Archive for category 音楽性

Date: 10月 23rd, 2010
Cate: 音楽性

AAとGGに通底するもの(その11)

音は空気の振動(疎密波)である。

そんな物理現象のひとつに「肉体」などなくて当然。
その音を発しているスピーカーも、電気の力によって振動しているのであって、
そこになんらかの手の力が加わっているわけではない。
アンプにしても、オーディオ機器すべて、音を鳴らしているときに、人は直接介在していない。

だから「肉体のない音」こそ、純然たる音、と定義づけもできる。

だが、ときとして、物理現象のである空気の振動に、演奏者の息吹を感じることがある。
それはもう、肉体の存在を感じるときでもある。
それは虚構の肉体、事実そうであろうが、少なくともそう感じられたとき、
音は「音楽」になっている、と思う。

音楽を構成しているのは、音。
では、音と音楽をわけるものは、いったいなんなのか。
結局のところ、それが「肉体」だと、いまは思えるようになった。

Date: 8月 30th, 2010
Cate: 音楽性

「音楽性」とは(その9)

若いひとが、うまれる前に作られたスピーカーや、そのころの真空管アンプに関心をもつことのすべてを、
時代へのエキゾティシズムのひと言で片付けてしまえるとは毛頭思っていないが、
それでも、違う時代に対するエキゾティシズムを完全に否定することができるひとは、果しているのだろうか。

ふりかえることで、時代時代には、やはりその時代ならではの「音」が存在している。
それは技術の進歩とも大きく関係しているし、もちろんそれだけでは語れないくらい、
多くの要素によってかたちづくられている「音」であるし、その時代の「音」がいつ、どう変っていくのかは、
その時代の中にいると、なかなか気づきにくい性質のものである。

時代時代の音がある、と書いておきながら、ある時代とつぎの時代の音のあいだには、
それを区切るものがあるわけではない。
いつの時代もふりかえってみることで、時代の音があったということを、
おぼろげながらだろうが感じているはずだ。

レコードの音の変化をみてもそうだ。
1950年代前半の真空管アンプ全盛時代のモノーラル録音、それがステレオ録音になり、
60年代にはいり徐々に録音器材が真空管からトランジスターのものへと置き換わっていく。
そしてマルチマイク、マルチトラック録音があらわれはじめ、器材のトランジスター化も次の段階へと進んでいく。
マルチマイク、マルチトラック録音の技術も進歩していっている。

そしてダイレクトカッティングがあらわれ、デジタル録音もはじまっていく。

それらの時代を代表するレコードが必ず登場しているわけだが、けれどそれらのレコードが、
前の時代との境界線かといえば、そうとはいえない。

Date: 8月 25th, 2010
Cate: 音楽性

「音楽性」とは(その8)

若いひとが、以前に聴いた体験がないにもかかわらず、
真空管アンプ(それも古典的な回路のもの)で鳴らすフルレンジスピーカーの音に、
惹かれるものがある、という話をきく。なつかしい音だ、という。

ほんとうに、それは「なつかしい音」なのだろうか。
たとえば私の幼いころ、実家にあったテレビは真空管式でスピーカーはフルレンジということもわずかだがあった。
それにラジオはもちろん、はじめて自分で小遣いを貯めて買ったラジカセも、スピーカーはフルレンジ型だった。

そういう経験が多少なりともある私の世代、そしてもっと真空管式のテレビやラジオを聴いてきた時間の長い、
私より上の世代、さらにアクースティック蓄音機から聴いてきた、もっと上の世代にとっては、
昔ながらの真空管アンプフルレンジ・スピーカーの組合せの音は、「なつかしい音」である。

けれど、私よりも下の世代で、ラジカセは最初からステレオで、もちろんトランジスター式で、
しかもスピーカーはラジカセだけでなくテレビも2ウェイだった、という経験だけならば、
彼らにとっては「なつかしい音」ではなく、いままで聴いたことのない音のはずだ。
じつのところ、時代の違いによるエキゾティシズムに惹かれているのではなかろうか。

ただ知識として、そういうモノが古いということが頭の中にあるために、
ほぼ条件反射的に「なつかしい音」と判断している──、これを否定できるだろうか。

若いひとのなかに、こういう音に惹かれることがあるのはけっこうなことだと思っている。
ただ、それは古い世代のひとたちが惹かれるのとは、また違う意味がある。そう思う。

Date: 3月 2nd, 2010
Cate: 真空管アンプ, 音楽性

真空管アンプの存在(その60・余談)

