Archive for category 日本の音

Date: 9月 9th, 2013
Cate: 日本の音

日本の音、日本のオーディオ(その29)

この項を書き始めると同時に考えていることがある。

ピアノの音色とは?、である。

われわれはピアノの音を聴けば、それがコンサートでの生の音であっても、
小型ラジオについている貧弱なスピーカーから流れてくる音であっても、
きちんとしたオーディオから流れてくる音であっても、ピアノの音はピアノと認識して、
ヴァイオリンや他の楽器の音は間違える人は、およそいない。

生の音もラジオの音も、オーディオの音も、
聴きようによってはずいぶん違うといえるのに、ピアノの音として聴いている、認識できる。
その一方で、スタインウェイのピアノ、ベーゼンドルファーのピアノ、ヤマハのピアノの音を区別もしている。

スタインウェイのピアノの音はヤマハのピアノからは聴けない、その逆もまた聴くことできない。
どちらもピアノという楽器と認識しているにも関わらず、にだ。
スタインウェイのピアノにはスタインウェイの、
ベーゼンドルファーにはベーゼンドルファーの、
ヤマハにはヤマハの、それぞれの独自の音色がある。

つまり、オーディオ的にこのことを捉えるならば、無色透明なピアノの音は存在しないのか、
こんなことを考えている。

Date: 9月 8th, 2013
Cate: 日本の音

日本の音、日本のオーディオ(その28)

かなり以前に、キース・ジャレット(もしかすると他のジャズ・ピアニストかもしれない)が来日した際に、
スイングジャーナルのインタヴューに、
いまいちばん欲しいモノとして、ヤマハのピアノを挙げている。

そんなのは社交辞令だろう、と思う人がいる。
私も、その記事が載ったころに読んでいれば、そう思っただろう。

でも、いまは違う。
おそらく本音での、ヤマハのピアノが欲しい、だったはずだ。

ピアノといえば、まっさきに浮ぶのはスタインウェイの存在だ。
それからベーゼンドルファーがある。
クラシックを聴く私にとっては、そんなイメージである。

ヤマハのピアノは、スタインウェイとベーゼンドルファーからすれば、
特にこれといった理由はないのだが、昔から下に位置するピアノとして捉えていた。

グールドがヤマハのCFにする以前から、
リヒテルがヤマハのピアノにしていたことは知ってはいても、
それは例外中の例外というふうに勝手に捉えていた。

ピアノという楽器としての音色の魅力ということでは、
スタインウェイ、ベーゼンドルファーのピアノは、ヤマハのピアノとは根本的に違うものがあるとは思う。
それは他に変え難い魅力でもあるから、よけいにそう感じてしまうのかもしれない。

それほど音色の魅力は大きい。

Date: 9月 7th, 2013
Cate: 日本の音

日本の音、日本のオーディオ(その27)

グレン・グールドは、ゴールドベルグ変奏曲の再録音に使ったヤマハのピアノ、CFについてこう語っている。
「これはコンピューターにまさるとも劣らぬエレクトロニック・マシーンだ。ぼくはチップ一枚はずんでやればいい」

ヤマハのCFが、こういうピアノであったからこそ、
グールドはゴールドベルグ変奏曲の反復指定を、再録音では行った、とは考えられないだろうか。

グールドはヤマハのCFを絶賛していた。
そういうピアノであったからこそ、それまでのピアノ、
それが気に入っていたピアノであったにしても、ヤマハのCFはそれ以上であったとしたら、
それまでのピアノでは困難だった表現も容易になった。

そう考えると、もし以前のピアノが運送途中で壊されることがなかったら、
グールドはかわりとなる新しいピアノを探すことはなかっただろう。
つまりヤマハのCFと出逢うことはなかった。

ヤマハのCFは、グールドにとって、音色のコントロールが非常に容易なピアノでもあったのではないのか。

これはあくまでも私の仮説でしかないのだが、
そう考えると、再録音で反復指定の前半を行っていること──、
反復指定では音色を意図的に自由に変えることもできるピアノがあり、
その微妙な音色の変化を、すくなくともそれまで以上にはっきりと録音できるようになった──、
だからグールドは反復指定を省かなかった。

