Archive for category 作曲家

Date: 3月 10th, 2022
Cate: ベートーヴェン

ベートーヴェンの「第九」(20世紀の場合と21世紀の場合)

20世紀の場合、
ベルリンの壁の崩壊の約一ヵ月後の1989年12月25日に、
バーンスタインがベートーヴェンの「第九」を指揮した。

21世紀の場合を考えてしまう。
オクサーナ・リーニフ指揮の「第九」がそうなってほしい。

オクサーナ・リーニフは、2021年、バイロイト音楽祭で「さまよえるオランダ人」を指揮している。
バイロイト音楽祭初の女性指揮者である。

オクサーナ・リーニフはウクライナの女性。
リーニフ指揮の「第九」がウクライナで響き渡る日。

私は、そんな21世紀の「第九」を聴きたい。
そういう日がくることを祈っている。

Date: 10月 28th, 2021
Cate: ワーグナー

ワグナーとオーディオ(その7)

フルトヴェングラー生誕135年ということで、
2021年リマスターが発売になっている。

192kHz、24ビットでのリマスターで、
CDは44.1kHz、16ビットでしか聴けないわけだが、
e-onkyoでは192kHz、24ビットで、flacとMQA Studioで配信を開始している。

TIDALでも、MQA Studio(192kHz)で聴ける。
それでも「トリスタンとイゾルデ」はe-onkyoで購入した。

TIDALでも聴けるわけだが、e-onkyoを応援したいから、である。

そのフルトヴェングラーの「トリスタンとイゾルデ」を聴いていると、
これだけはステレオで聴きたい、と思う気持がわきおこってくる。

フルトヴェングラーのステレオ録音は、いまのところない。
私は、あるのではないか、と思っているけれど、表には出てこない。

もし願いがかなって、神様が、どれか一つだけステレオにしてくれる、というのであれば、
「トリスタンとイゾルデ」をいまは選ぶ。

若いころだったら、「トリスタンとイゾルデ」は選ばなかっただろうが、
いまは違う。

Date: 10月 12th, 2021
Cate: マーラー

マーラーの第九(Heart of Darkness・その14)

20代のころが、いろんな指揮者でマーラーをいちばん聴いていた。
バーンスタインのドイツ・グラモフォンで新録音を聴いてからは、
手あたり次第聴くということはしなくなっていた。

いまは、というと、TIDALがあるので、けっこう手あたり次第、
いろんな指揮者のマーラーを聴いている。

そうやって聴いていて、
《マーラーの〝闇〟は、闇を怖れていたのは誰よりもマーラー自身なのである。怕さを知らぬ者にマーラーの音楽などわかるものか》、
五味先生の、この文章を思い出していた。

「マーラーの〝闇〟とフォーレ的夜」に出てくる。

《怕さを知らぬ者》になってしまう、ということを怖れなければならない。

Date: 9月 24th, 2021
Cate: ベートーヴェン

シフのベートーヴェン(その10)

アニー・フィッシャーを聴いたのはハタチの時だった。
来日したアニー・フィッシャーのコンサートに行ったのが最初だった。

それまでアニー・フィッシャーというピアニストを知らなかった。
コンサートに行けば、入口のところで、コンサートのチラシの束を配っている。

その一枚がアニー・フィッシャーのコンサートのもので、
それで、こういうピアニストがいるのか、と知った。

それでも大きな期待を持っていたわけではなく、
とにかくハタチのころ、ベートーヴェンの後期のピアノ・ソナタを、
コンサートで聴きたかった。

それでたまたまアニー・フィッシャーのコンサートが、
料金も高くなくて、私にとってぴったりだった、というのが、
聴きに行った理由ともいえる。

チラシには、どのコンサートのものでもそうなのだが、
悪いことは一切書いてない。
いいことしか書いてない。

それを鵜呑みにして勝手に期待をふくらませて行けば、
がっかりすることもあろう。

アニー・フィッシャーのチラシになんて書いてあったのか、
まったくいっていいほど憶えていない。

音楽の感動は、意外と不意打ちでやってくるものだ。
アニー・フィッシャーの演奏がそうだった。

ハタチの私に、ベートーヴェンの後期のピアノ・ソナタの真髄がわかっていたわけではない。
それでもアニー・フィッシャーのベートーヴェンは凄い、と感じていた。

そんな私の凄いはあてにならない、といわれれば、反論はしない。
アニー・フィッシャーのコンサートの前に、ベートーヴェンの後期のピアノ・ソナタを、
じっくりと何度も聴いていたかというと、それほどではなかった。

