Archive for category ステレオサウンド

Date: 6月 7th, 2019
Cate: ジャーナリズム, ステレオサウンド

編集者の悪意とは(その3)

小野寺弘滋氏が、ステレオサウンドの編集者であり、編集長であったことは知られている。
小野寺弘滋氏は、私が退社したころに入社してきた人であり、
私は小野寺弘滋氏とは面識がない。

どんな人なのかは、ほとんど知らない、といっていい。
オーディオ関係者(元をふくめて)から、こんな人だよ、という話は聞いている。
その程度であり、それだって鵜呑みにしているわけではない。

私にとって、小野寺弘滋氏の印象のほとんどは、
インターナショナルオーディオショウで、ブースで話をされている時のものである。

過去二回だけ、たまたま入ったブースで、
小野寺弘滋氏がマイクをもって話をされていたことがある。

その時の印象は、ある意味、強烈だった。
マイクを持っていない手を、ズボンのポケットに突っ込んだまま話されていたからだ。

インターナショナルオーディオショウの各ブースで、
いろんな人の話を聞いてきたが、ポケットに手を突っ込んだままという人は、
小野寺弘滋氏が初めてだったし、他にはいない。

もちろんすべてのブース、すべての人の話を聞いているわけでないから、
他にもポケットに手を突っ込んだままという人はいたかもしれない。

それでも私は、そういう人を見ていない。
小野寺弘滋氏一人だけである。

その二年後だったか、また小野寺弘滋氏が話されている時だった。
その時も、ポケットに手を突っ込んだままだった。

一回目はたまたまだったのかもしれないと思ったが、
二回目もそうだということは、そういう人なのだ、と認識した。

ポケットに手を突っ込んだまま話したところで、誰かに迷惑をかけるわけではない。
それでもいいじゃないか、といわれれば、そうかもしれない。
ただ、ポケットに手を突っ込んだまま話をしている姿は、
けっこう強烈な印象を与える。

Date: 6月 7th, 2019
Cate: ジャーナリズム, ステレオサウンド

編集者の悪意とは(その2)

昨晩公開した「ステレオサウンド 211号(編集者の悪意とは)」は、
続きを書くつもりはなかった。

けれどfacebookでのコメントを読んでいて、続きを書くことに変更したし、
タイトルも少し変えた。

「ステレオサウンド 211号(編集者の悪意とは)」から「編集者の悪意とは」にした。
ステレオサウンド 211号を取っただけである。

「ステレオサウンド 211号(ステレオサウンド編集者の悪意とは)」にするつもりは、
最初からなかった。

けれど「ステレオサウンド 211号(編集者の悪意とは)」とすると、
ステレオサウンド編集者の悪意、と受けとられることも考えられる。

なので「編集者の悪意とは」へと変更した。
ステレオサウンド 211号について、これからも書いていくから、
結局、ステレオサウンド編集者の悪意について書くのではないか、と思われそうだが、
そう受けとられても仕方ないようなことも書くことになろうが、
あくまでも「編集者の悪意」がテーマである。

ここでの編集者には、元ステレオサウンドの編集者だった私も含まれる。

Date: 6月 6th, 2019
Cate: ジャーナリズム, ステレオサウンド

編集者の悪意とは(その1)

悪意をまったく持たない人がいるとは、私には思えない。
編集者もまた人間であるから、編集という行為に、
まったく悪意が現れないと言い切れるだろうか。

雑誌に掲載される写真。
たった一枚しか撮らないということはまずない。
特に試聴風景や、試聴者の集合写真など、人物を撮る場合には、何カットか必ず撮る。

おそらく、いまのステレオサウンドもそうはずだ。
複数枚のカットから、誌面に載せるカットを選ぶ。
編集者が選ぶ。いまもそのはずだ。

ステレオサウンド 211号の119ページの写真を見て、
この写真を選んだ編集者の悪意のようなものを、私は感じた。

このカット、1カットしか撮影していない、ということはないはずだ。
なのに、この一枚を選んで載せるのか──。

小野寺弘滋氏の座り方と脚の開きぐあい。
こんな一枚を選ぶ必要性は、どこにあるのか。

柳沢功力、和田博巳、三浦孝仁、三氏の座り方、脚の開きぐあいと見較べなくとも、
この写真はひどい、と多くの人が感じるはずだ。

この写真を選んだ編集者は、何も感じずに、このカットを選んだのか。
そうだとしたら、その編集者は、写真の選択だけでなく、
他のことでも、その程度の選択をしているのかもしれないし、
あえて、このカットを選んだとしたら──、
それは編集者の悪意のようにしか感じられない。