Date: 9月 6th, 2013
Cate: 日本の音

日本の音、日本のオーディオ(その26)

菅野先生の録音として知られる「SIDE by SIDE」は、A面とB面で、録音に使っているピアノが違う。
ピエール=ロラン・エマールによる「フーガの技法」では、
ピアノの調律をピエール=ロラン・エマールが求める音色に応じて変化させてある。

この音色の違いを出すことは、「SIDE by SIDE」よりも「フーガの技法」の方が、
調律はいくつか変えてあるというものの、同じピアノであるだけに、より微妙で難しい面がある。

それはなにも再生だけがそうであるわけではなく、
録音においてもそうだったはずだ。

そして、より微妙で難しい音色の鳴らし分けは、一台のピアノで調律を途中で変えずに、
ピアニストの演奏テクニックによってのみ音色を変化させていく場合である。

グレン・グールドは、よく知られているように最初の録音、
つまりバッハのゴールドベルグ変奏曲では反復指定を大胆にも省いている。
それが晩年の再録音では反復指定の前半は行っている。

その理由は、決してひとつではないように思う。
グールドも旧録音と再録音のあいだ分だけ歳を重ねている。
そういうことによるグールド自身の変化もあっただろうが、
録音の変化・進歩があり、ピアノも違ってきていることも、無視できない理由のひとつのように思えてくる。

つまり録音に関してはモノーラルからステレオになり、機材の進歩があり、
録音方式自体もアナログからデジタルへの変化を迎えている。

このことによってテープに記録される情報量は、
旧録音と新録音とでははっきりとした違いがある。
その違いが、旧録音では捉えることができなかった(もしくは困難だった)、
グールドの演奏テクニックによる音色の変化をうまく捉えることができなかったのではないのか。

しかも、このことには録音だけではなく、ピアノそのものも大きく関係してくる。

Date: 5月 22nd, 2013
Cate: 日本の音

日本のオーディオ、日本の音(その25)

ある時「SIDE by SIDE」のことを話題にしたことがある。
A面のベーゼンドルファーとB面のスタインウェイの音色が、うまくその違いが出てくれるのかどうか、
そんなことを喋っていたら「そんなこと気にします?」といわれてしまった。

私は「気にする」と答え、楽器の音色の再現性は重視している。
けれど、一方にはそれほど重視しない、気にかけない聴き方をしている人もいることになる。

もうどこで読んだのか、いつごろ読んだのかも定かではないから、
細部に関しても曖昧なところがあるけれど、ある楽器演奏者がこんなことをいっていたのを憶えている。
「ぼくには絶対音感はないけれど、絶対音色感は、絶対音感を持っている人よりも高いものをもっている」と。
これだけを自信をもっていえる、とも。

昨年1月、「ピアノマニア」という映画について書いた。
この映画は全国上映はやらなかった。先月やっとDVDとして発売された。

この映画の主役はスタインウェイの調律師、シュテファン・クニュップファー。
著名なピアニストも何人か登場する。
そのなかのひとり、ピエール=ロラン・エマールの「フーガの技法」の録音が焦点となり映画は進んでいく。
ピエール=ロラン・エマールが「フーガの技法」でシュテファン・クニュップファーに要求することは、
かなり厳しいものだった。
「ピアノマニア」を観ていて、そこまで要求するのか、それに応えるのか、とおもっていたほどだ。

それがどういうものだったのかは、ぜひDVDを購入して確認していただきたいのだが、
この「ピアノマニア」から伝わってくることのひとつは、ピアノの音色に対する要求の厳しさである。
ピエール=ロラン・エマールが求めた「音色」が「フーガの技法」でどれだけ実現されているのか、
それは、ドイツ・グラモフォンから出ているCDを聴いて確認してほしい。
ピエール=ロラン・エマールが求めた「音色」はひとつではない。

