モノと「モノ」(その9)
いいモノをやっと手にした時の喜びは大きい。
それが稀少盤のLPであれ、アンプであれスピーカーシステムであれ、出てきた音が期待以上のものであれば、
喜びは一入だ。
しかもそういうものの多くは、モノとしての魅力も大きい。
言い換えれば、モノとしての存在感がある。
だから人は、そのモノの魅力にはまってしまい、レコード・マニアになったりオーディオ・マニアになる。
レコードに、アンプにスピーカーシステムに、それらに関心のない人からすれば理解の範疇をこえる金額を支払い、
手に入れたモノには愛情を注ぎ、大事に取り扱う。
マニアの性(さが)といえよう。
その行為の結果、音は良くなっていけば、手に入れたモノをより大切にする。
そのとき己の行為に酔いしれる……、そうではないとはっきりと否定できる人はいるだろうか。
これはオーディオのもつ罠のような気がする。
音楽という、視覚的に捉えることのできない抽象的なものを聴くために必要なモノとして、
レコード、オーディオという際限ない魅力を持つ具象的な存在がある。
それらは手に触れて、その「重み」を感じることができる。
稀少盤であれば、一時期のぺらぺらの薄手のレコードであるわけがない。
かといって一時期のオーディオマニア向けの過度に重量盤でもなく、ほどよい厚みと重さをもつ。
オーディオ機器も、望んでいた音を出してくれる機器であれば、
その「重み」は、なにかを実感させてくれる重みであるはずだ。
オーディオ機器は音楽を聴くための道具だ、といわれる。
レコードも、じつのところ音楽を聴くための道具の一部なのかもしれない。
道具は、目的を近づく、達成するために必要なものであるから、
目的が遠くにあればそれだけ大切にしなければならない。
けれど、そこに過度の愛情を注ぐことに、正直、疑問を抱くようになってきた。
くり返すが、愛の対象となるのは「音楽」であるからだ。
そう思い至れば、プログラムソースの進歩・進化・純化の、
「純化」の段階にさしかかり始めている「ところ」に、いまわれわれはいる、といえる。