Archive for category 表現する

Date: 6月 1st, 2020
Cate: 表現する

夜の質感(バーンスタインのマーラー第五・その4)

ここでのアパッチとは、アメリカインディアンの部族名である。

「死の舞踏」がアパッチの踊りでは困るわけだが、
それでも実演であっても、どれだけ「死の舞踏」たりえているのかは、
当時でも疑問に感じていた。

けれどレコードを疑っていては、オーディオはできない。
それに「死の舞踏」を、バーンスタインのマーラーの録音から、
つまり旧録音から五味先生は感じとられていた、ということだ。

少なくとも五味先生のリスニングルームでは、
《悪魔が演奏するようにここは響いて》いるわけだ。

だからこそアパッチの踊りでは困る、とされている。

でも、いま読み返して、アパッチの踊りならば、まだいいほうじゃないか、と思っている。
(その2)で書いた人のリスニングルームでは、
バーンスタインの第五(新録音)が、
どう聴いてもウィーンフィルハーモニーが演奏しているとは思えないし、
それこそチンドンヤのように鳴っているだけである。
響いてもくれない。

別項「五極管シングルアンプ製作は初心者向きなのか」で、
《他人(ヒト)とは違うのボク。》と書いた。

確かにオーディオの自作の理由、大義名分はこれである。
けれど、出てくる音までが、極端に《他人(ヒト)とは違うのボク。》になってしまうと、
バーンスタインのマーラーの第五がチンドンヤ的に成り果ててしまう。

そこで、何を疑うのか。
自作スピーカーで聴いている、その人は、スピーカーの出来に自信をもっている。
それは悪いことではない。

けれど、バーンスタインのマーラーを「ラウドネス・ウォーだね」といってしまったのは、
明らかに自身のスピーカーではなく、
本来疑うべきではないレコード(録音)を疑ったことになる。

Date: 6月 1st, 2020
Cate: 表現する

夜の質感(バーンスタインのマーラー第五・その3)

書いていくことで思い出すことが次々と出てくることがある。
今回も「五味オーディオ教室」にあったことを思い出した。
     *
 最近、私は再生装置がもたらす音楽に、大変懐疑的になった。これまでずいぶん装置を改良するのに無駄金をつかい、時にはベソをかきながらつかい、そのたびによくなったと思ってきた。事実よくなっているらしい。人さまのどんな装置を聴かされても、うらやましいとはもう思わないし、第一、音がよかったためしがない。私ごとき音キチにこれは大変なことで、要するに、わが家の再生音は家庭でぼくらが望み得るもっとも良質な音のひとつを響かせているからだろう。
 が、装置のグレード・アップが、果たしてレコードの《音楽》そのものをグレード・アップしているか。いい演奏、いい録音、いい再生装置——これらは家庭で音楽を鑑賞するわれわれに重要な三条件だと、そう単純に私は考えてきたが、どうやら違う。
 いい演奏者といい録音、これはまあレコード会社にまかせるしかないが、どういう装置を選択するかで、究極のところ、演奏と録音をも選んでいる──その人の音楽的教養(カルショーの言う審美眼)は、再生装置を見ればうかがえると、私は思ってきた。しかし間違っていたようである。
 芦屋の上杉佳郎氏(アンプ製作者)を訪ねて、マーラーの交響曲〝第四番〟(バーンスタイン指揮)を聴いたことがある。マーラーの場合、第二楽章に独奏ヴァイオリンのパートがある。マーラーはこれを「死神の演奏で」と指示している。つまり悪魔が演奏するようにここは響いてくれねばならない。上杉邸のKLHは、どちらかというと、JBL同様、弦がシャリつく感じに鳴る傾向があり、したがって弦よりピアノを聴くに適したスピーカーらしいが、それにしても、この独奏ヴァイオリンはひどいものだった。マーラーは「死の舞踏」をここでは意図している。それがアパッチの踊りでは困るのである。レコード鑑賞する上で、これは一番大事なことだ。
     *
「五味オーディオ教室」を最初に読んだのは、13歳のとき。
マーラーの交響曲も何ひとつ聴いていなかった。
バーンスタインの名前は知っていても、
バーンスタインの演奏も何ひとつ聴いていなかった。