それでもアニー・フィッシャーのベートーヴェンは、何か違う、とも感じていた。
初めてのコンサートでのベートーヴェンのピアノ・ソナタだから、そう感じたのかもしれない。

そう自問自答することが、何度かあった。
でもここ最近、TIDALでアニー・フィッシャーをよく聴いている。

ベートーヴェンだけでなく、
ほとんど聴かないシューマンのピアノ協奏曲なども聴いている。

アニー・フィッシャーを初めて聴いたときからほぼ四十年。
ハタチの私の耳は、けっこう確かだった、と自信をもって、いまはいえる。

Date: 6月 1st, 2021
Cate: ワーグナー

ワグナーとオーディオ(その6)

前回の(その5)以降、
ヘッドフォンで音楽を聴く時間が、そうとうに増えている。

ここにきて、ワグナーの楽劇を聴くためのヘッドフォンを欲しくなってきた。
ワグナーの楽劇は長い。

長い時間かけていても負担とならないかけ心地のヘッドフォン、
そしてワグナーの楽劇にふさわしい音色と音質、
それから私の場合は、MQAでの再生。

ワグナーも、TIDALのおかげでけっこうな数の演奏をMQAで聴ける。

これらの条件が満たされれば、ワグナーをずっと聴き続けられそうな気がしないでもない。
周りに気兼ねすることなく、ワグナーの時間に浸りたいのだ。

Date: 3月 30th, 2021
Cate: バッハ, マタイ受難曲

ヨッフムのマタイ受難曲(その5)

オイゲン・ヨッフムのマタイ受難曲をMQAで聴きたい、とずっと思っている。
MQA-CDでもいいし、e-onkyoでの配信でもいい。

ヨッフムのマタイ受難曲をMQAで聴けたら、どれだけしあわせだろうか。
リヒター、アーノンクールのマタイ受難曲は、MQAで聴ける。

ヨッフムがMQAで聴ける日は来るのだろうか。
TIDALを始めて、すぐに検索したのがヨッフムのマタイ受難曲だった。

ヨッフムのブルックナーはMQAで聴ける。
けれど、数ヵ月前、ヨッフムのマタイ受難曲は、MQAどころかTIDALでも配信されていなかった。

二週間ほど前に検索したときもなかった、と記憶している。
今日、しつこく検索してみたら、ヨッフムのマタイ受難曲があった。
MQAではないが、とにかくTIDALで聴けるようになった。

一歩前進したような気がした。

Date: 3月 19th, 2021
Cate: モーツァルト

続・モーツァルトの言葉(その5)

ジェイムズ・レヴァインとメトロポリタン歌劇場管弦楽団とのワーグナー、
かなり期待して買って聴いたものだった。
もう三十年以上の前のことだ。

ひどくがっかりしたことだけを憶えている。
こちらの聴き方が悪いのか、と思い、聴き直しても印象は変らなかった。

特にケチをつけるような出来ではなかった。
だからといって、いいワーグナーを聴いた、という感触もなかった。

高く評価する人もいるのは知っている。
私の片寄った聴き方では、レヴァインとMETによるワーグナーはつまらなかった。

レヴァインの「ワルキューレ」にがっかりした私は、
そこでレヴァインを聴くのをやめてしまった。

熱心な人は、「ラインの黄金」、「ジークフリート」、「神々の黄昏」も聴いたのだろうが、
私はそこまでの情熱はもう持てなかった。

やめてしまったのに、ある理由がある。
ちょうどそのころ黒田先生が「最近のレヴァインはやっつけ仕事だ」といわれていた。
それは軽い感じで話されたのではなく、
怒りがこもった「最近のレヴァインはやっつけ仕事だ」だった。

「ワルキューレ」以前のレヴァインも、それほど熱心に聴いていたわけではなかったから、
黒田先生のいわれる《最近のレヴァイン》は聴いていなかった。

なので、黒田先生がそこまで強い口調でいわれるのをきいて、
少しとまどいもあった。

でも「ワルキューレ」は、そうだった、と思った。
やっつけ仕事である。

だからといって雑な演奏なわけではない。
才能のある人のやっつけ仕事であるわけだから、始末が悪い。

やっつけ仕事になってしまった理由は、モーツァルトのいうとおりだろう。
     *
天才を作るのは高度な知性でも想像力でもない。知性と想像力を合わせても天才はできない。
愛、愛、愛……それこそが天才の魂である。
     *
レヴァインから愛が消えてしまったと捉えているのは私ぐらいかもしれないにしてもだ。

