Archive for category モノ

Date: 10月 21st, 2012
Cate: モノ

モノと「モノ」(続・ワルターのCDにおもったこと、の補足)

透明のプラスチックケースの、CDの取り出しにくさは、私だけでないようで、
Facebookでのコメント欄にも、
「割れるのではないかと思うほど湾曲しているCDを見るのは、心臓に宜しくありません」とあった。

ほんとうに、そのくらいCDが湾曲する。
まだ割ったことはないけれど、CDの材質がもう少し硬いものだったら、割れてしまうかもしれない。

今日、この件でメールもいただいた。
その方は、取り出しのコツをつかまれた、とのことで、こう書いてあった。
(Mさん、ありがとうございます。)
     *
まず、蓋を開けて真ん中を左手で右端を机などに置き傾斜させてから中央を(つめの中央部)人差し指か中指押下すれば簡単に外れます。
     *
通常のCDケースであれば、左手でケースをもって右手でディスクを取り出せる。
机の上などの平らなところに置かずとも取り出せる。

透明のプラスチックケースで、容易に取り出せない場合、ケースを平らにところに置いてあれこれやっていた。
これではうまく取り出せない。
CDが湾曲してしまうことがほとんどだ。

ケースを傾斜させることは、考えつかなかった。
右端が机に固定されるわけだから、
その状態でツメの部分に力を加えれば、ケースのそのものがわずかにしなる。
机の上にべたっと置いてしまうと、このしなりは生じない。

まだすべての透明のプラスチックケースでは試していないけれど、
このしなりで、取り出しやすくなったケースがある。

それにしても、CDの取り出し方でブログ(記事)を書くことになるとは、
CDが登場したときには、まったく思いもしなかった。

Date: 10月 20th, 2012
Cate: モノ

モノと「モノ」(続・ワルターのCDにおもったこと)

“Bruno Walter Conducts Mahler”はCD一枚一枚は紙ジャケットにおさめられている。
この紙ジャケット、ボックスもの、それも廉価盤だと、サイズがぎりぎりなものがかなり多い。
だからCDを取り出すときもしまうときも、きつい。
ジャケットの内側に盤面がすれて、キズがつきやすい感じがして好きになれない。

実際、少なからずキズがついていることも、最近増えている。

ボックスもののCDでも、LPのような薄い紙の内袋におさめられているものだと、
スムーズにとりだせるし、CDの盤面にキズがつく心配もない。

前者のボックスものだと、愛聴盤といえどもCDを取り出すのが億劫になる。
取り出しにくいから、ということもあるけれど、ディスクにどうしても細かいキズがはいっていくからである。

紙ジャケットだけではない。
プラスチックケースのものでも透明タイプのものだと、
ディスクをクランプしているツメの部分がかたすぎて、
CDが取り外しにくいものが、少なからずある。

このことを話してみると、どうもクラシックのCDに関して、多く見受けられることのようだ。
ロック、ポップスのCDをかなりの枚数購入している友人の話では、
そういう経験はいまのところはない、とのこと。

このすべて透明なプラスチックケースの、ディスクの取り外しにくさは、
ギリギリサイズの紙ジャケットよりも、イヤになる。
ディスクが割れるんじゃないか、と心配になるほど反ってしまうことがあるからだ。

正直、ツメの何本かを割ってしまおうかと思いたくなるほど、
ディスクをしっかりとくわえこんでいてディスクを解放してくれない。

聴きたい! と思っても、取り出したいディスクが、この透明のプラスチックケースだと、
聴くのをやめようかな、と思う。

すべての透明のプラスチックケースがそうではない。
すんなり取り出せるケースもある。
けれど、この2、3年の間、クラシックのCDに関しては、
聴き手の心情をまったく考えていないケースが着実に増えてきている。

これらの紙ジャケット、透明のプラスチックケースのCDだと、
極力リッピングするようにしている。
聴きたいと思うたびに、ディスクの取出しでイヤなおもいをしたくないからである。