なので、そういうこともあるのか……、と思いつつ読んでいた。
「死の舞踏」がアパッチの踊りに変じてしまうのか。

そして、この時は、KLHがどういうスピーカーなのかも知らなかった。
上杉先生が鳴らされていたKLHは、屏風状のコンデンサー型スピーカーであることを知ったのは、
「五味オーディオ教室」から、そう経たずに手にした「コンポーネントステレオの世界 ’77」、
その巻末にリスニングルームがいくつか紹介されていた。

そこにKLHのスピーカーが写っていた。
といっても、上杉先生の部屋ではない。

それでもKLHがどういうスピーカーなのか、
少なくとも見た目だけはわかったし、
そのころには、ヴォーカルや弦の再生には、コンデンサー型が向くようなことは、
何かで読んでいた。

だから、「五味オーディオ教室」を何度目かの読み返しのときには、
それでも「死の舞踏」がパッチの踊りに変じてしまう、その理由について考えていた。

それにだが、
レコードから《悪魔が演奏するようにここは響いてくれ》るような音が鳴ってくるのか。
そういう音を鳴らすことそのものが、そうとうに難しいことなのではないのか。

そんなことを「五味オーディオ教室」をくり返し読むたびに考えていた。
ひたすら想像するしかなかったころのことだ。

Date: 5月 31st, 2020
Cate: 表現する

夜の質感(バーンスタインのマーラー第五・その2)

バーンスタインのウィーンフィルハーモニーとのマーラーの交響曲第五番には、
バーンスタインによるマーラーならではの毒がある。

けれど、その毒を腑抜けにしてしまう音も、世の中にはある。
そういう音を好む人も、世の中にはいる。

そういう音を好む人が少なからずいるから、
私が、まったくいいとは思わない演奏が、世の中にはけっこう多くあるのか──、
とも思う。

ここでも、毒にも薬にもならない、ということを考えるわけだが、
そういえばと思い出すことを(その1)に書いていた。

四年前に書いている。
その時は、(その1)とはつけていなかった。
「夜の質感(バーンスタインのマーラー第五」がタイトルだった。

いま「毒にも薬にもならない」音について書いている。
昨晩、また違う意味での「毒にも薬にもならない」音になるのか、と思い出したから、
タイトルに(その1)とつけて、今日、この(その2)を書いている。

その音は、個人のリスニングルームでの音だった。
自作のスピーカーシステムだった。
(その1)にも書いているように、
中高域での機械的共振が著しくひどい構造であり、
オーケストラが総奏で鳴ると、もうどうしようもないくらいに聴感上のS/N比が悪くなる。

けれど、このスピーカーを自作した人は、そのことに気づかずに、
バーンスタインのマーラーの第五の録音を「ラウドネス・ウォーだね」と一言で決めつける。

スピーカーは耳の延長だ、ということがいわれる。
どういうスピーカーで聴くか、ということは、使いこなし以前に、
己の耳だけでなく、音楽を聴く感性をも、歪めてしまうことだってある。

その人が「ラウドネス・ウォーだね」といいたくなる気持はわからないではなかった。
そんな感じを人に与えるような音で、バーンスタインのマーラーが鳴っていた。

けれど、それは録音の所為ではない。
自作スピーカーの所為であることは明らかなのだが、本人だけが気づいていない。

そんなスピーカーから鳴ってきたバーンスタインのマーラーの第五には、
もう毒はなかった。
毒が抜かれてしまった、というのではなく、毒が変質してしまっていた。

Date: 5月 23rd, 2019
Cate: 表現する

自己表現と仏像(その7)

その6)を書いたのはほぼ二年前。
どんなことを書いていくのかは、だいたい決めていた。
なので書こうと思えば書けないわけではなかったのに、
ここでも二年経ってしまった。