Date: 1月 5th, 2021
Cate: モーツァルト

続・モーツァルトの言葉(その4)

2008年9月3日に、このブログを始めた。
一本目のタイトルは「言いたいこと」だ。

いまもだが、当時のほうがいまよりもひどかったように感じているが、
五味先生、瀬川先生について、上っ面だけで、否定的なことを書く(言う)人がいる。

昔から、そんな人たちはいたのだろう。
それでも十数年前は、ひどくなっていたと感じた。

それに対する怒りがあった。
ブログを始めた理由の一つは、この怒りからである。

いまもおそらく、そんな人たちはいるだろう。
結局、そんなひとたちに欠けているのは、愛なのだろう。
愛のはずだ。

音楽への愛、音への愛、オーディオへの愛、
そういった愛が欠けていることに、本人は気づいていないのかもしれない。

以前、モーツァルトのことばを引用した。
     *
天才を作るのは高度な知性でも想像力でもない。知性と想像力を合わせても天才はできない。
愛、愛、愛……それこそが天才の魂である。
     *
いまどき、愛が大事、といおうものなら、
時代掛っている、とか、安っぽい、とかそんなふうに受けとられるかもしれない。

そんなことをいいたいヤツはいっていればいい。
そんなヤツはほっとけばいい。

モーツァルトの音楽を聴く聴き手に求められるのも、愛のはず。
モーツァルトの音楽についての知識ではなく、愛、愛、愛であろう。他に何がいるのか。

モーツァルトの音楽だけに限らない。
思うのは、音楽を愛するということは、そこに美を見出すこと、そして生み出すこと、ということだ。

Date: 12月 24th, 2020
Cate: ベートーヴェン

ベートーヴェンをきく、ということ(その2)

(その1)には数人の方からのコメントが、facebookにあった。
読みながら思い出したことがいくつかある。

一つが、五味先生の文章である。
     *
 右の二例とも、死の恐怖に発している。恐怖が生み出した賢明さというべきかも知れぬが、私のように交通事故で人を死に至らしめ、死の恐怖を与える怖ろしさを味わった人間には、こんどの航空事故はよそごととは思えない。わけて機長のそのときの心底をおもう。乗客は恐怖を知らずに死んでいたかも知れないが機長だけは断じて知っていたはずだ。そうなら、一番残酷な死に方だろう。操縦ミスをあげつらう前に、彼はもうその恐怖で贖われていたのではないのか、そう思えてならなかった。
 私の場合は、こちらは死ななかったから贖いようはない。私が死ぬまで、これは変るまい。と今はこんなふうに書いていられるが、当座は、いても立ってもおれず辛うじてレコードを聴くことで騒ぎ立つものを鎮めていた。私に音楽を聴く習慣がなかったら、事故の直後から現在にかけて、けっして、いまあるような状態にはなれていなかったろう。これだけは確実な、体験者の述懐と申してもそう不遜な言いざまになるまいと思う。
 では何を聴いたか。音楽さえ聴いておれば胸の騒ぎは鎮まるわけのものではない。聴く習慣には、同時に選択のそれが含まれていたはずで、習慣が六百枚にあまるレコード・コレクションの中から限られた数枚を、私に抜き取らせたと思う。モーツァルトの『レクィエム』を聴いたのも、名曲、好きな曲であるからに相違はないが、それだけでああは聴けなかったろう。ほんとうに、何度、何十度私は聴いたろう。はじめは涙を流して聴いたが、ということは、茫然と、ただ事故の瞬間の光景や、私の車に飛ばされていった少年研治君の毬のようなあの軽さや、凝視、絶望感、悔い、血、そんなものが脳裏に甦って、かんじんの音楽は、何も聴いていなかったといっていい。レコードが終ると針をとめに立って行ったが、これこそ単なる習慣にすぎなかったろう。
(中略)
『レクィエム』は、むろん、こんなことばかりを私に語りかけてきはしない。私は自分のためでしかレコードは聴かない。私の轢いてしまった二人の霊をどうすれば弔うことができるのか。それを、私はモーツァルトに聴く。明らかに救われたいのは私自身だ。人間のこのエゴイズムをどうしたら私から払拭できるか、私はそれをモーツァルトに聴いてみる。何も答えてはくれない。カタルシスといった、いい音楽が果してくれる役割以上のことは『レクィエム』だってしてはくれない。しかし、カタルシスの時間を持てるという、このことは重大だ。間違いもなく私は音楽の恩恵に浴し、亡き人の四十九日をむかえ、百ヵ日をむかえ、裁判をうけた。
 こんどの連続した航空事故は、私の痛みを甦らせた。私は自分のためではなく、はじめて死者のためのレクィエムというものを聴いた。私の轢いてしまった二人と同様、あのジェット機の乗客たちは、まったく、何ひとつミスのない状態で死に追いやられてしまった。なんとも腹立たしい仕儀だと、生きていれば口走ることもできよう。今となってはかえらない。一切がかえらない。私は、知っているから、乗客の死をとむらう『レクィエム』をかけずにいられなかった。毎晩それで、きまった時間になると書斎に入ってモーツァルトの『レクィエム』を鳴らした。カール・リヒターの指揮したテレフンケン盤である。もう一枚、カラヤンのドイツ・グラモフォンがあるが、この演奏はひどい。『レクィエム』を純粋に音楽として鑑賞する人にはどうか知らぬが、私の耳には、腹立たしいくらい穢ない『レクィエム』だった。カラヤンという指揮者の近ごろのつまらなさは、『レクィエム』一枚に限らぬが、もう少し別な心境で私は今度の『レクィエム』をかけたつもりでいる。
 もちろん、こうは誹っても、カラヤンの振る棒にうっとりする聴衆が世界にゴマンといるのだから、この事実をそしることはできない。カラヤンがわるいのではなく私の聴き方のせいだろう。が、ほかに、私にどんな『レクィエム』の聴きようがあるだろう。
     *
「死と音楽」からの引用だ。
五味先生は、誰かに許してもらいたかったわけではないはずだ。