Date: 10月 10th, 2012
Cate: モノ

モノと「モノ」(ワルターのCDにおもったこと)

“Bruno Walter Conducts Mahler”というCDボックスが、いま出ている。
7枚組で、HMVなど安いところでは、1700円を切る価格で売っている。

廉価盤というつくりでブックレットはついていない。
だから、この値段なのか、とも思うけれど、やはり安い。

内容は、だからといって、それ相当のものではなく、ワルターが米COLUMBIAに残したマーラーの演奏は、
とくにニューヨーク・フィルハーモニーとによるものは、いま聴いても興味深いものを感じる。

コロムビア交響楽団とのワルターの演奏は20代のときに集中して聴いていた。
あのころは、素直にいい演奏と感じていたものが、いまでももうそれほどとは思えなくなっている。

そのころから20数年経ったいま、私にとってワルターは、
ウィーン・フィルハーモニーと残したいくつかの演奏を除いて、もう大切な指揮者ではなくなりつつある。

そんな私の耳にも、ニューヨーク・フィルハーモニーとの一番、二番、四番、五番、「大地の歌」、
その中でも五番の交響曲は素晴らしい、と思える。
こういう曲だったのか、という、いくつかの小さな発見を、2012年のいま、1947年の演奏を聴いて感じている。

いいCDだ、と、ワルターのこれらのマーラーの演奏を聴いたことのない人には推められる。
なのだが、ひとつ思うこともある。

DISC1にはコロムビア交響曲との一番と、ニューヨーク・フィルハーモニーとの二番の第一楽章のみがはいっている。
DISC2には二番の二楽章以降と「さすらう若人の歌」が、
DISC3にはニューヨーク・フィルハーモニーとの四番と、コロムビア交響楽団との九番の一楽章が、
DISC4には九番の二楽章以降が、
DISC5にはニューヨーク・フィルハーモニーとの五番、
DISC6にはニューヨーク・フィルハーモニーとの「大地の歌」、
DISC7にはニューヨーク・フィルハーモニーとの一番と「若き日の歌」がおさめられている。

廉価盤として、少しでも価格を抑えるためにディスクの枚数を減らすための、
こういう組合せなのだろう、と一応は理解できる。

けれど、二番と九番の、ふたつの交響曲はどちらも一楽章のみが、別のディスクにはいっている。

マーラーは二番の交響曲の第一楽章のあとに、すくなくとも5分以上の休止をおくこと、と指示している。
だから、二番の楽章の分け方は納得できないわけではない。
ディスクを入れ換えて、5分以上の休止を聴き手がつくるのにもいいかもしれないからだ。

だが九番に関して、マーラーはそのような指示は出していない(はず)。

なのにこういう曲の収め方をするということは、
ディスクの枚数を減らす、という目的とともに、
これはもうレコード会社(ここではSony Classicalになる)が、
リッピングして聴け、といっているようにも受けとめられる。

リッピングしてしまえば一楽章のみが別のディスクにはいっていることなどは関係なくなるし、
ワルターのマーラーを録音年代順に並び替えるのも簡単にできる。

CDと同じフォーマット、
16ビット、44.1kHzでの配信を全世界に行っていくための設備を整えるのは大変なことなのかもしれない。
それもよりも手なれたCDで、できるだけ安く作って市場に出した方が、
レコード会社にとっては手間のかからないことなのだろうか。

そんなふうにも勘ぐってしまいたくなる。

Date: 4月 18th, 2012
Cate: モノ

モノと「モノ」(その12)

いまはどうなのかわからないが、一時期、レコードのことを缶詰音楽といっていた人たちがいた。
もちろん、この缶詰音楽は蔑称であり、
この表現を使う人たちの多くはコンサートを、音楽鑑賞における最上のもの、絶対的なものとして、
レコードで聴く音楽(つまりオーディオを介して聴く音楽)は、
どこまでいっても代用でしかない、という意味が込められていた。