でも思うのは、ここを読んでいる人のなかに、
手塚治虫の「火の鳥」鳳凰編を読んでいる人がどのくらいいるのか、だ。

鳳凰編に片目・片腕の我王と、仏師の茜丸のふたりが登場することは、
(その2)に書いた。

我王は粗野な男だ。
茜丸はそうではない。
風貌も、我王と茜丸はひどく違う。

こんなことを書いていくのか……、とおもって、今日まで書かずにいてしまった。
「火の鳥」鳳凰編を、まず読んでほしい、とおもう。

読んでもらえば、私がここでのテーマで書きたいことは、
ほぼ伝わるはずだ。

「オーディオ(音)は自己表現だ」的なことは、我王ならば絶対にいわない、

Date: 10月 21st, 2018
Cate: 表現する

音を表現するということ(間違っている音・その10)

(せいかく)な音には、正確な音と精確な音とがある。

正確は、正しく,たしかなこと、まちがいのないこと、また,そのさま、
精確は、詳しくてまちがいのないこと、精密で正確なこと、また,そのさま、
と辞書にはある。

大きく意味が違うわけではないが、
正確な音と精確な音は、微妙なところで違いを感じるからこそ、
これまでは使い分けてきた。

正確な音と正しい音は、どう違うのか、と考える。
正しい音に確かさが加われば、正確な音となるのか。
正しい音には、元来確かさがあるのではないか。

そんなことを考えていると、正直な音ということが浮んでくる。
正直とは、うそやごまかしのないこと、うらおもてのないこと、また,そのさま、である。

間違っている音を出していた男に欠けているものを考えていたら、
「正直な音とは」が浮んできた。

Date: 10月 10th, 2017
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音を表現するということ(間違っている音・その9)

間違っている音を出していた男は、
オーディオの使いこなしに自信をもっている。

何故、彼が自信をもつに至ったかについては書かないが、
その自信は、本当の実力に裏打ちされたものだったのか。

本人はナルシシストであるから、きっと、そう思っているはずだ。
だがオーディオは、その場で、スピーカーから鳴ってくる音だけ、である。
肝心の音が、実力に裏打ちされていなければ、
彼がどんなに使いこなしに自信をもっていようと、
それは自己満足の技術でしかない。

数年前の私だったら、これがオーディオの罠だ、と書くところだが、
結局は本人の未熟さゆえである。

何故未熟なのか。
自己満足の技術しか持たないからである。

何故自己満足の技術から脱することができないのか。
ナルシシストだから──、だけがその理由ではないと思う。

Date: 9月 26th, 2017
Cate: 表現する

音を表現するということ(間違っている音・その8)

間違っている音を出していた男は、はっきりとナルシシストである。

本人にその自覚があるように感じるときもあれば、
そうでないように感じるときもあったから、
本人が自覚していたのかどうかははっきりしないが、
少なくとも私だけでなく、間違っている音を出していた男とつきあいのあった人の多くが、
ナルシシストだといっているから、
私だけのひとりよがりではないのだろう。

別にナルシシストであってもいい。
けれど、それがことオーディオ、音に関係してくると、
どうしても何か言いたくなるのが、私の性格だ。

間違っている音を出していた男は、
「瀬川先生の音を彷彿させる音が出ているから、来ませんか」と私を誘った。
七年前のことだ。

その6)でも書いているように、
彼は瀬川先生に会ったことはない。
あったことがないのだから、瀬川先生の音を聴いてもいない。

にも関らずナルシシストの彼は、
「瀬川先生の音を彷彿させる音が出ているから、来ませんか」と恥ずかしげもなくいう。
そのとき、たいしたナルシシストだ、と思っていた。

もちろん彼の音が、瀬川先生の音を彷彿とさせるなんて、
まったく期待していなかった。
それでも、彼なりの、ナルシシストとしての美意識が反映された音であるならば、
聴いてみたいという好奇心はあった。

