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Date: 7月 16th, 2011
Cate: 瀬川冬樹

確信していること(その17)

「コンポーネントステレオの世界 ’80」でのグルンディッヒのProfessional BOX2500の組合せは、
予算が50万円の制約がある。
ぴったり50万円ということではなくて、50万円台ならば一応OKというということはあっても、
この予算ではセパレートアンプを使うことは無理ということで、
プリメインアンプを4機種を候補としてあげられている。
アキュフェーズのE303、マランツのPm8、トリオのKA9900、ルボックスのB750MKIIで、
いずれも20万円以上するもの。
KA9900とPm8は、スピーカーシステムがグルンディッヒでクラシックを、
それもオーケストラの再生に焦点を合せるという組合せの意図に、すこしそぐわないところがあり候補から外れる。

E303は、B750MKIIよりも「周波数レンジとか歪とか、そういった物理的な表現能力」で明らかに上廻っていて、
音の美しさで上かもしれないと思わせながらも、
瀬川先生は、あえてB750MKIIを選択されている。
クラシックを「聴くにあたってどうしても必要な、いうにいわれない一種の雰囲気、それからニュアンス」、
それらのものがルボックスB750MKIIにあったからである。

ここまで読んでくると、瀬川先生の選び方に気がつくことがある。
スピーカーシステムもグルンディッヒ、ヴィソニックの他に、
JBLのL50、ロジャースPM210、ハーベスMonitor HLも聴かれている。
これらの中から、ヴィソニックとグルンディッヒが残り、
ここでもスピーカーシステムとしての性能(音のことを含めての)の高さでは、ヴィソニックとされながらも、
あえて、どこか古めかしささえ感じさせるグルンディッヒを最終的に選ばれた。
アンプの選び方と共通するものが、ここにも感じられる。

アナログプレーヤーはトリオのKP7070、カートリッジはエラック(エレクトロアクースティック)のESG794E。
組合せのトータル価格は571,500円。

この組合せから鳴る音について語られている。
     *
たとえば最近のオーディオ・レコードといわれるような、いわゆるデモンストレーション的なさまざまなレコードを鳴らした場合は、国産のハイパワーアンプとワイドレンジのスピーカーの組合せで鳴らす、一種独特の音の世界にはかなわないでしょう。
しかし、音楽好きレコード好きの人間のひとりとしていえば、クラシック音楽に焦点を合せた場合、何年も前に買ったレコードも、昨日買ったばかりの新録音盤も、この組合せだったら安心して楽しむことができる。そしてこれからも長く付き合える、そういう音だと思うんですね。
たしかに一聴では耳をそはだてる音ではありません。どちらかといえば、ややものたりない感じさえあるでしょう。とくにグルンディッヒの音が、なんとなく素朴な、ときには古めかしささえ感じさせる響きをもっているわけですが、そこを聴きこんでいって、だんだんとその音が自分の耳なり身体なりになじんでくると、ちょっと手放せなくなるだろうという気がします。ぼく自身も、自分の部屋に置いてみたいような感じがありますね。

Date: 7月 15th, 2011
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」(その11)

以前は、オーディオ評論とは、言葉で音を表現して読み手に伝えていくことが、
その仕事のほとんどを占めることだと思っていた。

事実、ステレオサウンドは創刊号からある時期までは、まさにそうだったといえる。
みな、音をいかに文字で表現することに苦心されていることが伝わってきていた。
ある限られた文字数の中で、顔の見えない不特定多数の読み手に向って書いていく行為は困難さは、
書き手側だけが味わっていたことではなく、読み手側ももどかしさのようなものを感じていた。
そうやって試行錯誤しながら、書き手と読み手のあいだに共通認識がつくられることもあれば、
そうでないこともある。