そんな使われ方をされてきた「缶詰音楽」だが、
この「缶詰音楽」という形態がほんとうに実現できれば、素晴らしいモノだと思う。

実のところ、缶詰音楽がよく使われていたころ(つまりLPの時代)にしても、
それがCDになっても、「缶詰音楽」とはいえないほど、複雑な仕組みの再生機器を必要とする。

缶詰は、缶の中に食べ物が詰められていて密閉されたものを指す。
つまり缶切りがあれば(最近では、その缶切りすら不要になっている)、
蓋さえ開ければ、その缶に詰められている食べ物はすぐに食べることが出来る。

さすがに手づかみで食べるわけにはいかないから、スプーンなり、フォークなり、箸を使うものの、
基本的には缶詰の中の食べ物を食べるためには、なんら道具を必要としない。
道具を使わないということは、そこでなんらかの処理を行う必要もない、ということである。

その点、缶詰音楽といわれても、実際にはLPにしてもCDにしても、
たとえばLPやCDを耳にあてれば、音楽を聴こえてくるわけではないし、
レコードが缶詰の形態をしていて、蓋を開ければ音楽が素晴らしい音で鳴り響くわけでもない。

LPならばレコードプレーヤーのうえにのせ、カートリッジを音溝に降ろして、アンプのボリュウムをあげる。
すくなくともこれだけの操作は必要で、レコードの溝がスピーカーから音として出てくるまでには、
実にさまざまな変換や処理がオーディオ機器のシステムの中でなされている。

しかも、そうやって出てくる音は同じではない。
缶詰は誰が蓋を開けようと、基本的には同じ味がする。
なのに缶詰音楽とよばれるレコードは、そうではない。

そうなるとLPもCDも缶詰音楽とは呼びにくくなるし、
LPやCDは「音楽の器」なのか、という疑問もわいてくる。

Date: 4月 12th, 2012
Cate: モノ

モノと「モノ」(その11)

オーディオでは、アンプ、スピーカーシステムといったオーディオ機器はハードウェアであり、
LP、CD、ミュージックテープなどはソフトウェアである。

ハードウェアの価格は、その製品の開発費、製造コスト、流通コストがかかっているものは価格も高い。
ごくまれには、これでこの価格? と疑いたくなるような値がつけられている商品もあるにはあるが、
総じて価格と、その製品のコストは比例関係にある、といえる。

ところがソフトウェアとなると、
有名な音楽家によるものも新人の演奏家によるものも、値段は同じである。
さらにオーケストラを録音したものも、ピアニストのソロ演奏のものも、
録音にかかわっている演奏家の人数には大きな開きがあっても、レコードの値段は同じである。

レコードというソフトウェアの値段は、そういうものだと思っていた。
音楽の内容と値段は直接の関係はないもの、と。

この価格設定の違いが、ハードウェアとソフトウェアのもっとも大きな違いなのだ、とも思っていた。
けれど、1991年からMacを使うようになると、
パソコンの世界においては、ソフトウェアの価格がレコードの価格のように、
すべて同じではないことを最初から(なぜだか)当り前のように受けとめていた。

当時はまだCD-ROMはほとんど普及していなかったし、インターネットという単語も聞くことはなかった。
ソフトウェアは、だから3.5インチのフロッピーディスクでの供給だった。
つまりソフトウェアの容量の大きなものはフロッピーディスクの枚数が増えていく。
当時、Photshopのヴァージョン2か2.5だったと思うが、
フロッピーディスク10数枚を何度も入れ替えしながらインストールしていった。

レコードでも組物は当然価格は増す。
ワーグナーの「指環」は、だから他の1枚で収まる音楽にくらべると価格は高い。
とはいうものの、例えば10枚の組物でも、
1枚のレコードの10倍の価格ではなく、もう少し安い価格がつけられている。

