録音され再生されると、もろくも崩れ去れることが多い。
モノーラル録音ではもともと鍵盤が音像として提示されないから気にならないけれど、
ステレオ録音、それも優れた録音になっていけばいくほど、
フォルティッシモになるまでは鍵盤がそこに提示されるために、よけいに鍵盤の崩れを意識してしまう。

これと同じことは小出力アンプでも経験することがある。
たとえばマークレビンソンのML2。定格出力は25W(実際には50Wほど出ていたようだが)と小さい。
スピーカーがかなり高能率であれば問題とならないことだが、
90dB程度の出力音圧レベルのスピーカーとの組合せでオペラを聴いていたとしよう。

プリマドンナが静かにアリアを歌っている。
ふたつのスピーカーのほぼ中央に歌手がいて、その後ろにオーケストラの演奏が抑えた音量で響いている。
いい音で鳴っているなぁ、と聴き惚れる。
ところがアリアがおわり、合唱になりオーケストラの響きもクレッシェンドしていくと、
それまで見事に提示されていた音場(ステージ)が、一瞬のうちに崩れてしまう。

アンプのせいばかりではない、録音の不備もせいも関係していることだが、
出力に余裕があるアンプでは、極端な崩れは起さない。
出力の小ささが、ステージの崩壊を、ときにひどくすることはがある。

音色だけを気にしていれば気づかない小出力アンプの苦手とするところである。

Date: 5月 11th, 2011
Cate: 録音

50年(その6)

プレトニョフのCDのすこしあとに、ある友人のところで、
内田光子によるベートーヴェンのピアノ・ソナタを聴かせてもらった。

いま、空気が無形のピアノ、というところまでには達していないものの、
それでも眼前に内田光子が弾いている鍵盤が、ほぼ原寸に近いイメージではっきりと浮びあがる。
そしてフォルティッシモでも、その鍵盤のイメージがくずれない。

だから、友人から感想を聴かれたときに「鍵盤がくずれない」と言った。
私が言った意味を友人も理解してくれていたようだった。

後日、その友人のところにある人が、やはり音を聴きに来たという話、その友人からきいた。
訪問者に、友人は内田光子のCDを聴かせて、「鍵盤がくずれないだろう」といったところ、
きょとんとされたそうだ。
「鍵盤がくずれない」ことの意味がまったくわからない、といった感じだったらしい。

ピアニシモでは、鍵盤がわりとイメージできる録音、それに再生音でも、
フォルティッシモにおいては、突如として鍵盤のイメージがくずれてしまうことがある。
でも、そのことに、まったく関心が無いのか、鍵盤が目の前にあることをイメージできないのか、
「鍵盤がくずれない」ことがあらわしている音の良さに関して、ひどく鈍感な人がいると感じている。

音の聴き方には、人それぞれ癖というか、個性に近いもの、というか、
得手不得手ともいえるものがある。
すべての人がまんべんなくすべての音に対して反応しているわけではない。

たとえば音のバランスにひどく敏感な人もいれば、
音場感と呼ばれるものに対して、注意をはらっている人もいる。
その音場感、音場感とよくいっている人のなかにも、左右の広がり、前後の奥行きに関してはひどく気にしても、
不思議なことに音像の高さには、まったく無関心な人もいる。

鍵盤がくずれない、ということが、どういうことなのか、
すぐに理解できる人もいれば、そうでない人もいる、ということだ。

Date: 5月 10th, 2011
Cate: 録音

50年(その5)

まだまだ調整中の段階とはいえ、いい手ごたえを感じていたわけだから、
彼は、さっそくプレトニョフのCDをかけたそうだ。

彼のところをたずねた人の中には、録音の仕事をしている人がいた、ときいている。
ほかの人もふくめ、オーディオのキャリアはみな長く、オーディオ機器につぎこんだ金額も相当なもの。

でも、彼らにはプレトニョフのCDは、ピンとこなかったらしい。
たしかにいい録音だけど、なぜ彼がそんなに、プレトニョフのCDをあつく語るのかが理解できなかったようだ。

その中のひとり、録音の仕事をやっている人が、持参したCDの中から、
彼が優秀だと思っているピアノのCDをとりだした。それを鳴らす。
プレトニョフのCDが出るまでは、優秀録音と呼ばれたであろうが、
プレトニョフの録音が捉えている、無形のピアノを再現するのに必要な情報を、
その録音が十分にとらえているかというと、けっしてそうではない。

