Archive for category ディスク/ブック

Date: 4月 10th, 2020
Cate: ディスク/ブック

CALLAS IN CONCERT THE HOLOGRAM TOUR(その4)

5月16日、17日に行われる予定だった“CALLAS IN CONCERT THE HOLOGRAM TOUR”。
中止もしくは延期になりそうだなと危惧していたら、中止が正式に発表になった。

延期ではなく中止である。
マリア・カラスのホログラムが歌うところをみたかったが、
おそらく日本では行われないのだろう。

コンサートは死んでいくのか。

Date: 3月 21st, 2020
Cate: ディスク/ブック

ブラームス 弦楽六重奏曲第一番 第二番(その12)

ラルキブデッリによるブラームスの弦楽六重奏曲を聴きおわって、
一人でよかった……、と思っていた。

聴きおわって、鏡を見たわけではないがもしかすると赤面していたかもしれない。

誰かといっしょに聴いていたとしても、
隣にいる人が、私の心の裡までわかるわけではない。

それでも一人でよかった。
悟られなくてよかった……、と思っていた。

まぶしすぎて直視できない──、
そんな表現があるが、それに近い感じでもあった。

青々とした(緑が濃すぎる)ジャケットそのままの演奏を、
どこかうらやましくも感じていたのかもしれない。

若いな──、と感じていたのではない。
こういう青春は私にはなかったぁ……、
そんなおもいがどこからかわきあがってきた。

そしてしばらくして、ここに書いてきた同級生のことを思い出していた。
彼らは、ラルキブデッリによるブラームスの弦楽六重奏曲を、どう聴くのだろうか。

いい曲ですね、いい演奏ですね、
そういう感想なのかもしれない。

彼らがどういう感想を持つのかはなんともいえないが、
私のように、まぶしすぎて直視できない的な感覚はないのではないか。

ラルキブデッリによるブラームスの弦楽六重奏曲は、もう聴いていない。
一回だけ聴いて、二回目はまだである。

一回目と同じように感じるとはいえない。
また違うことを感じるのかもしれない。

でも、まだ聴こうとはなかなか思えない。
いつか聴く日が訪れるのか、それとも二回目はないのか。

青春が遠い遠い彼方に感じられた日に聴くのだろうか。

Date: 3月 20th, 2020
Cate: ディスク/ブック

ブラームス 弦楽六重奏曲第一番 第二番(その11)

青春とは、いったいいつのことを指すのだろうか。
辞書には、《若く元気な時代。人生の春にたとえられる時期》とある。

具体的な数字で、いつからいつまでとは記していない。
心の持ちよう、ともいわれる。

そうだろうとは思うのだけれど、
一般的な意味での青春とは、やはり中学生、高校生のころだろうか。

多感な時期ともいわれる。
多感な青春時代、ともいう。

ほんとうにそうだろうか、と思うところが私にはある。
多感な時代を送ってこなかったのかもしれないが、
そのころ多感だったかどうか、自分で判断することだろうか。

とにかく青春時代、
この項でこれまで書いてきたM君、T君、A君は、
それぞれに青春時代を謳歌していたのかもしれない。

青春時代の謳歌、といっても、
部活動に励み、勉強にも励み、
友人も多く、時には恋もして──、というようなのを、そういいたいわけではない。

目標を立てて、そこに向っていくことを、青春の謳歌といいたい。
M君、T君、A君は、そういうところでの謳歌のような気がしてならない。

どちらがほんとうの青春の謳歌だ、なんてことをいいたいわけではない。
私は、どちらの青春の謳歌も、ほぼ無縁な中学、高校時代をおくってきた。

そんな私が、ラルキブデッリによるブラームスの弦楽六重奏曲を聴いて、
青春時代とは──、そんなことをおもってしまった。

むせかえるような濃密な芳香を、そこに感じたからである。
聴いていて、どこか気恥ずかしいものも感じていた。

Date: 3月 7th, 2020
Cate: ディスク/ブック

ベートーヴェン ピアノ協奏曲全集(その7)

児玉麻里とケント・ナガノのベートーヴェンのピアノ協奏曲は、
第一番を、先日のaudio wednesdayでもかけた。

別項「喫茶茶会記のスピーカーのこと」でふれたように、
この日の音は、いままで鳴らした音のなかでも、かなりひどかった。
それにくわえて時間の余裕もなかった。

SACDが、こんなにひどい音で鳴るのか──、
児玉麻里とケント・ナガノのベートーヴェンを鳴らすのはやめようかな、とも思うほどだった。

ほんとうはSACDとして鳴らしたかった。
でも、その状態の音では鳴らしたくなかった。

結局メリディアンの218を通して、CDとして鳴らした。
もう期待はなかったのだが、
鳴ってきた音は、ひどい状態の音であっても、
動的平衡の音の構築物の片鱗の、そのまた片鱗くらいは感じさせてくれた。