いかなる名曲であろうと、空前絶後の名演奏であろうと、
その行いを許してくれるわけではない。

五味先生が《轢いてしまった二人の霊》を弔うためのモーツァルトであり、
モーツァルトの『レクィエム』とともに、マーラーの交響曲、
そしてビバルディを聴いた──、と続けられている。

Date: 12月 3rd, 2020
Cate: ベートーヴェン

ベートーヴェンの「第九」(Beethoven 250)

昨晩のaudio wednesdayで最後にかける曲は、「第九」と決めていた。
決めていたのは、それだけで誰の演奏にするのかは、直前で決めた。

カルロ・マリア・ジュリーニ、ベルリンフィルハーモニーによる「第九」をかけた。

あれは、ちょうど三十年前だったのか、と気づいたからだ。
あれがなんのことなのかは、
その6)と(その13)で書いているから、ここでは繰り返さない。

Date: 11月 8th, 2020
Cate: ベートーヴェン

ベートーヴェンをきく、ということ(その1)

五味先生の「日本のベートーヴェン」の冒頭を書き写しておく。
     *
 音楽とは、あくまで耳に聴くもので、頭の中で考えるものではない——ことにベートーヴェンにおいてそうだとフルトヴェングラーは言っている。ぼくたちの青年時代、いわゆる〝名曲喫茶〟には、いつも腕を組み、あるいは頭髪を掻きむしり、晦渋な表情でまるで思想上の大問題に直面でもしたように、瞑目して、ひたすらレコードに聴き耽る学生がいた。きまってそんなとき鳴っているのはベートーヴェンだった。今のようにリクエストなどという気の利いたことは思いも寄らなかったから、彼はいつまでも、一杯のコーヒーで自分の好きな曲のはじまるのを待つのだ。念願かなって例えばニ長調のヴァイオリン協奏曲が鳴り出せば、もう、冒頭のあのpのティンパニーをきいただけで、作品六一の全曲は彼の内面に溢れる。ベートーヴェンのすべてがきこえる。彼はもう自分の記憶の旋律をたどれば足りたし、とりあけ愛好する楽節に来れば顔をクシャクシャにして感激すればよかった。そんな青年が、戦前の日本のレコード喫茶には、どこにでも見られた。たしかに彼は耳ではなくて頭脳でベートーヴェンをきいている。大方は苦学生だったと思う。
 ——当時、自宅に蓄音機を所有し、竹針をけずって好きなとき好きな曲を鑑賞できたのは限られた学生だったろう。大部分のレコード愛好家が、いちどはこうした〝名曲喫茶〟に自分の姿を見出した。ここには紛れもなく戦前の、日本の学生生活——その青春の一つの典型があったとおもう。彼はコーヒーのためではなく、明らかにベートーヴェンのために乏しい財布から金を工面したのだ。あっけらかんと音楽をたのしめていたわけではない。郷里の親もとの経済状態を懐い、下宿代の滞ったのをなんとか延ばす口実を考えねばならなかったし、質屋の利息のこともある、買いたい本もある。今様に言えばアルバイトのあてはなく、しかも、小遣いもほしかった。そんな時に、突如としてベートーヴェンは鳴る。しらべは彼の苦悩にしみとおる。どうして、それはラモーやハイドンやドビュッシーではなくて、必ずといっていいほどベートーヴェンだったのか?