「絶対音色感」というものが、録音の「場」においてだけでなく、
再生の「場」においても、非常に高いレベルで要求されているわけで、
それは「SIDE by SIDE」におけるA面とB面の、ベーゼンドルファーとスタインウェイの音色の違いよりも、
同じピアノでのことだけに、もっとシビアともいえる。

Date: 1月 24th, 2013
Cate: 日本の音

日本のオーディオ、日本の音(その24)

1970年代、菅野先生の録音で知られるオーディオラボから「SIDE by SIDE」というレコードが登場した。
シリーズ化された「SIDE by SIDE」は4枚出ていたと記憶している。

「SIDE by SIDE」はシリーズを通して、
A面はベーゼンドルファー、B面はスタインウェイによる演奏を録音している。
だから「SIDE by SIDE」のレコードを再生するにあたっては、
A面とB面とではピアノの音色の違いがどれだけ明瞭に出てくるのかが、大きなポイントでもある。

録音もベーゼンドルファーとスタインウェイという、ふたつのピアノの特質をよくとらえているからこそ、
その再生にあたっては、A面とB面とで、同じピアノが鳴っているように聴こえてしまっては、
再生装置による色づけが支配的ともいえなくはない。

自分にとって心地よい音が出てくれればそれでいい、という人もいる。
その気持はわかる。
オーディオが醸し出す音色には、うまくいくと実に心地よいものとなる。
ときに、その心地よい音色におぼれていたくなる(つつまれていたくなる)ことは、私にもあった。

でも、聴きたいのは最終的には音楽である。
音楽を聴く以上は、音楽を構成する音色に対して忠実でありたい。

完璧な状態で鳴らすことは、いまのところ無理なのはわかっていても、
それでもピアノはピアノらしく、ヴァイオリンはヴァイオリンらしく鳴った上で、
さらには同じピアノでもベーゼンドルファーはベーゼンドルファーらしく、
スタインウェイはスタインウェイらしく鳴ってくれなければ、私はこまる。

Date: 11月 5th, 2012
Cate: 日本の音

日本のオーディオ、日本の音(その23)

私は、グールド的リスナーとして、
ゴールドベルグ変奏曲を聴く、ということは、どういうことなのかを考えたい。

それは13万円をこえる金額を出して石英CDを買い、後生大事に聴くこととは、
遠く離れた行為のようにも思えてくる。

たった1枚のディスクのために、お金を出す。
それもふつうの人には理解できない金額のお金を出す。
オーディオマニアは、これをやってきている。

愛聴盤の数は、所有しているディスクの枚数とは必ずしも比例しない。
1万枚をこえるディスクを所有していても、愛聴盤は10枚しかない、という人もいるだろうし、
100枚しかディスクは所有していないけれど、100枚すべて愛聴盤という人もきっといる。

その愛聴盤のためにオーディオは存在している。
10枚の愛聴盤のために、100枚の愛聴盤のために、1000枚の愛聴盤のために……。

そして、オーディオは、1枚の愛聴盤のために、が、その始まりである。

グールドのゴールドベルグ変奏曲は私にとって愛聴盤である。
大切な愛聴盤である。

その愛聴盤を、グールド的リスナーとして聴く、ということを考えて、
私は、いまの私の答として、必要なのは石英CDではなくダイヤトーンの2S305という古いスピーカーシステムを、
ソニーのTA-NR10というパワーアンプで鳴らすシステムであり、
このシステムから何を聴き取りたいか、というと、
グールドがヤマハのCFを選んだことと、
ゴールドベルグ変奏曲で、デビュー盤のゴールドベルグ変奏曲の旧録ではすべて省略した反復指定を、
1981年の録音では反復指定の前半は行っていて、しかもテンポもゆっくりであることの関係性を、であって、
そのことに狙いを定めたシステムで聴いて、徹底的に探りたい。

Date: 11月 5th, 2012
Cate: 日本の音

日本のオーディオ、日本の音(その22)