パソコンのアプリケーションはフロッピーディスク1枚で供給されるものでも、価格はかなり違っていた。
フロッピーディスク10数枚のアプリケーションは、
フロッピーディスク1枚のアプリケーションの10倍の価格になる、とは、だからならない。

Date: 3月 31st, 2012
Cate: モノ

モノと「モノ」(その10)

この項の(その3)に、
レコードの値段を「音楽の値段」とイコールにできない、と書いた。

稀少盤と呼ばれているディスクには、関心のない人にとっては驚くような値段がついてるものがある。
稀少盤といっても、その値段の幅はじつに大きい。
新品で出た時にはほとんど同一価格であったレコードが、10年、20年経っていくと、
中古盤となったときの値段には大きな開きが生じてくる。

このことは、中古盤の値段イコール「音楽の値段」ということになる、といえるのだろうか。

同じ音楽をおさめたレコードでも、
オリジナル盤と呼ばれるものは高い値段がつき、再発盤にはそれほどの値段はつかなかったりするし、
国内盤となると、もっと値がつきにくかったりするわけだが、
あくまでもこれらのレコードに収められている音楽は──そこにクォリティの差はあるとはいえ──同じものである。

ということは、中古盤となったときのレコードの値段は、「音楽の値段」といえるのだろうか。
結局のところ、レコードの値段はどこまでいっても「音楽の器の値段」でしかない、と思う。

Date: 6月 19th, 2011
Cate: モノ

モノと「モノ」(その9)

いいモノをやっと手にした時の喜びは大きい。
それが稀少盤のLPであれ、アンプであれスピーカーシステムであれ、出てきた音が期待以上のものであれば、
喜びは一入だ。

しかもそういうものの多くは、モノとしての魅力も大きい。
言い換えれば、モノとしての存在感がある。

だから人は、そのモノの魅力にはまってしまい、レコード・マニアになったりオーディオ・マニアになる。
レコードに、アンプにスピーカーシステムに、それらに関心のない人からすれば理解の範疇をこえる金額を支払い、
手に入れたモノには愛情を注ぎ、大事に取り扱う。
マニアの性(さが)といえよう。

その行為の結果、音は良くなっていけば、手に入れたモノをより大切にする。
そのとき己の行為に酔いしれる……、そうではないとはっきりと否定できる人はいるだろうか。

これはオーディオのもつ罠のような気がする。
音楽という、視覚的に捉えることのできない抽象的なものを聴くために必要なモノとして、
レコード、オーディオという際限ない魅力を持つ具象的な存在がある。
それらは手に触れて、その「重み」を感じることができる。

稀少盤であれば、一時期のぺらぺらの薄手のレコードであるわけがない。
かといって一時期のオーディオマニア向けの過度に重量盤でもなく、ほどよい厚みと重さをもつ。
オーディオ機器も、望んでいた音を出してくれる機器であれば、
その「重み」は、なにかを実感させてくれる重みであるはずだ。

オーディオ機器は音楽を聴くための道具だ、といわれる。
レコードも、じつのところ音楽を聴くための道具の一部なのかもしれない。

道具は、目的を近づく、達成するために必要なものであるから、
目的が遠くにあればそれだけ大切にしなければならない。
けれど、そこに過度の愛情を注ぐことに、正直、疑問を抱くようになってきた。

くり返すが、愛の対象となるのは「音楽」であるからだ。
そう思い至れば、プログラムソースの進歩・進化・純化の、
「純化」の段階にさしかかり始めている「ところ」に、いまわれわれはいる、といえる。

Date: 6月 15th, 2011
Cate: モノ

モノと「モノ」(その8)

「オリジナル盤」「初期LP」と呼ばれる稀少盤は、確かに手にしたときの喜びは大きい。
私も、いまほど「オリジナル盤」がもてはやされる以前に、運良く愛聴盤に関しては、
程度のいいモノを比較的まともな価格で購入することがあった。

