オーディオにおける「かっこいい」とは(その8)
ながくオーディオという趣味を続けていれば、
かなりの金額をオーディオに費やしただろうし、
それにともないオーディオマニアとしての自信もついてきていることだろう。
けれど、そこに覚悟がなければ、
自信だけでは、かっこよくはならないのではないか。
ながくオーディオという趣味を続けていれば、
かなりの金額をオーディオに費やしただろうし、
それにともないオーディオマニアとしての自信もついてきていることだろう。
けれど、そこに覚悟がなければ、
自信だけでは、かっこよくはならないのではないか。
オーディオ製品に大のおとなが一生をかけんばかりに打ち込んでしまう。音楽にならまだ話はわかるが、近頃では若い前途洋々の人生をひたむきにまで賭けて、オーディオマニアたることを誇りにもとうとする。なぜか。
オーディオには、いまや男の夢を托し得るだけのロマンがあるからだ。そう、こうしたロマンを求められ得る男の世界は、はたして他に存在するといえるだろうか。(ステレオサウンド別冊「世界のオーディオ」ラックス号より)
*
岩崎先生が、「私のラックス観」で書かれていることだ。
1975年に書かれていることだ。
このころハタチ前後だった人たちは、七十近くになっている。
このころの若い人たちは《オーディオマニアたることを誇りにもとうと》したわけだ。
いまはどうなのだろうか。
聖地は、辞書には聖人・教祖などに関係ある神聖な土地、とある。
本来の意味では、聖地とはそういうところなのだが、
広義で、いまの時代に使われている「聖地」には、
そこだけの意味にとどまらず、多種多様な聖地がある。
そういった意味でのオーディオの聖地は、どこかにあるのだろうか。
19歳の誕生日をむかえる二週間ほど前に、
ステレオサウンド編集部に行く機会があった。
その時、試聴室を見せてもらったし、入った。
ステレオサウンドの誌面で見るだけだったステレオサウンドの試聴室である。
瀬川先生が亡くなられて三ヵ月ほど経っていた。
試聴室横の倉庫の一角には、
瀬川先生愛用のKEFのLS5/1A、
マークレビンソンのLNP2、スチューダーのA68があった。
八ヵ月ほど前までは、ここで瀬川先生は試聴されていたのか……、
そんなおもいがわきおこってきたこともあって、
あの時、ステレオサウンドの試聴室は、
はっきりと私にとってはオーディオの聖地だった。
facebookページの「岩崎千明/ジャズ・オーディオ」。
岩崎先生の試聴風景の写真とか、その他を頻繁に更新していたころ、
「昔のオーディオ評論家はかっこよかった」というツイートがもらったことがある。
私と同世代の男性からだった。
(その5)へのTadanoさんのコメント。
*
私が思うカッコイイはこれですと見せてくれたのは宮崎さんの管理するfacebookの岩崎千明のページでした。彼女自身の言うところ、「この時代はイケメンぞろい。というかイケメンしかいない。私が言いたいのは生き様を含めてのカッコイイ。その道に打ち込んでいたり、情熱を感じる、そういう目に見えない大切な心の部分が、滲み出しているかということ。これは求めていないけれど、茶道や剣道などと同じように、音の道を行く人であれば更になお。」
*
世代も性別も違っても、やはり岩崎先生をいまもかっこいいと思う人たちがいる。
私の友人もそう思っているし、
あの時代、岩崎先生と一緒に仕事をしてきたオーディオ関係者の人たちも、
岩崎先生のことをそう思っている。
岩崎先生だけではない。
あの時代、みんなそうだった。
いまはどうだろう……。
こんなこと書きたくないのだが、
ステレオサウンド 221号のステレオサウンド・グランプリの選考委員の集合写真、
オーディオアクセサリー 184号の特集で掲載されている写真、
それからステレオサウンドの最近の試聴風景の写真、
かっこいいとは到底思えない。
オーディオ雑誌だけではない。