地理的ギャップというものもある。東へ行くほど、レコードは録音によるコンサート効果をねらっていることがわかる。もちろんさらに遠く日本にでも行けば、西欧化されたコンサート・ホールの伝統による禁忌などはとりたててないから、レコーディングはレコーディング独特の音楽経験として理解されている。
     *
グレン・グールドが語ったことである。

私は、その日本にいて、オーディオマニアである。
20年前に、「ぼくはグレン・グールド的リスナーになりたい」という文も書いたことがある。

だから、このグールドの語ったことをおもいだす。

13万円以上する石英CDで、グールドのゴールドベルグ変奏曲を聴くのが、
はたしてグールド的リスナーなのだろうか。

少しでもいい音で聴けるのであれば、大金を惜しまない、
そういう態度はマニアとして、ほんとうに正しいのだろうか。
そう考えていた時期は私にもある。20代のころ、30代のころは特にそうだった。
少しでも音が良くなるのであれば、金も手間も惜しまない。
それこそがマニアの姿である、みたいな、そんな底の浅いものだった。

いまでも私はオーディオマニアであり、死ぬまで、おそらくそうであろう。
だから、いい音のためには手間は惜しまない、金だって余裕がなくなりつつあっても、惜しもうとは思っていない。
そういう意味では変っていないけれど、
昔は、手間も金も惜しまない、そんな自分に酔っていたところがなかった、とはいえない。

どこかに、そういう気持があった。
手間も金も惜しまない、ということは、自分に酔いしれるためではない、
あくまでも音楽のため、いい音のためであってこそ、オーディオマニアといえる。

1枚13万円をこえる石英CDは、枚数限定である。
マニアの心のなかのどこかにひそむ自分に酔いしれたい、という気持や虚栄心を、
これらのフレーズが煽らない、と言い切れるマニアがどれだけいようか。

Date: 10月 26th, 2012
Cate: 日本の音

日本のオーディオ、日本の音(その21)

グレン・グールドがヤマハのピアノで録音している、という情報が伝わってきたとき、
こんなことを話してくれた人がいる。

ヤマハのピアノはスタインウェイのピアノと部品の互換性がある、とのこと。
だからグールドが選択したヤマハのピアノは、ほんとうに内部までヤマハのピアノだろうか、
外観はヤマハでも中身はスタインウェイに換えられている、ということだって考えられる、と。

オーディオの関係者が、そう話してくれた。
でも、実際にゴールドベルグ変奏曲を聴けば、
外観だけヤマハのピアノということではなく、正真正銘ヤマハのピアノだということはわかる。

でも、この話をしてくれた人も、心のどこかに欧米文化へのコンプレックスがあったのかもしれない。
そうでなければ、こんなことを考えたりはしない。
さらには、人に話したりはしない。

グールドがヤマハのピアノを選び、しかも絶賛していることを素直に喜べないところに、
あのころ私もふくめて、
まわりの人たちも欧米文化へのコンプレックスがまったくなかった人はいなかったように思う。

そのころの私だったら、
そして、そのころソニーのTA-NR10とマークレビンソンML2(No.20)とがすでに存在していたら、
もう間違いなくマークレビンソンの方を高く評価していたはず。
それだけではなく、ソニーの方を、つまらない音、とも評価していたように思う。

グールドのゴールドベルグ変奏曲から30年。
いまは、そのころとは違う。すでに書いているように、
グールドのゴールドベルグ変奏曲を聴くために、
ヤマハのピアノで魅かれたグールドのゴールドベルグ変奏曲を聴くために、
選ぶスピーカーシステムは日本のダイヤトーン2S305であり、
2S305を鳴らすために選ぶパワーアンプは、日本のソニーのTA-NR10である。

Date: 10月 18th, 2012
Cate: 日本の音

日本のオーディオ、日本の音(その20)

ソニーのTA-NR10とマークレビンソンML2(No.20)の比較については、
まだまだ、細々と書いていきたいことがあるけれど、
それを全部書いていると、この項がなかなか先に進めなくなるので、このへんにしておく。