共通認識が形成されていない書き手と読み手の関係の中で、音を伝えていくにはどうしたらいいのか。
たとえば文字数の制限をなくして、ひとつのオーディオ機器に対して、百万語を費やしたところで、
そこで伝えられるのは、そこで鳴っていた音のふるまいのようなものであって、
書き手(つまり聴き手)の感じた印象を伝えるには、どうしても共通認識が必要になり、
共通認識がしっかりと形成されていれば、音の表現は百万語を費やすよりも、
むしろある程度限定された枠の中で表現する短詩のほうが、それがすぐれている書き手によるものならば、
じつのところ、こちらのほうがずっと読み手にとって印象深いものになるはず。

印象深いことが、そこで鳴っていた音を正確に伝えることとイコールにはならない。
だが、オーディオ評論は、そこで鳴っていた音を正確に伝えることが本来の目的ではない。
音が具象的なものであれば、それは可能になるのかもしれない。だが音はどこまでいっても抽象的なものだ。
だから、オーディオ評論は、読み手の印象に刻まれるように表現していくものだと思っている。

日本には短歌や俳句があり、短歌や俳句が伝えられる世界がある。
じつは、その世界とオーディオ評論とは、よく似ているところがあるとも思える。

音は、あくまでも抽象的ではあるものの、具象性らしきをそこに感じられるものがある。
それが、音場と表現されるものである。

Date: 7月 14th, 2011
Cate: D44000 Paragon, JBL, 組合せ

妄想組合せの楽しみ(その38)

コントロールアンプにLNP2を持ってくるのであれば、いっそのことパワーアンプもML2にするとか、
LNP2と同時代のパワーアンプの中から選ぶ、ということも考えられるが、
私の考え方として、パワーアンプは近年の優秀なモノは、あきらかにスピーカーをドライヴする能力は向上している。
JBLのパラゴンという、すんなり鳴ってくれるわけではないスピーカーシステムに対しては、
とにかく優秀なパワーアンプを組み合わせたい。
それだけで、パラゴンを鳴らすスタート地点が変ってくるし、しなくてすむ苦労が省ける。

もちろん近年のパワーアンプのすべてが、LNP2と同時代のパワーアンプよりも優れているわけではない。
私がパラゴンを鳴らしてみたいとつねづね思い描いているオラクルのSi3000は、優れた能力をもっている。
それにSi3000の、うまい表現がなかなか思いつかないが、濃密な表情をもつ、このアンプの音は、
音色的にもパラゴンに合う印象があるし、パラゴンをどこまでも鳴らしあげるパワー(力)もある。

パラゴンとSi3000の相性は、いいと想像できる。
LNP2とSi3000の相性となると、どうだろう。
うまくいきそうな気もするし、まったく、お互いに相容れない結果になるかもしれない。
どっちにころぶかは、正直予測できない。
こんな組合せをやっている人もいそうにないし、確かめることもできない。

なので、もしかして、という場合のために、ひとつ考えていることがある。
LNP2の出力の直後にライントランスをあえて挿入してみよう、と思っている。

Date: 7月 14th, 2011
Cate: 40万の法則

40万の法則が導くスピーカーの在り方(その11)

Medea登場後、マンガーのBWTを搭載したスピーカーシステムが、アクースティックラボからも出た。
Stella Elegansである。
正確にはどちらが先にでたのかははっきりしないが、私が存在を知った順序はMedea、Stella Elegansであり、
音を聴く機会があったのは、Stella Elegansのほうだ。
とはいっても、数年後のこと。同じベンディングウェーヴ方式によるスピーカーユニットを搭載した、
ジャーマン・フィジックスのUnicornを聴いてから、だった。

Unicornの音には、正直驚いた。このことについて、
別項「ボンジョルノのこと、ジャーマン・フィジックスのこと」において詳しく書いていくので、
ここでは割愛させていただくが、Unicornを聴いたことによって、
マンガーのBWTの音も、いますぐ聴いてみたい、と思った。
Stella Elegansを聴いて、また別のところでBWTを使ったスピーカーシステムを聴いた。

