Archive for category 再生音

Date: 1月 1st, 2014
Cate: 再生音

聴きたいのは……

つねに私が聴きたいのはピアノの音ではなく、ピアニストだからだ。
     *
これは五味先生の言葉だ。
短い、この一行は、私にとって、
オーディオ歴の最初に読んだこと──音に肉体の復活を錯覚できる──に直結する大事な一行である。

「五味オーディオ教室」の最初の章には、
再生音の肉体の介在する余地はないにも関わらず、
聴き手は「肉体の復活を錯覚できる」わけだが、
すべての再生音が「肉体の復活を錯覚できる」わけでもない。

肉体のない音が世の中には、ある。
それがどのくらいあるのかはわからないけれど、少なからずあるように感じるのは、
それなりの理由はあるけれど、いまここでは書かない。

「聴きたいのはピアノの音ではなく、ピアニストだからだ」は、
「五味オーディオ教室」からオーディオが始まった私にとって、
長いこと考えてきたことへの答といっていいのかもしれない。

聴きたいのはピアニストである。

Date: 12月 13th, 2013
Cate: 再生音

続・再生音とは……(虚構世界なりせば)

「虚構世界の狩人」は、
瀬川先生の著書のタイトルである。

いいタイトルだと思うし、瀬川先生も気に入られていた、ときいている。

「虚構世界」──、
音だけのオーディオの世界、
それもモノーラルではなくステレオフォニックになってからのオーディオの世界は、
まさしく「虚構世界」である。

虚構世界であるならば、そこに「正しい音」は存在しない、と考えべきなのかもしれない。
虚構世界であるからこそ、そこに「正しい音」とはなんなのかを考えていくべきなのかもしれない。

Date: 6月 28th, 2013
Cate: 再生音

続・再生音とは……(その12)

ロボット(robot)は、カレル・チャペックの戯曲「R.U.R.」において、
初めて提示され、このロボットの着想にはゴーレム伝説が影響していると、チャペックが述べている。

ゴーレムは泥人形であり、機械仕掛けのロボットではない。
その意味では、ゴーレムは、アトムやその他のロボットよりも、
イメージとしてはピノキオに近い、といえるだろう。

ピノキオは、意志をもって話をすることができる木をゼペットじいさんが人形に仕上げたものだ。
ピノキオにも、手足を動かしたりする機構は、ゴーレム同様ない。
意志をもった木であっても、ピノキオに人間の脳に相当するものがあるわけではない。

ピノキオのストーリーについては多くの人が知っていることだから省くけれど、
小学生の時、学校の図書館にあったピノキオの本の結末と、
その10年以上後に文庫本で読んだピノキオとでは、若干ディテールに違いがある。

ピノキオは人間になる。
小学生のころ読んだ本では、木で作られたピノキオの体がそのまま人間の肉体へと変化していき、
人間の少年になる。
ところが文庫本では(こちらは原作通りなのだが)、
ピノキオの意志(魂)が、新たに与えられた人の体に、いわば乗り移るかたちで人間の少年となる。
そして抜け殻となった、それまでの自分の意志(魂)の容れ物であった木の体を見てつぶやく一言は、
オーディオマニアとしては、再生音とは何かを考えていく者としては、いろいろと考えさせられる。

Date: 6月 24th, 2013
Cate: 再生音

続・再生音とは……(その11)

ロビタが数多く、それこそ数えきれない数が何世紀にもわたって生産(コピー)されていったことは、
ロビタの外観と、意外にも関係があるのかもしれない。

ロビタの外観が何に似ているのか、といえば、埴輪ではないだろうか。
小学生のころから「火の鳥」を読みはじめてきて、
ロビタは何かに似ている、と感じていたものの、
つきつめて考えることはしてこなかった。

今回、「再生音とは……」というテーマで考えていて、
ふと思いあたったのが、埴輪だった。
埴輪には足があるのもあるけれど、
写真で多く見受けられるのは、たいてい足がないものばかりである。
単純化された顔と手、省略された足、胴に関しても細部は省略されている。

こう書いていくと、ロビタの外観を表していることにもなる。
とすれば埴輪は泥人形。
泥人形といえば、ゴーレムがいる。

Date: 6月 21st, 2013
Cate: 再生音

続・再生音とは……(その10)

アトムは人型ロボットである。
それも少年をモデルとしたロボットである。

ロビタは、レオナの記憶をコピーする前のベースとなったロボット、チヒロは、まだ人型といえた。
けれど記憶容量が大きくなり過ぎたために、もとのチヒロのボディとはかけ離れた姿になってしまう。

