確信していること(その15)
マイケルソン&オースチンのB200は、M200という型番で実際には販売されていた。
B200は瀬川先生の勘違い、とは言えない。
なぜかというと、「コンポーネントステレオの世界 ’80」の巻頭文の中に、B200という単語は複数回登場する。
当然編集部で原稿を受けとったとき、そして写植があがってきたとき、
そして写真を含めてカラーで見本があがってきた、少なくとも3回の校正を経ているわけで、
いくらなんでもM200なのが、B200のまま出ることはない。
おそらくこの時点ではB200という型番だったのが、なんらかの理由でM200に変更されたとみるべきだろう。
そのB200(M200)の音を、マークレビンソンML2、
6台でバイアンプ(ウーファーはブリッジ接続)との音との比較で書かれている。
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近ごろのТRアンプの音が、どこまでも音をこまかく分析してゆく方向に、音の切れこみ・切れ味を追求するあまりに、まるで鋭い剃刀のような切れ味で聴かせるのが多い。替刃式の、ことに刃の薄い両刃の剃刀の切れ味には、どこか神経を逆なでするようなところがあるが、同じ剃刀でも、腕の良い職人が研ぎ上げた刃の厚い日本剃刀は、当りがやわらかく肌にやさしい。ミカエルソン&オースチンTVA1の音には、どこか、そんなたとえを思いつかせるような味わいがある。
そこにさらに200ワットのモノ・アンプである。切れ味、という点になると、このアンプの音はもはや剃刀のような小ぶりの刃物ではなく、もっと重量級の、大ぶりで分厚い刃を持っている。剃刀のような小まわりの利く切れ味ではない。力を込めればマルタをまっ二つにできそうな底力を持っている。
たとえば、少し前の録音だが、コリン・デイヴィスがコンセルトヘボウを振ったストラヴィンスキーの「春の祭典」(フィリップス)。その終章近く、大太鼓のシンコペーションの強打の続く部分。身体にぴりぴりと振動を感じるほどの音量に上げたとき、この、大太鼓の強打を、おそるべきリアリティで聴かせてくれたのは、先日、SS本誌53号のための取材でセッティングした、マーク・レビンソンML2L2台のBTL接続での低音、だけだった。あれほど引締った緊張感に支えられての量感は、ちょっとほかのアンプが思いつかない。ミカエルソン&オースチンB200の低音は、それとはまだ別の世界だ。マーク・レビンソンBTLの音は、大太鼓の奏者の手つきがありありとみえるほどの明解さだったが、オースチンの音になると、もっと混沌として、オーケストラの音の洪水のようなマッスの中から、揺るがすような大太鼓の轟きが轟然と湧き出してくる。まるで家全体が揺らぐのではないかと思えるほどだ。
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このあともB200の音の記述はつづく。
この巻頭文のテーマは「80年代のスピーカー界展望」にもかかわらず、
いきなりアンプの話からはじまり、ほぼ1ページ、B200について書かれている。
つまり、それだけB200は、瀬川先生にとって印象深いものを残していったことになる。