耳の記憶の集積こそが……(その5)
耳の記憶の集積こそが、オーディオである──、
(その1)で書いている。
そのまま、もう一度書いておく。
この大事なことを抜きにして、オーディオについて語り合うことはできない。
耳の記憶の集積こそが、オーディオである──、
(その1)で書いている。
そのまま、もう一度書いておく。
この大事なことを抜きにして、オーディオについて語り合うことはできない。
太った豚より痩せた狼であれ。
一時期、よくいわれていたものだ。
はっきりとは憶えていないし、
検索してみても、いつごろから、誰が言い始めたことなのかはっきりとしない。
私が十代の終りごろからハタチすぎくらいまでに、
よく見聞きしたように思う。
私の周りにも、真顔で「太った豚より痩せた狼であれ」という男がいた。
豚、狼というのが精神的な分類であることはわかったうえで、
ややひねくれたところのある私は、
豚なのか狼なのかは、本人には選べないし、
選べるのは太っているか、痩せているか──、ではないのか。
それを真顔でいう人に向って返したことはないけれど、
いま彼らは、どう思っているのだろうか。
(その18)で引用した菅野先生の文章は1975年のものだが、
まだそのころは私は「五味オーディオ教室」にであっていない。
なので「世界のオーディオ」のラックス号を読んだのは、
ステレオサウンドで働くようになってからである。
《肥った馬はやせていき、やせた馬は死んでいき、肥った豚が増えてくる。ついには、やせた豚と肥った豚だけの世の中になってしまう》、
ゆえに、ここのところではうんうんと頷いていた。
やせた豚と肥った豚だけの世の中。
そうなりつつある。
ひさしぶりに読みなおして、五十年近く前に書かれたこととは、
わかっていても、予言めいていると思うし、
ここで私は「時代の軽量化」をテーマにしているけれど、
それは近年のことではなく、ずっと以前から悪循環の輪なのかもしれない。
次の文章を、まず読んでほしい。
*
ところで現実の姿はどうだ。金儲けが第一、唯一の目的(初めはそうではなかったのが、知らず知らずのうちにこうなっていく悪循環を生み出す,悪い輪廻から生れたものと思われるが)の人間は、すでに物創りの魂を失っているわけだが、そういう人間が作るものに本物の美や価値があろうはずがない。それを買う買手は、決してよい買手とはいえない。買手のほうにも広い精神的視野と高い価値観がないから、少しでも安いものを買って目先の得をしようと思う。それでも売れることは売れる。ただし、安くしなければならないから、大量に売らなければならない。上がった利益は次の仕事に使われるが、その方向が問題。つまり、より安く、より多くつくるために大部分が使われる。もともと物創りの精神を失っているから、客の目を惹くためにはなんでもする。新製品は目につくから、次から次へと短期間にやっつけ仕事でも新製品をつくらねばならない。この輪廻の中で金儲け主義の人間に使われる多くの使用人達は馬車馬のようにムチ打たれ、心の余裕を失うままにヒステリックに働き疲れる。少しでも賃金を獲得しようと汲汲とする。少しでもサボッたほうが得だという歪んだ考えや無責任人間が生れる環境が出来上がる。金儲け人間たちは、大量のそういう使用人達の管理や、おだてに神経を使い、ますます本質を忘れる。そうしてふくれあがった大量の人間たちは、他の分野でも、低い価値観しか持たないから、決していい買手にはなり得ない。文化は低下し、人間は疲れる。世の中がこういう輪廻をつくり出すと、人は生き甲斐を失って、ただ疲れ、ますます悪循環の輪は拡がっていく。そして、知らず知らずのうちに、世の中には、本当に優れたものの価値を評価する人間が減っていく。いいものは値段の高さだけが目立つようになる。ここで本来のオーディオ界の輪が決定的にくずされるわけだ。実用家電製品になり下がる。趣味はひたすら、レジャーとか暇つぶしといった概念だけで考えられるようになり、オーディオも単なる流行現象と化し、肥った馬はやせていき、やせた馬は死んでいき、肥った豚が増えてくる。ついには、やせた豚と肥った豚だけの世の中になってしまう。
*
《少々極端だが》と菅野先生自身も書かれているが、
1975年に書かれた、この菅野先生の文章を読んで、
どう思う(感じる)のか、そしてどう考えるのか。
不遜な人たちを叱れる人がいなくなってしまったのも、
時代の軽量化なのだろうし、
叱る(叱られる)と怒る(怒られる)を同じに捉えてしまう人がいるのも、
そうなのかもしれない。
倫理がどこまでも曖昧になっていくのだろうか。
ながくオーディオという趣味を続けていれば、
かなりの金額をオーディオに費やしただろうし、
それにともないオーディオマニアとしての自信もついてきていることだろう。
けれど、そこに覚悟がなければ、
自信だけでは、かっこよくはならないのではないか。
オーディオ製品に大のおとなが一生をかけんばかりに打ち込んでしまう。音楽にならまだ話はわかるが、近頃では若い前途洋々の人生をひたむきにまで賭けて、オーディオマニアたることを誇りにもとうとする。なぜか。
