ショルティの「指環」(その10)
20代のころ、ショルティをどこか毛嫌いしているところがあった。
しかもショルティのレコードは、一枚も買ったことがないにもかかわらず、である。
いま思えば、たいした理由からではない。
その理由を、ひとつひとつここに書いていこうかと思ったが、
ほぼすべて直接音楽とは関係のないことばかりで、それこそ「若さはバカさ」の、
それも悪い方の見本ばかりなものであり、もう苦笑いするしかない。
ただあまりにも「指環」について語られるのもののなかに、
ショルティの「指環」ではなくカルショウの「指環」といったふうにとりあげるものがいくつかあり、
そういうものなんだぁ……、と「指環」を買えなかった学生は、思い込もうとしたのかもしれない。
けっしていまもショルティの熱心な聴き手とはいえないけれど、40前後あたりから、
ショルティが、ふしぎに急速によく感じられてきた。
そして想うのは、グレン・グールドはコンサートをドロップアウトしてレコードの可能性を信じていた、
ショルティはコンサートをドロップアウトこそしていないものの、レコーディングに積極的だったカラヤンよりも、
じつはグールドに近い、録音意識の高い演奏者だった、ということだ。