目であるく、かたちをきく、さわってみる。
「目であるく、かたちをきく、さわってみる。」が、
近所の書店に平積みされていた。
八年ほど前に復刊された本なのに、なぜか、その書店のいちばんいいところに置かれていた。
マーシャ・ブラウンの名は知っていたが、
この本のことは知らなかった。
「かたちをきく」。
オーディオを介して音楽を聴くということは、
まさしく「かたちをきく」ことかもしれない。
「目であるく、かたちをきく、さわってみる。」が、
近所の書店に平積みされていた。
八年ほど前に復刊された本なのに、なぜか、その書店のいちばんいいところに置かれていた。
マーシャ・ブラウンの名は知っていたが、
この本のことは知らなかった。
「かたちをきく」。
オーディオを介して音楽を聴くということは、
まさしく「かたちをきく」ことかもしれない。
岡本かの子の「金魚撩乱」を、今日知った。
いつからなのか美魔女なる言葉を、頻繁に目にするようになった。
調べてみると、光文社の商標登録になっている。
才色兼備の35歳以上の女性を指し、魔法をかけたかのように美しい、という意味とある。
美・魔女なのか、美魔・女なのか。
美魔・女だとしたら、美魔という表現があるのかと思い、検索してみた。
そうやってたどりついたのが「金魚撩乱」だ。
この作品に、美魔(びま)が出てくる。
*
マネキン人形さんにはお訣れするのだ。非人間的な、あの美魔にはもうおさらば。さらば!
*
美魔女はここからヒントを得たのだろうか。
だとしたら、美魔・女ということになるが、美魔女について、もうどうでもいい。
美魔であり、マネキン人形さんとは、真佐子のことだ。
復一の心情である。
オーディオマニアも、美魔にとり憑かれているのかもしれない──、
そんなことを思いながら読んでいた。
「金魚撩乱」の最後を引用しておく。
*
「これこそ自分が十余年間苦心惨憺して造ろうとして造り得なかった理想の至魚だ。自分が出来損いとして捨てて顧みなかった金魚のなかのどれとどれとが、いつどう交媒して孵化して出来たか」
こう復一の意識は繰り返しながら、肉情はいよいよ超大な魅惑に圧倒され、吸い出され、放散され、やがて、ただ、しんと心の底まで浸み徹った一筋の充実感に身動きも出来なくなった。
「意識して求める方向に求めるものを得ず、思い捨てて放擲した過去や思わぬ岐路から、突兀として与えられる人生の不思議さ」が、復一の心の底を閃めいて通った時、一度沈みかけてまた水面に浮き出して来た美魚が、その房々とした尾鰭をまた完全に展いて見せると星を宿したようなつぶらな眼も球のような口許も、はっきり復一に真向った。
「ああ、真佐子にも、神魚華鬘之図にも似てない……それよりも……それよりも……もっと美しい金魚だ、金魚だ」
失望か、否、それ以上の喜びか、感極まった復一の体は池の畔の泥濘のなかにへたへたとへたばった。復一がいつまでもそのまま肩で息を吐き、眼を瞑っている前の水面に、今復一によって見出された新星のような美魚は多くのはした金魚を随えながら、悠揚と胸を張り、その豊麗な豪華な尾鰭を陽の光に輝かせながら撩乱として遊弋している。
*
復一がめざしていた金魚造りは、そのままオーディオマニアの行為そのものの描写のようでもある。
薬師丸ひろ子の「セーラー服と機関銃」の三番の歌詞、
スーツケース いっぱいにつめこんだ
希望という名の重い荷物を
君は軽々と きっと持ちあげて
笑顔見せるだろう
このところを聴きたくて、最初から聴いているところが私にはある。
だから「セーラー服と機関銃」を聴くときは、最後まで聴く。
ここのところの歌詞、
そういえば、と思い出した。
ステレオサウンド 38号で黒田先生が岩崎先生の音について書かれている。
《さびしさや人恋しさを知らん顔して背おった、大変に男らしい音》だと。
だから憧れるのか。
風響社から「音楽を研究する愉しみ」が出ている。
さきほど知ったばかりの本だ。
リンク先には目次と内容説明がある。
これだけで面白そうだな、と思えてきた。
南米、タイ、韓国、中国、ミャンマーの音楽についての研究の本のようだ。
南米音楽は聴くけれど、タイ、韓国、中国、ミャンマーの音楽にはさほど興味がない、
韓国の音楽は好きだけれど……、
そういう人は私も含めて少なくはないように思う。
南米、タイ、韓国、中国、ミャンマーの音楽すべてをかなり聴きこんでいる人は、
どれぐらいいるのだろうか。
だからといって、この本には関心がない、といってしまうのは勿体ないように思う。