オーディオには、いまや男の夢を托し得るだけのロマンがあるからだ。そう、こうしたロマンを求められ得る男の世界は、はたして他に存在するといえるだろうか。(ステレオサウンド別冊「世界のオーディオ」ラックス号より)
*
岩崎先生が、「私のラックス観」で書かれていることだ。
1975年に書かれていることだ。
このころハタチ前後だった人たちは、七十近くになっている。
このころの若い人たちは《オーディオマニアたることを誇りにもとうと》したわけだ。
いまはどうなのだろうか。
聖地は、辞書には聖人・教祖などに関係ある神聖な土地、とある。
本来の意味では、聖地とはそういうところなのだが、
広義で、いまの時代に使われている「聖地」には、
そこだけの意味にとどまらず、多種多様な聖地がある。
そういった意味でのオーディオの聖地は、どこかにあるのだろうか。
19歳の誕生日をむかえる二週間ほど前に、
ステレオサウンド編集部に行く機会があった。
その時、試聴室を見せてもらったし、入った。
ステレオサウンドの誌面で見るだけだったステレオサウンドの試聴室である。
瀬川先生が亡くなられて三ヵ月ほど経っていた。
試聴室横の倉庫の一角には、
瀬川先生愛用のKEFのLS5/1A、
マークレビンソンのLNP2、スチューダーのA68があった。
八ヵ月ほど前までは、ここで瀬川先生は試聴されていたのか……、
そんなおもいがわきおこってきたこともあって、
あの時、ステレオサウンドの試聴室は、
はっきりと私にとってはオーディオの聖地だった。
facebookページの「岩崎千明/ジャズ・オーディオ」。
岩崎先生の試聴風景の写真とか、その他を頻繁に更新していたころ、
「昔のオーディオ評論家はかっこよかった」というツイートがもらったことがある。
私と同世代の男性からだった。
(その5)へのTadanoさんのコメント。
*
私が思うカッコイイはこれですと見せてくれたのは宮崎さんの管理するfacebookの岩崎千明のページでした。彼女自身の言うところ、「この時代はイケメンぞろい。というかイケメンしかいない。私が言いたいのは生き様を含めてのカッコイイ。その道に打ち込んでいたり、情熱を感じる、そういう目に見えない大切な心の部分が、滲み出しているかということ。これは求めていないけれど、茶道や剣道などと同じように、音の道を行く人であれば更になお。」
*
世代も性別も違っても、やはり岩崎先生をいまもかっこいいと思う人たちがいる。
私の友人もそう思っているし、
あの時代、岩崎先生と一緒に仕事をしてきたオーディオ関係者の人たちも、
岩崎先生のことをそう思っている。
岩崎先生だけではない。
あの時代、みんなそうだった。
いまはどうだろう……。
こんなこと書きたくないのだが、
ステレオサウンド 221号のステレオサウンド・グランプリの選考委員の集合写真、
オーディオアクセサリー 184号の特集で掲載されている写真、
それからステレオサウンドの最近の試聴風景の写真、
かっこいいとは到底思えない。
オーディオ雑誌だけではない。
オーディオマニアのなかには、自身のことをオーディオオタクという人もいる。
さらには略して、オーオタ(オーヲタ)という人までいる。
オーディオをかっこいいと思っていないからなのだろう。
それにしても、である。
なぜ、自信をもってオーディオマニア、レコード演奏家、オーディオファイル、
そういえないのだろうか。
別項「情景」(その10)」に、Tadanoさんのコメントがあった。
そこに、この項に関係してくることがある。
*
一般の芸能ファンの女性に「このステレオで聴けば、君の大好きな西条クンの塗れた唇が、すぐそこに現れてくるよ。」「ほらほらほら見てごらん。わー、すごい・・・、光る汗が見えるようだね。」「あー、すごい!ツイーターとツイーターを結ぶこの中央の位置で聞いてごらん、あふれ出す煮汁のように西条クンの汗が噴き出して見えるよ」などとそそのかして聞かせたとしても、それはそれは煙たがられるわけです(笑)。
私のパートナーに言わせると「菅野沖彦くらい色男が言うのならば許されるが、クリープなマニアたちに言われたらぞっとする」のだそうです。彼女はZ世代のまったく新しいオーディオ・ファイルですが、21世紀のオーディオ・ファイルに一番言いたいことは「たのむからカッコつけて」ということでした。また、こうも言います。「ライダーマンのマシンが何キロ出るとか、どのジェダイが一番強いのかと論じている男の子は確かにかわいい。だけど、私たち(女性)はそこに着目しない。そうではなく、なぜライダーマンは半分人間なのか、ルークはどんな悲しみを背負っているのかという話が聞きたい。」
*
Z世代とは、1990年代中盤から2010年代序盤までに生れた世代のことだから、
Tadanoさんのパートナーは、若い女性だ。
そのTadanoさんのパートナーが「たのむからカッコつけて」と、
21世紀のオーディオファイルにいいたい、とある。
オーディオがカッコいい、とは思っていないというオーディオマニアもいる。
意外と多いようにも感じている。
(その3)で書いているように、
オーディオの普及のためには、
オーディオを何も知らない人がみて、かっこいい、と思われないとダメだ──、
