夜の質感(バーンスタインのマーラー第五・続コメントを読んで)
テレビの音。
オーディオマニア的には褒め言葉ではない。
それでも、テレビの音とは、ひどいのかといえば、そうではない、と、
ブラウン管時代のテレビで育った世代のなかに、そう思う人もいよう。
五味先生の書かれたものから、テレビの音に関するところを引用しておく。
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だが、重ねて私は言うが、たとえばテレビのピアノ・リサイタルを視聴して、演奏がわからなかったと諸君はいうだろうか? テレビが出す音域などたかが知れている。少なくとも本誌を購読する程の諸君なら、テレビの音響部品よりは高忠実度の装置で聴いているだろう。むろんテレビはスピーカーも小型だし、ステレオのようにボリュームをあげる必要もない。却ってだから聴きやすい、という利点はある。しかし私の経験で言うが、テレビの音からでさえ弾かれているピアノが、スタンウェイかヤマハかはピアノが画面に映らなくったって分る。耳がいいからだと言ってくれた人がいるが、そうではない。ヤマハとスタンウェイでは低音のひびき方がまったく違う。音の深さが違う。馴れれば容易にきき分けられる。じつは、それほどヤマハの低音はまだまだだと言えるが、問題にしているのは再生音だ。つまりテレビ程度のスピーカーやアンプでさえ、ピアノの違いは出るのである。
(「芥川賞の時計」より)
いまから七年前、ミュンヘン・オリンピックが開催されたとき、その実況が宇宙中継によりNHKテレビで放送された。その時のテレビから聴こえる音声、とりわけオリンピック・スタジアムの拡声器から流れるアナウンサーの声の明瞭度の良さに舌を巻いた記憶がある。このことは当時われわれオーディオ仲間のあいだで話題となったが、それ以後のオリンピックの実況放送では、ついぞ聴くことのできぬすぐれた音質だった。
ドイツの音響機器が優秀なのは、ミュンヘン・オリンピック・スタジアムに限らない。ドイツの各地を私が旅行したおり、どんな田舎でもパブリックな場所での音響設備のゆき届いた配慮には驚いたものである。日本国内での公共施設に見られる拡声装置の音質の悪さとは雲泥の差だ。パブリック・アドレスの音質の良否は、つまりはその国の文化水準を計る尺度になるという恐さを、我々は知っておかねばならない。
(「続オーディオ巡礼(二)」より)
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五味先生がどんなテレビで視聴されていたのかはしらないが、
「続オーディオ巡礼(二)は、1979年の話だ。
たぶんそのテレビについていたのは、フルレンジのスピーカーだろう。
そんなスピーカーでも、わかることがあるわけだ。
印象というのは、常に上書きされていってしまう面があるから、
この時代のテレビの音を聴いていた世代であっても、
テレビの音の印象は、そのあとに聴いたテレビの音によって上書きされていても当然だろう。