ジャケットのつくりもLPを収める内袋も、それにLPそのものもじつに丁寧な仕事がしてあるのが伝わってくる。
LPが贅沢品で、あれもこれもと買える時代ではなかったころにつくられたLPは、モノとして魅力に満ちている。
だから愛着がわく。その愛着も強いものとなる。

モノに対する愛情、愛着は大事なものだと、よくいわれる。
オーディオに対しても、愛情をもって使っていけば……的なことが昔から云われ続けている。
レコードに対しても同じことがいわれている。

大切に取り扱う、ということはモノとのつきあいでは大切なことだ。
だが、そこに愛着、とか、愛情、とか、「愛」を注ぐことは、危険な側面を持っている。
これがオーディオと無関係のモノに対しては、それでもいいと思う。

だが、オーディオで愛を持って接してなければならないのは、
オーディオ機器やレコードではなく、音楽そのものであり、
聴きたい音楽こそ、愛すべき存在のはずだ。

なのに、オーディオという世界には、その「音楽」の前にオーディオ機器、レコードという、
それぞれに魅力を十分に持った存在がある、待ち構えている、といってもいいかもしれない。

Date: 6月 15th, 2011
Cate: モノ

モノと「モノ」(その7)

いま市場に流通しているLPは、新譜LPの生産量が前年よりも増したとはいえ、割合としては中古盤が圧倒的に多い。

1948年に最初LPが登場して、いったいこれまでにどれだけのLPがプレスされ流通したのかは、
とにかく厖大な枚数ということしか、私にはいえない。
その厖大な枚数のLPは、新譜として登場したときには、どれもさほど変らない価格がつけられていたのに、
発売後、20年、30年、40年……と経つうちに、中古価格という、市場がつける価格には大きな差が開いてきた。

国内盤のクラシックLPはいまや買取時に値がつかないものが多い、ときく。
タダでも引き取らない店もある、ときいている。

一方で「オリジナル盤」とか「初期LP」と呼ばれるものは、相変らず高い値段で売買されている。

この価格の差には、「音楽の値段」が反映されているのだろうか。
そうだといいたいし、そういえるような気もしなくもないが、
それでも「レコードの値段」から解放されている、とは言い切れない。

むしろ稀少盤として、モノとしての「レコードの値段」の側面が強くなっている、ともいえる気がしてならない。

Date: 6月 14th, 2011
Cate: モノ

モノと「モノ」(その6)

LPの生産量が増えている、というニュースを最近目にした。

これはLPというモノとしての魅力が見直されてのことなのかもしれない。
だが、いまプレスされているLPとLP全盛時代のLPとでは、見た目は同じでも、同じとはいえない面もある。

いま日本でプレスされているLPが、どういうふうにつくられているのか、
信頼できる人から聞く機会が数年前にあった。
あくまでも、これから書く話、その数年前のことであり、いま現在は変っているのかもしれないし、
数年前と同じままなのかは確認できていないことをことわっておく。

このLP工場には、アナログのテープデッキがない、ときいた。
LP全盛時代には、カッティングマシーンも数台、マスターのテープデッキの数台置いてあるのがあたりまえだった。
かなり古い記事になるが、1967年のステレオ誌の記事によると、東芝音楽工業の川口工場には、
カッティングマシーンとしてスカーリーのカッティングレーサーにウェストレックスの3Dカッターヘッドの組合せ、
ノイマンのカッティングレーサーにウェストレックスのカッターヘッドの組合せ、
それにノイマン純正の組合せ(カッターヘッドはSX15とSX45)、
計4つのカッティングマシーンがあり、それぞれにテープデッキも用意されていた。