その録音は、私も聴いたことがある。
プレトニョフのCD以前と以後では、そして菅野先生のリスニングルームでの「再現」を聴いたあとの耳では、
こんどは、彼も私も、録音の仕事をしている人が感じているほどに、いい録音とは思えない。

ピアノの音色、ダイナミックレンジの広さなどなど、そういう従来の録音の評価軸にそうならば、
たしかに優秀録音だし、録音の仕事をしている人のいうことも理解できる。
けれど、その録音では、プレトニョフの録音が可能にした、無形のピアノを鳴らしてくれるとは感じられないのだ。

Date: 5月 10th, 2011
Cate: 録音

50年(その4)

ステレオ録音を、感覚的に的確にとらえた表現は、
五味先生の「いま、空気が無形のピアノを、ヴァイオリンを、フルートを鳴らす」であり、
私にとっては、この「空気が無形の」の楽器を鳴らすことは、五味オーディオ教室を読んだときからの、
つまり13歳のときからの思いつづけてきた、オーディオの在りかたでもある。

いま、空気が無形のピアノを……」のところで書いたように、
2005年5月19日、菅野先生のリスニングルームにおいて、はっきりと、聴いた。
プレトニョフのピアノによるシューマンの「交響的練習曲」で、だ。

このプレトニョフのCDの録音は、このとき、ほかの録音とはあきらかに違っていた。
聴いていると、目の前にはっきりとプレトニョフが弾いている鍵盤が浮びあがり、
それだけでなく、ピアノという楽器の形、重さまでもが、はっきりと聴きとれた。

こんなことを書くと、お前の錯覚だろう、という人がいよう。
でも、このとき、菅野先生のリスニングルームで、プレトニョフのCDを聴いた人の何人かは、
私と同じに感じていたことを、そして驚いていたことを、あとで聞いて知っている。

ただ菅野先生の話だと、そう感じない人、このよさがわからない人が少なからずいることも事実のようだ。
これは、その人のオーディオのキャリアの長さ、とは、直接関係はないようで、
感じない人に対して、どんなに言葉を尽くして伝えたところで、ほとんど無駄になることが多い。

プレトニョフのCDを菅野先生のところで聴き、驚き、
さっそくCDを買い求めた人を知っている。
そして、少しでも、菅野先生のところで聴いた音に近づけようと調整したことで、
少なくともピアノの鍵盤に関しては、ほぼ再現できるレベルにもっていっていた。

その彼からきいた話がある。
彼のところに、数人のオーディオマニアの方たちが遊びに来たときの話である。

Date: 4月 2nd, 2011
Cate: 録音

ショルティの「指環」(その15)

いまでも、レコード(いうまでもないけれどSP、LP、CD、SACDなどを含めたパッケージメディアのこと)を、
残念なことにナマの演奏会の代用品としてとらえている人たちがいる。

演奏家の中にも、そういう人たちがいるかもしれない。
けれど、ショルティは、レコードを代用品とはとらえていなかった、と、私は思っている。
コンサートをドロップアウトこそしなかったものの、
グレン・グールドに近いところにいた指揮者ではないか、とも思っている。

録音に対して積極的な指揮者といえば、まずカラヤンが浮ぶ。
ショルティもそのひとりだ。

でも、このふたりのレコーディング、レコードに対する考え方は、微妙なところで違っていると感じるし、
どちらかといえばグールドに近い感じるのは、ショルティではないだろうか。

私が感じている、レコードに対する「カラヤンらしさ」がもっとも色濃いのは、
やはり1970年代のドイツ・グラモフォンへの録音であって、
そのころのカラヤンの録音と、録音のフィールドだけで活躍していたグールドの録音と、
その取り組み方には、共通するところよりも、まったく違う世界のように感じてもいた。

指揮者とピアニストという違いからくるものすはかりではない、と思っていたけれど、
80年代前半にあれこれ聴き比べていたときは、はっきりと、その違いをつかむことができなかった。

カラヤンとグールドの、録音物に対する考え方の違いは、レーザーディスクの登場によってはっきりしてきた。

Date: 4月 1st, 2011
Cate: 録音

ショルティの「指環」(その14)