Date: 3月 24th, 2019
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンド 210号(その2)

別項「オーディオのデザイン、オーディオとデザイン(Air Force ZEROのこと・その3)」で、
菅野先生が、オーディオのデザインについての連載を、
「ひどい記事だったね」といわれたことを書いている。

気づいてほしいのは、ひどい記事と思われながらも、
その連載をきちんと読まれていたことである。

私も、その連載は毎回読んでいた。
読んでいたから、菅野先生とふたりして「ひどい記事だったね」となったわけだ。

ひどい記事だと思っても、一度は目を通す。
そのことを思い出したから、今日、ステレオサウンド 210号を手にとっていた。

336〜337ページの、LINNの新製品、
Selekt DSMの記事でページをめくる手が止った。

違和感といったら大袈裟すぎだけど、
あれっ? と思うところがあってだ。

記事にはSelekt DSMの写真がある。
Selekt DSMのディスプレイには、
Shostakovich;
Symphony No.5 in…
96kHz/24bit FLAC
と表示されている。

これ自体におかしいところがあるわけではない。
ショスタコーヴィチの交響曲第五番を、
Selekt DSMを試聴した人は聴いたのだな、と写真を見て思う。

けれど試聴記にはショスタコーヴィチのことはまったくない。
試聴記になくても聴いたんだろうな、と思い、
新製品紹介の最後にある試聴ディスク一覧(399ページ)をみると、
確かに、ショスタコーヴィチ:交響曲第五番とある。

けれどショスタコーヴィチを試聴用に聴いているのは三浦孝仁氏である。
Selekt DSMを試聴しているのは山本浩司氏である。

試聴ディスク一覧は、試聴に使われたディスク(ファイル)のすべてではないことは、
必ず「他」と記されていることからもわかる。

そうであっても、試聴記に一切出てこないディスク(ファイル)を表示させるのか。
Selekt DSMのひとつ前のページでは、dCSのBartók DACを三浦孝仁氏が紹介している。

そこの試聴記にはショスタコーヴィチと出てくる。

Date: 3月 9th, 2019
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンド 210号(その1)

別項「MQAのこと、ステレオサウンドのこと」で、
第一特集は小野寺弘滋/傅 信幸/三浦孝仁/柳沢功力/和田博巳と五十音順なのに、
第二特集は山之内正/土方久明/逆木 一と五十音順ではないことを指摘した。

210号を手にして、既視感もあった。
どこかで見た記憶がある、と。

なので書店に行き、音元出版のNet Audio Vol.33をパラパラめくった。
山之内正、土方久明、逆木 一の三氏は、私のなかでは音元出版の筆者というイメージがあるからだ。
特に山之内正氏は、音元出版の編集者だったことも強く関係している。

Net Audio Vol.33には、ライターズセレクションという記事がある。
山之内 正、土方久明、逆木 一、鈴木 裕、岩井 喬、角田郁雄の六氏が登場されている。
この名前順にである。

そう、最初の三人の登場順とステレオサウンド 210号の第二特集の登場順は一致している。

Date: 1月 24th, 2019
Cate: ステレオサウンド

月刊ステレオサウンドという妄想(というか提案・その4)

黒田先生が、「レコード・トライアングル」のあとがきに書かれている。
     *
 最近はあちこちに書きちらしたものをまとめただけの本ばかりが多くて——と、さる出版社に勤める友人が、あるとき、なにかのはずみにぼそっといった。もうかなり前のことである。その言葉が頭にこびりついていた。
 その頃はまだぼくの書いたものをまとめて出してくれる出版社があろうとは思ってもいなかった。なるほど、そういうこともいえなくはないななどと、その友人の言葉を他人ごとのようにきいた。
 三浦淳史さんが強く推薦してくださったために、この本が東京創元社から出してもらえることになった。むろん、うれしかった。
     *
音楽評論家、オーディオ評論家にしても、
評論家とつく書き手で、書き下しがある人はどのくらいいるのだろうか。