あの日、菅野先生のリスニングルームで体験した音の構築物という感じが、
多少なりとも響いてくれた。

ただ質は、それに伴っていなかったし、大半は構築物が崩れているようにも感じてもいた。
ほとんどの人が、この音を聴いたら、ひどい音ですね、ときっというだろうし、
児玉麻里とケント・ナガノの、この演奏を初めて聴く人は、
録音がいいとも感じなかったかもしれない。

それでも、私はちょっとだけ、ほっとしていたし、
そこで目の前に展開していると感じる音の構築物に浸っていた。

きわめて主観的な聴き方であって、
誰かに理解してもらおうとはまったく思っていない。

同じように感じる人もいるかもしれない。
ひどい音と、切って捨てる人もいるはずだ。

音楽をオーディオを介して聴く、ということは、つまるところ、そういうことのはずだ。
もっといえば、ベートーヴェンをそうやって聴くということは、
まさしく、そういうことである、と信じている。

Date: 3月 7th, 2020
Cate: ディスク/ブック

ベートーヴェン ピアノ協奏曲全集(その6)

ようやく自分のシステムで鳴らした児玉麻里とケント・ナガノのベートーヴェンのピアノ協奏曲

もっと早く鳴らしていればよかった、と思えるくらいの感じでは鳴ってくれた。
ただ単にいい音で鳴ってくれた──、ではむしろ何の満足もない。

菅野先生が「まさしくベートーヴェンなんだよ」、
そういわれた理由が伝わってくる音でなければ、
このディスクをかける意味が、少なくとも私にはない。

菅野先生のところで、このディスクを聴いていなければ、
そんなことはまったく思わなかったはずだ。

でも聴いている。
それがどんなふうに鳴ってくれたのか、
私の心にどう響き、
何を感じさせたのかについて、以前書いているので、ここではくり返さない。

まさしくベートーヴェンであるために、動的平衡の音の構築物であってほしい。
音場感がよく再現されている、
音の定位もいい、各楽器の質感もよく鳴っている──、
そんな感じの音で鳴ったとしても、それは「まさしくベートーヴェン」とはいえない。

動的平衡の音の構築物であってこそ、私にとっての「まさしくベートーヴェン」であり、
おそらく菅野先生にとってのベートーヴェンも、そうであったと確信している。

私のところで鳴ってきた音は、
動的平衡の音の構築物としては、まだまだである。
そんなことはわかっていたことだ。
それでも、片鱗を感じさせてくれた。

このディスクは、以前CDを鳴らしていた。
知人宅でも聴いている。
いずれでも、そんな印象は微塵も感じなかっただけに、今回感じた片鱗は、
片鱗であっても、「まさしくベートーヴェン」の世界へ一歩足を踏み入れたことだけは確かだ。

Date: 3月 5th, 2020
Cate: ディスク/ブック

ベートーヴェン ピアノ協奏曲全集(その5)

児玉麻里とケント・ナガノのベートーヴェンのピアノ協奏曲集(SACD)を、
やっと聴いたのは2月の終りのころだった。

ディスクを購入して約二ヵ月。封も切らずそのままにしていた。
よくCDボックスを買って、そのままにしている──、
そんな話を、特にクラシック好きの人ならば何度も目にしたり耳にしたりしていることだろう。

話を聞いたり見たりしているだけでなく、
自身もそうであったりする場合もあるはずだ。

クラシックのCDボックスは、いろんなレコード会社から出る。
10枚組程度ではなく、
50枚をこえるボックスも珍しくないし、しかも価格も棘ほど安かったりするから、
つい購入してしまう。

しかもHMVもタワーレコードもまとめ買いだと、さらに安くなることがある。
なのでCDボックスを、あれもこれもと注文すること(したこと)は、
クラシック好きの人ならば、一度や二度ではないはずだ。

大量の枚数のディスクが到着する。
嬉しい反面、それほどの枚数のCDをすべて聴く時間をつくるのは、なかなか大変である。
それで封を切らずに、そのままになってしまっているCDボックスの数が、
二桁になってしまった人もいる。