そのころといまとでは時代が違うことはわかっている。
けれどLPをつくる工場にカッティングマシーンはあってもテープデッキがないという事実には、唖然とする。

その工場でつくられるLPの多くは、CD-Rで音源を持ち込まれるとのことだ。
中には、気合いの入っている会社もあり、マスターテープとともにテープデッキも持ち込むところもあるそうだが、
マスターがアナログ録音のLPをつくるにも、
CD-R(一度デジタル化したもの)がその音源になってものが、市場に流通している。

Date: 6月 14th, 2011
Cate: モノ

モノと「モノ」(その5)

CDが登場したときに、LPに比べてディスクのサイズが小さい、ジャケットのサイズが小さい。
このことによって、レコードというモノとしての魅力が半減したとか、失われたなどといわれた。

LPは直径30cm、CDは12cm。
見た目もずいぶん違う。質のいいLPの漆黒の艶っぽさは有機的な感じを与えてくれるのに対し、
CDは無機的といえなくもない。

当然のことながらジャケットのサイズも大きく違う。
それにLPの場合、ジャケットは文字通りジャケットである。
CDはプラスチックのケースに収まっていて、いわゆるジャケットはライナーノートである。

LPではレコードをかけるたびにジャケットに直接にふれる。
そこにジャケットの紙の匂いがある。
LPそのものにも匂いがある。
その匂いには、つくられた国柄による独特のものがある。

LPには手ざわり、そして匂いと触覚に関係してくる要素がある。

LPにはジャケットとディスクそのものとの相乗効果で、CDよりもモノとしての存在感は大きい。
そして乱暴に扱えば簡単に傷ついてしまうことも、LPに対する愛着、思い入れを増していってくれる。

CDは、LPよりも便利になっている。
サイズは小さくても、収録時間も長いし、ひっくりかえす手間も入らない。
多少盤面が傷がはいっても、再生に支障はない。取扱いが楽である。
そのことは本来メリットであるべきことなのに、
LPとの対比では、愛着、思い入れがわきにくいという面から、ネガティヴに捉えられることもある。

Date: 6月 10th, 2011
Cate: モノ

モノと「モノ」(その4)

フィリップス・インターナショナルの副社長の話は、レコード会社だけにとどまらず、
出版社に対しても、まったく同じことがあてはまる。

出版社は何を売る会社なのか。本を売る会社ではない。
広義での情報を売る会社であり、
それがこれまでは紙に印刷されてそれがまとめられて「本」という形態をとっていただけ、ともいえる。

いま音楽はCDの売れゆきが落ち、インターネットを通じたダウンロード環境が構築されはじめている。
本は、昨年iPadが登場し電子書籍元年ともいわれ、紙の本とは違う形態での、
何度目かの提供が、今回は大々的に模索されはじめている。

これからさきどういう展開を見せていくのかははっきりとしたことはいえないけれど、
この方向を成功させていくために必要なことは、「編集」を根本的に考え直し捉え直すことであることは、
はっきりといえる。

紙の本では、ときとして編集作業は、紙の本をつくるための作業になっていたところもある。
そのままで電子書籍を編集しようとしても、紙の本の代用品ではないのだから、うまくいくはずはない。

Date: 6月 8th, 2011
Cate: モノ

モノと「モノ」(その3)

「聴こえるものの彼方へ」には「音楽の値段」という文章がある。

オーディオを通して聴く「音楽の値段」は、レコードの値段ということになる。
ずっと以前はSPの値段、それからLPの値段になり、1980年代からは、それはCDの値段ということになる。

レコードの値段=「音楽の値段」とすると、ふしぎなことに誰もが気がつく。
レコード1枚の値段は昔も今も、LP時代もCD時代も、そう大きくは変動していない。
さらにぽっと出の新人のレコードの値段も、大ベテランのレコードも値段も同じであり、
ピアニストが一人で録音したレコードの値段も、
オーケストラと歌手と合唱団を必要とするオペラのレコードも値段は同じ。
レコード1枚の収録時間も長短あるけれど、これも同じだ。
音楽のジャンルに関係なく、レコード1枚の値段は、基本的には同じである。