多くの音楽評論家、オーディオ評論家が、
《最近はあちこちに書きちらしたもの》をまとめて一冊の本として出す。

でも、それすらいまや難しいのではないのか。
特にオーディオ評論家と名乗って現在仕事をしている人たちは、どうだろうか。

《あちこちに書きちらしたもの》が、試聴記や新製品紹介、ベストバイのコメントが主で、
あとはブランド訪問ぐらいだとしたら、
いくら文量は足りていても、一冊の本としてまとめられるだろうか。

そんな本を買う奇特な人はどのくらいいるだろうか。

本を出すことが、評論家ほんらいの仕事ではないことぐらいわかっている。
それでもオーディオ雑誌にあれこれ書いてきても、
一冊の本としてまとめられる内容のものを書いてこなかった、と、
書き手自身がふり返って気づくことこそ残酷なことではないだろうか。

一冊の本としてまとめられなくてもそれでいい、という人もいよう。
オーディオ評論家の仕事なんて、そんなものさ、と割り切れる人ならば、それでいい。

その人が亡くなったら、あっという間に忘れ去られていく。
死んだあとの評価なんて、どうでもいい──、といえば、確かにそうだ。

生きているうちにしっかり稼いでいければそれでいい。
評論家は、ほんとうにそういう考えでいいのだろうか。

書いたものが掲載誌でしか残らない。
オーディオ評論(決してそう呼べないけれども便宜的にそう言う)は、
その程度のことと認識しているのか。

Date: 1月 24th, 2019
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンドと幕の内弁当の関係(その1)

『「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(わかりやすさの弊害)』の(その7)、(その8)で、
ステレオサウンドの幕の内弁当化(これは他の項でも書いている)と、
マス目弁当への進化について書いた。

進化としているが、ほんとうの意味での進化とは、もちろんまったく考えていない。
商業誌として売行きを重視しての進化という意味で使っている。

幕の内弁当化の理由が、特集の内容によって売行きが左右されることをなくすためのものであること、
これもすでに何度か書いている通りである。

けれど、理由はほんとうにこれだけだろうか、とずっと思っていた。

さきほどGoogleで、定食について検索していた。
検索結果で、おもしろいページがあった。
楠木建の偏愛「それだけ定食」――スパゲティ「バジリコだけ定食」を愛する理由』である。

これを読んで、そうか、と納得した。
ステレオサウンドの幕の内弁当化への、もうひとつの理由はここにある、
そう確信できたからだ。
     *
「美味しいものを少しずつ」の不思議
 あくまでも個人的な好き嫌いの話として聞いていただきたい。

 ド中年ともなると「いろいろな美味しいものを少しずつ食べるのがイイですな……」とか言う人が多くなる。ま、わかるような気がしないでもないのだが、本当のところはよくわからない。

 温泉宿に泊まってちょっとずついろいろな料理が出てくるのをゆっくりと食べる。上等上質な料理店でフルコースを食べる。こういうのはたまに経験する分には確かによろしいが、あくまでも非日常。そういう経験の総体というか文脈が楽しかったり嬉しかったりするわけで、僕の場合、「美味しいものを少しずつ」は食そのものに対する欲求にはなり得ない。

 美味しいものであればそれだけを大量に食べたい。ほとんど小学生のようではあるが、これが僕の日常生活の食に対する基本姿勢である。

 食通の人ほど「美味しいものを少しずつ」路線に走る。これが僕には不思議である。本当に美味しくてスキな食べ物であれば、それだけでお腹一杯になるまで、スキなだけ、心ゆくまで、気が済むまで食べたい、と思うのがむしろ普通というか人情なのではないか。

 例外は吉田健一。この人の本を読んでいると、美味しいパンとバターがあれば、他のものには目もくれず、それだけをお腹一杯になるまで食べる、というようなことが書いてあって嬉しくなる。これだけでイイ人であるような気がする。
     *
冒頭を引用した。
楠木建氏のプロフィールには、1964年生れとある。
私より一つ若い方だ。

私も食べることに関しては、まったく楠木建氏と同じである。
《本当に美味しくてスキな食べ物であれば、それだけでお腹一杯になるまで、スキなだけ、心ゆくまで、気が済むまで食べたい》