TA-NR10とML2(No.20)を比較していくと、
多少強引ではあると自分でも思うのだが、ヤマハのピアノとスタインウェイのピアノの比較と、
どこか通じているものがある、と私は感じている。

ヤマハのピアノには、スタインウェイのピアノやベーゼンドルファーのピアノにある、
聴けばすぐに印象として残る音色の強さ、といったものがない。

ピアノを弾かない聴き手にとって、スタインウェイやベーゼンドルファーのピアノは、
音色の魅力にあふれているようにも聴こえ、それだけヤマハのピアノよりも魅力的に思えてくる。
だから、どこかにヤマハのピアノよりも、スタインウェイ、ベーゼンドルファーのピアノのほうが上、
といつしか思い込んでしまうようになっている。

グレン・グールドがヤマハのピアノを選ぶよりも前に、
カッチェン、リヒテルがヤマハのピアノを、スタインウェイやベーゼンドルファーではなく、選択している。
そういうことも知識としては持ってはいても、
やはりどこかスタインウェイ、ベーゼンドルファーの方が上だと思い込みたい気持がある。

そんな気持があるからこそ、ベーゼンドルファーがスピーカーを発表したとき、心ときめかす。
ヤマハもピアノをつくっているし、スピーカーもずいぶん昔からつくっている。
なのに、ヤマハのスピーカーに対して、ベーゼンドルファーのスピーカーほどの思い入れがもてない。

そこには、ヤマハのピアノの完成度とヤマハのスピーカーの完成度の違いということも関係しているけれど、
ただそれだけのことでもない。

その4)で引用した菅野先生の言葉にもあるように、
欧米文化へのコンプレックスをとおして、ヤマハとスタインウェイをくらべていた可能性がある。
ピアノだけではない、スピーカーに関してもアンプに関しても、である。

Date: 10月 18th, 2012
Cate: 日本の音

日本のオーディオ、日本の音(その19)

このフロントパネルのハンドルと同じことがヒートシンクにもいえるのが、
アメリカの、きちんとつくりこまれた、ML2(No.20)と同時代のパワーアンプに共通するところである。

たとえばML2のヒートシンクのフィンの先端部分に、
銅を細く切った板をおけば、フィンの鳴きは異種金属のダンプにより、そうとうに抑えられる。
さらに出力段のトランジスターの保護用のコの字型カバーを取り外す。

これらによる音の変化は、フロントパネルからハンドルを外したときの音の変化に共通する。
はっきりと良くなるところが確かにある。
けれど、これらの鳴きを含めて音をつめて製品として完成させていることを確認することになる。

これらの鳴きが、うまいぐあいに、音の輪郭に手応えを感じさせている、とでもいおうか。
鳴きの発生を抑えたり、鳴きの原因であるパーツを外したりすることで、
その手応えが稀薄になってくる。
あえていえば、アナログディスク的な音の旨み的なものを良さとしていたのに、
その良さが失われてしまう。

そうなってしまうと、何かが欠けてしまった音、という印象につながる。

スピーカーシステムにおいて、共振は害だということで、
あれこれ手を尽くして、共振の元を取り除いたり、共振を徹底的に抑えていくことで、
聴感上のS/N比は向上していくものの、
それだけで、感覚的にいい音が得られるのかどうかは、なんともいえない。

完璧なスピーカーユニットが完成すれば、
共振、共鳴はすべて抑えた方向でいくことが正しいし、
いい音を実現するための方向であるのだろうが、
実際には完璧なスピーカーユニットなんて、いままでにもひとつとして存在していない。

スピーカーシステムもアンプにしても、
ひとつひとつは不完全な部品を組み合わせて、全体を構成していく。
だからこそいくつものアプローチが共存しているわけだ。

Date: 10月 17th, 2012
Cate: 日本の音

日本のオーディオ、日本の音(その18)