まだ読んでいない、手にとってすらいない本なのだが、
「音楽の愉しみ」ではなく、「音楽を研究する愉しみ」であり、著者は五人、
学問分野や方法論の違いが当然あるはずだ。
そのうえでの「音楽を研究する愉しみ」である。
2018年9月に出た“CHARLES MUNCH/THE COMPLETE RECORDINGS ON WANER CLASSICS”。
この13枚組のCDボックスから、今年6月に、
パリ管弦楽団とのブラームスの交響曲第一番とベルリオーズの幻想交響曲が、MQA-CDで発売になった。
ほかの曲はどうなのだろう、とまたまたe-onkyoを検索してみると、
昨年のCDボックス発売にあわせて、四枚が配信されていることを、いまごろ知った。
ブラームスの一番は、先月のaudio wednesdayでかけた。
早い時間に第一楽章を、
終り近くで第四楽章をかけた。
ミュンシュのパリ管弦楽団を振ってのブラームスは、
宇野功芳氏と福永陽一郎の両氏は、
フルトヴェングラー以上にフルトヴェングラー的である、
最上のフルトヴェングラーだ、
そういうふうに高く評価されている。
フルトヴェングラーのブラームスは、モノーラルしかない。
仕方ないといえばそれまでだが、ミュンシュ/パリ管弦楽団は1967年のステレオ録音である。
最上のフルトヴェングラーといいたくなる気持は、聴けば納得できる。
特に第四楽章は、圧倒的というか圧巻だ。
フランス人の指揮者で、フランスのオーケストラ。
そんなふうには誰も感じないはずだ。
奇蹟のような名演、と表現してしまうと、大袈裟な……、と感じてしまう人が必ず出てくる。
MQA-CDには、
《特に終楽章の高揚感と壮麗な表現は大きな感動を呼びます》とある。
決して誇張ではないし、
この演奏が聴けることこそ、オーディオの醍醐味とさえいえる。
谷崎潤一郎の「陰翳礼讃」こそ、
いまどきのオーディオマニア(あえて、こんな表現にしている)が読むべき一冊である。
フォーレのレクィエムの名盤といえば、以前はクリュイタンス盤だった。
いまはどうなのだろうか。
クリュイタンスのフォーレのレクィエムには、モノーラル録音とステレオ録音とがある。
名盤としてよく知られているのはステレオ盤であるし、
私が初めて買ったフォーレのレクィエムも、クリュイタンスのステレオ盤だった。
いま聴いてもいい演奏だ。
でもしばらくして、音楽之友社がCDを独自に復刻するようになった。
セルの「エグモント」が出たし、その後にクリュイタンスのモノーラル盤が出た。
モノーラル盤のことは、黒田先生のレコード評で知っていた。
黒田先生はステレオ録音よりも、モノーラル録音のレクィエムをより高く評価されていた。
そのころから聴きたい、と思っていた。
でも音楽之友社が復刻するまで廃盤だった、と記憶している。
それからしばらくして東芝EMIからもモノーラル盤が出た。
さらにテスタメントからも復刻CDが出た。
たしか、黒田先生は、ステレオ盤でのクリュイタンスの演奏は、
音楽の身振りが大きくなっている──、
そういう趣旨のことを書かれていた、と記憶している。
ステレオ盤だけを聴いているときは、そうかな、と感じていた。
けれどモノーラル盤を聴いたあとに、ステレオ盤を聴くと、そう感じられる。
音楽の身振りが大きくなったことがよい方向に働く音楽もあるだろうが、
フォーレのレクィエムにおいて、
それはフォーレのレクィエムならではの色調を損うよう働くようにも聴ける。
いまモノーラル盤は、
“André Cluytens – Complete Mono Orchestral Recordings, 1943-1958”で聴ける。
数年前に出たボックスのことを、いまごろ書いているのは、
さきほどe-onkyoを検索してみたら、あったからだ。
ここまで書けば気づかれる方もいるだろう。
MQAで、96kHz、24ビットで配信されている。
宿題としての一枚。
気づくといえば、若かった自分からの宿題といえる一枚もあるといえる。
あのころは、あんなふうに鳴らせていたのに……、
なぜか、いまはさほど魅力的に鳴らせないディスクがあるといえばある。
若かった自分からの宿題なのだろう。
児玉麻里とケント・ナガノのベートーヴェンのピアノ協奏曲を、
菅野先生からの宿題のような一枚だ、とおもっている。
宿題としての一枚は、これだけではない。
菅野先生からの宿題だけではなく、
瀬川先生からの宿題のように、こちらが勝手に受けとっている一枚もある。