けれど、そこで鳴っていたのは、
残念なことに美的ナルシシズムではなく、醜的ナルシシズムとしかいいようのない音だった。

美少年も歳をとる。
皺が増え、皮膚も弛んでくる、
体形も変ってくる、腰まわりには脂肪がついてくるし、
髪の毛だって白髪になったり、抜け毛も増えてこよう。

ナルキッソスはそうなっても、己の姿を水に映してうっとりするのだろうか。
もっともナルキッソスは、その前に死んでいるのだが。

だが現実のナルシシストは、みな老いていく。

Date: 7月 30th, 2017
Cate: 表現する

自己表現と仏像(その6)

十年前に初めて京都に行った。
帰る日の午前中にすこし時間の余裕があったので、東寺に行った。
時間つぶしのつもりだった。

せっかく来たのだから仏像を、と軽い気持だった。
仏像を見たことがなかったわけではないが、
東寺の仏像はそれまでのみてきた仏像の印象とはまるで違ってみえた。
圧倒された。

40すぎて、やっと仏像に興味を持つようになった。
興味をもったからといって、特に詳しいわけではない。
仏像、いいな、とおもう程度になったくらいでしかない。

いま仏像は静かなブームのようだ。
表参道にあるイスムは、繁盛している、ときいている。
友人のAさんも、ここで阿修羅像を買った、といっていた。
仏像のフィギュアも、いまでは珍しくない。
浅草の土産店でも、小さな仏像が売られている。

買いたい、と思うモノもある。
けれど、いまのところ、まだ買っていないのは、
仏像は、自分の手でつくるものではないか、と思うようになってきたからだ。

Date: 2月 5th, 2017
Cate: 表現する

自己表現と仏像(その5)

「オーディオ(音)は自己表現だ」と強く主張する人がいる。
誰か特定の人を指して書いているのではなく、
そう主張する人は意外にも多い。

「オーディオ(音)は自己表現だ」をきくたびに、げんなりする。
昔はそうではなかった。
「オーディオ(音)は自己表現だ」をきいても、げんなりすることはなかった。

それがここ十年くらいか、げんなりするようになってきている。

「音は人なり」といわれている。
「音は人なり」をきいてげんなりするかといえば、そんなことはない。

「オーディオ(音)は自己表現だ」と「音は人なり」。
似ているけれど、同じことをいっているわけではない。

「オーディオ(音)は自己表現だ」にげんなりするのは、
これを口にする人によっては「音は人なりだろ」といいたげなのが感じとれたりするからなのかもしれない。

「オーディオ(音)は自己表現だ」にげんなりすることが増してくるにつれて、
仏像について考えることも増えてきている。

いい音を求めていく行為は、仏像を彫っていく行為に近いような気がしはじめている。

Date: 7月 28th, 2016
Cate: 表現する

音を表現するということ(間違っている音・その7)

ここで書きたいと考えていることは、
二年前に書いた「オーディオマニアとして(グレン・グールドからの課題)」につながっていく。
     *
芸術の目的は、神経を昂奮させるアドレナリンを瞬間的に射出させることではなく、むしろ、少しずつ、一生をかけて、わくわくする驚きと落ち着いた静けさの心的状態を構築していくことである。われわれはたったひとりでも聴くことができる。ラジオや蓄音機の働きを借りて、まったく急速に、美的ナルシシズム(わたしはこの言葉をそのもっとも積極的な意味で使っている)の諸要素を評価するようになってきているし、ひとりひとりが深く思いをめぐらせつつ自分自身の神性を創造するという課題に目覚めてもきている。
     *
このグレン・グールドの文章を引用するのは四回目になるか。
ここにもナルシシズムが出てくる。
しかも美的ナルシシズムとある。

グレン・グールドがナルシシズムの語源を知らないわけがない。
にも関わらず、美的とつけている。

ならば醜的ナルシシズムがあるのか、と考える。
美的ナルシシズムの諸要素、醜的ナルシシズムの諸要素とは、どういったことなのか。

Date: 7月 28th, 2016
Cate: 表現する

音を表現するということ(間違っている音・その6)