マークレビンソンのML2の登場は1977年。
このころから1990年代のはじめあたりのアメリカのパワーアンプには共通する外観の特徴があった。

フロントパネルの横幅は19インチで、立派なハンドルがフロントパネルについていた。
ML2にもついていた。No.20にも、形状の変更はあったものの、ついていた。

マークレビンソンだけでなく、クレルのパワーアンプにもジェフ・ロゥランドのパワーアンプにも、
他のアメリカ製のパワーアンプの、けっこうな数に、金属製のそれぞれに立派なハンドルがついていた時期があった。

このハンドル、
割と簡単に取り外せるモノが多かった。
はずしてみるとわかるが、けっこうな重量である。
叩いてみてもわかるように、パイプのものはほとんどなかった、と記憶している。
金属のムクである。
そして、このハンドルがついているフロントパネルが、
筐体の中で板厚がもっとも厚みをもたせてあった。

何機種かではあったが、ハンドルをはずした状態の音を聴いたことがある。
音の変化としては、かなり大きい。
外した方が、全体的な傾向として素直な音になる、といえる。
聴感上のS/N比が若干良くなり、なめらかなになっていく。

たしかによくなっている、といえる。
いえるのだが、何か物足りなさも同時に感じてしまう。
ハンドルをふたたび取り付けた音を聴くと、納得できるものを感じる。

海外製のこのころのパワーアンプは、
あくまでもフロントパネルに、わりとごつい感じのハンドルを付けた状態で、
音を決めていっている、ということだ。

だから安易に外してしまうと、そのバランスが崩れてしまい、しっくりこなくなる。
つまりハンドルもまた、ヒートシンクと同様に筐体ならぬ響体であることがわかる。

Date: 10月 16th, 2012
Cate: 日本の音

日本のオーディオ、日本の音(その17)

いま市販されているスピーカーシステムに限っても、さまざまな種類が存在している。
過去のスピーカーシステムまで含めれば、その種類はさらに増す。

スピーカーユニットの形式もいくつもあるし、口径も実に豊富で、
それらの組合せとなると、大変な数になる。
そこにエンクロージュアの形式、つくり、材質などといったことが加わり、
ネットワークの存在も絡んでくる。

それぞれのメーカーが、ある制約の中で出した答が、市販された、市販されている製品という見方をすれば、
たったひとつの答というものはオーディオには存在しない、ともいえる。

よく、これこれは、こうでなければならない、
それ以外は一切認めない、という物言いをする人が少なからずいる。

オーディオマニアというアマチュアだけではなく、
プロのエンジニアを名乗っている人のなかにも、そういう人はいる。

ご本人は、それだけがたったひとつの正しい答だと思い込んでいる。
そのため、他のいっさいの答を間違っているものとして認めようとしない。
そんな人は、ソニーのTA-NR10とマークレビンソンのML2(No.20)のヒートシンクを比較すれば、
どちらかを認め、他方は否定するんだろうな、と思う。

どちらを正しい答とすれば、他方はそうではない、ということになるぐらい、
ソニーとマークレビンソンの、A級100Wのモノーラルパワーアンプのヒートシンクは異る。

でも、どちらかが正しくて、他方はそうではない、ということではない。
スピーカーシステムに、実に多くの種類があるように、
パワーアンプのヒートシンクにしても、パワーアンプを構成する他の要素との関係において、
絶対的な答は存在しない、ともいえる。

どちらかをとる、ということはもちろんある。
けれど、どちらかのみが正しい、ということではない、とくリ返しておく。

Date: 10月 15th, 2012
Cate: 日本の音

日本のオーディオ、日本の音(その16)

電源部の、それほど多くないヒートシンクなのに、
振動対策を施すかどうか、施すにしてもどうやるかによって音は変る、と書くと、
電源こそ重要なんだから変って当然、と指摘してくれる人がいる。

電源が重要なのはわかっている。
CDプレーヤーにしてもアンプにしても、交流電源を整流・平滑し、
それを入力信号に応じて変調して出力信号として負荷に供給しているわけだから、
電源が重要なのは、ずっと以前からわかりきっていることである。