マンガーもジャーマン・フィジックスもどちらもドイツの会社である。
ベンディングウェーヴのスピーカーが、ドイツからあらわれた。
高域のみではあったがBWTよりもずっと早く登場していたベンディングウェーヴのスピーカーは、ハイルドライバー、
いまAMTと呼ばれることの多くなったユニットである。
ハイルドライバーはアメリカのESSから登場したものの、開発者のオスカー・ハイルはドイツ人である。

そのハイルドライバーよりももっと早く登場していたベンディングウェーヴ方式のスピーカーがある。
シーメンスのリッフェル型と呼ばれるもので、正確な年月日は不明だが、
1930年に発行されたトーキーの本には写真が載っている、と池田圭氏の盤塵集に書いてある。

盤塵集でリッフェル型の存在は知ってはいたものの、盤塵集を読むだけでは、この動作方式の特質は理解できなかった。
盤塵集にはベンディングウェーヴという言葉は出てこないし、
リッフェル型がピストニックモーションのスピーカーとどう異るのかについての記述もなかった。

結局、リッフェル型がどういうものだったのか、を理解するに、
BWT、ジャーマン・フィジックスのDDDユニットの登場を俟つしかなかった。

Date: 7月 14th, 2011
Cate: 瀬川冬樹

確信していること(その16)

「コンポーネントステレオの世界 ’80」の半年後にステレオサウンド 55号が出ている。
特集はベストバイ・コンポーネントである。
この号では、それぞれの筆者が、My Best3を各ジャンルから選び、書いている。
瀬川先生が何を選ばれたのかは、こちらをお読みいただきたい。

別項でも書いているように、パワーアンプのMy Best3は、
ルボックスのA740、マイケルソン&オースチンのTVA1、アキュフェーズのP400であって、
マークレビンソンのML2Lがはいっていない。
コントロールアンプのMy Best3には、LNP2LとML6Lの2モデルがはいっているのに、
この号の9ヵ月前に、「おそるべきリアリティ」で、
大太鼓の強打を聴かせてくれたマークレビンソンのML2がはいっていない。

このときは、正直、なぜなのか? を理解できなかった。
でも、いま振り返ってみると、すでにステレオサウンド 53号に書かれていることに気づく。
この53号の記事とは、
「おそるべきリアリティ」で4343を鳴らしたマークレビンソンのML2、6台によるドライヴのことであり、
この項の(その13)でも引用した文章が、それである。

53号でのオール・マークレビンソンによる「実験」は、瀬川先生にとって劇的な体験であっただけでなく、
このとき以降、求めてられている音、出されている音に変化が顕れてきているはず、と私は読んでいる。

そこにタイミングよく、瀬川先生の前に現れたのがグルンディッヒのスピーカーシステムである、といってしまおう。

Date: 7月 14th, 2011
Cate: 瀬川冬樹

確信していること(その15)

マイケルソン&オースチンのB200は、M200という型番で実際には販売されていた。
B200は瀬川先生の勘違い、とは言えない。
なぜかというと、「コンポーネントステレオの世界 ’80」の巻頭文の中に、B200という単語は複数回登場する。
当然編集部で原稿を受けとったとき、そして写植があがってきたとき、
そして写真を含めてカラーで見本があがってきた、少なくとも3回の校正を経ているわけで、
いくらなんでもM200なのが、B200のまま出ることはない。
おそらくこの時点ではB200という型番だったのが、なんらかの理由でM200に変更されたとみるべきだろう。