オーディオマニアのなかには、自身のことをオーディオオタクという人もいる。
さらには略して、オーオタ(オーヲタ)という人までいる。
オーディオをかっこいいと思っていないからなのだろう。
それにしても、である。
なぜ、自信をもってオーディオマニア、レコード演奏家、オーディオファイル、
そういえないのだろうか。
別項「情景」(その10)」に、Tadanoさんのコメントがあった。
そこに、この項に関係してくることがある。
*
一般の芸能ファンの女性に「このステレオで聴けば、君の大好きな西条クンの塗れた唇が、すぐそこに現れてくるよ。」「ほらほらほら見てごらん。わー、すごい・・・、光る汗が見えるようだね。」「あー、すごい!ツイーターとツイーターを結ぶこの中央の位置で聞いてごらん、あふれ出す煮汁のように西条クンの汗が噴き出して見えるよ」などとそそのかして聞かせたとしても、それはそれは煙たがられるわけです(笑)。
私のパートナーに言わせると「菅野沖彦くらい色男が言うのならば許されるが、クリープなマニアたちに言われたらぞっとする」のだそうです。彼女はZ世代のまったく新しいオーディオ・ファイルですが、21世紀のオーディオ・ファイルに一番言いたいことは「たのむからカッコつけて」ということでした。また、こうも言います。「ライダーマンのマシンが何キロ出るとか、どのジェダイが一番強いのかと論じている男の子は確かにかわいい。だけど、私たち(女性)はそこに着目しない。そうではなく、なぜライダーマンは半分人間なのか、ルークはどんな悲しみを背負っているのかという話が聞きたい。」
*
Z世代とは、1990年代中盤から2010年代序盤までに生れた世代のことだから、
Tadanoさんのパートナーは、若い女性だ。
そのTadanoさんのパートナーが「たのむからカッコつけて」と、
21世紀のオーディオファイルにいいたい、とある。
オーディオがカッコいい、とは思っていないというオーディオマニアもいる。
意外と多いようにも感じている。
(その3)で書いているように、
オーディオの普及のためには、
オーディオを何も知らない人がみて、かっこいい、と思われないとダメだ──、
そんなことをソーシャルメディアに投稿している人もいる。
かっこいい、と思われないとダメだ、という人が思っているかっこいいと、
Tadanoさんのパートナーが感じるかっこいいとは同じではないように思う。
それに──、いくつかの例をあげようと思ったけれど、ばっさり省いてしまった。
いくつものズレを感じてしまう。
能動的試聴が忘れられていくのも、時代の軽量化なのだろう。
「毎日書くということ(続々・モチベーションの維持)」へのfacebookでのコメントに、
オーディオがカッコいい、とは思っていない、
オーディオ機器にはそのような側面は重要な要素としてあるかもしれないが──、
そんな趣旨のことが書いてあった。
私は、というと、オーディオ機器にもかっこいいモノがあるし、
かっこいいと感じる要素もある、
それにオーディオに真剣に取り組んでいる人もかっこいい、と感じている。
そう感じている人は、極端に少ないけれどもだ。
そして、オーディオそのもの、オーディオの世界がかっこいいと思っている。
ふりかえって、「五味オーディオ教室」に、
かっこいい何かをすでに感じとっていた、と思う。
そういえばaudio wednesdayがaudio sharing例会といっていたころ、
タンノイのオートグラフやJBLの4343、
それらは優れたスピーカーであったからこそであって、
五味康祐氏や瀬川冬樹氏が鳴らしていたから、特別なスピーカーなわけではない──、
そんなことをいわれたことがある。
そう思っている人が多数派なのか。
だとしたら、私がおもしろいと感じているオーディオとは、
少々違うオーディオだな、と受けとっていた。
私にとっては、オートグラフは五味先生が、
4343は瀬川先生が鳴らされていたからこそ、特別なスピーカーである。