その2)の続きにもどろう。

間違っている音を出していた男は、
私に「瀬川先生の音を彷彿させる音が出ているから、来ませんか」と誘った。

間違っている音を出していた男は、瀬川先生と一度も会ったことがない。
東京で暮していて、
あのころ瀬川先生が定期的に来られていたメーカーのショールームにいつでも行ける環境にいながら、
一度も足を運んだことがない男でもある。
そして、一度も会えなかった、と嘆く。

彼は、別項で書いた知人である。
その程度の読み方しかしてこなかった男が、「瀬川先生の音を彷彿させる音」といっていた。

そういう時にかぎって、ひとりよがりな音を出していることが多い人だ。
だからその時もそうなんだろう、と思って出掛けていた。

ひよりよがりな音を、私は間違っている音といっているのではない。
この時の彼の音は、ひとりよがりの音といってすまされるのを逸脱していた。

だから「間違っている音」は、私にとっては二重の意味があるわけだ。

Date: 7月 28th, 2016
Cate: 表現する

音を表現するということ(間違っている音・その5)

バーンスタインのマーラー第五をラウドネス・ウォー的に鳴らしてしまう間違っている音。
これは音量に関係してくることであり、
facebookにも音量に関係するコメントがあった。
そのことについて触れておきたい。

たとえばハープシコードを,いわゆる爆音と表現されるほどの大音量で鳴らしたとする。
これは間違っている音といえるのだろうか。
そうだと答える人もいるし、違うと答える人もいる。

ハープシコードを爆音で鳴らす行為を、日本では下品なこと、とか、教養のないこと、
そんなふうに受け取られる傾向にある。

ハープシコードを爆音で鳴らすのが間違っている音とするならば、
オーケストラを小音量で鳴らすのも間違っている音になるのが、理屈である。

なぜか日本ではひっそりとした小音量で鳴らすのは、教養ある行為として認められる。
おかしなことではないか。
オーディオには、聴き手が音量を自由に設定できる(近所迷惑にならない範囲で)。

小音量でのオーケストラは、ガリバーが小人のオーケストラを聴く印象につながっていくのであれば、
大音量でのハープシコードは、巨人の国に迷い込んで彼らを演奏を聴くともいえる。

片方の世界へは想像力が働くのに、もう片方の世界には働かないのだろうか。
菅野先生が以前から指摘されていることなのだが、
映像の世界では、映画館の大きなスクリーンいっぱいに人の顔が映し出される。
けれどそれを実際の人の顔よりも何倍も大きいから不自然であるとか、
表現として間違っているとは思わないのに、これが音の世界になると、人の許容範囲は狭まる。

それが視覚と聴覚の違いだ、といってしまえばそれまでだが、
間違っている音と音量の関係についてはそれぞれが自分がなぜなのか、と考えほしい、と思う。

意外にも受け容れられる音量の範囲が、人それぞれに決っている、
もしくは無意識のうちに決めてしまっているのかもしれない。

音量と再生音について書いていくと、この項が先に進めなくなるのでこのあたりにしておくが、
いずれ項を改めてきちんと書いていくつもりだ(かなり先になりそうだが)。

Date: 7月 28th, 2016
Cate: 表現する

音を表現するということ(間違っている音・その4)

別項「夜の質感(バーンスタインのマーラー第五)」で書いたことを、ひとつの例としてあげておこう。

この人は、バーンスタインのマーラーの交響曲第五番(ドイツ・グラモフォン盤)を鳴らしてもらったら、
「この録音、ラウドネス・ウォーだね」といわれた。

こういうふうに間違った録音の判断をさせてしまう音も、
間違っている音のひとつといえる。

この人は私よりも一世代上の人で、オーディオのキャリアも長いはずだ。
けれどバーンスタインのマーラー第五をラウドネス・ウォー的に聴かせてしまう音、
彼自身のシステムを少しも疑っているところはない。