そのB200(M200)の音を、マークレビンソンML2、
6台でバイアンプ(ウーファーはブリッジ接続)との音との比較で書かれている。
     *
近ごろのТRアンプの音が、どこまでも音をこまかく分析してゆく方向に、音の切れこみ・切れ味を追求するあまりに、まるで鋭い剃刀のような切れ味で聴かせるのが多い。替刃式の、ことに刃の薄い両刃の剃刀の切れ味には、どこか神経を逆なでするようなところがあるが、同じ剃刀でも、腕の良い職人が研ぎ上げた刃の厚い日本剃刀は、当りがやわらかく肌にやさしい。ミカエルソン&オースチンTVA1の音には、どこか、そんなたとえを思いつかせるような味わいがある。
そこにさらに200ワットのモノ・アンプである。切れ味、という点になると、このアンプの音はもはや剃刀のような小ぶりの刃物ではなく、もっと重量級の、大ぶりで分厚い刃を持っている。剃刀のような小まわりの利く切れ味ではない。力を込めればマルタをまっ二つにできそうな底力を持っている。
たとえば、少し前の録音だが、コリン・デイヴィスがコンセルトヘボウを振ったストラヴィンスキーの「春の祭典」(フィリップス)。その終章近く、大太鼓のシンコペーションの強打の続く部分。身体にぴりぴりと振動を感じるほどの音量に上げたとき、この、大太鼓の強打を、おそるべきリアリティで聴かせてくれたのは、先日、SS本誌53号のための取材でセッティングした、マーク・レビンソンML2L2台のBTL接続での低音、だけだった。あれほど引締った緊張感に支えられての量感は、ちょっとほかのアンプが思いつかない。ミカエルソン&オースチンB200の低音は、それとはまだ別の世界だ。マーク・レビンソンBTLの音は、大太鼓の奏者の手つきがありありとみえるほどの明解さだったが、オースチンの音になると、もっと混沌として、オーケストラの音の洪水のようなマッスの中から、揺るがすような大太鼓の轟きが轟然と湧き出してくる。まるで家全体が揺らぐのではないかと思えるほどだ。
     *
このあともB200の音の記述はつづく。
この巻頭文のテーマは「80年代のスピーカー界展望」にもかかわらず、
いきなりアンプの話からはじまり、ほぼ1ページ、B200について書かれている。
つまり、それだけB200は、瀬川先生にとって印象深いものを残していったことになる。

Date: 7月 13th, 2011
Cate: 「介在」

オーディオの「介在」こそ(ヘッドフォンで聴くこと・続々続々余談)

恵比寿の店に、若い人が大勢集まるということは、
「若い人にオーディオが売れない」理由のひとつとして、
若い人たちはいい音でアナログディスクやCDを聴こうとは思っていない──、というのがあるはずだが、
これは当然のことながら、理由として使えない。

いい音で聴きたいと思っている若い人たちは、
どのくらいの数なのかははっきりしないが、やはりいる、ということだ。
ただ、その人たちが、「いい音」を自分のものとしたいと思っていないところに、
若い人たちにオーディオが売れない理由の核のようなものがあるのではないだろうか。

少なくとも私の世代までは、いい音で聴きたいという欲求と、いい音を自分のものにしたいという欲求は、
同じ意味のことだった。

それが若い世代の、機能的な音楽の聴き方をする人たちは、
いい音で聴きたい、と、いい音を持ちたい、出したい、とは必ずしもイコールでないどころか、
おそらく別のこととして受けとめているのかもしれない。

昔もいまも、レコードを聴かせてくれるところはあった。
ジャズ喫茶や名曲喫茶は、レコードそのものの価格が、相対的に他の物価よりも高かった時代、
当然それを鳴らすオーディオ機器も高価だったころのほうが、
いまよりも人は集まっていただろうし、時代に求められてもいたはずだ。
そして、そこでレコードを聴いた人の何割かが、自分でも、いい音を出したい、いい音を持ちたい、と思い、
オーディオの世界にはいっていった、と思う。

いまもそういう人は、若い世代にもいるのだろうが、絶対数が圧倒的に少ないのだろう。
だから、「若い人にオーディオが売れない」というふうに多くの人が思うようになった……。

ここまで書いてきたことが、どれだけ現状を正確に捉えているのかどうかは正直わからない。
まったく的外れなことを書いているのかもしれないが、それでも、ここまで書いてきたから浮んできたものがある。
ここから先、考えていきたいのは、主観的な聴き方と機能的な聴き方について、と、慾と欲、についてである。