私もそうである。
そんな私には「いろいろな美味しいものを少しずつ食べるのがイイですな……」と言う人の気持の、
本当のところは理解できてない。
ここも楠木建氏といっしょだ。

中年以降になると、食に関して、そうなる人の方が多いのか。
だとすると、ステレオサウンドの幕の内弁当、マス目弁当への道は、
そういう読者層を相手にしているのであれば、正しい選択ということになるのか。

Date: 1月 16th, 2019
Cate: ステレオサウンド

月刊ステレオサウンドという妄想(というか提案・その3)

私が考えている月刊ステレオサウンドは、文字だけのステレオサウンドだ。
図や写真などが一切なく、文章だけのステレオサウンドである。

なので判型もステレオサウンドのB5ではなく、その半分でいい。
片手でも持てて、じっくりと読む。

こんなことを考えたのは、連載がキーワードだった。
マンガ雑誌では、それぞれのマンガ家が連載を目指している。
連載を勝ち取ったとしても、人気がなければ打ち切りになる。
それまでの実績は関係なしに打ち切られる。

打ち切りになったら、次の連載を勝ち取られなければならない。
どんな雑誌でもページ数という物理的制約がある以上、
何かが打ち切りになれば、別のマンガ家の作品が連載となりページは埋まっていく。

マンガ雑誌とオーディオ雑誌が違うのはわかっている。
そのうえで、オーディオ評論家も、オーディオ雑誌に連載をもつべきではないか、と思う。

そうするには季刊誌ステレオサウンドではページが足りなさすぎる。
それに三ヵ月に一度の連載なんて、ぬるい。
週刊誌とはいわないが、月刊誌での連載である。

ならば月刊ステレオサウンドだ。

端折っているところもあるが、こんなふうに考えての、月刊ステレオサウンドである。

オーディオ評論家に担当編集者が必ず一人つく。
連載のテーマを決め、タイトルを決める。

編集者は一人で、二人か三人のオーディオ評論家を担当することになるだろうが、
取材や試聴は、連載のために原則としてしない。

それからなんらかの評価システムを設ける。
だらだらと連載を続けさせないためにである。

月刊ステレオサウンドの編集長は、
季刊誌ステレオサウンドの編集長とは別にする。別の人がやったほうがいい。

編集者・編集部を分けることは必要ないはずだ。
文章だけの月刊誌だから、最初にフォーマットをきちんと作り上げておけば、
原稿があがってきてからの作業は、さほど手間ではないはず。

Date: 1月 14th, 2019
Cate: ステレオサウンド

月刊ステレオサウンドという妄想(というか提案・その2)

月刊のオーディオ雑誌といえば、
音楽之友社のステレオがある。
技術系のオーディオ雑誌としては、誠文堂新光社の無線と実験がある。
書店売りはしなくなったが、ラジオ技術もある。

月刊ステレオサウンドと書いてしまうと、
ステレオのようなイメージを思い浮べる人もいるかもしれない。
私がイメージしている月刊ステレオサウンドは、
季刊誌ステレオサウンドの弟分的な存在とか、
劣化版としての月刊誌ということでは、まったくない。

株式会社ステレオサウンドは、以前サウンドボーイという月刊誌を出していた。
このサウンドボーイも、私が考えている月刊ステレオサウンドとはまったく違う。

私がマンガを積極的に読むことは、これまでにも書いている。
マンガ雑誌は、メインとして週刊誌である。
少年ジャンプとか、少年マガジン、少年サンデー、少年チャンピオンなどがある。

これらには週刊誌のほかに、月刊誌も存在する。
月刊マガジン、月刊ジャンプなどがそうだ。

だからといって、
これらマンガ雑誌のような意味での月刊ステレオサウンドでもない。

私がいいたいのは、
マンガ雑誌におけるマンガ家と編集者との関係の深さというか強さ的なことを考えてのことだ。

マンガ雑誌では、マンガ家一人に担当編集者が必ずつく。
マンガ家と編集者との関係については、
インターネットにはいくつかの記事がある。
興味のある人は検索して読んでみてほしいし、
以前、別項で紹介した「バクマン。」というマンガも、
そのあたりのことが興味深く描かれている。