数は多くはない。
愛聴盤とは、少し違う意味あいの、存在の大きなディスクでもある。
宿題としての一枚。
けれど、宿題として出してくれた人たちは、もういない。
宿題としての一枚。
持っているほうが幸せなのか、持っていない方がそうなのか。
宿題としての一枚。
持っていないのか、それともあることに気づいていないだけなのか。
ベートーヴェンのピアノ協奏曲は、あまり聴かない。
それでも児玉麻里とケント・ナガノのベートーヴェンのピアノ協奏曲集は、
あと一ヵ月、入荷すれば買うに決っている。
audio wednesdayで、このディスクを鳴らせば、
そこそこの音では鳴ってくれる、と思っている。
聴いている人は、けっこういい音じゃないですか、といってくれるかもしれない。
そうであっても、私の耳に、菅野先生の鳴らされた音がはっきりといまも残っているから、
誰かが褒めてくれたとしても、埋められない何かを、強く感じとってしまうことになるはずだ。
菅野先生のところで聴いていなければ、
このディスクは、優秀録音盤で終っていたであろう。
でも、聴いているのだから、
聴かない(鳴らさない)わけにはいかないディスクでもある。
どこか、このディスクは、菅野先生からの宿題のようにもおもえてくる。
ケント・ナガノ指揮、児玉麻里のピアノによるベートーヴェンのピアノ協奏曲第一番を聴いたのは、
2008年のことだった。
別項「ベートーヴェン(その3)」で書いていることのくり返しになるが、
「これ、聴いたことあるか?」と言いながら、菅野先生はCDを手渡された。
ケント・ナガノと児玉麻里……、彼らによるベートーヴェン……、と思った。
菅野先生は、熱い口調で「まさしくベートーヴェンなんだよ」と語られた。
菅野先生の言葉を疑うつもりはまったくなかったけど、
それでも素直には信じてはいなかった。
音が鳴ってきた。
「まさしくベートーヴェン」だった。
一楽章が終る。
いつもなら、そこで終る。
けれど、もっと聴いていたい。
そう思っていた。
ほんとうにすばらしい演奏であり、その演奏にふさわしい音だったのだから。
菅野先生も、この時の音には満足されていたのか、
「続けて聴くか」といわれた。
首肯いた。
最後まで聴いた。
このベートーヴェンが、菅野先生のリスニングルームで聴いた最後のディスクである。
キングインターナショナルから、
児玉麻里(ピアノ)、ケント・ナガノ/ベルリン・ドイツ交響楽団による
ベートーヴェンのピアノ協奏曲全集が、SACDの四枚組で発売になる。
児玉麻里/ケント・ナガノによるベートーヴェンは、
菅野先生のリスニングルームで聴いている。
別項「マイクロフォンとデジタルの関係(その2)」で書いている。
第一番と第二番のカップリング(2006年録音)のCDである。
ノイマンが開発したデジタルマイクロフォンのデモンストレーションの意味あいもあっての録音だった。
菅野先生のところで聴いた音は、
まさしくベートーヴェンの音楽は、動的平衡の音による建造物だった。
すぐには入手できなかったCDだが、数年後には入手できた。
いまでも発売されている。
もちろん買った。
とうぜんだが、菅野先生の音のようには鳴らない。
こんなふうに書くと、音だけ優れた録音と思われそうだが、
演奏も素晴らしい。
素晴らしいからこそ、動的平衡の音による建造物と感じたのだ。
この録音も、今回のSACD全集に含まれている。
A君は、エホバの証人の信者だったことはすでに書いた。
彼の家族もそうだった。
つまりA君は、一世信者ではなく、二世信者ということになる。
一世信者は、自ら信ずる宗教の道を選んだことになる。
けれど一世信者の子供たちは、どうなのか。
熱心な一世信者の親の元で生れ育ってきた彼らは、どうなのか。
エホバの証人について、あれこれ書きたいわけではなく、
二世信者(つまりA君)に、宗教選択の自由はあったのだろうか。
そんなことを考えると、自由とはなんだろうか、についてもおもう。
一世信者には自由があった。
自由があったからこそ、信ずる宗教の道に進んだわけである。
そのことで、不自由な生活を送ることになろうとも、
選択の自由ははっきりとあった。
二世信者であるA君は、不幸せか、というと、少なくとも私の目にはそうとは映らなかった。
(その7)でも書いているが、
親が決めた、もしくはエホバの証人が決めた道を歩んでいるA君の口から、
愚痴めいたことはいままで聞いたことがないし、A君は幸せそうである。
