Date: 7月 15th, 2011
Cate: 複雑な幼稚性
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「複雑な幼稚性」(その11)

以前は、オーディオ評論とは、言葉で音を表現して読み手に伝えていくことが、
その仕事のほとんどを占めることだと思っていた。

事実、ステレオサウンドは創刊号からある時期までは、まさにそうだったといえる。
みな、音をいかに文字で表現することに苦心されていることが伝わってきていた。
ある限られた文字数の中で、顔の見えない不特定多数の読み手に向って書いていく行為は困難さは、
書き手側だけが味わっていたことではなく、読み手側ももどかしさのようなものを感じていた。
そうやって試行錯誤しながら、書き手と読み手のあいだに共通認識がつくられることもあれば、
そうでないこともある。

共通認識が形成されていない書き手と読み手の関係の中で、音を伝えていくにはどうしたらいいのか。
たとえば文字数の制限をなくして、ひとつのオーディオ機器に対して、百万語を費やしたところで、
そこで伝えられるのは、そこで鳴っていた音のふるまいのようなものであって、
書き手(つまり聴き手)の感じた印象を伝えるには、どうしても共通認識が必要になり、
共通認識がしっかりと形成されていれば、音の表現は百万語を費やすよりも、
むしろある程度限定された枠の中で表現する短詩のほうが、それがすぐれている書き手によるものならば、
じつのところ、こちらのほうがずっと読み手にとって印象深いものになるはず。

印象深いことが、そこで鳴っていた音を正確に伝えることとイコールにはならない。
だが、オーディオ評論は、そこで鳴っていた音を正確に伝えることが本来の目的ではない。
音が具象的なものであれば、それは可能になるのかもしれない。だが音はどこまでいっても抽象的なものだ。
だから、オーディオ評論は、読み手の印象に刻まれるように表現していくものだと思っている。

日本には短歌や俳句があり、短歌や俳句が伝えられる世界がある。
じつは、その世界とオーディオ評論とは、よく似ているところがあるとも思える。

音は、あくまでも抽象的ではあるものの、具象性らしきをそこに感じられるものがある。
それが、音場と表現されるものである。

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