私は前々から、マンガ雑誌のような編集者のありかたが、
オーディオ雑誌ではやれないのか、と思っていた。

季刊誌ステレオサウンドのように、特集記事があって、
新製品紹介の記事があって、その他にいくつかの記事があるという状況では、
まず無理といえる。

ならばどうすればそういうことができるのか、といえば、
その答が月刊ステレオサウンドである。

Date: 1月 14th, 2019
Cate: ステレオサウンド

月刊ステレオサウンドという妄想(というか提案・その1)

ステレオサウンドは、3月、6月、9月、12月に出る季刊誌。
ステレオサウンドを初めて手にした中学生だったころは、三ヵ月かかって読み切っていた。

くり返し読むということもあったし、
初めて目にする単語や固有名詞もあったりして、
それに内容も、いまよりも濃かったこともあって、
オーディオの世界に足を突っ込んだばかりの中学生には、
いまのステレオサウンドのように、すぐに読み終えてしまうなんてことはなかった。

読み終えてしばらくしたら、もう次のステレオサウンドが書店に並ぶ。
そんな感じがしていた。
なので季刊誌でよかった、と思っていた。

小遣いのこともあった。
ステレオサウンドが毎月出ていたら、小遣いが不足してしまう。
当時1,600円の雑誌は安くはなかった。

一ヵ月に換算すれば500円ちょっということになるが、
他に買いたいものがいろいろある中学生に、
ステレオサウンドが毎月発売されたら、何かを犠牲にすることになったはず。

私がいたころも、編集会議という場ではなく、
雑談として、季刊誌から隔月刊へ、という話題は何度かあった。

いつの時代も、「これからはスピードの時代」的なことがいわれてきた。
あのころも、いわれていた。
だから、季刊誌ではなく隔月刊に──、
そんなことを雑談ではあっても、けっこう真面目に話していた。

ステレオサウンドが隔月刊になったら、
2月、4月、6月、8月、10月、12月に出る。

私がいたころは写植の時代だった。
いまはDTPき時代である。

一冊のステレオサウンドが仕上がるまでに必要な時間は、
試聴や取材の時間を除けば、短くなっている。
今ならば隔月刊化も無茶なことではなくなっている、と私は思う。

けれど、ここで書こうとしているのは、
隔月刊化ではなく、月刊ステレオサウンドについて、である。

隔月刊をとびこえての月刊、ということではない。
季刊誌ステレオサウンドは、もういまのままでいいと思う。
というよりも、もう変らない(良くならない)のだから、現状維持ができるのならば、
それでいいのではないか。

私が提案したいのは、ステレオサウンドと名のつく雑誌を、もうひとつ増やすことである。
季刊誌ステレオサウンドとともに、月刊ステレオサウンドを出す、ということである。

Date: 7月 30th, 2018
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンドの定価

私が初めて買ったステレオサウンドの定価は1,600円だった。
いまは2,000円で、これに消費税がついて2,160円。

ステレオサウンドが1,600円だったころ、新聞の購読料は同じくらいだった。
いまはステレオサウンドよりも、けっこう高くなっている。

他のオーディオ雑誌も、昔は数百円だったけれど、千円を超えている。
読みたい記事がなければ、もっと安くても高いと思うものだが、
ステレオサウンドの定価は、よくやっているのではないか、
と今回久しぶりに買って思っているところ。

それに一冊買えば、ブログに書きたいことがそこかしこにある。
207号にしても、最初からじっくりひとつひとつについて細かく書いていくことだってできる。
特に特集のあとに続く記事については、そうとうに書きたいことがあるが、
そこまで触れるつもりはない。

私にとって読み応えはないが、書き応えはあるから、
ステレオサウンドの定価は安い、といえる。

Date: 6月 20th, 2018
Cate: ステレオサウンド

3.11とステレオサウンド(その3)

(その1)に書いているように、
ここで書こうとしていることは、2011年6月に思ったことだ。

なのに2014年3月に(その1)、4月に(その2)を書いたままだった。

書こうとしていたことをストレートに書いてしまえば、
ステレオサウンドの編集長の染谷一氏に対して、かなりキツイことを書くことになる。
それは気が引けるし、そのままにしていた。

それでもいつか書かなければ……、と思い続けてきた。
なにも、こんな時に書き始めるのか、といわれそうだが、
別項で書いているステレオサウンド 207号に関する件は、
やはり書かなければならないのか──、そう思わせる。