モーツァルトのレクィエムを、はじめて聴いたのは、
カール・リヒター/ミュンヘン・バッハ管弦楽団によるディスク。
それからは、ワルター/ウィーン・フィル(ライヴ録音のほう)、カラヤン/ウィーン・フィル、
クイケン、バーンスタイン、ジュリーニ、ブリュッヘン、クリップス、ヨッフム、
それにブリテンなどを、聴いてきた。
ここにあげた以外にも少なからず聴いてきた。

すべてのディスクが、いま手もとに残っているわけではない。
どれが残っていて、どれを手ばなしたか、は書かない。

残ったディスクを見て思うのは、この曲において、どのディスクを手もとに置いておくのか、
それで、その人となりが、わずかとはいえ、くっきりと現われているのではないか。

もちろん、ほかの曲のディスクでも同じことは言えるのだが、
クラシックを主として聴くひとの人となりを、
モーツァルトのレクィエム、それとバッハのマタイ受難曲は、ひときわ明確にする。

そういう怖さがあり、この2曲において、「なぜ?」と思う演奏を好んで聴いているひとを、
信用しろ、というのは土台無理なことだ。

Date: 1月 20th, 2010
Cate: 音楽性

AAとGGに通底するもの(その10)

「肉体のない音」は、「音は人なり」とともに、私のオーディオのはじまり、といっていい。

たびたび書いているように、五味先生の「五味オーディオ教室」が、
最初に手にし、もっともくり返し読んだオーディオの本である。

この本の最初に出てくるのが、いわゆる「肉体のない音」について、である。

Date: 1月 18th, 2010
Cate: 音楽性

AAとGGに通底するもの(その9)

「肉体のない音」といえば、3年前にリリースされたグールドの1955年のゴールドベルグ変奏曲を、
ヤマハの、まったく新しい自動演奏ピアノを使って再録音したSACDのことを、
誰しも頭に浮かべるのではないだろうか。

これこそ「肉体のない音」といえるものであるはずで、このディスクが発売されることを知ったとき、
「肉体のない音」とは、どういうものか、この耳で、少なくとも、そのひとつの例を確かめることができると、
そういう気持が先立っていた。

re-performance、と、この自動演奏ピアノの仕組みをつくりあげた会社は、そう呼んでいる。

発売後、すぐに購入した。いわば、変な期待をもちながら、音が鳴りだすのを待った。
鳴った、「グールドだ!」と、当り前すぎることを、心の中でつぶやいた。

ピアノのメーカーも、録音方式も、いろんなことが大きく違うにも関わらず、
「グールドだ!」と認識してしまったことに、すこし拍子抜けするとともに、
すこしばかり驚いてしまった。

これはほんとうに「肉体のない音」なのか。

Date: 1月 18th, 2010
Cate: 音楽性

AAとGGに通底するもの(その8)

左右のスピーカーのあいだに、空気の密度が急激に高まって、硬い、見えない壁ができ、
それをこれまた、異常に硬いもので叩いた、もしくは貫いた結果の音、と、
ここまで書いて思い当ったのが、ソニックブームである。

飛行機が音速を超えるときに発生する衝撃波に近いであろう、そんな音、
つまりアコースティック楽器では、いかなる楽器をもってこようとも、
こんな音はとうてい出せないだろう、といった低音が伝わってきた。

いままでいくつものスピーカーを聴いていたが、それらのなかで、同じCDをかけて、同じアンプで鳴らしても、
こんな低音を出せるスピーカーは、おそらくないだろう、とそう思うぐらいの音で、
その意味では、この一点のみにおいて、他のいかなるスピーカーよりも優れている、といえるのかもしれない。

けれど、その低音が鳴ったのは、わずか1、2秒のことである。
たしかに凄いとは思った。が、ただそれだけのことである。

衝撃波のような低音がはいっているCDそのものにまったく興味がない。
だから、そのCDがどんなにすごい音で鳴ろうとも、
グールドをはじめとする、私が聴きたい音楽のCDが、奇妙な異和感をまとって鳴るのだから、
その非常に高価なスピーカーを、欲しくなることは絶対にない。

Date: 1月 16th, 2010
Cate: 音楽性

AAとGGに通底するもの(その7)

これが「肉体のない音」なのかもしれない。
グールドのゴールドベルグのCDがケースに収められるのを見ながら、そんなことも思っていた。

試聴会が始まって、機械の説明とともにつぎつぎとCDが鳴らされていく。
そのなかには、グールドほどではないが、聴きなれたものもあった。
それらの鳴り方も、グールドのゴールドベルグに感じた印象と変らない。