不幸せだと感じている人が、A君のような穏やかな表情ができるだろうか。
M君もT君も、自らの将来を自分で決める自由は持っていた。
その道へ、二人とも進んだ。
けれど、結果として二人とも諦めなければならなかった。
ラドカ・トネフの“FAIRYTALES”を、audio wednesdayでかけるのは何回目か。
最初はMCD350でかけてSACDとして聴いた。
次はメリディアンのULTRA DACでMQA-CDとして聴いた。
聴くたびに、デジタル初期の録音とは思えない、と感じる。
昨晩のaudio wednesdayでは、
メリディアンの218でMQA-CDとして聴いた。
218では、その前にも鳴らしている。
だから、昨晩のaudio wednesdayでどういうふうに鳴るのかは予想できたともいえるし、
実はあることをやっての音出しであったため、予想できないところもあった。
ULTRA DACと218の力量の違いは、どうしても存在する。
違いがあって当然ともいえるし、
一方でデジタル機器だからこそ、価格、それに投入された物量に関係なく、
D/Aコンバーターとしての基本スペックに変りはない。
だからこそ、デジタルならではのおもしろいところがある。
具体的に何をやったのかはまだ明かさないが、
昨晩の218でのラドカ・トネフの歌には聴き惚れていた。
私だけではないことは、聴いていても、その場で雰囲気で伝わってきていた。
来ていた人(聴いていた人)、みな聴き惚れていた(はずだ)。
昨晩のaudio wednesday開始後、一時間くらいでのことだ。
もう、この曲で終りにしてもいいくらいの鳴り方だった。
前回の218での鳴り方とは、大きく違っていた。
ステレオサウンド 54号の特集の座談会のなかで、
ブリランテという固有名詞が出てくる。
*
瀬川 黒田さんの言葉にのっていえば、良いスピーカーは耳を尾骶骨より前にして聴きたくなると同時に、尾骶骨より後ろにして聴いても聴き手を楽しませてくれる。それが良いスピーカーの一つの条件ではないかと思います。現実の製品には非常に少ないですけれど……。
そのことで思い出すのは、日本のスピーカーエンジニアで、本当に能力のある人が二人も死んでしまっているのです。三菱電機の藤木一さんとブリランテをつくった坂本節登さんで、昭和20年代の終わりには素晴らしいスピーカーをつくっていました。しかし藤木さんは交通事故、坂本さんは原爆症で亡くなってしまった。あの二人が生きていて下さったら、日本のスピーカーはもっと変っていたのではないかという気がします。
菅野 そういう偉大な人の能力が受け継がれていないということが、非常に残念ですね。
瀬川 日本では、スピーカーをつくっているエンジニアが過去の伝統を受け継いでいないですね。今の若いエンジニアに「ブリランテのスピーカーは」などといっても、キョトンとする人が多い。古い文献を読んでいないのでしょうね。製品を開発する現場の人は、文献で知っているだけでなく、現物を草の根分けても探してきて、実際に音を聴いてほしい。その上で、より以上のものをつくってほしいと思うのです。
故事を本当に生きた形で自分の血となり肉として、そこから自分が発展していくから伝統が生まれてくるので、今は伝統がとぎれてしまっていると思います。
黒田 たとえば、シルヴィア・シャシュが、コベントガーデンで「トスカ」を歌うとすると、おそらく客席にはカラスの「トスカ」も聴いている人がいるわけで、シャシュもそれを知っていると思うのです。聴く方はカラスと比べるぞという顔をしているだろうし、シャシュもカラスに負けるかと歌うでしょう。その結果、シャシュは大きく成長すると思うのです。
そういったことさえなく、次から次へ新製品では、伝統も生まれてこないでしょう。
*
これを読んでから、ずっとブリランテが気になっていたし、
ブリランテのことを少しでも知りたい、と思っていた。
1997年にインターネットをやるようになってから、
これまでに何度か「ブリランテ」で検索したことがある。
けれど何もヒットしなかった。
ブリランテのスピーカーが、いったいどういうモノだったのか、
ユニットの口径以外は、ほとんど知りようがなかった。
「スピーカー技術の100年II 広帯域再生への挑戦」には、ブリランテのことが載っている。
初めて写真を見た。しかもカラー写真である。
「スピーカー技術の100年II 広帯域再生への挑戦」も売れてほしい。
「スピーカー技術の100年III」が出てほしいからである。