だからといって、アトムは人に近いのか。そういえるのだろうか。
結局、どちらも異形のモノであることには変わりない、とそう考えられる。
むしろなまじ人型ロボットであり、
大量生産のロボットであるロビタとは異り、世界にただ一体のアトムとでは、
そのつくりにおいて比較の対象にはならない。

アトムは天馬博士にしかつくれなかった。
多少の故障であればお茶の水博士がなおせても、
深刻な故障となると、天馬博士にしかなおせない設定になっていた。

ロビタは大量にコピーされていったのだから、
アトムとロビタの時代には500年の開きがあるとはいえ、
アトムとロビタには、ロボット(工業製品)という同じ言葉では括り得ない違いがある。

アトムもロビタもロボットだから、成長はしない。
少なくとも外観的・体格的な成長はない。
けれどロビタは、完全なるコピーが無数にうみだされていく、
アトムはアトムただひとりである。

Date: 6月 11th, 2013
Cate: 再生音

続・再生音とは……(その9)

手塚治虫の代表作に「火の鳥」がある。
太古から、ものすごく遠い未来まで描かれている「火の鳥」にはいくつもの話から成りたっている。

その中のひとつ、「復活編」にロビタというロボットが登場する。
ロビタとトビオ──、似ているといえば似ている。

けれど手塚治虫によって描かれるロビタの外観とトビオ(アトム)の外観は、まったく異る。
ロビタは最初、基本的に人型のロボットだったけれど、
重量バランスが悪すぎたため不安定な歩行しかできず、
最終的に脚を省かれ、臀部にあるベアリングによって移動する。

腕も、いかにもロボットアームと呼ばれるものであり、指もカニのように2本のみ。
顔にも表情はない。
鉄で造られているイメージさせる、そんな外観をもつ。

ロビタは、「復活編」の主人公であるレオナの記憶と、
チヒロと呼ばれる事務用ロボット(なんとなく女性的な外観をもつ)を融合させて誕生したもの。
26世紀にロビタは誕生し、その後、31世紀までコピーが大量生産される、という設定である。

完全な人型のロボットであるアトムとロビタは、こんなふうに違う。
外観だけの違い以上に大きく異るのは、「記憶」に関して、である。

ロビタにはそれまで生きていた人間(レオナ)の記憶がコピーされているわけだが、
アトムは、飛雄の記憶を移したのではなく、
あくまでも飛雄の父親による天馬博士の記憶によってつくられたものである、という違いである。

Date: 4月 17th, 2013
Cate: 再生音

続・再生音とは……(その8)

なぜ天馬博士はトビオ(アトム)に、7つの力を与えたのだろうか──、
を考える前に、天馬博士にとってトビオは、いったいどういう存在なのかについて、もう一度考えてみたい。

トビオは、実の息子の飛雄の代りとして──生れ変り、とも言い換えられるだろう──、つくられた。
トビオは精巧につくられたロボットであり、その外観は飛雄そっくりであることは、
トビオ(アトム)は飛雄の記憶である、と考えられるのではないだろうか。

つまり天馬博士は交通事故で死ぬ直前の飛雄を、
それまでの飛雄をトビオに求めていた、とすれば、トビオはそれまでの記憶でしかない、ともいえる。

トビオが成長しないのはロボットだから、が、もちろん最大の理由なのだが、
実は記録だからこそ成長しない、ともいえよう。

天馬博士には飛雄の記憶は、そこまでしかないのだから……。

Date: 4月 14th, 2013
Cate: 再生音

続・再生音とは……(その7)

アトムは、天馬博士が交通事故でなくなった飛雄のかわりとして、
姿形までそっくりに、いわば飛雄を甦らせそうとしてつくったものである。

つまりアトムは飛雄に対して、非常にハイフィデリティ(高忠実度)なロボットしてつくられたとみれると思う。
飛雄が、オーディオでいえば生の音(原音)ということになり、アトムが再生音にあたる。

アトムを天馬博士は最初トビオと呼んでいた。
けれどトビオは成長しない。
トビオ(アトム)はロボットだから成長しない、
改良を加えない限り、最初の状態のままである。

でも実際にはアトムの内面は成長していっている。
だからアトムが成長できなかったのは、飛雄そっくりにつくられた姿形ということになる。

天馬博士がトビオの身長を測るシーンがあった、と記憶している。
何度測っても、トビオの身長は1mmたりとも変化しない。

理由はこれだけではないが、天馬博士はトビオをサーカスに売り払う。
トビオは飛雄の代りにはならなかった。
すくなくとも天馬博士にとってはそうだったことになる。

不思議なのは天馬博士は飛雄そっくりの、
飛雄の記憶をもって、飛雄として成長していけるものとしてのトビオをつくったのだろうが、
トビオ(アトム)には、飛雄にはない能力が、科学の粋を結集して授けられている。

Date: 4月 12th, 2013
Cate: 再生音

続・再生音とは……(その6)