児玉麻里とケント・ナガノのベートーヴェンは、そういう理由ではない。
SACDというのが理由である。

SACDで児玉麻里とケント・ナガノのベートーヴェンのピアノ協奏曲集を聴いて、
みじめな音しか鳴らなかったら、
そしてそれ以上に、まさにベートーヴェンという音とは対極の音でしか鳴らなかったら……、
そういう怖れみたいなものがあったからだ。

Date: 3月 1st, 2020
Cate: ディスク/ブック

ベートーヴェン ピアノ協奏曲全集(その4)

聴くのが少し怖い、というディスクは、
誰かのところで聴くのがそうだということではなく、
自分のシステムで鳴らすのが怖い、という意味である。

人によって、それは違ってくるだろうが、私にとっては、
聴くのが怖いディスク・イコール・自分のシステムで鳴らすのが怖いディスクである。

といっても、そんなに怖いディスクが何枚もあるわけではない。
かなり少ない。

その少ない一枚が、
児玉麻里(ピアノ)、ケント・ナガノ/ベルリン・ドイツ交響楽団による
ベートーヴェンのピアノ協奏曲第一番である。

その理由は、菅野先生のリスニングルームで聴いているからである。
その時の音が、十年以上経っても、鮮明に残っている。

残っているのは、その時の経験そのものであり、感動である。
「まさしくベートーヴェンなんだよ」、
菅野先生のことばは、まさしくそうだった。

すでに書いているように、同じCDが発売になったので買った。
もちろん菅野先生の音と私の音とでは大きく違うのだから、
同じようにはならないのはわかっている。

それが怖かったわけではない。
怖かったのは、今回のSACDでのベートーヴェンのピアノ協奏曲全集である。

昨年12月に発売になった。
ほぼ同時に手に入れながら、つい先日まで封も切らなかった。

菅野先生のところで聴いたのは通常のCDである。
その時はSACDはなかった。

今回はSACDである。
SACDで鳴らすことが怖かった。

Date: 2月 14th, 2020
Cate: ディスク/ブック

Cinema Songs(その6)

薬師丸ひろ子の「セーラー服と機関銃」の三番の歌詞は、
聴く度に、それに思い出す度にいいな、と思う。

 スーツケース いっぱいにつめこんだ
 希望という名の重い荷物を
 君は軽々と きっと持ちあげて
 笑顔見せるだろう

ここでの「希望」とは、「私一人」の希望ではないのではないか。
まわりの人、いろんな人の希望(つまりは想い)なのだから、
その希望をいっぱいにつめこんだスーツケースは、重いはずだ。

それを重そうに持ってしまったら、もう荷物でしかない。
軽々と持ちあげてこそ、推進していくための燃料のようなものになっていく。

重荷と感じてしまった時点で、推進していく燃料とは、もうならない。
それができない人は、
松尾芭蕉の《古人の跡を求めず、古人の求めたる所を求めよ》とはならない。

そんなふうにきこえてくる。

Date: 2月 4th, 2020
Cate: ディスク/ブック

宿題としての一枚(その3)

宿題としての一枚、ときいても、
すぐには何も思い浮ばない人もいることだろう。

すべてこなしてしまった、と断言できる人なのだろう、きっとそういう人は。
それはそれでいい、と思う。

関係のない私がなにかいうことでもない。

Date: 2月 3rd, 2020
Cate: ディスク/ブック

André Cluytens – Complete Mono Orchestral Recordings, 1943-1958(その4)

クリュイタンスのステレオ録音では、
ヴィクトリア・デ・ロス・アンヘレスが歌っている。

ロス・アンヘレスは好きな歌い手の一人だ。
ビゼーのカルメンならば、マリア・カラス(プレートル指揮)、
それからアグネス・パルツァ(カラヤン指揮)、
それぞれの役どころのカルメンに惹かれるとともに、
ヴィクトリア・デ・ロス・アンヘレス(ビーチャム指揮)も好ましい、と思っている。

ファリャの三角帽子。
名盤といわれるのはアンセルメ/ベルガンサのそれだが、
私としてはフリューベック・デ・ブルゴス/ロス・アンヘレスのほうが、ずっと好ましい。

ロス・アンヘレスは歌曲シェエラザードも忘れてはならない一枚である。

ロス・アンヘレスを熱心に聴き続けてきたとは胸を張ってはいえないけれど、
ずっと好ましい歌手だと思っている。

そのロス・アンヘレスがクリュイタンスのステレオ録音では歌っている。
でも、モノーラル録音のマルタ・アンジェリシの歌唱を聴いたあとでは、
黒田先生がいわれていた、音楽の身振りが大きくなっていることを感じてしまう。