Date: 7月 13th, 2011
Cate: 五味康祐, 瀬川冬樹

無題

もう何度も書いているから、またかよ、と思われようが、
私のオーディオは、五味先生の「五味オーディオ教室」という本から始まっている。

「五味オーディオ教室」の前に、どこかでいい音を聴いたという体験はなかった。
私のオーディオは、五味先生の言葉だけによって始まっている。

だから私にとって、タンノイのオートグラフの音は、オートグラフというスピーカーシステムの存在そのものは、
五味先生の言葉によって構築されている。
「五味オーディオ教室」「オーディオ巡礼」「西方の音」と読んできて、
やっとオートグラフの音を聴くことができた。

だが、そこで鳴っていたオートグラフの音は、私にとってはオートグラフの音ではなかった。
ここが、私にとってのオートグラフというスピーカーシステムが特別な存在であることに関係している。

五味先生の言葉を何度となくくり返しくり返し読んで、
私なりに構築し、ときには修正していったイメージとしてのオートグラフの音、
これだけが、私にとっての「オートグラフの音」である。

私にとってのオートグラフの魅力は、五味先生の言葉で成り立っている。
オートグラフだけではない、EMTの930stも同じだ。

そしてマークレビンソンのLNP2とJBLの4343の魅力は、
瀬川先生の言葉によって、私のなかでは成り立っている。

それだから、オートグラフと4343を聴くと、私の中で成り立っているイメージとの比較になってしまう。
そのイメージとは言葉だけで成り立っているものだから、虚構でしかない。

オートグラフを自分の手で鳴らすことは、ないだろう、と思っている。
4343はいつか鳴らすことがある、と思っている。

そのとき4343から抽き出したいのは、他のスピーカーシステムを鳴らして求めるものとは、違ってきて当然である。
その音は、あなたの音か、と問われれば、そうだ、と答える。
そのイメージは、私自身が瀬川先生の文章をくり返し読むことで構築してきたものであって、
私だけのイメージ(虚構)であるからだ。

Date: 7月 12th, 2011
Cate: アナログディスク再生

私にとってアナログディスク再生とは(その17)

ステレオサウンド 58号に、瀬川先生によるトーレンス・リファレンスとEMT・927Dstの比較試聴記が載っている。
そこで、
ヴァイオリンは「リファレンス」、チェロは927……などと思わず口走りたくなるような気さえする、
と書かれている。

私が感じているベルトドライヴとリムドライヴ、駆動方式による本質的な音の違いも、
まさにこのとおりである。
930st、927Dstなどのリムドライヴでは、ヴァイオリンよりもチェロの方が魅力的に響く。
同じ弦楽器でも、ヴァイオリンとチェロでは大きさが違い、
ヴァイオリンは演奏者が肩に乗せて弾く、チェロはエンドピンによって床に立てて弾く。
このことに起因する音の違いが、ベルトドライヴ、リムドライヴにもある、と感じている。

チェロではエンドピンを交換すると、ずいぶん音が変る、と聞いている。
材質もいくつかの種類がある。
つまりエンドピンによってチェロが発生している振動は床に伝わっている、と考えるべきだろう。
床もチェロという楽器の振動系の一部となる。
だからチェロの振動を床に伝えることになるエンドピンの交換によって響きが変化する。

もしチェロにエンドピンがなかったら、いったいどういう音になってしまうのだろうか。
チェロを再生するときには、だからなのか、実在感が、ヴァイオリンのソロ以上に求めてしまうところがある。
エンドピンによって床に固定され、朗々と響くチェロは、
高トルクのモーターを使ったリムドライヴの優秀なプレーヤーのほうが、すくっと目の前に音像が立ち実在感がある。

低トルク・モーターのベルトドライヴでもチェロの響きは美しい。
でもどこか実在感が、ほんのわずかとはいえ、リムドライヴのプレーヤーと比較すると弱い。
がっしりと床にエンドピンで固定されている感じが薄れる、
というか、エンドピンが細く頼りないものに交換されたような、とでもいおうか、そんな印象を拭えない。

