Date: 5月 11th, 2011
Cate: 録音
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50年(その6)

プレトニョフのCDのすこしあとに、ある友人のところで、
内田光子によるベートーヴェンのピアノ・ソナタを聴かせてもらった。

いま、空気が無形のピアノ、というところまでには達していないものの、
それでも眼前に内田光子が弾いている鍵盤が、ほぼ原寸に近いイメージではっきりと浮びあがる。
そしてフォルティッシモでも、その鍵盤のイメージがくずれない。

だから、友人から感想を聴かれたときに「鍵盤がくずれない」と言った。
私が言った意味を友人も理解してくれていたようだった。

後日、その友人のところにある人が、やはり音を聴きに来たという話、その友人からきいた。
訪問者に、友人は内田光子のCDを聴かせて、「鍵盤がくずれないだろう」といったところ、
きょとんとされたそうだ。
「鍵盤がくずれない」ことの意味がまったくわからない、といった感じだったらしい。

ピアニシモでは、鍵盤がわりとイメージできる録音、それに再生音でも、
フォルティッシモにおいては、突如として鍵盤のイメージがくずれてしまうことがある。
でも、そのことに、まったく関心が無いのか、鍵盤が目の前にあることをイメージできないのか、
「鍵盤がくずれない」ことがあらわしている音の良さに関して、ひどく鈍感な人がいると感じている。

音の聴き方には、人それぞれ癖というか、個性に近いもの、というか、
得手不得手ともいえるものがある。
すべての人がまんべんなくすべての音に対して反応しているわけではない。

たとえば音のバランスにひどく敏感な人もいれば、
音場感と呼ばれるものに対して、注意をはらっている人もいる。
その音場感、音場感とよくいっている人のなかにも、左右の広がり、前後の奥行きに関してはひどく気にしても、
不思議なことに音像の高さには、まったく無関心な人もいる。

鍵盤がくずれない、ということが、どういうことなのか、
すぐに理解できる人もいれば、そうでない人もいる、ということだ。

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