特にMQAで聴くマルタ・アンジェリシの歌唱のあとでは、より強く感じてしまう。

クリュイタンスのモノーラルのほうを、
フォーレのレクィエムの名盤中の名盤というつもりはない。

私が聴いているフォーレのレクィエムはそう多くない。
私よりも、ずっと多くのフォーレのレクィエムを聴いている人は多くいることだろう。

そういう人は、もっとよい演奏をご存じかもしれない。
その演奏と、私はもうであわないであろう。

それを残念だな、とは思わないし、
これから先、これまで聴いてこなかったフォーレのレクィエムの多くを聴いていこうとも思っていない。

堕落した聴き手といわれればそうである。
それでもクリュイタンスのモノーラルでの第四曲の美しさを、
MQAでほんとうに聴けた、といまはそうおもえている。

このことこそが勘違いなのかもしれない。
それでもいい──、
そういいたくなるほど、美しいのだから。

Date: 2月 3rd, 2020
Cate: ディスク/ブック

André Cluytens – Complete Mono Orchestral Recordings, 1943-1958(その3)

e-onkyoで、
“André Cluytens – Complete Mono Orchestral Recordings, 1943-1958”の配信は、
2018年に開始になっている。

でも、そのころはMQAのことは知ってはいても、まだ聴いていなかった。
e-onkyoの存在は知っていても、アクセスすることはなかった。

2019年秋に、メリディアンのULTRA DACを聴く機会があった。
このとき、はじめてMQAの音を聴いた。
このときのことは別項で書いているので、ここではくり返さないが、
そのときの昂奮はいまも続いている。

ULTRA DACの日からほぼ一年後に、218で自宅でもMQAの音を聴けるようになった。
そうなるとe-onkyoへのアクセスが、日課のようになってきた。

いまではほぼ日課といってもいいぐらいだ。

クリュイタンスのモノーラル録音のCDボックスがMQAで配信されているのに気づいたのは、
昨年の終りちかくだった。
フォーレのレクィエムのモノーラル録音が、MQA(96kHz、24ビット)で聴ける。

このことの嬉しさを、どれだけの人がわかってくれようか。
そうおもいつつも、一人でも多くの人が、クリュイタンスのレクィエムのモノーラルのほうを、
MQAで聴いてくれるようになったら、ともおもう。

第四曲 ピエ・イェズ(Pie Jesu)だけでもいい。
オーケストラがソプラノ独唱によりそうように奏でる三分ほどの、
この短い曲を、MQAで聴いてみるといい。

マルタ・アンジェリシというソプラノ歌手を、
クリュイタンスのモノーラルのレクィエムで知った、というよりも、はじめて意識した。

Date: 2月 3rd, 2020
Cate: ディスク/ブック

André Cluytens – Complete Mono Orchestral Recordings, 1943-1958(その2)

フォーレの作品にかぎったことではないが、
レクィエムと呼ばれる作品は、あれこれ聴き比べするようなものではないと感じている。

よりよい演奏を求めて、発売される録音をできるかぎり集めて聴いていく──、
クラシックの聴き手としての、その楽しみは十分わかっているつもりだ。

それでもレクィエムだけは、であえた録音(演奏)だけでいいのではないだろうか、
最近はとくにそうおもうようになってきた。

フォーレのレクィエムは、これまでクリュイタンスのモノーラルとステレオ、
それからジュリーニの三枚だけしか買っていない。

これら以外の録音(演奏)はもちろん聴いている。
友人・知人のところで聴いている。
それでもいままで聴いたフォーレのレクィエムは、十指に満たないかそのぐらいでしかない。

ほとんど聴いていないに等しいではないか、といわれれば、そうである、と認めるしかない。
でも、それでいい、と正直なところおもっている。

これら三枚のディスク、
もっといえばクリュイタンスのモノーラルのほうとジュリーニがあれば、ともおもう。

クリュイタンスのステレオ録音のほうはSACDにもなっている。
エソテリックとEMIから出ていた。

モノーラル録音のほうは、テスタメントによる復刻もあるが、通常のCDでしかなかった。

二、三年前にクリュイタンスのモノーラル録音のボックスCDが、65枚組で出た。
オリジナルのマスターテープから96kHz、24ビットでマスタリングがなされた、とあった。

そのころから期待はしていた。

Date: 1月 31st, 2020
Cate: ディスク/ブック

Pletnev plays Schumann(その1)