もちろんベルトドライヴだけを聴いていたら、そんなふうには思わないはず。
でも927Dstの音を聴いてしまっている耳には、トーレンスのリファレンスでも、
チェロに関しては不満とまではいかないまでも、
チェロは927……と口走りたくなるという瀬川先生の気持は心情的に理解できる。

Date: 7月 12th, 2011
Cate: KEF, LS5/1A

妄想組合せの楽しみ(自作スピーカー篇・その26)

低域はヴァイタヴォックスで、中高域はJBL、
つまり低域はイギリスで中高域はアメリカ、ということでもある。
いくらなんでも、そういう組合せでうまくいくわけがないだろう、と思われても仕方ない面がある。

でもヴァイタヴォックスは、ロンドン・ウェストレックスのスピーカーユニットの製造を請け負っていた会社だ。
そういうこともあり、イギリスのアルテック的な捉え方もされている。
となると、ヴァイタヴォックスも、JBLもアルテックも元をたどれば同じところに行きつく。
まったく異質なモノを組み合わせようとしているわけではない、というすこし強引な言い訳はできる。

BBCモニターは、LS5/1のときからウーファーとトゥイーターの製造メーカーは違っていた。
LS5/1ではウーファーはグッドマン製、トゥイーターはセレッション製だった。
LS3/5Aはウーファー、トゥイーターともKEF製だったが、むしろメーカーが揃っていることが珍しい。

BBCの流れを汲むスペンドール、ハーベスなどもウーファーは自社製でも、トゥイーターは他社製だ。
LS5/8ではトゥイーターはフランスのオーダックス製と、国とメーカーも異る仕様になっている。

そんなことも併せて考えると、ウーファーがヴァイタヴォックス製で、トゥイーターがJBLというのは、
なにかうまくいきそうな感じがしないが、
音楽のメロディ帯域の受持つウーファーがヴァイタヴォックス(イギリス製)であれば、
多少苦労してでも、うまく音をまとめあげれば、決して異端のスピーカーシステムというよりも、
わりと真当なスピーカーシステムと仕上がるはずだ。

そんな確信に近いものをもてるのは、
LE175DLHは、瀬川先生が惚れ込まれたユニットのひとつだから、である。

Date: 7月 12th, 2011
Cate: D44000 Paragon, JBL, 組合せ

妄想組合せの楽しみ(その37)

音のいいコントロールアンプ、優秀なコントロールアンプよりも、
ここでの組合せには、インプレッショニズムのスピーカーシステムとしてパラゴンをとらえたときに、
その魅力を損なうモノは論外で、倍加(というよりも倍化)してくれるコントロールアンプであってほしい。

そうなると、どうしてもマークレビンソンのLNP2が真っ先に浮んできてしかも消えてくれない。
かわりに、あのアンプは、このアンプは、と無理矢理あれこれ思い浮べようとしても、
自分の中に、その選択に対する不自然さを感じてしまい、
結局LNP2になってしまうのか、と自分でもあきれてしまう。

20代のころ、中古ではあったがJC2を購入した。
このときはLNP2よりも、音の良さとして、JC2の方に魅力をより強い感じていた。
それから20年が経ったいま、どちらを選ぶかというと、ためらうことなくLNP2にする。

確かに、このころのマークレビンソンのアンプに、
徹底した音の透明なよさ、どこまでも切れ込んでいく解像力のよさ、
そういった音の良さを求めるのであれば、JC2のほうが上だと思う。
でも、曖昧な表現になってしまうが、音楽を聴いたときの深さのある質感では、LNP2である。
そういう深さが、JC2は稀薄に感じられた。