「天性の童心」をもつマーラーの裡で鳴っていた「音楽」、それに「音」とはどういうものだったのか、
聴き手は、指揮者の解釈を俟つしかない。

交響曲第6番の大太鼓の強打音に不満をもち、お手製の楽器をもちこんだマーラー。
しかも一度で懲りずに、次の演奏会場にまで運んでいるマーラー。
そのマーラーが、貪欲に求めていた、彼の音楽のために必要な「音」とは、
果して、かれが 生きていたころの現実の楽器で、実現できていたのか。

従来の大太鼓のほうが、ずっとまともな音をだしたにも関わらず、
マーラーはあきらめていない。

そんなマーラーが、交響曲第2番の冒頭で求めていたのは、
もしかするとショルティがレコードにおいてのみ実現できた音だったかもしれない。

つまり、言いかえればマーラーが貪欲に求めていた「音」は、
ナマの演奏会では実現できずに、録音という手段を介することで実現できた、ということになる。

Date: 9月 8th, 2010
Cate: 録音

ショルティの「指環」(その13)

1982年夏にステレオサウンド別冊として出た「サウンドコニサー」の試聴レコードでは3枚。
アバド/シカゴ交響楽団によるマーラーの交響曲第一番、クライバー/ウィーン・フィルのブラームスの第四番、
それにカラヤン/ベルリン・フィル、リッチャレルリ、カレーラスらによるプッチーニのトスカ。
3枚ともドイツ・グラモフォンのレコードだった。

このときの試聴で印象に残っているのは、
当時から好きだったクライバーのブラームスではなく、アバドのマーラーだった。
試聴に使ったは第一楽章の序奏の部分。
こんなに張りつめた空気で、聴き手の集中力をどこまでも要求してくるかのように思えた響きの透徹さに、
何度も何度も聴くうちにすっかりくたびれてしまったということもあったが、
試聴後の話の中で、黒田先生の発言が印象深かったこと関係している。

どの機種のところで話されたのか、確認しようと思い、
いま「サウンドコニサー」をぱらぱらめくってみたけど、見つけられなかった。
まとめでは省略されてしまっただろうか。

黒田先生は、現代にマーラーが生きていたら、
第一楽章の序奏にはシンセサイザーを使ったかもしれない、ということだった。
アバド/シカゴ交響楽団の演奏は、たしかにそう感じさせるところが、その響きのなかにある。

アルマ・マーラーの回想記「グスタフ・マーラー──回想と手紙──」(酒田健一氏訳、白水社刊)にこうある。
     *
──『第六交響曲』の練習の時だった、マーラーは終楽章の大太鼓の強打音が弱すぎるといって、巨大な箱を取り寄せ、それに皮を張らせた。これを棍棒で叩こうというのだ。練習に入る前、この即製の楽器はステージに運ばれた。しんと静まりかえった緊張、やがて太鼓叩きが棍棒をふりかぶって打ちおろした。鈍くかぼそい音が出た。これが答えだった。そこでもう一度ありったけの力をこめたが、結果は同じ。マーラーはしびれを切らし、前へ走り出すと男の手から棍棒をひったくり、たかだかと振りかぶり、風を切って打ちおろした。あいかわらず情けない音。みな一斉に笑い出した。そこで従来のまともな大太鼓を持ち出すことになった。するとどうだろう、雷鳴一時にとどろきわたった!……
     *
しかもマーラーはこれで懲りることなく、バカにならない費用をかけて、
この「箱」を次の演奏会場にまで運び込んでいる……。

五味先生は、「マーラーの〝闇〟、フォーレ的夜」(「天の聲」所収)のなかに、
このエピソードを引用した上で、書かれている。
     *
「われわれ音楽家は詩人にくらべて分が悪い。読むことなら誰にだってできる、だが印刷された総譜は謎の書物だ、謎ときの出来るのは指揮者だけなのに……」そんな意味のことも洩らしたという大指揮者が、即製の箱に皮を張れば大太鼓より轟くだろうと本気で考えたのである。よりよい音への貪欲さによることだが、貪らんで執拗な行為が、稚気を感じさせるには天性の童心がなくてはかなうまい。
     *
こういう男だから、マーラーの前にシンセサイザーがあったならば採用していただろうとは思える。