そんなことをソーシャルメディアに投稿している人もいる。
かっこいい、と思われないとダメだ、という人が思っているかっこいいと、
Tadanoさんのパートナーが感じるかっこいいとは同じではないように思う。
それに──、いくつかの例をあげようと思ったけれど、ばっさり省いてしまった。
いくつものズレを感じてしまう。
能動的試聴が忘れられていくのも、時代の軽量化なのだろう。
「毎日書くということ(続々・モチベーションの維持)」へのfacebookでのコメントに、
オーディオがカッコいい、とは思っていない、
オーディオ機器にはそのような側面は重要な要素としてあるかもしれないが──、
そんな趣旨のことが書いてあった。
私は、というと、オーディオ機器にもかっこいいモノがあるし、
かっこいいと感じる要素もある、
それにオーディオに真剣に取り組んでいる人もかっこいい、と感じている。
そう感じている人は、極端に少ないけれどもだ。
そして、オーディオそのもの、オーディオの世界がかっこいいと思っている。
ふりかえって、「五味オーディオ教室」に、
かっこいい何かをすでに感じとっていた、と思う。
そういえばaudio wednesdayがaudio sharing例会といっていたころ、
タンノイのオートグラフやJBLの4343、
それらは優れたスピーカーであったからこそであって、
五味康祐氏や瀬川冬樹氏が鳴らしていたから、特別なスピーカーなわけではない──、
そんなことをいわれたことがある。
そう思っている人が多数派なのか。
だとしたら、私がおもしろいと感じているオーディオとは、
少々違うオーディオだな、と受けとっていた。
私にとっては、オートグラフは五味先生が、
4343は瀬川先生が鳴らされていたからこそ、特別なスピーカーである。
この二つのスピーカーだけではない。
他のスピーカーに関しても、まったく同じことがいえる。
自己模倣という純化の沼こそ、オーディオの罠だ、といまははっきりといえる。
(その1)を三年前に書いたころは、
オーディオの罠は存在しない、と思う──、
そのぐらいに思っていた。
二年前の(その2)で、この自己模倣という純化の沼を、
オーディオの罠のように錯覚しているだけなのだろう、と書いた。
やはりオーディオの罠というのはない、といまは断言する。
オーディオの罠がある、と錯覚しているだけにすぎないし、
そうしていたほうがラクだからかもしれない。
そして、その、錯覚しているオーディオの罠は、自己模倣の純化の沼であり、
その、自己模倣の純化の沼を作り出しているのは、
「オーディオには罠がある」とか
「オーディオ沼」とかいって自虐的に喜んで言っている本人でしかない。
《私が聴きたいのはいい音楽である。そしていい音楽とは、倫理を貫いて来るものだ、こちらの胸まで。》
「音楽に在る死」のなかで、五味先生がそう書かれている。
ステレオサウンド 51号掲載の「続オーディオ巡礼」では、こう書かれている。
*
下品で、たいへん卑しい音を出すスピーカー、アンプがあるのは事実で、倫理観念に欠けるリスナーほどその辺の音のちがいを聴きわけられずに平然としている。そんな音痴を何人か見ているので、オーディオサウンドには、厳密には物理特性の中に測定の不可能な音楽の倫理的要素も含まれ、音色とは、そういう両者がまざり合って醸し出すものであること、二流の装置やそれを使っているリスナーほどこの点に無関心で、周波数特性の伸び、歪の有無などばかり気にしている。それを指摘したくて、冒頭のマーラーの言葉をかりたのである。
*
区別をつけるに求められるのは、倫理だと思っている。
倫理を無視したところで差別が生じていくとも思っている。
倫理を曖昧にすれば、区別も曖昧になる。
時代の軽量化とは、こういうことでもあるのだろう。
(その3)で、「毒にも薬にもならない」音が増えてきているのは、
誤解されたくない、という気持が根底にあるからではないだろうか──、と書いた。
では、なぜ誤解されたくない、という気持はどこから生れてくるのか。
一つには、人に音を聴かせるからだろう、と思っている。
インターネットの普及によって、
それまで接点のなかったオーディオマニアのあいだにつながりが生れ、
互いの音を聴く、ということがあたりまえのように行われようになったし、
そのことを個人サイトやブログ、ソーシャルメディアで、どうだったのかを公開する。
インターネット普及以前は、初対面の人の音を聴きにいくということは、
そうそうなかった。
共通の知人がいれば、そういうこともあったけれど、いまは違う。
そのことが悪いこととは思っていないけれど、
そのことが誤解されたくない、という気持を生む下地になってきているのではないだろうか。
人に聴かせなければいい。
私はそう考える人間だ。
誰にも聴かせなければ誤解も生じない。
もっとも誰にも聴かせなければ、褒めてもらうこともなくなるわけだが。
いい音ですね、素晴らしい音ですね、と認めてもらいたい、褒めてもらいたい気持と、
絶対に誤解されたくないという気持。
それを両立させるのが、オーディオのあり方なのだろうか。
不遜な人たちが現れるようになってきたのも、
時代の軽量化なのだろうか。