(その4)以降を書きたいわけではない。
けれど、書くことになるのか。

Date: 9月 11th, 2017
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンドの表紙に感じること(その4)

オーディオマニアとは、思い入れをいくつももっている人だ、と私は思っている。
あるディスクへの思い入れ、
ある演奏家への思い入れ、
ある楽器への思い入れ、
もっともこまかなところへの思い入れもあるからこそ、
オーディオに関心のない人からは理解されないほどオーディオ(音)に情熱を注ぐ。

オーディオ雑誌は、そういう人たちへの本であってほしい、
と私は勝手に思っている。

ステレオサウンドというオーディオ雑誌が、ある時代、
多くのオーディオマニアが熱心に読んでいたのは、そこのところを大事にしていたからではないのか。

だから、読み手は、思い入れのあるステレオサウンドというのが、何冊かある、といえる。

雑誌に思い入れ? という人もいよう。
私もすべての雑誌に思い入れがあるわけではない。
思い入れのある雑誌のほうが、圧倒的に少ない。

だがステレオサウンドは、オーディオ雑誌である。
どっぷりオーディオに浸かってきた人たちが読む雑誌である。

そこに思い入れが感じられなくなってしまえば、
単なる情報誌である。

Date: 9月 8th, 2017
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンドの表紙に感じること(その3)

(その2)に書いたこと、
そんなこと普通の読者はできない、と思う人もいる。
私より若い世代の人には、きっといると思うし、
私よりもずっと若い世代になればなるほど、そう思う人の数は増えるのかもしれない。

ステレオサウンド編集部にいたときから、私は記憶力では編集部一だった。
「あの記事は?」ときかれれば、「○号です」と即座に答えられたし、
この号では、あの筆者は、こういうことを書いていた、とも答えられた。

私が一般的でないのだろうか。
必ずしもそうとは思っていない。

同世代、少し上の世代のオーディオマニアと話していると、
意外に(といっては失礼なのだが)みんな憶えているものだ。
思い出すきっかけをこちらから与えれば「あぁーっ、そうだった」と思い出す人は多い。

そういう人たちは、みな思い入れをもってステレオサウンドを読んでいた時期がある。
その時期が短いか長いか、もっと以前にずれているのか、もう少し後なのか、という違いはあっても、
それぞれにそうであり、思い入れの特に深い号というのが、何冊かは必ずある。

53号といってもすぐに思い出せなくとも、
表紙が、SUMOのThe Goldだった号といえば、たいてい思い出してくれる。

そのくらい表紙と内容とが、深く結びついていた──、
と私は思っている。
そして思い入れをもって読むことができたのだった。

思い入れをもっていた人ほど、
いまのステレオサウンドには否定的である。
それも当然だと思う。

いまのステレオサウンドがつまらない、
もっといえばダメになったのは、ここに強く顕れているし、感じられる。

雑誌という定期刊行物にとって表紙とは何なのか。
こうなってしまったのは、どこに原因があるのかは、
作っている人たちがいちばんよくわかっていることだから、
ここで指摘するようなことはしない。

Date: 9月 7th, 2017
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンドの表紙に感じること(その2)

管球王国という季刊誌も、株式会社ステレオサウンドから出ている。
ステレオサウンドの表紙にも、その傾向はすでに感じられるのだが、
管球王国のほうがより顕著といえる。

表紙には雑誌名が大きく、Stereo Sound、管球王国といちばん上にある。
その下に、特集記事のタイトルや何号なのかについての文字が並んでいる。

たとえばここ十年間の管球王国(40冊)を、
特集内容、何号かの文字を隠して、ランダムな状態にしておく。
その40冊を発行順通りに並べていくことができるか。

表紙の写真だけを見て、特集記事の内容、何号なのか、
その他の記事はどういったものが載っていたのか、
そういったことを思い出せるだろうか。

やったことはないが、私には無理である。
それほど熱心に管球王国を読んでいないことだけが理由ではない。
特集記事の内容と表紙とが結びついていないから、
一冊一冊の印象が、どうしても希薄になってしまう。

ステレオサウンドにも、上にも書いているように、その傾向を感じている。

実際にやってみれば、表紙になっている製品の発売時期を記憶している人ならば、
そこに頼って並べることはできるだろう。

でも私がいいたいのはそこではなく、表紙と内容の結びつきの希薄化である。