だが、勘違いしないでほしいことがひとつある。
だからといって、アバド/シカゴ交響楽団による交響曲第一番の第一楽章の弦が、
シンセサイザー的に鳴っていいわけではない、ということだ。

Date: 9月 7th, 2010
Cate: 録音

ショルティの「指環」(その12)

ショルティ/シカゴ交響楽団による「復活」を聴いたのは、CDになってからだった。
旧録も新録、どちらもアナログディスクでは聴いたことがない。

でもCDで聴いても、低弦の強烈な表現には驚いた。
それはオーディオだからできる表現である。
こう書くと、オーディオに、再生音楽に否定的な人たちは、
そんなのは音楽的にまちがっている、とか、おかしい、とかいうだろ。
オーディオに熱心な人も、そういうかもしれない。

ショルティの旧録が、SX45でカッティングされたオリジナル盤よりも、
SX68によるリカット盤の音(表現)がおとなしくなったように、
新録もアナログディスク(おそらくSX74によるカッティングだろう)よりも、
CDのほうが表現はおとなしいのかもしれない。
それでも、はじめてショルティの「復活」の新録を聴いたときの、低弦の表現はとにかく強烈だった。

じつのこのとき、私も「やりすぎだろう、これは」と思っていた。
それから10年くらい経ったころから、ショルティの、この意図こそ音楽的に正しいことのように思えてきはじめた。

岡先生の文章を、また引用する。
     *
六六年録音がリッカティングでおとなしくなってしまったあのヒロイックで野性的な強圧感を、デジタル・レコーティングで積極的にとりもどそうと考えたショルティの意図は明らかである。
     *
ショルティの「意図」を、「復活」の新録をはじめて聴いたときには理解できなかった。
ただ、あとになって「意図」の理解につながるヒントは、「復活」の新録を聴くまえにすでにあった、ということ。

Date: 9月 7th, 2010
Cate: 録音

ショルティの「指環」(その11・補足)

ノイマンのカッターヘッドは、SX68のあとにSX74が登場している。
どちらも型番の数字は、発表年をあらわしている。SX68は1968年、SX74は1974年。

ならばショルティの「復活」のオリジナル盤制作に使われたSX45はというと、
正確な年代は不明だが1958年ごろだときいている。
つまりSX45の「45」だけは年代ではなく、45°/45°のステレオレコードからきている。

SX68が登場した頃、SX45からの音質改善はめざましいものがあったようで、
SX68サウンド、という言葉もうまれたときいている。
それだけにSX74を、改良ではなく改悪というひともいたらしい。

SX68、SX74にして、これらはカッターヘッドのみであり、
ドライブアンプ、カッティングレースは、それぞれ用意されている。
SX74用ドライブアンプとしてはSAL74がある。
トランジスター式の準コンプリメンタリー方式で、出力は600W+600W(9.5Ω負荷でのブリッジ接続時)。

SX68、SX74ともにドライブコイル(スピーカーのボイスコイルに相当)のDC抵抗は4.7Ω、
インピーダンスは10kHzで7.5Ω。
ただ20kHzでは10Ω近くになり、5kHz以下では4.7Ω付近になる。
そのためドライブアンプの負荷をどの周波数においても一定に保つために、
SLA74から見た場合、全帯域で9.5Ωのインピーダンスになるよう、
ドライブコイルとSLA74とのあいだには抵抗とコンデンサーを並列接続したネットワークがいれてある。

カッティング・レースとしてよく知られているのはノイマン。ほかにスカリーもあるが、
ノイマンのVMS70の登場により、スカリーもノイマンの旧タイプ(VMS60)もほとんど姿を消したときいている。
VMS70の回転スピードは、33 1/3rpm、45rpmのほかに、16 2/3rpm、22 1/2rpm、それに78rpmもある。
78回転があったからこそ、オーディオ・ラボから出た「ザ・ダイアログ」のUHQR盤は、
LPにもかかわらず78回転盤が可能だったのだろう。

Date: 9月 6th, 2010
Cate: 録音

ショルティの「指環」(その11)