このことはマーク・レヴィンソン自身も、
LNP2にはJC2にはない音のとディープネスがある、と語っていたときいている。
結局、この深さ(ディープネス)をより深くするために、
瀬川先生はLNP2にあえてバッファーアンプを追加されたのだろう。
バッファーアンプを追加することは、アンプモジュールのLD2をひとつ余計に信号が通ることになる。
そのことによる音の鮮度の低下を問題にする人、
LNP2を使いながらも、トーンコントロールをパスしてRECORD OUTから出力を取り出している人、
もしくはライン入力をTAPE端子に接続している人(これらのことでLD2をひとつパスできる)、
そういう人はLNP2よりもJC2(もしくはML1)を使った方がいい、と思う。

Date: 7月 12th, 2011
Cate: 瀬川冬樹

確信していること(その14)

「コンポーネントステレオの世界 ’80」の巻頭文のタイトルは、「80年代のスピーカー界展望」にもかかわらず、
冒頭はマイケルソン&オースチンのB200の話からはじまる。

当時の輸入元の表記では、マイケルソン&オースチンだったが、
瀬川先生は、ミカエルソン&オースチンとされている。
瀬川先生の、オーディオに関する固有名詞のカタカナ表記へのこだわりは、このMichelson & Austinだけでなく、
いくつかのブランド名、型番でも見受けられることだ。

ミカエルソン&オースチンのデビュー作は、KT88プッシュプルで、出力70Wの管球式パワーアンプで、
出力管が同じで出力もほぼ同じ、さらにシャーシのクロームメッキと共通点がいくつかあったことで、
80年代のマッキントッシュMC275的存在として受けとめられていたし、
実際そのデビュー作TVA1の音は、どんなにトランジスターアンプが進歩しても出し得ないであろう、
音の質量感とでもいいたくなるものがあって、その音の質量感が、スピーカーからはなたれるとき、
音に特有の勢いがあり、真空管アンプならではのヴィヴィッドな感触を生んでくれる。

ミカエルソン&オースチンはTVA1に続き、EL34プッシュプルのTVA10を発表、
そしてEL34を片チャンネル8本使ったB200を出した。

TVA1、TVA10はステレオ仕様だったが、B200ではモノーラル仕様に変更、出力も200Wと、
そのころ発売されていたアメリカのオーディオリサーチのパワーアンプでも、
これだけの出力を実現してはいなかった、と記憶している。

すでに製造中止になっていたマッキントッシュMC3500に次ぐ出力をもつ管球式パワーアンプが、
アメリカからではなく、節倹の国イギリスから登場したことも、このアンプに対する興味を増すことになっていた。

Date: 7月 11th, 2011
Cate: 40万の法則

40万の法則が導くスピーカーの在り方(その9・追補)

この項の(その9)を書いたあとで、
スコーカーに20cm前後の口径のコーン型を採用した3ウェイ・スピーカーシステムについて、あれこれ調べてみた。
インターネットがあっても、こういう調べものをするときは、
ステレオサウンドが以前出版していたHiFi STEREO GUIDE(のちのYEAR BOOK)、
つまりカタログ誌があったほうがずっと助かる。
でも、ないものはしょうがなく徹底的に調べるまでにはいたらなかった。

それでも、ひとつ見つけた。
フランスのフォーカルのScala Utopiaは、スコーカーは16.5cmのコーン型を使っている。
このスコーカーと、27cmコーン型ウーファーとのクロスオーバー周波数は250Hz、
2.7cm口径の逆ドーム型トゥイーターとのクロスオーバー周波数は2.2kHz。
ふたつのクロスオーバー周波数の積は、55万。
40万との差は15万だから、約4割近く増えていることになる。

それでも他の3ウェイ・スピーカーシステムからすると、ずっと40万に近い。

Scala Utopiaとほぼ同じクロスオーバー周波数をもつのが、ソナース・ファベールのElipsaがある。
スコーカーは15cm口径のコーン型で、250Hzと2.3kHzのクロスオーバー周波数をもつから、57.5万となる。
40万からすこし離れてしまう。

もうひとつ見つけている。
アバンギャルドのduo Ω G2だ。
中・高域はホーン型だが、
スコーカーのドライバーはコンプレッション型ではなく口径17cmのドーム型を使っている。
コーン型とドーム型という違いはあるものの、Scala Utopiaのスコーカーと同口径といっていい。
こちらのクロスオーバー周波数は170Hzと2kHzで、積は34万。
Scala Utopia、Elipsaよりも、40万に近い。