ポップスがかかると、おっ、と感じる。いままでのCDとは違う鳴り方で、
はじめて聴くCDということもあり、それまでの異和感はとくに感じられなかった。

それほど長時間の試聴ではなかったのだが、聴いていてわかったのは、
アコースティック楽器主体の録音では、奇妙な異和感がつねにつきまとう。

ポップスも、それも電子楽器やコンピューターによる音の調整を施した録音では、
ある種の爽快感が現われてくる。

内容そのものに興味がなかったため、CDのタイトルは忘れてしまったが、
アメリカのハイエンドメーカーのあいだで、低音の鳴り方をチェックするのによく使われるというCDがかかった。

このCDだけは、まぁ、たしかにすごかった……。

Date: 1月 16th, 2010
Cate: 音楽性

AAとGGに通底するもの(その6)

奇妙なことに、聴けば聴くほど「グールドのゴールドベルグ」という確信がなくなっていく。
グールドの演奏を真似た、まったく知らない人の演奏のように聴こえてくる。

とにかく、まずピアノがヤマハのCFには、どうしても聴こえない。
アップライトピアノにしか聴こえない。

580kgの重量のあるピアノが鳴っている感じが全く、そこで鳴っていた音には感じとれなかった。
重量だけではない、アップライトピアノだから、コンサートグランドピアノとは大きさも違う。
響きがこじんまりとしていて、空間に響きが拡がっていく感じがしない。

そのためもあろうが、弾いているひとも、なんとなく細い人というより、存在感が希薄、
もしくは自動ピアノの演奏じゃなかろうか、そんなところまで妄想がいってしまう音なのだ。

グールドのゴールドベルグのCDは、回数の多さだけでなく、じつにさまざまなシステムで聴いてきた。
ステレオサウンドの試聴室で、いろんなCDプレーヤー、多種多様なスピーカーで聴いてきた。

そこで鳴っていた音は、首を傾げたくなるほど不思議な音だった。

なぜ? と思っていたら、開始時間になり、CDプレーヤーからCDが取り出され、
ケースにおさめられているときに見えたジャケットは、
やはり、というべきなのか、グールドのゴールドベルグ変奏曲のものだった。

Date: 1月 16th, 2010
Cate: 音楽性

AAとGGに通底するもの(その5)

この項の(その3)で、グールドのゴールドベルグ変奏曲なら、たいていの場所で耳にしても、
グールドの演奏だと、耳が判断する、といったことを書いた。

まぁ、よほどひどい環境でも無いかぎり、ふしぎなもので、さほど高価なスピーカーでなくても、
レコード店に置いてある程度のスピーカーから、ラジオのスピーカーであっても、
グールドの演奏だと、バッグラウンドミュージックであっても、ふしぎと耳にはいってくる。

にもかかわらず、昨年、ある試聴会で、どうして?、と考えてしまうことがあった。

開始時間の20分ほど前に会場についた。バッハのゴールドベルグ変奏曲がかかってくることは、すぐにわかった。

よさそうな位置の席を見つけて坐って、そのゴールドベルグに耳をかたむけたら、
「もしかして、グールド?」と思ってしまった。
弾き方は、あきらかにグールドの演奏に似ていると感じても、「あっ、グールドだ!」とは感じられなかった。

Date: 1月 15th, 2010
Cate: 音楽性

AAとGGに通底するもの(その4)

アデールの「フーガの技法」、2枚のCDを聴きおわったところで、拍手が鳴り、最初のときは驚いた。

ジャケットには”Live Recording” と書かれているし、ライヴ録音だと感じさせる箇所もないわけではないが、
聴き耽っていたら、そんなことは頭の中から消えていて、いきなりの拍手の音に、ハッとした。

このライヴでの聴取は、みな息を潜めて、ひとつになって聴いている。
別の場所、別の時間にいる、CDの聴き手も、いつのまにか聴取とひとつになっている、とでもいったらいいのだろうか。

拍手の音は、とうぜんだがひとつではない。あちこちから聴こえてきて、
視覚情報のあたえられていないCDの聴き手は、拍手の数の多さから、
こんなにも多くの聴き手がまわりにいたことを、はじめて知る。

この静謐さは、グールドとアデールのバッハに通底しているもののひとつであろう。
これだけではないだろう。まだなにかがあるのだろう……。それを感じとりたくて、今日もまた聴いていた。

Date: 1月 10th, 2010
Cate: 音楽性

AAとGGに通底するもの(その3)

アデールによる「フーガの技法」の最初の一音、そしてもう一音が鳴ったとき、
「グールドだ!」と感じてしまった。

グールドのディスクは、反復してよく聴いている。
だから、外出先で、レコード店やそれ意外の場所でも、グールドの演奏がかかると、
耳がすぐに反応して「あっ、グールドだ!」とわかる。

さすがにグールドののこしたすべてのディスクに対して、なわけはないが、
それでも新旧のゴールドベルグ変奏曲、平均律クラヴィーア、パルティータなどは、すぐに反応している。

それはしっかりと耳に刻まれているからこそ反応できるのに、
はじめて聴くアリス・アデールの「フーガの技法」に反応したのはなぜだろう?

