自己表現と仏像(その5)
「オーディオ(音)は自己表現だ」と強く主張する人がいる。
誰か特定の人を指して書いているのではなく、
そう主張する人は意外にも多い。
「オーディオ(音)は自己表現だ」をきくたびに、げんなりする。
昔はそうではなかった。
「オーディオ(音)は自己表現だ」をきいても、げんなりすることはなかった。
それがここ十年くらいか、げんなりするようになってきている。
「音は人なり」といわれている。
「音は人なり」をきいてげんなりするかといえば、そんなことはない。
「オーディオ(音)は自己表現だ」と「音は人なり」。
似ているけれど、同じことをいっているわけではない。
「オーディオ(音)は自己表現だ」にげんなりするのは、
これを口にする人によっては「音は人なりだろ」といいたげなのが感じとれたりするからなのかもしれない。
「オーディオ(音)は自己表現だ」にげんなりすることが増してくるにつれて、
仏像について考えることも増えてきている。
いい音を求めていく行為は、仏像を彫っていく行為に近いような気がしはじめている。