 私は、こうした音楽を愛した学生——苦学青年の心を、ベートーヴェンがゆさぶったのは、当時日本の中産階級の、一般的な生活水準に一つの理由があったとおもう。若者の時代に、ベートーヴェンの第五交響曲『運命』を通るか、モーツァルトのト短調シンフォニーを知るかはその人の育った環境に拠るところ大と、今でも思っている。貧乏人ほど、より『運命』に共感しやすい素地があるのではないかと。もしそうなら、子弟の教育を何よりも重視した当時の日本人の父母が(多くは地方の小地主か俸給生活者・中小商工業者だった)わが子のためにみずからは倹約して月々の仕送りをしてくれた、そういう環境下でぼくたちはほとんどが学生生活をもった。とてもヨーロッパの貴族や、富豪の息子たちのように、姉妹の弾くピアノをかたわらにし、自家用車を駆って湖畔の別荘や城に休暇をすごす青春などは、望むべくもなかったし、そんな友人もいなかった。満足にレコードすら買えなかった。他の何にもまして、だからベートーヴェンに惹かれる素地はあったといえる。貧しいのだから、耳だけで楽しんではいられなかったのである。——これが日本人のもっとも普通なベートーヴェンの聴き方だろうと私は思っていた。
     *
東京に出て来てから、名曲喫茶には行ったことがある。
私の田舎には、名曲喫茶はなかった。

1921年生れの五味先生の学生時代と、
1963年生れの私の学生時代とでは、かなり違ってきているのだから、
《いつも腕を組み、あるいは頭髪を掻きむしり、晦渋な表情でまるで思想上の大問題に直面でもしたように、瞑目して、ひたすらレコードに聴き耽る学生》に、
名曲喫茶で出会ったことはない。

それでも昭和の終りごろではあったが、東京の古くからの名曲喫茶には、
瞑目している人はいた。

ベートーヴェンの音楽をきいて、感動する。
苦学生であろうが、富豪の息子たちであろうが、
ベートーヴェンの音楽は素晴らしい、人類の宝だ、などど、
同じことをいうであろう。

けれど──、とおもうことがある。

Date: 10月 17th, 2020
Cate: ベートーヴェン, 五味康祐

ベートーヴェン(「いま」聴くことについて・その2)

ベートーヴェンを聴いた、とか、ベートーヴェンを聴きたい、ベートーヴェンを聴く、
こういったことを言ったりする。

ここでの「ベートーヴェン」とは、ベートーヴェンの、どの音楽を指しているのだろうか。
交響曲なのか、ピアノ・ソナタなのか、弦楽四重奏、ヴァイオリン・ソナタ、
それともピアノ協奏曲なのか。

交響曲だとしよう。
ここでの交響曲とは、九曲のうち、どれなのか。
一番なのか、九番なのか、それとも五番なのか。

九番だとしよう。
ここでの九番とは、どの指揮者による九番なのか。
カラヤンなのか、ジュリーニなのか、ライナー、フルトヴェングラー……。

フルトヴェングラーだとしよう。
フルトヴェングラーによる九番は、どの九番を指しているのか。
よく知られているバイロイトの九番なのか、それとも第二次大戦中の九番なのか。

こういうことが書けるのは、オーディオを通してレコード(録音物)を聴くからである。
演奏会で、こんなことはいえない。

東京では、かなり頻繁にクラシックのコンサートが開催されている。
今年はコロナ禍で、来日公演のほとんどは中止になっているが、
ふところが許せば、一流のオーケストラの公演であっても、かなり頻繁に聴ける。

それらのコンサートすべてに行ける人であっても、
演奏曲目は、どうにもならない。
ベートーヴェンを聴きたい、と思っているときに、
運良くベートーヴェンが曲目になっていたとしても、
こまかなところまで、望むところで聴けるわけではない。

その不自由さが、コンサートに行って聴くことでもあるのはわかっている。
それでも録音が残っているのであれば、
オーディオで音楽を聴く、ということは、そうとうに自由でもある。