再生音とは……、ということについてあれこれ考えていると、
アトムのことが頭に浮ぶ。

アトム──、
鉄腕アトムのことだ。

マンガは幼いころから読んできた。
とくに手塚治虫のマンガは集中的に、意識して読むようにしてきた。
私にとっては「昭和が終った……」と実感したのは、手塚治虫の死だった。

ブラック・ジャックが、私にとって最初のヒーローだった。
ブラック・ジャックのような大人になりたい、と思っていた。
何も医者になりたいわけではなかったけれど、
どんな職業につくにしろ、ブラック・ジャックのように生きてきたい──、
そんなことを夢想していた。

このことを書いていくと、別の話になっていくのでこのへんにしておいて、
アトムに話を戻せば、アトムはいわゆる人型のロボットである。

天馬博士が事故でなくなった息子・飛雄(トビオ)の替りとして、似せられてつくられたロボットであるから、
人型、それも少年としてのロボットである。

鉄腕アトムだけでなく、手塚治虫のマンガの中には、さざまなロボットが登場する。
アトムのような人型のロボットもいれば、ある機能に特化した形態のロボットも登場する。

それら数多くのロボットの中で、アトムは突出して優れたロボットと位置づけられる。

Date: 4月 10th, 2013
Cate: 再生音

続・再生音とは……(その5)

その4)まで書いてきて、ふと思ってしまったことは、
この項では生の音(原音)にはあって、再生音にはないものについて考えてきているわけだが、
逆のことだって考えられること、ということ。

つまり生の音(原音)にはなく、再生音にのみあるもの。
このことも併行して考えていかなければ、再生音の正体には、いつまでたってもたどりつけない。

Date: 1月 11th, 2013
Cate: 再生音

続・再生音とは……(その4)

五味先生は書かれている。
     *
電気エネルギーを、スピーカーの紙(コーン)の振動で音にして聴き馴れたわれわれは、音に肉体の復活を錯覚できる。すくなくともステージ上の演奏者を虚像としてではなく実像として想像できる。これがレコードで音楽を聴くという行為だろう。
     *
ここに、答のすべてがある、と初めて読んだときも、
いま(もうどれだけくり返し読んだことか)読んでも、そうおもう。

五味先生にとって肉体を復活を錯覚できる音とは、どういう音なのか。
具体的に書かれているところがある。
そこには「肉体」ということばは出てこないけれど、
そこに書かれている音こそが肉体の復活を錯覚できる音ととらえて、間違いないといえる。

それは20箇条「スピーカーとは音を出す器械ではなく、音を響かせる器械である。」にある。
     *
たとえば『ジークフリート』(ショルティ盤)を聴いてみる。「剣の動機」のトランペットで前奏曲が「ニーベルングの動機」を奏しつつおわると、森の洞窟の『第一場』があらわれる。小人のミーメに扮したストルツのテナーが小槌で剣を鍛えている。鍛えながらブツクサ勝手なごたくをならべている。そこへジークフリートがやってくる。舞台上手の洞窟の入口からだ。ジークフリートは粗末な山男の服をまとい、大きな熊をつれているが、どんな粗雑な装置でかけても多分、ミーメとジークフリートのやりとりはきこえるだろう。ミーメを罵り、彼の鍛えた剣を叩き折るのが、ヴィントガッセン扮するジークフリートの声だともわかるはずだ。しかし、洞窟の仄暗い雰囲気や、舞台中央の溶鉱炉にもえている焰、そういったステージ全体に漂う雰囲気は再生してくれない。
 私は断言するが、優秀ならざる再生装置では、出演者の一人ひとりがマイクの前に現われて歌う。つまりスピーカー一杯に、出番になった男や女が現われ出ては消えるのである。彼らの足は舞台についていない。スピーカーという額縁に登場して、譜にあるとおりを歌い、つぎの出番のものと交替するだけだ。どうかすると(再生装置の音量によって)河馬のように大口を開けて歌うひどいのもある。
 わがオートグラフでは、絶対さようなことがない。ステージの大きさに比例して、そこに登場した人間の口が歌うのだ。どれほど肺活量の大きい声でも、彼女や彼の足はステージに立っている。広いステージに立つ人の声が歌う。つまらぬ再生装置だと、スピーカーが歌う。
     *
ここで大事なことは、「ステージ」である。
ステージがあり、演奏者の足がステージに立っていること、こそ、
肉体の復活を錯覚させてくれる音であり、
どんなに精緻な音像を、現代のスピーカーシステムがふたつのスピーカー間に再現しようとも、
そこにステージはなく、
歌っている、演奏している者の足もなければ、
いくらスピーカーの存在がなくなったように感じられる音だとしても、
それは肉体のない音であり、言葉の上では同じような音とおもえても、まったく別物であるということに、
意外と気がついていない人がいるように感じられてならない。