この人にはそこそこ長いつきあいのあったオーディオ仲間がいた。
彼は、この人の音(システム)の欠点(間違っている音)に気づいていた。
それでさりげなく指摘したそうだ。

それだけが理由ではないようだが、この指摘がひとつのきっかけとなってしまい、
気まずい仲になってしまったようだ。

この人は、この人自身の表現の結果としての音、
それも長い時間をかけてつくり上げてきた(自作スピーカーでもある)システムであるだけに、
その指摘に対しての反応は、理性的というより感情的であったようだ。

この人の反応は理解できないことではないが、
それでも……、と私は思う。
指摘してくれた人も、どうしようかずいぶん迷ったはずだと思う。
いわずにおけば気まずい仲になることはない。
でも、イヤミとかそういったことではなく、
もっと良く鳴らしてほしい、という気持からの指摘であったのではないか。

だが結果としてすれ違いがうまれてしまった。
おそらく、この人はバーンスタインののマーラーをラウドネス・ウォーと感じさせる音で、
これから先もずっとずっと聴いていくのかもしれない。

Date: 7月 28th, 2016
Cate: 表現する

音を表現するということ(間違っている音・その3)

(その2)に対して、facebookにコメントをもらった。

私が間違った音とは表現した音は、
出している本人にとっては真当な音だったのでは……、というものだった。

その1)を書いたのは六年前だから、
読まれた方でも内容を憶えている人の方が少ないはずだし、そう受け取られるのも仕方ない。
(その1)を読まれて、納得された。

(その1)を、このブログを読んでいる人がすべて読み返してくれるとは限らないし、
少し説明を加えておきたいこともある。

オーディオマニアの中には、間違っている音なんて、存在しない。
それはあなたの独善的な判断でしかない、という反論もあろう。

たとえば左右チャンネルを逆にして音を出す。
左チャンネルの音を右チャンネルのスピーカーから出す、というのは、明らかに間違っている。

別項で書いた、あるオーディオのライターの話
片チャンネルだけが逆相で鳴っていたのに気づかなかった、というのも、
そこで鳴っていた音は間違っている。

オーディオには録音・再生の約束事がある。
その基本的な約束事から外れてしまった、これらの音は初歩的な間違っている音である。
凡ミスによる間違えてしまった音である。

この項のタイトルは、「音を表現するということ」だ。
ここでの間違っている音とは、表現の結果としての間違っている音である。

Date: 7月 28th, 2016
Cate: 表現する

音を表現するということ(間違っている音・その2)

間違っている音を出していた男は、
間違っている音に惚れ込んでいた(少なくともその時はそうだった)、
酔いしれていた、といいかえてもいい。

間違っている音を出していた男のつきあいは長かった。
言いたいことをいってきた間柄だったし、率直な意見を聞かせてほしい、ともいわれた。
だから、おかしい音、間違っている音だ、と答えた。

これが間違っている音を出していた男のプライドをひどく傷つけたようだ。
間違っている音を出していた男とのつきあいはそれっきりになってしまった。

間違っている音に酔いしれていた、と私は感じた。
つまり間違っている音を出していた男に、ナルシシズムを感じた、といえるのか。

ナルシシズムは、ギリシャ神話に由来した言葉だ。
ナルキッソスは、水に映るわが姿に恋して死す。

ナルキッソスは美少年である。
ここで重要なことだ。
ナルキッソスの美貌と間違っている音は、美しさにおいてまったく違うもの。

少なくともナルシシズムが成り立つためには、ナルキッソスのような美貌がなければならない。
ナルキッソスの美貌に匹敵するほどの美しい音でなければならないとすると、
間違っている音は美しい音とはいえない。

その間違っている音を聴いて、うっとりする。
これはナルシシズムとはいえないはずだ。

ナルシシズムに必要なことが欠如しているのだから。
そうなると間違った音を出していた男が醸し出していたのは、なんといったらいいのか。