「ベートーヴェンの音楽は、ことにシンフォニーは、なまなかな状態にある人間に喜びや慰藉を与えるものではない」
と五味先生の「日本のベートーヴェン」のなかにある。
その1)の冒頭でも引用している。

コンサートでは、なまなかな状態にあるときでも、
ベートーヴェンの交響曲を聴くことだってある。

Date: 10月 14th, 2020
Cate: バッハ, マタイ受難曲

カザルスのマタイ受難曲

カザルスがマタイ受難曲を振ったことは知っていた。
ずいぶん前に知っていたし、聴けないものかと探してもいた。

もう諦めていた。
演奏したからといって、必ずしも録音が残されているとはかぎらないのだから、
録音が存在しないのだろう……、と。

昨晩遅くiPhoneでヤフオク!を眺めていた。
そこに、またしても「お探しの商品からのおすすめ」のところに、
まさかカザルスのマタイ受難曲が表示されるとは、夢にも思わなかった──、
とは、こういう時に使うのだろう。

CDではなく、CD-Rである。
今年出たようである。
商品説明を読むと、音は期待できそうにない。

それでもかまわない。
とにかく聴けるのだ。

即決価格で、落札した。
まだ届いていないけれど、わくわくしている。

「カザルス マタイ」でGoogleで検索すれば、売っているところが表示される。
私が買った値段よりも多少高いけれど、いまのところ入手できるようだ。

Date: 10月 13th, 2020
Cate: ベートーヴェン

ベートーヴェンの「第九」(2020年・その後)

パーヴォ・ヤルヴィ/ドイツカンマーフィルハーモニーによる、
12月のベートーヴェンの交響曲全曲演奏は中止である。

予想できていたことだから、そうか、という感想しかない。

パーヴォ・ヤルヴィとドイツカンマーフィルハーモニーによるベートーヴェンは、
十年ほど前に知って、聴いた。

黒田先生がサライに連載されていた「聴く」で、紹介されていたのがきっかけだった。
それで聴きたくなったのだから。

《細部まで精緻でいて、しかもアグレッシヴ(攻撃的とさえいえる積極性)といいたくなるほど、音楽を前進させようとする力に富んでいる》
とあったの憶えている。

そういう「第九」こそ、こういう状況下だから、鳴り響いてほしかった、とおもうだけだ。

Date: 9月 22nd, 2020
Cate: ベートーヴェン, 正しいもの

正しいもの(その22)

ステレオサウンド 94号(1990年春)の特集、
CDプレーヤーの試聴で、井上先生はEMTの921の試聴記の最後に、こう書かれている。
《ブルックナーが見通しよく整然と聴こえたら、それが優れたオーディオ機器なのだろうか》と。

私が10代のころ読んでいたステレオサウンドでは、
井上先生がどんな音楽を特に好まれて聴かれているのかがわからなかった。

ステレオサウンドの試聴室で、井上先生の隣で聴くことができてから、
いろんな音楽を聴かれていることがわかった。

実際に会えばすぐにわかることなのだが、井上先生は照れ屋である。
だからだろう、好きな音楽のことをことさらに語られることはされない。

それでも試聴中、ときどきぽろっといわれることがある。
そうとうに音楽を聴いているからこそのひとことである。

《ブルックナーが見通しよく整然と聴こえたら、それが優れたオーディオ機器なのだろうか》、
これに関しても、ほほ同じことを試聴のあいまにきいている。

94号の試聴では、カラヤン/ウィーンフィルハーモニーのブルックナーの八番が、
アバドのロッシーニの「アルジェのイタリア女」、
ボザール・トリオのモーツァルトのピアノ三重奏曲第一番、
バーバラ・ディナーリーンの「ストレート・アヘッド!」といっしょに、
試聴ディスクとして使われている。

これまでも書いているように、私はブルックナーはあまり聴かない。
最近の指揮者のブルックナーは、まったく聴いていない。

もしかすると、最近のブルックナーは《見通しよく整然と聴こえ》るのかもしれない。
そうだとして、そういうブルックナーしか知らない聴き手は、
《ブルックナーが見通しよく整然と聴こえたら、それが優れたオーディオ機器なのだろうか》
という疑問はまったくもたないであろう。

でも、ここではカラヤン/ウィーンフィルハーモニー、
それもカラヤン晩年のブルックナーであり、
1931年生れの井上先生が聴いてのブルックナーである。