Date: 1月 11th, 2013
Cate: 再生音

続・再生音とは……(その3)

生の音(原音)にはあって、再生音には存在しないもの。
まっさきに浮ぶのは、肉体である。

私が聴くのは、その多くがクラシックで、あとジャズが少し、
それ以外の音楽ももちろん聴くけれど、
私が聴く音楽のほとんどに共通しているのは、
演奏者の肉体があって、ある空間に音が発せられているということである。

この演奏者の肉体は、再生音にはない。
再生系のメカニズムのどこにも肉体の介在する余地はないのだから、
再生音に肉体がないのは、至極当然のことである。

それに録音の過程においても、
マイクロフォンがとらえているのは演奏者が己の肉体を駆使して発した音であり、
録音系のメカニズムのどこにも肉体を記録できる箇所はない。

再生音には肉体がない──、
こう書きながら思い出しているのは、
これもまた「五味オーディオ教室」の最初に出てくることである。

私にとってのオーディオの出発点に、また戻ってしまうことになる。

Date: 1月 10th, 2013
Cate: 再生音

続・再生音とは……(その2)

このブログを書き始めの最初のころ「再生音に存在しないもの」を書いている。

これも、13歳のときに「五味オーディオ教室」を読んだときから、ずっと頭のどこかにありつづけている。

「生の音(原音)は存在、再生音は現象」と考えるのも、
再生音には存在しないものがあるから、である。
けれど、それがなんなのか、がいまひとつはっきりとしてこない。
もしすこしでつかめそう、というより、指がそこに届きそうな感じはしているものの、
まだまだ、はっきりと把握するにはそうすこし時間はかかりそうである。

「再生音に存在しないもの」では五味先生の文章を引用した。
そこにはルノアールの言葉を、五味先生は引用されている。
「画布が光を生み出せるわけはないので、他のものを借りてこれを現わさねばならない」とある

「光は存在しない」ことは、再生音でいえばいったいなんなのか。
これがわからなければ、「他のもの」を借りてくることもできない、といえる。
何を借りてきていいのかもわからず、やみくもになにもかも借りてきたところで、なんになろうか。

何がいったいないのか、
借りてくる「他のもの」とはなんのなのか──、
このことについて考えていくときに、ずっと以前の大型スピーカーシステムにあって、
いまのハイエンドと呼ばれているスピーカーシステムにないものが、たしかにある──、
そんなふうにも思えてくる。

Date: 11月 19th, 2012
Cate: 再生音

続・再生音とは……(その1)

クラシックのコンサートホール、ジャズのライヴハウスに足をはこんで聴くものと、
自分の部屋、オーディオ仲間の部屋などでスピーカーから鳴ってくるものは、
どちらも音である、にもかかわらず、このふたつの音は音として同じととらえていいものだろうか、
そして音楽を構成する音として考えたときに、生の音と再生音の違いがあるのかないのか、
私はあると考えているし、そうだとしたら、どんな違いが、このふたつの音にはあるのたろうか。

このブログを書き始めたころ、「再生音は……」というタイトルで、3行だけの短い文を書いた。

「生の音は(原音)は存在、再生音は現象」
そう書いている。

じつはこのときは、ほとんど直感だけで、これを書いていた。
書いてしまったあとに、これまでにあれこれと書き連ねていくうちに、
「生の音(原音)存在、再生音は現象」を思い返すことが幾度となくあり、
次第に重みが増してきて、考えるようになってきている。

だから、ここから、タイトルを少しだけ変えて、「続・再生音は……」とした。

こうやってタイトルを改めて書き始めることにしたのは、もうひとつわけがある。

先日、「使いこなしのこと(まぜ迷うのか)」を書いた。
これに対して、facebookでコメントをいただいた。
「よい音は一つでない。だから迷うのです。」と。

経験を多く摘んだ人ほど、このコメントに首肯かれることだろう。
志向(嗜好)する音とは違えども、いい音だな、とおもえる音はたしかに世の中にはある。

「よい音は一つでない」に反論したり、否定しようという気はまったくない。

けれど、それでもあえていえば(そして、先に結論を書いてしまうことになるが)、
現象としては、いい音はひとつではない、ことになっても、
思想的にはいい音はひとつである。

いまそうおもうようになった、おそらくそうおもいつづけることだろう。

Date: 9月 17th, 2008
Cate: 再生音, 言葉

再生音とは……

小林秀雄賞を受賞された多田富雄氏の、「女は存在で、男は現象」論は、
そのまま音についても当てはまると言えるのではないか。

「生の音(原音)は存在、再生音は現象」と考えていきたい。