だが、少なくともCDプレーヤーの電源部のヒートシンクから、音(というより音楽)は鳴ってこない。

どんなパワーアンプでもいい(といっても管球式ではなくてヒートシンクをもつソリッドステート型だが)、
出力にダミーロード(8Ωの抵抗)を接続して入力信号(音楽信号)を加えた状態で、
ヒートシンクの近くに耳をもっていくと、ヒートシンクから音楽が聞こえてくるのがわかる。

音楽信号に応じて出力段のトランジスターが振動し、
その振動によって音叉的ヒートシンクが共鳴しての現象である。

ヒートシンクの形状、材質、取付け方法などによって、この鳴り方は変ってくるから、
パワーアンプの数だけヒートシンクから聞こえてくる音楽の鳴り方も、また違ってくる。
音量もとうぜん違ってくる。

井上先生が、出力段トランジスター振動源、ヒートシンクを音叉的に捉えられている、
その理由を実感できる。
ヒートシンクは筐体の一部であるとともに、響体ともいいたくなる。

そういう存在のヒートシンクだから、
この部分をどう考えるかは、井上先生の言葉をもういちど引用しておく。

「アンプの筐体構造はスピーカーのエンクロージュアと同等の楽器的要素をもつことを認識すべきだ」

つまりヒートシンクの鳴きを徹底的に抑えていくのも手法のひとつであるし、
どんなに、あらゆる手段を講じたところで、トランジスターの振動の発生をゼロにはできないし、
ヒートシンクの音叉的性格を完全になくすこともできない。

スピーカー・エンクロージュアをどんなに無共振化しようとしても、
無共振思想はあっても、無共振エンクロージュアはひとつとして世の中には存在しないのと同じでもある。

Date: 10月 12th, 2012
Cate: 日本の音

日本のオーディオ、日本の音(その15)

CDプレーヤーの小さなヒートシンクの鳴き止めとしてついているゴムは接着してあったわけではなく、
外そうと思えば簡単に外せたしすぐに元にも戻せた。

だから当然外した音も聴いてみる。
ゴムが付いている音と外した音を聴いたら、次はゴムの取付け位置を変えてみる。
ヒートシンクの上部、下部、中央、最低でもこの3つの位置の音は聴いてみる。

いいかげんなセッティングによる、いいかげんな試聴では、
こういう細かな違いによる音の変化は、ほとんど聴き取り難くなるけれど、
逆にいえば、こういう細かな違いを鳴らし分けることができるようにセッティングを心掛ける、ともいえる。

とにかく鳴き止めをした音とそうでない音をいちど聴いてしまうと、
他のCDプレーヤーで、鳴き止めをなにも施していないモノだと、
やはりあれこれ試してみたくなる。
ヒートシンクのフィンのピッチがほぼ同じであれば、上記CDプレーヤーのゴムを流用できたし、
試聴室内での比較的短い時間内での実験でもあるからアセテートテープを使うこともあった。

また、ちょうどこのころはヤマハからYT9SPというアクセサリーが出ていた。
スピーカーのチューニング用として、フェルト、無酸素銅、コルク、皮のコイン状のスペーサーをそろえたもので、
この中の無酸素銅のスペーサーをヒートシンクの上に置く。
別項で書いているソニーのパワーアンプTA-NR10のヒートシンクは銅製だが、
CDプレーヤーのヒートシンクは一般的なアルミ製。
だから銅とアルミは異種金属ゆえに、この無酸素銅のスペーサーを置くだけで、
ヒートシンクの鳴きは尾を引かなくなる。

ヒートシンクの鳴きを抑えるという結果は同じでも、
ゴム(弾性体によるダンプ)と無酸素銅(異種金属によるダンプ)とでは、
結果としてのスピーカーから鳴ってくる音には違いが生じる。

断っておくが、ヒートシンクの鳴きを抑えたからといって、
必ずしも、トータルとしての音がよい方法に向くとは限らない。

ここでいいたいのは、CDプレーヤーのリアパネルにある、
小さなヒートシンク、それも電源部用のヒートシンクでもあって、
何かをすれば音は確実に変化する、という事実がある、ということだ。