ミハイル・プレトニョフのピアノ(シューマンの交響的練習曲)。
2005年5月19日、菅野先生のリスニングルームで聴いている。

《いま、空気が無形のピアノを、ヴァイオリンを、フルートを鳴らす。 これこそは真にレコード音楽というものであろう》
これは「五味オーディオ教室」で出合った。

とはいえ、実際に、このような音を聴くことがかなったのは、
菅野先生のリスニングルームで、いまから十五年前のことである。
「五味オーディオ教室」から二十九年経ってのことだ。

この録音のすごさを理解しない人がけっこういる──、
そんなふうに嘆かれていた菅野先生のことも思い出す。

プレトニョフのシューマンの交響的練習曲のCDをすぐに買った──わけではなかった。
このCDはすごい、と会う人にすすめはしたけれど、なぜだか自分では買わなかった。

シューマンがあまり好きでないことが、その理由かもしれない。
自分でも買わなかった理由がよくわからない。

数年経ち、買おうかな、と思ったときには廃盤になっていた。
買っておけばよかった、とは思わなかった。

なにかきっかけがあったわけではない。
なのに、今日、ふとプレトニョフの交響的練習曲のことを思い出した。

あいかわらず、いまも廃盤のままだった。
けれどSACDが出ていたことを、今日知った。

あの日、菅野先生のリスニングルームで聴いたのはCDだったはず。
菅野先生が見せてくれたCDのケースは、SACDのそれではなかった。

こうなると欲しくなってくる。
ヤフオク!にはあるかな、とチェックしていたら、偶然にもあった。
しかもあと三十分ほどで終了。誰も入札していなかった。

落札できた。
まだ手元にはない。

SACDだから、といって、
あの日の菅野先生のリスニングルームでの音が再現できるとは思っていない。

それでも、最近、無性に、ピアノのいい録音を聴きたいという気持が高まっている。

Date: 1月 28th, 2020
Cate: ディスク/ブック

CALLAS IN CONCERT THE HOLOGRAM TOUR(その3)

一年前の(その1)で書いたマリア・ラカスのホログラムコンサートが、
ようやく日本でも行われることが決った。

主催はエイベックス・クラシックス・インターナショナル。
5月16日、17日に行われる。

2018年秋から、世界各国で行われているコンサートが、やっと日本に来る。
もう行われないのかな、と思っていただけに、嬉しいし行きたいコンサートだ。

つい最近、NHKが、美空ひばりをAI技術とホログラムで甦らせる、という番組をやっていた。
といっても、テレビを持っていないので見ていない。
紅白歌合戦も見ていない。

このことについては、ここでは語らないが、
マリア・カラスのホログラムコンサートは、美空ひばりのそれとは違う。

比較して語ることなのか、という疑問もないわけではない。
実際にマリア・カラスのホログラムコンサートを体験すれば、
あれこれ考えることが出てくるように思っている。

それに、これがマリア・カラスだから、というのもある。
たとえばグレン・グールドだったら、とも考える。

Date: 1月 26th, 2020
Cate: ディスク/ブック

HIGHLIGHTS FROM BERLINER PHILHARMONIKER RECORDINGS

ステレオサウンド 213号の附録である「HIGHLIGHTS FROM BERLINER PHILHARMONIKER RECORDINGS」。
このSACDの収録曲は、
 ドヴォルザーク:スラブ舞曲 第八番 作品46/サー・サイモン・ラトル
 シューベルト:交響曲 第七番《未完成》 第一楽章/ヴィルヘルム・フルトヴェングラー
 メンデルスゾーン:劇音楽『夏の夜の夢』 序曲/クラウディオ・アバド
 ブルックナー:交響曲 第七番 第四楽章/クリスティアン・ティーレマン
 プッチーニ:歌劇《マノン・レスコー》第三幕・間奏曲/サー・サイモン・ラトル
 チャイコフスキー:交響曲第6番《悲愴》 第三楽章/キリル・ペトレンコ

二曲目のフルトヴェングラーのシューベルトだけが、モノーラルである。
けれど、収録曲で別格なのが、このフルトヴェングラーのシューベルトである。

オーケストラはすべてベルリンフィルハーモニーなのはいうまでもない。
聴けば、ほんとうにすべてベルリンフィルハーモニーなのか、と思うほど。

フルトヴェングラーのすごさは、いうまでもない。
音が、ほかの指揮者とはまるで違う。

モノーラルで、真空管の録音器材でアナログ録音なのだから、
そうとうに違って当然──、
そういう次元の違いではない。

もう別格としかいいようがない。
けっして優秀録音ではない。
ほかの五曲は優秀録音といっていい。

優秀録音だから、必ずしも名録音ではない。
フルトヴェングラーのシューベルトを聴いていると、そんなことをおもってしまう。