つまりこれは、そのレコードに収められている音楽の値段ではなく、
レコードというパッケージメディアの値段でしかない。

収録にかかる費用は、音楽のジャンルや演奏家のキャリア、それに音楽の規模などによって大きく異るが、
それがレコードの値段には反映されない。

反映されているのは、LPなりCDを作る費用である。
となると、レコードの値段を「音楽の値段」とイコールにできない。

Date: 6月 5th, 2011
Cate: モノ

モノと「モノ」(その2)

黒田先生の「聴こえるものの彼方へ」のなかの
「ききたいレコードはやまほどあるが、一度にきけるのは一枚のレコード」に、
フィリップス・インターナショナルの副社長の話がでてくる。
     *
ディスク、つまり円盤になっているレコードの将来についてどう思いますか? とたずねたところ、彼はこたえて、こういった──そのようなことは考えたこともない、なぜならわが社は音楽を売る会社で、ディスクという物を売る会社ではないからだ。なるほどなあ、と思った。そのなるほどなあには、さまざまなおもいがこめられていたのだが、いわれてみればもっともなことだ。
     *
「ききたいレコードはやまほどあるが、一度にきけるのは一枚のレコード」は1972年の文章、
ほぼ40年前に、フィリップス・インターナショナルの副社長は、
いまの時代のレコード会社の責任ある地位にいる者としての発言をおこなっていた、といえる。

黒田先生が「なるほどなあ」と思われたように、
さまざまな思いをこめて「なるほどなあ」とつぶやきたくなる。

CDの売上げが落ちている、とよく云われる。
なにも日本だけのことではなくて、どこの国でもCDの売上げは落ちている、らしい。

音楽CDをだしている会社を「レコード会社」と呼んでいる。
この言葉のイメージするところからすれば、以前だったらLP、いまならばCD、
これらレコードの売上げが落ちることは会社の存続に直接関わってくることになるわけだが、
フィリップス・インターナショナルの副社長のいうように、
「ディスクという物を売る会社ではない」ならば、「音楽を売る会社」としての在り方を、
「レコード会社」ははっきりと示してほしい、と思う。

「レコード」は、いまの若い人たちは、アナログディスクのことだけを示す単語として使われているから、
「レコード会社」ではなく「ディスク会社」(もっと正しくいえば「ミュージックディスク会社」か)が、
違う呼称となる日は、もう来ている。
というよりも1972年の時点で、すでに来ていた、ともいえる。

Date: 2月 1st, 2011
Cate: モノ

モノと「モノ」(その1)

プログラムソースは、モノーラルからステレオになってきた。
モノーラルは、モノ、と略すこともある。

このブログで物のことをモノ、と書いてきた。

モノ(モノーラル)とモノ(物)、方や英語、方や日本語だから、
このふたつの「モノ」にはなんら関係性はない、ということになるけれど、
どちらも「モノ」であることは、単なる偶然とも思えない。

モノーラル(モノ)からステレオ録音へとなり、
再生される音像は、いわば実像から虚像へとなっていった。
いうまでもないことだが、ここでいうモノーラル再生はスピーカー1本だけでの再生のことである。

実から虚、ということでは、いまプログラムソース(音源)がそうなりつつある。
SP、LP、CD、SACDといったパッケージメディア(モノ)から、配信へと、いま転換期を迎えている。
もうこれから先、プログラムソースを手にすることは、徐々に、か、もしくは急激に、か、
とにかく少なくなっていくはずだ。
パッケージメディアを実とすれば、配信によるものは虚となろう。

ステレオ再生がつくり出す音像(虚像)を、ときとして、聴き手であるわれわれは実像と感じることもある。
プログラムソースがパッケージメディアという形を捨てたとき、
「虚」という新しいかたちを手に入れるのかもしれない。