これといった理由もなくショルティを毛嫌いしていた20代のとき、
それでもシカゴ交響楽団との2度目の録音となるマーラーの交響曲第二番を聴いたときは、すなおに驚いた。
第一楽章の、あの冒頭での低弦の凄さには、驚くしかなかった。

ショルティの1度目の録音は、1966年、ロンドン交響楽団によるもので、じつはこのLP(それもオリジナル盤)は、
やはり低弦による出だしは、すごかった、ときいている。

これについては岡先生の著書「マイクログルーヴからデジタルへ」の下巻でふれられているので、引用しておく。
     *
このレコードの開始部の凄まじい低弦の表現力というもは、おそらくどんなコンサートでも聴かれない強烈な効果で聴き手を圧倒する(筆者がこの曲をコンサートで聴いたのは、小沢征爾が日フィルを振った一回しかないが、コンサートでは、ベルリンPOやシカゴSOであろうと、ショルティのレコードのようには鳴らないだろうと思っている)。明らかに低弦にブースト・マイクが置かれており、しかもハイレベルでカッティングされている。このレコードが出た当時のデッカのカッティング・ヘッドはノイマンのSX45であったはずだが、明らかに低域の低次ひずみが存在しており、それがかえって低弦の表現に強烈なダイナミックな効果を添えていたと思う。のちにSX68でリカットされたこの部分は、明らかに低次ひずみが減って音はおとなしくなり、コンサートで聴かれるチェロとコントラバスのユニゾンのフォルテらしい音になっていたけれど、凄まじいまでの迫力は失われていた。
     *
’66年録音のオリジナル盤とリカット盤を聴きくらべる機会はなかったけれど、
1980年の2度目の録音を聴くと、ある程度は想像できるともいえる。

岡先生はオリジナル盤の「効果」は、
「カッティング・システムの性能を意図した計算づくのもの」と考えられていた。
そしてショルティ2度目の「復活」を聴いて、「多分間違っていなかった」と思われた、とも続けられている。

いますこし岡先生の文章を引用する。
     *
十四年間の録音系の進歩は、レコードの音質の改善に明らかであるが、ショルティは《復活》の冒頭の低弦を、前回よりもさらに強烈に表現する。低弦に対するマイクは旧録音よりさらに近づけられ、低弦楽器の低次倍音までなまなましくとらえる。
     *
ショルティの2度の「復活」の録音は、パッケージメディアについて考えるにあたり、最適な例のひとつといいたい。

Date: 9月 5th, 2010
Cate: 録音

ショルティの「指環」(その10)

20代のころ、ショルティをどこか毛嫌いしているところがあった。
しかもショルティのレコードは、一枚も買ったことがないにもかかわらず、である。

いま思えば、たいした理由からではない。
その理由を、ひとつひとつここに書いていこうかと思ったが、
ほぼすべて直接音楽とは関係のないことばかりで、それこそ「若さはバカさ」の、
それも悪い方の見本ばかりなものであり、もう苦笑いするしかない。

ただあまりにも「指環」について語られるのもののなかに、
ショルティの「指環」ではなくカルショウの「指環」といったふうにとりあげるものがいくつかあり、
そういうものなんだぁ……、と「指環」を買えなかった学生は、思い込もうとしたのかもしれない。

けっしていまもショルティの熱心な聴き手とはいえないけれど、40前後あたりから、
ショルティが、ふしぎに急速によく感じられてきた。

そして想うのは、グレン・グールドはコンサートをドロップアウトしてレコードの可能性を信じていた、
ショルティはコンサートをドロップアウトこそしていないものの、レコーディングに積極的だったカラヤンよりも、
じつはグールドに近い、録音意識の高い演奏者だった、ということだ。

Date: 12月 5th, 2009
Cate: 録音

ショルティの「指環」(その9)

なにも初期LPに、高価で売買される価値がない、といいたいわけではない。

ただマスターテープの劣化を理由に、再発盤の価値を不当に貶めたり、
初期LPの価値を高めるというよりも、価格を高くするための口実として、
マスターテープの劣化のことをとやかくいうのはおかしいといいたいだけである。

初期LPを高く売りつけることだけを考えている人たちは、
エソテリックがSACDで出すショルティの「指環」についてもおそらく否定的だろう。
録音から50年前後経過している。
彼らの論理でいえば、そうとうにマスターテープの劣化は激しいはずだろうから、
それをどんなにていねいにマスタリングしても無駄だということになるだろう。