多少へそ曲がり的なスピーカーシステムの探し方だが、それでも探せばあるものだし、
こういう興味の持ち方も、オーディオにはあり、だと思う。

Date: 7月 11th, 2011
Cate: D44000 Paragon, JBL, 組合せ

妄想組合せの楽しみ(その36)

パラゴンと同じJBLのスピーカーシステムでも、プロフェッショナル・シリーズの4350、4343は、
楽器から放たれてマイクロフォンがとらえた音そのものを、即物的に鳴らす。
この、音そのものを即物的に鳴らす傾向は、
ヨーロッパのスピーカー、とくにイギリス系のスピーカーシステムの特質とは対照的なもので、
JBLのコンシューマー用スピーカーシステムにも聴き取ることができる、とはいうものの、
やはりそれが顕著なのは4350だったり4343だったりする。

あえていえば4350、4343といったスタジオモニター・シリーズを写実派とすれば、
パラゴンはあきらかに印象派(インプレッショニズム)といえるスピーカーシステムであり、
パラゴンが再現し聴き手に提示する音場は、できるかぎり録音現場の音場をそのまま再現しようというよりも、
その録音現場の「場」の雰囲気・印象を、うまく鳴らしたときは、実に生き生きと再現する。

パラゴンは、そういうスピーカーシステムだからこそ、コントロールアンプをうまく選択することで、
インプレッショニズムのスピーカーシステムとして、音楽をリアルに鳴らしてくれる、といえる。
もちろん、そのリアルさは、インプレッショニズムの表現としてのものである。

その意味で、ここで使ってみたい、組み合わせてみたいコントロールアンプには、
音の深みといった要素を色濃くもつモノにしたい。

いったい、そういうコントロールアンプがいくつあるだろう……。

Date: 7月 11th, 2011
Cate: 瀬川冬樹

確信していること(その13)

ヴィソニックとグルンディッヒとでは、あきらかにヴィソニックがオーディオの主流にあるスピーカーで、
グルンディッヒは傍流にいるスピーカー、といってもいい気がする。

瀬川先生も、
ハイファイのいわば主流の、陽の当る場所を歩いていないスピーカーのせいか、最近の音の流れ、流行、
そういったものを超越したところで、わが道を歩いているといった感じがある、とされている。

このグルンディッヒの組合せの取材のすこし前に、4343をバイアンプで、
それもアンプはすべてマークレビンソンで、ウーファー用にはML2をブリッジ接続して、ということで、
計6台のML2を使い、コントロールアンプもヘッドアンプも含めアンプはすべてモノーラル構成で鳴らされている。
詳細はステレオサウンド 53号掲載の「JBL #4343研究」をお読みいただきたい。

つまり瀬川先生自身、ハイファイのいわば主流、それも最尖端の音をこのとき追求され、
ひとつの限界といえるところまで鳴らされている。
その瀬川先生が、同時期に、陽の当らない場所を歩いているグルンディッヒのスピーカーシステムを高く評価され、
もう惚れ込まれている、といってもいいように思える。

ステレオサウンド 53号の記事の終りに書かれている。
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だが、音のゆきつくところはここひとつではない。この方向では確かにここらあたりがひとつの限界だろう。その意味で常識や想像をはるかに越えた音が鳴った。ひとつの劇的な体験をした。ただ、そのゆきついた世界は、どこか一ヵ所、私の求めていた世界とは違和感があった。何だろう。暖かさ? 豊饒さ? もっと弾力のある艶やかな色っぽさ……? たぶんそんな要素が、もうひとつものたりないのだろう。
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そしてグルンディッヒProfessional BOX 2500の組合せが載っている
「コンポーネントステレオの世界 ’80」の巻頭には、マイケルソン&オースチンのB200について書かれている。