この二つのスピーカーだけではない。
他のスピーカーに関しても、まったく同じことがいえる。
自己模倣という純化の沼こそ、オーディオの罠だ、といまははっきりといえる。
(その1)を三年前に書いたころは、
オーディオの罠は存在しない、と思う──、
そのぐらいに思っていた。
二年前の(その2)で、この自己模倣という純化の沼を、
オーディオの罠のように錯覚しているだけなのだろう、と書いた。
やはりオーディオの罠というのはない、といまは断言する。
オーディオの罠がある、と錯覚しているだけにすぎないし、
そうしていたほうがラクだからかもしれない。
そして、その、錯覚しているオーディオの罠は、自己模倣の純化の沼であり、
その、自己模倣の純化の沼を作り出しているのは、
「オーディオには罠がある」とか
「オーディオ沼」とかいって自虐的に喜んで言っている本人でしかない。
《私が聴きたいのはいい音楽である。そしていい音楽とは、倫理を貫いて来るものだ、こちらの胸まで。》
「音楽に在る死」のなかで、五味先生がそう書かれている。
ステレオサウンド 51号掲載の「続オーディオ巡礼」では、こう書かれている。
*
下品で、たいへん卑しい音を出すスピーカー、アンプがあるのは事実で、倫理観念に欠けるリスナーほどその辺の音のちがいを聴きわけられずに平然としている。そんな音痴を何人か見ているので、オーディオサウンドには、厳密には物理特性の中に測定の不可能な音楽の倫理的要素も含まれ、音色とは、そういう両者がまざり合って醸し出すものであること、二流の装置やそれを使っているリスナーほどこの点に無関心で、周波数特性の伸び、歪の有無などばかり気にしている。それを指摘したくて、冒頭のマーラーの言葉をかりたのである。
*
区別をつけるに求められるのは、倫理だと思っている。
倫理を無視したところで差別が生じていくとも思っている。
倫理を曖昧にすれば、区別も曖昧になる。
時代の軽量化とは、こういうことでもあるのだろう。
(その3)で、「毒にも薬にもならない」音が増えてきているのは、
誤解されたくない、という気持が根底にあるからではないだろうか──、と書いた。
では、なぜ誤解されたくない、という気持はどこから生れてくるのか。
一つには、人に音を聴かせるからだろう、と思っている。
インターネットの普及によって、
それまで接点のなかったオーディオマニアのあいだにつながりが生れ、
互いの音を聴く、ということがあたりまえのように行われようになったし、
そのことを個人サイトやブログ、ソーシャルメディアで、どうだったのかを公開する。
インターネット普及以前は、初対面の人の音を聴きにいくということは、
そうそうなかった。
共通の知人がいれば、そういうこともあったけれど、いまは違う。
そのことが悪いこととは思っていないけれど、
そのことが誤解されたくない、という気持を生む下地になってきているのではないだろうか。
人に聴かせなければいい。
私はそう考える人間だ。
誰にも聴かせなければ誤解も生じない。
もっとも誰にも聴かせなければ、褒めてもらうこともなくなるわけだが。
いい音ですね、素晴らしい音ですね、と認めてもらいたい、褒めてもらいたい気持と、
絶対に誤解されたくないという気持。
それを両立させるのが、オーディオのあり方なのだろうか。
不遜な人たちが現れるようになってきたのも、
時代の軽量化なのだろうか。
先週の金曜日、ある人のお宅で四人集まっての軽い飲み会だった。
四人とも音楽好きで、音に関心をもつ。
オーディオ歴はそれぞれだが、四人ともオーディオ好きといっていい。
音楽、音、オーディオのことを中心に、五時間ほどいろんなことを話していた。
楽しかったわけだが、
帰り道、こんなに楽しかったのはどうしてなのか、とふと考えていた。
こまかな理由はいくつかあるように思うけれど、
いちばん大きいのは、巧言令色鮮矣仁とは無縁だったから、と私は思っている。