聴き進むにつれて、グールドがもしピアノで再録音していたら、
まさに、いま聴いている演奏にきわめて近い、というよりも、そっくりになったのかもしれない。
そんな気もしてきた。

アリス・アデールが、グールドの演奏を真似している、そんなことではない。
真似しようとしてもできるものではないだろうし、もしそっくりの真似が可能だとしても、
そういう演奏に、耳が「グールドだ!」と反応することはない。

いっておく、アリス・アデールの「フーガの技法」は素晴らしい。

Date: 1月 9th, 2010
Cate: 音楽性

AAとGGに通底するもの(その2)

グールドは、1962年に、楽器指定のない「フーガの技法」を、オルガンでのこしている。
残念なのは、第1集のみだけということ。

グールドが第2集まで録音していてくれたら……、と思うだけでなく、
もしピアノで演奏していたら……、とも思う。

いくら思ったところで、どうなるものではないとわかってはいるが、やはり、つい思う。
もちろん四六時中思っているわけではないが、なにかのきっかけがで、しばらくその想いにとらわれてしまう。

ここ数年は、実のところ、思うことはなかった。
年末から新年にかけて、バッハを中心に集中して聴いていたこともあって、
今年最初に購入したCDのなかに、「フーガの技法」をピアノで演奏したものを加えた。

アリス・アデール(Alice Ader)による「フーガの技法」だ。

Date: 1月 7th, 2010
Cate: Kathleen Ferrier, 音楽性

AAとGGに通底するもの(その1)

東京で暮らすようになって、大晦日に除夜の鐘が聞こえるところに住んだことはない。

大晦日、階下の人がいなかったので、除夜の鐘の代わりというわけでもないが、
エネスコのヴァイオリンによるバッハを、午前0時をまたぐように聴いていた。

エアコンはとめて、聴いていた。
聴いていくうちに部屋の温度は低くなっていくなかで、しんみりと聴いていた。

翌日の朝、今年初めにかけた曲も、エネスコのバッハの2枚目。
つまりパルティータ第2番、ソナタ第3番、パルティータ第3番を聴いた。

なんとなく「正月はバッハだよなぁ」という気分になり、カラヤンのロ短調ミサをかけた。
EMIから出ているモノーラル盤で、フェリアーが歌うリハーサルも含まれている。

時間はあるから、マタイ受難曲を聴くことにした。ヨッフム指揮のフィリップス盤。
これで1日は、ほぼ終っていた。

2日も、やはりバッハで、グールドのデビュー盤のゴールドベルグ変奏曲から、
アルバムの発売順に聴いていこうと思い、次にベートーヴェンの第30、31、32番、
バッハの協奏曲第1番とベートーヴェンの協奏曲第2番、
バッハのパルティータ第5盤と6番、というふうに聴き続けていた。

グールドが、もうすこし生きていて、ベートーヴェンの後期のピアノソナタと、
バッハの「フーガの技法」を再録音してくれていたら……、と過去何度思ったか数えきれないくらいことを、
またくり返し思っていた。

Date: 1月 2nd, 2010
Cate: 音楽性

「音楽性」とは(その7)

少なからぬ人が、「欠陥」スピーカーに惹かれるのは、エキゾティシズムへの憧れがあるようにも思う。

1970年代、スピーカーは、国による違い、風土による違いによって、はっきりとした特色があった。
アメリカでも、西海岸と東海岸のスピーカーは、はっきりと違う。
音だけでなく、技術志向においてもあきらかな違いがある。

アメリカとヨーロッパのスピーカーの音も違う。
ヨーロッパのなかでも、イギリス、フランス、ドイツでは、それぞれ異る音色をもっていた。

技術の進歩とともに、それに製造工場の集中化によっても、それは残り香となりつつあるようにも思う。

つまり異国のスピーカーのもつエキゾティシズムが希薄になっている時代だからこそ、
ひとは、違うエキゾティシズムを、無意識に求めてるようになっているのではないか。

たとえば時代の違いによるエキゾティシズム。