エソテリックから10月末に発売されたマゼール指揮のシベリウスのSACDを聴く機会があった。
聴く前は、正直、マゼールのシベリウスなんて興味ない、という気持があったが、
鳴りだしてすぐに、色彩ゆたかな音が融け合った、輝かしいばかりの響きに、
すこし大げさにいえば度肝を抜かれ、これぞオーディオの醍醐味だとも思っていた。

このマゼールのシベリウスも、ショルティの「指環」と同じころの録音だし、プロデューサーはカルショウだ。
これと同程度の仕上りだとすれば、ショルティの「指環」のSACDは、想像するだけでわくわくしてくる。
この期待が裏切られることはないはずだ。

Date: 12月 5th, 2009
Cate: 録音

ショルティの「指環」(その8)

短期間、というよりも保存期間の長さからすると短時間といったほうがいいだろうが、
とにかくアナログ録音のマスターテープの音の劣化は、録音経験のない人には、信じられないほど速い。
そして急激に劣化してから先は、きちんと保管されていれば、かなりゆるやかともいえる。

初期LP、オリジナル盤で商売している人たちは、なぜ、このことについてふれないのだろうか。

それとも、彼らは、初期LPのプレスのために必要なラッカー盤のカッティングは、
録音されて1か月以内に行われていると思っているのだろうか。
レコードの制作過程は、録音が終ればすぐにカッティングに移れるわけではない。
そのことは、LPの発売時期と録音日時をみてみれば、すぐにわかることだ。
以前のレコードでは、録音は前年ということもざらにある。

すくなくともマスターテープの劣化は、ゆるやかな状態の安定期にはいっているといっていいだろう。
ほとんどのレコードのカッティングは、そういう時期に行われているはずだ。
マスターテープの鮮度のいい時期は、過ぎ去っているということでもある。

Date: 12月 5th, 2009
Cate: 録音

ショルティの「指環」(その7)

いつのころからだろうか、初期LP、オリジナル盤といったものが、高値で売買されるようになってきた。

理由は、音がいいから。
再発盤は、マスターテープの劣化により、音がよくない、かんばしくない、ということになっている。

マスターテープの音は、たしかに劣化する。このことを否定する気はない。
けれど、その劣化の具合は、直線ではなくカーブしている。

デジタル録音が主流になりはじめたころ、録音に携わっている人からきいたことがある。
アナログ録音とデジタル録音を同時にやった場合、
録音してすぐの再生時には、アナログ録音のほうが、音がいい。
でも3日後に聴くと、どちらがいいとはいえなくなる。
そして1週間後だと、あきらかにデジタル録音のほうが音がいい、というよりも、
アナログ録音は、ごく短期間に急激に音が劣化する。

それにくらべてデジタル録音の劣化は、かなりゆるやかなため、日が経てば、評価は逆転するということだった。

この3日後と1週間後は、人によって多少違い、1週間後と1ヵ月後だったりすることもあるが、
アナログ録音の劣化は、急激だ、ということは一致している。

Date: 10月 12th, 2009
Cate: 録音

ショルティの「指環」(その6)

ショルティの「ラインの黄金」のCDを聴くまでには、
そういったLPを数多く聴いては、何度か、いままで聴けなかった音の良さに驚いてもいる。

それに以前書いたように、はじめて聴いたCDは、小沢征爾指揮の「ツァラトゥストラ」であり、
そのときも、その凄さに驚いている。

だから、「ラインの黄金」が当時、いかに優秀録音ということで話題になっていたとしても、
その時ですら、20年以上前の録音だから、まぁ、音の良さに驚くこともなかろう、と高を括っていた。

聴きはじめると、カルショウが積極的に打ち出していた「ソニック・ステージ」が伝わってくる。
そのおもしろさに耳は集中する。それに聴きどころも多い。
いよいよワルハラ入場のところで、ハンマーの強烈な一撃が鳴る。

冷静になれば、このハンマーの音より、凄いだけの音は耳にしている。
それでも、このハンマーの音には、驚く。
それは単に音の良さだけでなく、いかにも音楽として、ワーグナーの音楽として効果的であったからだ。