ききての、感覚も、精神も、当人が思っているほどには解放されていないし、自由でもない。できるだけなにものにもとらわれずきこうとしているききてでさえ、ききてとしての完全な自由を自分のものにしているわけではない。
*
ステレオサウンド 56号に、黒田先生が、こう書かれていた。
「異相の木」というタイトルで、ヴァンゲリスの音楽について書かれている。
そのとおりだ、と読んだ時も思ったし、
それから四十年が経っても、そう思う。
私は、そう思うわけだが、そう思わない人もまた少なくないことを知っている。
感覚も、精神も、あらゆることから解放されている──、そう思っている人がいる。
あらゆることから、とするのがオーバーなら、
オーディオから解放されている、でもいい。
そう思い込める人、
思い込んだら、なんの疑いも持たない人、
そういう人がいる、という事実。
《ききてとしての完全な自由》、
オーディオを介して音楽を聴くききてとしての完全な自由。
それを自分のものにしているといえる人になりたい、とは思わない。
時代の軽量化をいうことを、なんとなくではあるが考えるようになったのには、
小さなきっかけがある、といえばある。
オーディオの才能と資質についてぼんやり考えていた。
いま、私と同じだけの、オーディオの才能と資質をもつ若い人がいた、としよう。
20代でも10代でもいい。
その人が、これから先、どんなにかんばっても、
私とおなじにはなれないだろう、というよりもなれない、と断言できる。
それは私が恵まれていたからだ。
あの時代に10代だった、ということ。
ぎりぎり10代のうちに、ステレオサウンドで働くようになったこと。
これから先、
私と同じくらいの若さでステレオサウンドで働くようになる人は現れるかもしれない。
それでも私がいたころといまとでは、大きく違いすぎる。
あのころいた人たちは、もうみないなくなってしまった。
井上先生も、上杉先生も、岡先生も、黒田先生も、
菅野先生も、長島先生も、山中先生も、みないない。
岩崎先生、五味先生とは会えなかった。
瀬川先生とはステレオサウンドでは会えなかったけれど、
熊本のオーディオ店でも何度も会えた。
ほんとうに、みないない。
どれだけオーディオの才能と資質に恵まれていようと、
それだけでは、もう無理なのだ。
「五味オーディオ教室」に、
「聴き手の好みより、再生装置がレコードを選ぶ」という章がある。
*
わかりすぎている話で今さらめくが、さまざまな再生装置は、極言すればその数だけのベートーヴェンやモーツァルトの音楽をもつ。私の言いたいのは、だからこそ再生装置の吟味に慎重でありたいし、よりよいものを欲求するのである。いつも言うことだが、一人の男がレコードを集めるとき、彼の再生装置が、おのずからレコードを選択している。彼自身の好みより、この機械のなす選択のほうが、歳月を経るにつれて、強くなる。しょせん音楽を機械で楽しもうなどという文化人は、機械に復讐されるのかもわからない。
*
これを読んでいたから、
「音は人なり」だけでなく、「人は音なり」ということを考えてしまうし、
「人は音なり」について、何度か書いてもいる。
再生装置がレコードを選ぶ──、
このことに納得するのがオーディオマニアで、
そんなことはない、と否定するのが音楽愛好家──、
という気はまったくない。
それでもなかには、
あくまでも聴きたい音楽(録音物)が主であり、
オーディオは従でしかない、
自分が、気に入ったレコード(録音物)を、
気に入った音で鳴らすオーディオを選んでいるし、
そうチューニングしている、という人がきっといることだろう。
ずっと以前から、そういう人はいた。
いまもいる、と思う。
だからといって、そういう人に問いかけたいことはない。
自問自答することであって、誰かがその人に向っていうことではない。
「人は音なり」ということを、そういう人はおもったことすらないのだろう。